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仙人掌趣味栽培家、狐崎武夫氏について  電気機器関係の発明家、「フォックスフォン」ブランドで鉱石ラジオ等を扱う会社を経営していた

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『実際園芸』第九巻一号の目次のコピーがここにある。 その中に、 「仙人掌趣味栽培家狐崎武夫氏の愛培品」 という見出しに目が吸い付けられた。 この「狐崎」氏、気になる。。。「きつねざき」なのか、「きざき」なのか、何者なのかも不明。わかっているのは東京の人ということだけ。 以上のような内容で、SNSに書き込んだところ、先輩が調べてくれていろいろなことがわかってきた。 (9巻1号では、記事も書いており、サボテンの実生の栽培法についてたいへんに詳しく紹介している。交配し結実すると蟻にかじられることがある、とか、実生が小さいうちはコオロギに気を付けろ、かわいい実生が頭からかじられてしまう、などという記述がある) 狐崎氏の肖像 ネット上でみつけた画像から(ヤフオク!サイト) 狐崎氏武夫について、先輩から教えていただきました。 狐崎武夫(きつねざき・たけお)氏は鉱石ラジオなどで有名な人物でした。 ありがとうございます。 誠文堂新光社には、現在「MJ:無線と実験」として続いている『無線と実験』という看板雑誌があったので、そちらからの関係もあったのかもしれない。  『最新業界人事盛衰録』 https://dl.ndl.go.jp/pid/1208651/1/392 論文の中の表にある。P.13に記載あり。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sehs/66/1/66_KJ00002453573/_pdf 『大衆人事録』 第3版 ア-ソ之部 趣味:盆栽読書とある。 https://dl.ndl.go.jp/pid/1688501/1/481 『帝国発明家伝』P.416 https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E7%99%BA%E6%98%8E%E5%AE%B6%E4%BC%9D/svozMkIkjwAC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E7%99%BA%E6%98%8E%E5%AE%B6%E4%BC%9D&pg=PP905&printsec=frontcover

作家、中井英夫の父、中井猛之進氏は、父親も植物関係者だった。小石川植物園初代、主任、のち園長のお話

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『実際園芸』第20巻1号 昭和11年1月号から   ※なかい たけのしん、1882‐1952 植物分類学者。東大教授、小石川植物園長、ボゴール植物園長、国立科学博物館長 ※日本が占領していたインドネシア・ジャワ島のボゴール植物園長時代、軍部が切ろうとした植物園の樹木を守ったということがWikipediaに記されている。 国芸植物と私 理学博士 東京帝大植物園長 中井猛之進  私の親父(おやじ)は米国マサチューセットのアムハースト・アグリカルチュラル・カレッヂに官費留学した人間で(※アマースト大学は内村鑑三が留学した大学)、当植物園の副監督として勤務していた傍に自家の五百坪余りの小さな畑に蔬菜や花を作っておった。そういう訳で私は子供時代から園芸植物に趣味を持ち、また親父の栽培法を見ている内に、門前の小僧式に自然の栽培法も一通り覚える事が出来た。今日でこそセルリー、パースニップ、リーク、コーリフラワー(※カリフラワー?)等は洋食には極く普通に使用されているが、今から約五十余年前の昔にアーテチョークとか、パースニップ等を作って、子供達に食べさせていた親父があったといっても誰もホントにしない事だろう。そんな訳で私は植物をやった人間に似合わないで、農業や園芸の事を多少かじっている。  大正二年当時植物園の園芸の采配を振るっていた 内山富次郎 という人がボッコリ亡くなって了った。何しろ此の内山富次郎という人は植物園の生字引とまでいわれた人で、時の園長 松村任三 先生は一切を此の人に委せていたのである。そういう関係で松村先生は全く途方に暮れられ、私に 園芸主任 という制度を特別に設けて優遇するからぜひ引受けてくれとの事であった。兎に角引受けて彼の大震災の年まで園芸主任を勤め、今日では植物園長をやっている様な訳である。※その後、長く園芸主任を務めたのが松崎直枝氏ということになる  この頃にはまだ染井の植木屋、巣鴨の植木屋あるいは団子坂の植木屋というように純粋な植木屋があって立派な技術を持っていたのであるが、何しろ当時は欧化時代、西洋心酔時代であって、――私の親父も其の方の親方ではあるが、――日本固有の園芸は欧米派に押されて圧迫されてしまった。然し彼の世界大戦後日本の力が世界的に認められ、それと共に日本園芸も再認識されて来てからは日本の園芸家も西洋人の真似をしないで、どしどし日本の園

