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人、病を得て園芸家となる~ミスター・ローズ、鈴木省三の「バラ色の人生」

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  ※人、病を得て園芸家となる~鈴木省三の「バラ色の人生」(誠文堂新光社カルチベ 「園芸探偵の本棚(第59回)」、にて2020.3.27に発表したものに加筆)」 1995年、大蔵省広報『ファイナンス』から鈴木省三「バラ色の人生」  世界的なバラの育種家、「ミスター・ローズ」鈴木省三(すずき・せいぞう 1913~2000)が、86歳で亡くなる5年ほど前に書いた「バラ色の人生」というエッセイを紹介する。  この小文は、つい最近、先輩から教えていただいた。父親の思い出、自分の園芸家への歩みが味わい深く書かれている。これまでも、戦前に生まれて活躍したたくさんの園芸家の人生を見ていくと、「人、病を得て園芸家になる」というパターンに何度も遭遇してきた。また、比較的裕福な家庭であること、長子ではなく次男、三男、四男であることが多い。ミスターの文章を読んでも、戦前の園芸家の一例が見て取れる。  鈴木省三の場合、幼い頃、星の好きな天文少年だったことも興味深い。現在は三鷹にある国立天文台は、戦前は麻布(飯倉交差点のすぐ近く)にあった。牛込区の新小川町(現在の新宿区新小川町2-10)にあった横浜植木株式会社の東京売店の様子も触れられている。実は、フリーペーパー『園藝探偵』3号に、この店の所在地を間違えて書いていた。訂正しなくてはいけない。そこでは白鳥橋と伝通院の間にある安藤坂の大曲と書いたが、正しくは、新小川町の市電江戸川線、「大曲(おおまがり)」電停の目の前に所在していた。この路線は九段下から飯田橋、江戸川橋などを経由して早稲田を結ぶルートだった(1968年廃止)。  同じくこの記事に出てくる「Say it With Flowers(花で思いを伝えよう、花とともに語れ)」という店頭のメッセージについても『園藝探偵』の1号で紹介した通りだ。この言葉は、アメリカで1917年の母の日商戦に向けてつくられたキャッチコピーで、その後、FTD(花店の電報通信配達組織)全店共通の宣伝に用いられ、世界中の花屋の代名詞となった。  こんなふうに、いろいろなことが見えてくる本資料だが、現在では、なかなか実物を手にすることができないものだと思う。全文を抄録してこの稿を終える。 「バラ色の人生」 鈴木省三 『ファイナンス』1995年10月号 大蔵省広報 1995 Vol.21 No.7  澄んだ秋空に...

開国直後に横浜で活躍したビジネスマン、ジョージ・ロジャース・ホールと世界初のオリエンタルHB、パークマニー種誕生のいきさつについて

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George Rogers Hall (1820-1899) アメリカの医師、貿易商、植物収集家・園芸家 1927年の植物探索史には、**1861年にジョージ・ロジャース・ホールが日本から送った最初の植物群が、ゴードン・デクスターを介してフランシス・パークマン(※ボストン在住の歴史家、園芸家)の手に渡った**とある。そして、その荷の中に明記されているのが、**Lilium auratum(ヤマユリ)と Lilium speciosum(カノコユリ)2系統**であった。([Papers Past][1]) ※アメリカ大陸横断鉄道が完成するのは1869年であり、この当時、日本からアメリカ東海岸へ向かう場合には、太平洋を渡ってハワイ、サンフランシスコ、アカプルコなどを経由し、パナマで地峡横断鉄道に乗り換えたのち、大西洋岸を北上してニューヨーク、ボストンへ至る経路が考えられる。 さらにパークマンの伝記にも、1860~61年頃、Francis L. Lee が日本から受け取った植物・球根を、南北戦争への従軍に際してパークマンへ託したとある。その中には **L. auratum** が含まれ、この偶然の入手がパークマンの園芸研究を刺激し、やがて彼が**ユリの交雑に集中するきっかけになった**と説明されている。([ウィキメディア・コモンズ][2]) そして決定的なのが、パークマンの **Lilium × parkmanii** である。Massachusetts Horticultural Society の記録では、このユリは、**L. speciosum × L. auratum**で、**1869年に初開花**したとされている。しかも、約50個体の実生が育てられたことまで記録されている。([iFlora][3]) RHSの登録資料でも、親は *speciosum × auratum*、育成者は Francis Parkman、年代は約1869年とされている。([RHS][4]) Francis Parkman  (1823 – 1893) パークマンは、ハーバード大学付属バッシー研究所(Bussey Institution)や アーノルド樹木園(Arnold arboratum)が所在する ボストンのジャマイカプレイン地区で70歳で亡くなった。 赤い花がパークマニー...

