永島四郎「バスケットの話」戦争と花籠・石山顕作についてのメモ
『実際園芸』25(1) 昭和14(1939)年1月号 永島四郎「バスケットの話」 ●永島四郎は十余年におよぶアメリカ生活を終えて昭和8年に帰国、渡米前に所属していた東洋園芸株式会社(新宿駅東口高野の前)に復帰、しばらくして昭和10年に西銀座電通ビル1階角にできた「婦人公論花の店」を任される。(※『中央公論の八十年』『婦人公論の五十年』には昭和10年2月15日と記されている。この記事でも10年と書いているが、戦後に本人が記した『北風南風』では9年2月15日となっている。これは記憶違いだと思われる。) ●この店は昭和19年の終わり頃まで続いた。この間、日本の民芸の器を花器として用いたり、バスケットやリボンの職人やメーカーと創意工夫して新しいスタイルをうちだしていた。同じ通りにあった「民芸たくみ」の店主とはとても親しかったようだ(たくみの関係者が書いたものに名前が出ている)。 文中に出てくる石山顕作は、千葉高等園芸学校時代の同級生で親しかった。石山は永島四郎の花店の目の前にあった高級園芸市場でセリ人を務めていたこともあった。以前には千葉県成田山新勝寺の公園造営にも関わっていたようだ(大正11年の『園芸人名録』)。 大正11年『園芸人名録』 昭和3年の『園芸人名録』 ※石山は東京(麻布区笄町)にいる 石山顕作について、研究者のHさんによるメモ ・石山さんは東京都出身で永島四郎と同期(大正10年卒) ・大正11年の『園芸人名録』では成田山新勝寺の成田公園の造営に関わっている ・成田山公園→兵役→少尉で退役し、花づくりの道へ ・昭和3年には麻布区笄町で植物の育成販売をしていた記録(『園芸人名録』高級花卉蔬菜業者の欄)がある ・銀座の高級園芸市場にて立ち上げ時に競り人を務めていたという記録がある ・兄は千葉高等園芸を大正3年に卒業の石山寅三 ・永島四郎の記事にあるように、石山さんは昭和9年に逝去された。兄の記録では4月11日となっている。昭和9年4月13日に後備役歩兵少尉正八位の肩書で死去という記録がある(官報1934年05月19日)※石川となっているが、2回後の官報に訂正記事あり。後備役(こうびえき)とは予備役からさらに後ろつまり、「普段は民間人だが、有事には部隊を率いる指揮官として召集される、元・現役の陸軍少尉(国家公務員としての格付けは正八位)」という意味。兵役...