坂田商会のペチュニアがイギリスの展覧会で高い評価を得る   『実際園芸』昭和11年1月号

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 【坂田商会のペチュニアがイギリスの展覧会で高い評価を得る】 『実際園芸』昭和11年1月号 編者のことば  日本園芸への再認識 石井勇義  今一度、改めて日本を見なおそうとする現今の思潮は、矢張り園芸界にも作用して、古くから培われて来た日本独特の花卉に、今一度眼をふり向けて見ようとする傾向が濃厚になって来た。そして明治末から、大正、昭和にかけて、殆んど一部の人々を除いては全く省られることなく忘れられていた古い日本花卉の品種が、もう一度新しい眼を以て捜し求められるようになった。併し、徳川時代の文献などに書き残されている品種のうち、「みやまうづら」の変種のように、既に日本花卉忘却時代に何時とはなしに跡を絶ってしまって、今はどこに捜し求めるよすがもなくなったものも多々ある。また、幸運にも特殊の愛好家に保護されて、僅かにその生命を保ちこたえて来たものもある。また、最近になって新しい品種も作出され、日本花卉に一層の活気を呈せしめているものもある。此の新品種作出の傾向は、今後益々盛になろうとしている。 これらの諸事情を通観して案ずるに、日本花卉復興の気運はまことに歓迎すべく、大いにその気息を促進助長せしむるの要がある、が、ここに注意すべきことは、日本花卉の復興とはいつでも、徳川時代の花卉のそのままの復興では意味をなさないことである。昭和時代の日本人には一度西洋花卉の洗礼を受けたものであるから、そこに自ら徳川時代の人達の眼とは異った眼を持っているに違いない。ひとり花卉に限らず明治以後に於いてその他の諸文化より受けた西洋的なるものは、打って一丸となって今日の日本人の趣味性の背景をなしているのであるから、如何に復古的な気運が生じたとて、直ちにそのまま徳川時代の人達と同じ趣味性には返れる筈はない。そこに園芸界の人達、殊に新品種の作出に携わる人達の一考すべき問題があると私は思う。即ち、日本花卉の美しさと、西洋花卉の美しさとが封蹠的に異質的なものであるという偏見を捨てて、現代人の趣味性に即する所の、西洋花卉美をも見た上の日本花卉美の方向に目標を定むべきであると私は思うのである。 ◇ 次に、これは日本花卉に限らず、一般園芸界に就ての事であるが、日本園芸界の現状が世界的の水準から見て今何ういふ状態にあるかに就いて、一般の認識が足りないように思われる事である。それは、一般の人々には、西洋のものと

戦前、東洋一の規模を誇った、神奈川県茅ヶ崎市、馬入川河畔の「大日本園芸株式会社」の温室経営 昭和10年ころ

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『実際園芸』第20巻1号  昭和11年(1936)年1月号から *************** 大日本園芸株式会社(旧称池田農園)の茅ヶ崎分園は、東海道線・茅ヶ崎と平塚との中頃を流れる馬入川の鉄橋を少し遡ったところに、総面積一万坪と一千四百坪の広大なる温室とを横たえている。街道筋からそこまで七、八町はあるであろうが、温室の中頃に突っ立った大煙突が、平坦な畑地の向こうの空にニョッキリそびえて乗合自動車から降り立った私の目標となっていた。 なにしろこの分園だけで建坪一千四百坪もあり、大磯の本園の温室を加えると二千余坪というのであるからまさに東洋市の大温室である。温室の工場化、園芸の工業化とでも言うのであろうか、その規模の大きさ、大量生産式の経営ぶりに至ってはとうてい、従来の温室園芸のそれとは比較にならない。つまりアメリカ式の大仕掛なものであるが、温室の一セクション(一室)が百坪単位になっていて、この百坪温室を幾つも連結した形になっており、たとえばカーネーションやバラの温室は百坪ずつ四個集まって四百坪の室になっている――という具合である。 それから面白いのは、豚や鶏、家鴨(あひる)を一緒にして放し飼いしていることで、これは彼らの糞尿によって土地を肥やすのが目的であるという。だから放飼場をあっちこっち移動してその跡の土地を肥沃にするというやり方で、これなども大農式な温室園芸として面白い方法であろう。 温室で生産するものは、バラ、カーネーション、鉄砲百合、フリージア等の切花や、メロン、トマト、胡瓜、菜豆、葡萄、ネクタリン等の蔬菜果樹に及んでいる。未だ温室が出来上がって間もないので、現在のところでは準備時代にあり、充分の能力を発揮していないように見受けられるが、その中にこの一千四百坪の全面積を挙げて活動を始めたならば、さぞものすごいものであろうと思う。そんなことを考えていると、なんだか耳のそばでモーターが回転するような錯覚を起こしたのも、この温室があくまで大仕掛けで、全てがなにかの大工場式に見えるためであろう。 この他に、大磯の本園の温室では洋蘭、観葉植物、シクラメン、温室葡萄、メロン、ネクタリンなどを主に科学的な栽培をやっておられるが、本園の方は前にも本誌に紹介したことがあるので、次の機会に譲ることとしよう。 写真 1 フリージアの促成室 2 温室外観の一部 3 鶏の放し飼い