ジョン・L・クリーチ 「日本――まるで一つの国立公園」

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ジョン・L・クリーチ 「日本――まるで一つの国立公園」 Japan—Like a National Park 『Yearbook of Agriculture 1963』pp.525–528 525ページ 多くの旅行者が、日本の農村の美しさを目にしてきた。整然とした田畑、常緑樹に縁取られた村々、森林に覆われた山々、そしてすぐ近くに点在する無数の島々。日本人は、こうした国の宝を大切にしている。彼らは世界でも最も自然を大切にする人々の一つである。毎年あまりにも多くの人々がこの島国を旅するので、日本列島全体が、雄大な富士山を中心とする一つの国立公園であるかのようだ。 日本人は、長く波乱に富んだ歴史を通じて途切れることなく、天然資源を守り、改良してきた。そして今日、伝統的な生活様式を見失うことなく、現代社会への急激な関与に対処する能力を示している。また急速な産業化への移行のただなかにありながら、自国の資源を保全し、国の社会的性格を維持するうえで、驚くべき自制心を示している。 わずかな土地に多くの人々が集中していることは、日本の際立った特徴である。 約9,300万人の人々が、14万8千平方マイルの、山地に覆われた島々に暮らしている。その面積はおよそカリフォルニア州ほどである。その大部分は、1,500年以上にわたる先人たちの手によって形づくられてきた。 国土全体の6分の1にも満たない土地しか耕作されていないにもかかわらず、日本人の40パーセント以上が農業に従事している。現在も昔と同じように、段々畑、灌漑、水の保全、泥炭地の干拓、その他さまざまな独自の耕作方法を注意深く用いている。その細部への徹底した配慮は、アメリカの基準からすれば経済的に成り立たないほど、多くの労働力を必要とする。 こうしたやり方は世代から世代へと受け継がれ、高い農作物収量をもたらしてきた。たとえば、単位面積当たりの米の収量は、世界でも最高水準にある。 日本を旅行したことのある人なら誰でも、農業に注がれる並外れたエネルギーと時間を知っており、日本人がなぜ農業に成功する国民となったのか理解できるだろう―― 526ページ ――そしてまた、日本がこれと同じ能力によって、造船、ラジオ、光学機器、その他さまざまな消費財などの産業において、世界の先進国となった理由も理解できる。 しかし、さらに注目すべきなのは、日本人が同じ...

『実際園芸』誌が伝えた、世界的樹木学者で日本にもゆかりの深いアーノルド樹木園初代園長、サージェント博士の訃報 1927年

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  サージェント博士の訃報(Charles Sprague Sargent 1841年4月24日 - 1927年3月22日) 1872年からアーノルド樹木園の初代園長を務めた 『実際園芸』3(3) 1927年9月号 世界的老教授チャーレス、スプレーギ、サーゼント氏逝く 米国で、最も有名な養樹学者であり、同時に、大園芸家として、国民の尊敬を荷って居たプロフェッサー、サーゼント氏は、去る三月二十二日を以て永眠した。  彼はハーバード大学の養樹学教授であり、また、同大学付属アーノルドアーボレタムの園長として、実際に、その一生涯を捧げた人である。米国およびその国民は彼の専門的方面から受けた莫大な利益を永久に感謝しないではいられないだろう。  彼は、八十六歳の高齢をもって此世を辞したが、倒れる迄その仕事を捨てなかったのである。  彼は、ボストン市に生れ、ハーバード大学を卒業し、南北戦争に参加し、勲功により、陸軍少佐を名誉づけられている。 一千八百七十二年から一千八百七十三年の一年間、ハーバード大学に於て園芸学を教授し、その後引き続き、同大学植物園長として一千八百七十九年までその任にあった。 一千八百七十二年の三月二十九日に、ニューベドフォールドの豪商ゼームス、アーノルド氏の提供によるマッサチューセット州、ボーストン市郊外に存在する、ジャマイカ、プレーンの森林地百二十五エーカースを、模範的養樹園となすべき条件の下に、同大学校長及びサーゼント氏、アーノルド氏三人はその契約書を交換したのであるが、これが現在有名になった、アーノルド、アーボレタムの起原である。 同時に、アーノルド氏はその土地に十万四千弗を添えて維持費をしたのであった、そして、その契約条項中の主要なるものは、 『此の養樹園に於て、培養研究す可き植物の種類は、内国産と外国産とを問わない、けれども、有益で実用的の樹木、灌木、草本類であり、且つ科学的基礎の上に立って、露地栽培に適するものでなければならない。』  此の条件の下に、サーゼント博士は、大学の承認と共に、ボーストン市有の公園の一部に編入せしめんと勉めた。その結果、市は、ハーバード大学よりその土地を借り入れる事に決定し、期限を向ふ千年間、借地料一ヶ年金一弗という事に定め、法律上の手続きを完了した。これは、博士の秀逸という可き珍らしき功績であろう。丁度此時は、一...