石井勇義氏は、千葉、成東の食虫植物群落地を発見し、天然記念物指定に大きな貢献をしていた。大正八年、石井勇義の交友関係が垣間見える旅の記録  大町桂月全集から

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石井勇義、恩田徑介、加藤美侖らは、誠文堂新光社の小川菊松、『子供の科学』の原田三夫らの関係でとても仲が良かった。まだ『実際園芸』を創刊するずっと前の話であり、驚くような内容であった。 加藤氏は誠文堂が創業して最初のベストセラーを書いた人物で一番の恩人という人物。恩田は植物学者。後述のように、この当時、石井は病気療養中であったと思われる。小川や原田ら誠文堂を取り巻く人達とすでに知り合っていたようすがわかる。 ※千葉県、東部、成東にある食虫植物群落地の発見、および、天然記念物指定に大きな功績があったことがここに記されている。もっと知られるべきことだろう。(石井は成東中学に通っていた) ※成東・東金食虫植物群落は、大正9年、日本最初の天然記念物に指定された。 https://plants.sammu.info/ ※石井勇義は、大正はじめ、辻村農園で研修生となる前に農学校の教師をしていた、という経歴がある。石井の生家が土気であることや東金の親戚を頼って学校に通っていたなどから考えると、おそらく、ここに出てくる蕨氏の農林学校(現・山武市埴谷)で教えていたと思われる。 ※辻村常助氏の回想では「埴科農学校教諭」と間違って記憶されている。おそらく、埴谷だったのではないか。 https://karuchibe.jp/read/15301/ ※石井勇義氏は 明治25年9月20日千葉県山武郡土気本郷町下大和田(現千葉市)の農家の次男として生まれた。 明治39年4月千葉県立成東中学校に入学 明治44年3月中退し、農学校の教師助手を務める→これが埴谷の農林学校だと思われる 大正2年4月小田原市の辻村農園に園芸研究生として入る 大正7年10月 東洋園芸株式会社(恩地剛氏経営)へ引き抜かれ三軒茶屋の農場の園芸主任となるが結核を発病し大正8年に千葉市のちば医学専門学校附属病院に入院し近所の旅館九十九館で予後を養う。前後3年間を要す(『復刻ダイジェスト版「実際園芸」』1987から) ※蕨眞一郎氏は正岡子規の門人で「アララギ」を創刊した人物  日本のフラワーデザインのパイオニア、永島四郎は戦前戦後のアララギ派における中堅歌人であり、石井との因縁が感じられる。 ※文人、詩人 大町桂月について http://keigetsu1869.la.coocan.jp/ ※加藤美侖は、誠文堂から「是丈は心得おくべし

石井勇義氏の交友関係が垣間見える記事  吉野作造、信次の弟、四男、正平との交友  石井没後、1956年の回想

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●桃源社『桃源』(52) 1956年10月号  国立国会図書館所蔵 ※吉野正平(吉野作造の弟、一家の四男、次男は政治家の吉野信次) https://karuchibe.jp/read/10064/ ※石井は、吉野正平とたいへん仲が良かったようだ。吉野は作家の加藤美侖と親しかった。 https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1611.html (『思い出の七十年』原田三夫 誠文堂新光社 1966) ※『桃源』は最初の頃、吉野正平の印刷所で印刷されていたようだ。 栃木県鹿沼市麻苧町の住所がある。 ※「校正の神様」神代種亮(こうじろ・たねあき/たねすけ) Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E7%A8%AE%E4%BA%AE ※神代氏の話も出てくる 『牧野植物学全集』のしごとがいかにたいへんであったか 石井勇義氏の所感 https://ainomono.blogspot.com/2023/03/1011.html ********************* 殺人コーセイ ……コーセイはコーセンの誤植?… 吉野 生 (吉野正平)  筆者の悪友の一人に神代種亮(こうじろ、たねかず *たねあき)と申す仁があった。大正で活躍し昭和十年かに鬼籍入りしたが初対面の折紹介者は「この人は校正の神様だ」との御託宜。夫子自身もこれを自負していない素振りは全然見せぬ。とにかく雑学者であり、識古今に通じ、学東□を貫くといった次第で雑談は面白かった(東□と西を伏せたのは後で判ります)  荷風の「濹東綺譚」にも登場してる程だから当時の文人墨客や、特殊の学界人の間に相当交遊関係があり、その頃彼は毎夜の如く銀座の某喫茶店で荷風と落ち合ってるから……との話だったが筆者は東京を離れて暮していたから両雄会談の末席を汚すの光栄に浴し得なかったことを昨今になり少し惜しい気がする。  彼は愛書家で稀覯書の蒐集家といわれたが、筆者はついに書庫は見せてもらえなかった。  「僕が死んだら墓石を本に型取ったものにし墓碑銘は芥川に頼んである」とのことだったが、後で多摩墓地に展墓したら平凡な石碑であり、芥川は彼より早く自殺したからこれは念願の果たしようがなかったのかも知れない。  牧野植物博士の愛弟子の一人に石井

一輪の花が美しいならば、生きていようと思える。暮らしの花とは、午前4時に目覚めて見る花  川端康成「花は眠らない」  『草月人』1950年5月号

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川端康成「花は眠らない」   『草月人』1950年5月号 日持ちする花を選んで、きれいにいけあげることだけが暮らしの花ではないのではないか。 家に花があれば、それはいつ見てもよい。朝4時に目覚めても花はすぐ傍にあるのだから。 美的体験は身近にあること。 花をよく見るためのいけばなという体験があるということ。 時を変えて、よく見てみることで新しい発見がある。 この文章は、川端康成が50歳頃のものだ。1972年に亡くなった。享年72歳。 一輪の花に心動かされることがなくなったからだろうか。 ※ロダンの手をみつめる川端康成  東京ステーションギャラリー https://www.facebook.com/tokyostationgallery/photos/a.765211880212387/1015103805223192/ 花は眠らない  川端康成  ときどき、なんでもないことを不思議に思ふ。昨日、熱海の宿に着くと、床の花とは別に海棠の花を持つて来てくれた。つかれてゐるので早く寝た。夜なかの四時に目がさめた。海棠の花は眠つてゐなかつた。  花は眠らないと気がついて、私はおどろいた。夕顔や夜来香のやうな花もあるし、朝顔や合歓のやうな花もあるが、たいていの花は夜昼咲き通しである。花は夜眠らない。わかりきつたことだが、初めてはつきりさう気がついて、夜なかの四時に海棠の花をながめると、なほ美しく感じられた。命いつぱい開いてゐる、せつない美しさが感じられた。  花は眠らないと、わかりきつたことも、ふと花を新しく見る機縁となつた。自然の美は限りがない。しかし人間の感じる美は限りがある。人間の美を感じる力は限りがないゆゑに、人間の感じる美は限りがあるとも言へ、自然の美は限りがないとも言へる。  少くとも、一人の人間が一生のあひだに感じる美は限りがあり、たかの知れたものである。これは私の実感であり、嘆声である。人間の美を感じる能力は、時代とともに進むものでもないし、年齢につれて加はるものでもない。夜なかの四時の海棠もありがたいとしなければならない。一輪の花が美しいならば、生きてゐようと、私はつぶやく時もある。  画家のルナアルは、少しばかり進歩すると、それだけ死に近づくといふことは、なんとみじめなことであらうと言ひ、また、私はまだ進歩することを信じてゐるといふのが、最後の言葉であつた。

昭和25年 草月流 流展における外国人の出展について  英語が堪能で、外国人を数多く教えた小川青虹先生が見たこと感じたこと

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『草月人』 昭和25年6月号から 終戦直後に来日した外国夫人は、軍の将校家族だけでなく、さまざまなビジネスで日本支社を立ち上げた経営者の家族もいたことが分かる。いけばなは、そうしたビジネスマンでもトップクラスの夫人が習っていたことは、大きな影響力を感じられる。 ※園芸と通訳の関係は古くからとても重要な役割を担ってきた。たとえば、プラントハンター、チャールズ・マリーズやイザベラバードを案内した通訳、イトーもその働きは大きなものがあった。 https://karuchibe.jp/read/15092/ 最後のところ、「瞶める=瞠める」読み みつめる。

終戦直後にいけばなを学んだ、外国人インフルエンサーたち  1950年草月流でいけばなを学んだレップス夫人の送別花展会の記録 『草月人』昭和25年9月号から

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  現在の東京アメリカンクラブは、ロシア大使館の裏、飯倉交差点からチョット入ったところにある(麻布の狸穴)。切花の輸入会社、グリーンウイングスジャパン社から歩いて数分。そしてそこは江戸時代に山形新庄藩の藩邸(上屋敷)があったところに隣接している場所だったと思う。 このアメリカンクラブは1928年にできて、最初は帝国ホテルのすぐ目の前の岩本ビルというところにあった。日本人の東京倶楽部というのも隣接してあった。その後岩本ビルから丸の内にうつっており、この記事では丸の内でイベントをやったということのようだ。 1950年草月流で学んだレップス夫人の送別花展会の記録 『草月人』昭和25年9月号