アルゼンチンにおける日系人花卉生産・販売のパイオニア、賀集九平(がしゅう・くへい)のお話

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 【賀集九平】(1896–1987)がしゅう・くへい ※もともとは「かしゅう」であったと思われるが、アルゼンチン時代にGashuと変化したのか?著作奥付も「がしゅう」、Gashuとなっている ◯大正7(1918)年にアルゼンチン、ブエノスアイレスに移住、日系人花き栽培の先駆けとなった偉人。多数の著作、著述が残されている。 賀集九平の出自は、やはり賀集姓の多い、淡路島の一族だが、両親を含む家族一同は北海道に移住したため、九平は北海道で生まれた。成長して秋田大曲の農学校で学び、興津の農業試験場(果樹部門)の見習生となる。 明治後期の当時は各地に国立の農業試験場が設置されつつある時代で、全国から近代の園芸を学ぶために多くの若者が見習生として集まった。学校ではないので日々の実習がメインでそれに加えて外国語で書かれた園芸書を翻訳しながら読み進んでいくというような教え方だった。九平はそのような環境で恩師、恩田鉄弥と出会い、生涯の師と仰いだ。九平は恩田の姪である静子を妻としているので、人間として師から見込まれていたのかもしれない。 九平は興津を出ると兵庫県の農事試験場に技師として勤務したのち大正7(1918)年にアルゼンチンに渡り、種苗会社勤務を経て、エスコバールにて仲間とともに花き農園「明興園」を立ち上げた。 ◯バラ、キク、ダリアの鉢物栽培を日本人として初めて手掛ける ◯切り花カーネーション(スペイン語ではクラーベル)の温室栽培を手掛ける。 ◯イギリスから四季咲き種を導入し、カーネーションの品種改良も手掛ける ほかにも、果樹栽培は自信があったようで、アルゼンチン園芸のパイオニアとなった。 ◯他国の移民と同様、アルゼンチンでも、日系人全体の多くが園芸業界で頭角を現し、洗濯業(クリーニング)とともに、日本人が得意な分野で成功者となった。 ◯恩田鉄弥博士は、果樹で有名だが、サクラの専門家でもあり、ワシントンDCの桜並木プロジェクトでも深く関わっている。そうした関係もあり、賀集九平もサクラを研究し、戦後、海外における日本のサクラの名所を集めた『世界の日本ザクラ』誠文堂新光社(1976)を出している。 『実際園芸』18(4) 昭和10(1935)年4月号グラビアページ