昭和24、25年頃、日本でいけばなを学んだアメリカ婦人のことば  『草月人』から

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『草月人』1949年5月号 創刊号 西洋流のいけばな ミセス・リリアン・テーリー (前略) (明治維新後)いけばなの哲学に於ては多くの変化がありました。古い理想を固守する必要はなく、その大部分は明治時代に駆逐され、そして多くのいけばなの流儀の発生に原因されて、新しい解釈と新しい表現を創り出そうといふ願望がありました。それでもまだ根本的な原則に執着してはいましたが、表出の多様性に於いて幾分変化して来ました。  これ等の中でいけばなに於ける優れた趣味の普遍的な表現を獲得しようとかかった人は草月(私の飜訳が正しければくさのつきといふのですが)流の創立者でした。勅使河原蒼風先生は形式主義礼讃の厳格なシステムを教えられ、その時代の要求に対するその方法の不適合性を認めました。その中では、少数の者が、素材の注意深い選択に、仲間の儀式張った集会に、又は創作の鑑賞に於ける固苦しい礼儀作法に、余暇を楽しんでいた有様でした。こうして忙しい主婦でも暇人でも、各々十分なものをこの草月流のヴァリエイションから引出す事が出来ます。この流儀は、弟子のどんな創造的な衝動も完全な表現を見出すことが出来、そして芸術の哲学的原則からはずれることなしに居られる様な方法を設立したのです。進駐軍の婦人達は、日本滞在中、暇な人もそうでない人も、彼女等の要求に草月流の方法や手段を適合させて、その人その人の問題に対する解決を見出します。定められた容器もなく、草木の多様性に関して何の限界もないので、彼女は表現しようとする装飾的なモティーフを無視して、趣味豊な妥当な知識を引出します。幾人かは、彼女等の思いつきを表現する為に、草月流の方法の生半可な知識だけを望んで、その必要を充たすのに十分なだけのクラスに出席します。しかしその他に、すべての方法と技術とがマスターされるに違いない完全な芸術の上達から満足の感情を得ようといふ人達があります。後者の二三の人達は、指導者として兔許を得る事を望んで、勿論家に帰って彼女等の機会に恵まれない姉妹達にこの芸術を伝えるつもりで、蒼風先生の御指導の下で二年間を費しました。  過去数年間にいけばなの技術がアメリカに押寄せたとはいえ、 進駐軍の家族がアメリカ人の社会に戻った時にいけばなの復輿を見ることは明白です。 アメリカの家庭の内部は、床の間や違い棚よりも、創作的衝動を十分鼓舞して、それ自身ずっ

1950年の段階で、コカ・コーラ社がアメリカでのいけばな流行の後押しをしていたことがわかる資料 勅使河原蒼風氏のことば『草月人』

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  いけばな草月流『草月人』1950年11月号 ※勅使河原蒼風氏の「丘日山房雑記」は1949年6月号(創刊2号)から 1950年11月最終号まで続いたエッセイの連載 ※『草月人』はこの号(昭和25年11月号)で突然終り、 勅使河原宏氏が主幹となる『草月』(ikebana sogetsu)へと引き継がれる ※『草月人』は国会図書館のデジタルコレクションで1949(昭和24)年5月の創刊号から1950(昭和25)年10月号まで見られる(図書館・個人送信に限られる) 創刊からわずか2年間19号の雑誌であったが、重要な内容に富んでいる。 創刊号 https://dl.ndl.go.jp/pid/10340867/ ※この最終号(11月号)はデジタルコレクションには所蔵されていない。 ※『草月人』昭和25年1月号に掲載された小泉信三氏の花の 戦時中の回想については、すでに記してある https://ainomono.blogspot.com/2022/03/201.html ●1960年代のコカコーラの季刊誌『Pause for Living』には、トミー・ブライト女史によるいけばなの紹介が数多く記事となっていることはすでに紹介した。 https://ainomono.blogspot.com/2022/04/60pause-for-living.html ※本ブログサイトのトップ右上にある検索窓に「Pause for Living」と入れて検索すると、数年分の雑誌の総てのページが見られるようにしてあります。 ※『ポーズ・フォー・リビング』は1953年に創刊され、「フラワーアレンジメント(いけばな含む)、テーブルセッティング、デコレーション、食事の準備、ティーンエイジ(若者世代)のおもてなし、さまざまな手仕事」を紹介するライフスタイルブックとして人気があったという(『For God, Country, and Coca-Cola』Mark Pendergrast)。 ●今回、発見された記事では、1950年にはすでにコカ・コーラ社がアメリカで、いけばなを広告に利用したり、いけばなの講習会や展覧会を後援していたことがわかる。また、そのような状況を勅使河原蒼風氏は、きちんと把握していたことがわかった。 ●勅使河原蒼風氏の連載エッセイ「丘日山房雑記」には次のように記されている。 「ア

『実際園芸』編集所に3年余り所属した天才農学士、浅沼喜道氏の戦死 昭和12年10月 中国北支戦線にて 享年29歳

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※石井勇義氏の偉作『園芸大辞典』編纂の初期に大いに活躍し将来を期待されていた青年がいた。その名は浅沼喜道という。たいへんに非凡な人物で、天才と呼ぶにふさわしいイメージがある。残念ながら昭和12年に戦死した。石井はその死を悼み、園芸大辞典に浅沼氏の名前を刻んで永遠に記念している。 ※『実際園芸』編集所に所属しその稀有な才能を発揮して数多くの仕事をされた浅沼喜道氏の没後4年目に、石井勇義氏によって追悼文集『浅沼喜道君の追憶』(石井勇義・編 1941)が編まれた。国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧(図書館・個人送信に限定)できる。 https://dl.ndl.go.jp/pid/1026682   浅沼農学士を偲ぶ   石井勇義 曩(さ)きに北支に御奮戦中であった『実際園芸』編集部員、農学士歩兵中尉、浅沼喜道君は十月五日遂に君国の為め、名誉の戦傷死を遂げられた。あまりのことに、それ以来、全く仕事が手につかず、苦しい日を過ごしてゐるうちに、十一月十六日神戸に無言の凱旋をされるといふので、私は十六日朝七時に御遺骨を神戸埠頭にお迎へしたのであった。そして十八日には御郷里鳥取市に於て厳かなる連隊葬並びに市民葬がとり行はれ、京都帝国大学農学部よりは農学部長が弔辞を捧げられた。その節私も参列の心組であったが、御遺族の方々の御胸の内を拝察して、神戸で御別れをして東京に帰ることにした。 そこで実際園芸編集部では、十二月五日の御命日を期し、京都帝大K・N・D(※現在も続く農学科同窓会)関東支部及鳥取高等農業学校同窓会東京支部の御賛同を得て、九段偕行社(※陸軍関係者利用する会館)に於て厳粛裡に慰霊祭をとり行ったのであった。当日は京都帝国大学農学部より同君の恩師である並河博士が愈々(いよいよ)御上京になられた外、故人の御遺徳に依って、園芸界多数の参拝者があり、百余名に達した。 式典は靖国神社の神官により、午後二時に始められ、つづいて、祭主の祭詞、日本園芸界を代表して千葉高等園芸学校長松井謙吉博士の祭詞、京都帝大K・N・D関東支部代表の祭詞、鳥取高等農業学校同窓会東京支部代表の祭詞があり、続いて御遺族の玉串奉奠(ほうてん)、松井校長奉奠、祭主奉奠、同窓会代表奉奠、一同奉奠にて慰霊祭を終り、続いて「浅沼喜道学士を偲ぶ会」を開いて一同故人の思ひ出に数時を過したのであった。 当日の主なる参列

「水切りにはたいして効果はみられない」「切ってすぐ水につける、も植物によっては絶対ではない」  昭和10(1935)年の切花の水揚げに関する研究

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 『実際園芸』昭和12年5月号(「22-5」)  記事は編集部・浅沼喜道(農学士)氏のレポート ウルスラ・グルューニング女史の 切花の水揚げに関する研究 ※水揚げに関して、「問いの立て方」がすごく実践的だと思う。いわゆる「学者」の研究とは一味違う論文ではないか。  切花の耐久性すなわち花持ちを長くすること、換言すれば、水揚げをよくするにはいかなる方法を選ぶかということは消費者はもちろんのこと、生産者においても重要な問題である。今日のように切花が普及し、各家庭で日常品として使われるに従ってますます痛切に誰もが感ずる事柄である。そなわち消費者側としては一日でも長く花を長持ちさせたいし、生産者側としては「君のところの切花は花持ちがよい」といって褒められたいのが人情である。  古来我が国には活花(いけばな)の水揚法として「真行草の水揚法」というのがある。これは陰暦によって1年を3ヶ月ずつに分け、その各々に適する水揚法を説いたもので、例えば真の水揚法とは6、7、8月の夏季に行う方法であり、行の水揚法は3、4、5月及び9、10、11月の春、秋2季に行う方法であり、草の水揚法は12、1、2月の冬季に行う方法である。このように古人は経験によって各時期にー番適した水揚法を案出しているのである。しかしながら、今日これが理論上正しいものでるか否かは決定できないが、とにかく我が国でも古来から相当水揚げということについて考慮が払われていたことを物語る一証になると思う。外国に於ては切花の利用が本邦よりも一層早くから大衆に普及していた関係からか切花の水揚げの問題を取扱った論文は極めて多く、彼等の結果は科学的な基礎の上に成り立っているので、我々も相当信用して実行に移す事ができる。   最近(1935)、独逸・ハンブルグ大学の学位論文としてウルスラ・グリューニング女史によって提出された「切花の処理に関する研究」と題する一論文(61頁)が筆者の手に入ることができた 。この論文を一読するに、なるほど学位論文として辱からぬ立派な内容であって、従来の切花に関する研究を一々討論し、切花の耐久性に関係する各種の要因について、調査したものであって切花処理の研究としては白眉のものと言ってよかろう。将来も恐らくこれ以上の立派な論文は出ないであろう。  女史は単子葉、双子葉植物を通じ、31科57屬79種の多数の植物を以

大正6年に『仙人掌及多肉植物名鑑』を著し、日本における仙人掌研究、趣味世界に大きな貢献をされた棚橋半蔵氏について

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『趣味の仙人掌栽培』石井勇義編 誠文堂新光社 昭和6(1931)から この本は『実際園芸』第11巻1号とほぼ同じ内容、好評のため単行本として発行された。 下の画像のなかで、棚橋半蔵氏は、最後列の白いシャツを着てスマイルしている髭の紳士。 前列左端は坂戸直夫氏  ※この人が、横浜植木商会の大塚春雄氏の友人だった人ではないか?大塚氏は、棚橋氏の本を出版する際に手伝っているが、もともと専門ではなかったと思う。しかし、この友人の遺志をついで研究を続け、『仙人掌の種類と栽培』という本を著している。そのはしがきに棚橋氏に学んだ友人について触れていた、と思ったが違った。別なところに書かれていたみたいだ。どこに書かれていたか失念した。 棚橋半蔵氏は『仙人掌及多肉植物名鑑』(横浜植木株式会社)1917の著者。 我国仙人掌界の先覚者 棚橋半蔵氏と二宮仙人莊 東京三田育種場二宮農場主任 高橋惣吉 仙人掌の趣味 サボテン、即ち、仙人掌。仙人掌は私に取って、これ以上に親しみのある物はありません。仙人掌なる植物は恐らくは他の多くの植物よりも人の印象により多く残る何物かを持っているに相違ない。多くの技術家が全生涯をこの研究に費やしても恐らく尽くる事がないだろうほどその形が無尽蔵に豊富なためか、あるいは栽培が無造作なのにもかかわらずその花が壮麗なためか、あるいはこれら総てがその理由であるかどうかは未定のままにして置こう。 だが「仙人掌がその栽培のためには、時間、労力および経費の犠牲を惜しまない非常に熱心な愛好家を持っている事」はたしかである。私はかつて遠い国からもたらされた最も興味深く、最も美しい植物の一つに仙人掌を数えたいという意見を抱いているのである。仙人掌愛好を局外者に説明せんがためには、室内で而も永年に渉って仙人掌ほど徹底的に一心に熱中し得る植物はこの外にはあまり多くないという事を述べて置かねばなるまい。 仙人掌はその、最初を越せば以後の発育はいわば人の意のままになるのである。かつその収集もすべて比較的に狭小な場所にしまっておけるのである。仙人掌の手入は栽培者にとってその本職の仕事をやった後では一つの慰藉(いしゃ)であり、且、同時に最も純な楽しみでもある。外国にあっては仙人掌は最初十六世紀末、航海業のオランダ人により輸入せられたものと聞いている。水夫達は海岸に自生したこの葉のない植物を、恐

輸出用に養成されていたのではないかと思われる「玉いぶき」の圃場 横浜植木株式会社戸塚農場のようす 昭和8年頃

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 『実際園芸』第14巻3号  昭和8(1933年3月号の目次 挿入の写真から

『実際園芸』誌 総目次・注釈付き 制作作業に関するボランティア募集について  2023年1月15日までお返事をお待ちしています

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 『実際園芸』(1926-1941、誠文堂新光社)全203冊の総目次・注釈付き作成ボランティア募集について ※この企画は誠文堂新光社とはいっさい関係なく個人で勝手にやっているものですので、問い合わせ等はなさらないようお願いいたします。 いつも、SNSやブログを読んでくださりありがとうございます。私は、松山 誠ともうします。花の仕事に長く関わっており、現在は、日本の花卉装飾を中心とした近現代園芸史を在野で勉強しています。 今回、お手伝いをお願いしたいのは、 戦前に発行され人気を博した『実際園芸』という雑誌の「総目次」をつくろう、という企画です。 この雑誌は自身も園芸家である石井勇義氏を主幹とし、大正15年10月号から昭和16年12月号まで、全203冊が誠文堂新光社から発行されていることが確認されています。この雑誌は、当時の実際園芸家による貴重な記事や写真が数多く掲載されており、さまざまな研究者によって引用されることが多いのが特徴です。しかしバックナンバーは大学や公共図書館などに散在しており全部を一箇所で読むことが難しくなっています。とくにコロナ禍以降、容易に閲覧できません。 そこで、 誠文堂新光社では、2016年に『園藝探偵』1を発行し、その巻末に、恵泉女学園大学のご協力により、全203冊の表紙一覧を一挙掲載しました。今回は、それを参考にしながら、目次をテキスト化しようじゃないか、という個人的な野望です。 これが完成すれば、植物名からでも人物名からでも国や地域名からでも検索が可能になるので、実物を参照する際に大いに役立つと思います。グラビアページの写真や、座談会、集合写真などたいへん貴重な写真がどこにあるのか、検索できるようになります。 完成したら、どなたでも自由に利用できるようにしたいと思っております。 もうひとつ、 この作業をしながら、登場する人物名や地域の施設、機関を本やインターネットを検索しながら「注釈」を加えていきたいと考えています。 そうすることで、目次は単なる記号ではなく、インターネット上の情報(現在)と『実際園芸』本誌(過去)をつなぐハブとなって、これだけでも面白く読める読み物になるのではないかと考えています。 お願いしたいこと 現在203冊のうち、過去に目次ページを複写していただいた資料が手元にございます。これもかつて石井勇義氏が短大時代に教授を務め

現在の農業協同組合や日本農業新聞のような役割を担った農会と各道府県の「販売斡旋所」とはどんな仕事を担っていたのか

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第6巻2号 昭和4(1929)年2月号 ※農家が生産した作物をいかに有利に販売するか、明治期の日本政府や地方自治体では「産業組合」や「農会」等の組織を設け、農家の加盟を義務付けるとともに、農民の暮らしを守るような施策を実行していった。 【産業組合】 (「コトバンク」から) 明治33年(1900)産業組合法によって設立された協同組合。信用・販売・購買・利用の4種があり、資力の弱い中小生産者・農民の保護と救済を目的とし、特に農村で発達した。第二次大戦後は各種の協同組合に移行。→農業協同組合、現JAなどへと継承されている。 【農会】(「百科事典マイペディア」から) 農会法(1899年),農会令(1900年)に基づき,農業の改良発達を図ることを目的として設けられた団体。市町村,郡,都道府県の系統農会の3種と中央組織の帝国農会があった。農業技術・経営の指導,普及を通じて政府の農政を浸透させ農民を把握(はあく)する役割を果たしたが,1943年農業会へ発展統合された。 ※日本園芸会の発起人に名が残る前田正名、玉利喜造、池田謙蔵のほか、横井時敬、沢野淳、石川理紀之助らが農会設立に尽力したが、政府の補助を受けた官制でいくか(横井派)、民制の独立路線で行くか(前田派)で意見が分かれた結果、政府統制下で進めることになり前田派は離脱する。中央団体は帝国農会。 販売斡旋所は何をする所か   編集局 斡旋所のおこり 販売斡旋所(はんばいあっせんじょ)と普通に呼ばれておりますが、本統にいけば、 農会連合販売斡旋所 というべきであります。この斡旋所は、何のために出来たのかと言いますと、現在の農村で一番欠点の多い 農産物や園芸生産物の販売を改善するため に設けられたのであります。もっともこれは昔から府県農会で試みられたのでありますが単独に一、二の府県農会斡旋や奨励をしたのでは、十分な成績が挙げられないので、進んで専門に販売を斡旋する機関の必要を感じ、 大正七年 に関西で各府県農会の連合による連合販売斡旋所を、 大阪と神戸に設けたのが、最初 でありました。ところがその成績が甚だよろしかったので、翌年の 大正八年には、関東、東北、北海道の道府県農会の連合販売斡旋所を、東京と横浜に設け、また九州七県の農会の連合販売斡旋所を門司に設けた のであります。 大正十四年には 関東、東北、北海道の各道府県農会連合に