戦前(昭和12年)に「デザイン」「花卉芸術」という言葉を掲げた花の展覧会が丸ビルで開催されていたという話

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 「フラワーデザイナー」という和製英語が職業として広く知られるようになるのは、1962年の「女性自身」の記事からである、というのは事実だ。現在のようにフラワーデザインという言葉が普及する以前は、花卉装飾、フラワーデコレーション、フラワーデコレーター、花卉装飾技師、などという言葉が用いられていた。しかし、わずかな事例だが、花のデザイン、花をデザインする、といった言葉も戦前の資料にちらほら垣間見える。 以下の記事は、昭和12年(11月19日と30日)に、東京の 丸ビル2階陳列場 を会場にして、洋風のデザインを集めた展覧会 「花卉芸術展覧会」 が開催された様子が写真入りで掲載されている。主催は 東京市 と 「フロラル・デザイナース倶楽部」の共同開催 。ここで発表されたものを取材し、花卉装飾の特集号として発行されたのが、『実際園芸』24(2)昭和13(1838)年2月号で表紙には永島四郎氏がつくった人形(文化人形=ぶらぶら人形、ヘロヘロ人形とも)とキャンディーを入れた花籠が登場している。※『花のデザイン』1957にも掲載 ※丸ビル1階には横浜植木株式会社の丸ビル売店があった 代表的デザイナー永島氏(左) 『東京市産業時報』4(1)-31号 東京市戦時生活局 1938年1月 『婦人公論の五十年』中央公論社 1965

永島四郎「バスケットの話」戦争と花籠・石山顕作についてのメモ

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  『実際園芸』25(1) 昭和14(1939)年1月号 永島四郎「バスケットの話」 ●永島四郎は十余年におよぶアメリカ生活を終えて昭和8年に帰国、渡米前に所属していた東洋園芸株式会社(新宿駅東口高野の前)に復帰、しばらくして昭和10年に西銀座電通ビル1階角にできた「婦人公論花の店」を任される。(※『中央公論の八十年』『婦人公論の五十年』には昭和10年2月15日と記されている。この記事でも10年と書いているが、戦後に本人が記した『北風南風』では9年2月15日となっている。これは記憶違いだと思われる。) ●この店は昭和19年の終わり頃まで続いた。この間、日本の民芸の器を花器として用いたり、バスケットやリボンの職人やメーカーと創意工夫して新しいスタイルをうちだしていた。同じ通りにあった「民芸たくみ」の店主とはとても親しかったようだ(たくみの関係者が書いたものに名前が出ている)。 文中に出てくる石山顕作は、千葉高等園芸学校時代の同級生で親しかった。石山は永島四郎の花店の目の前にあった高級園芸市場でセリ人を務めていたこともあった。以前には千葉県成田山新勝寺の公園造営にも関わっていたようだ(大正11年の『園芸人名録』)。 大正11年『園芸人名録』 昭和3年の『園芸人名録』 ※石山は東京(麻布区笄町)にいる 石山顕作について、研究者のHさんによるメモ ・石山さんは東京都出身で永島四郎と同期(大正10年卒) ・大正11年の『園芸人名録』では成田山新勝寺の成田公園の造営に関わっている ・成田山公園→兵役→少尉で退役し、花づくりの道へ ・昭和3年には麻布区笄町で植物の育成販売をしていた記録(『園芸人名録』高級花卉蔬菜業者の欄)がある ・銀座の高級園芸市場にて立ち上げ時に競り人を務めていたという記録がある ・兄は千葉高等園芸を大正3年に卒業の石山寅三 ・永島四郎の記事にあるように、石山さんは昭和9年に逝去された。兄の記録では4月11日となっている。昭和9年4月13日に後備役歩兵少尉正八位の肩書で死去という記録がある(官報1934年05月19日)※石川となっているが、2回後の官報に訂正記事あり。後備役(こうびえき)とは予備役からさらに後ろつまり、「普段は民間人だが、有事には部隊を率いる指揮官として召集される、元・現役の陸軍少尉(国家公務員としての格付けは正八位)」という意味。兵役...

東京・銀座の資生堂にはかつて「花部」がありました

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    私の父(※信義)は、私が中学を卒業する頃から肺の病で長い療養生活を送っていた。 療養先の逗子の別荘では、文学書を読み、園芸好きの別荘番と草花いじりや遠浅の海岸で渡り蟹をとったりして過ごしていたようである。  その後、資生堂の初代社長である兄(※信三)が、花部を設けて父を主任とした。療養生活の後で普通の勤めは無理だろうという配慮からだろう。昭和の初めの頃である。 ※東京府立農事試験場講習所の大正6年入場の講習生名簿に福原信義の名前があるので、しっかりと学ばれて仕事をされていたことがうかがえます。 ※資生堂の創始者は信三、信義らの父親、有信(千葉県館山市出身)で、株式会社資生堂の初代社長が信三。実業家であり写真家としても優れた作品を残した。 「おいしい料理ときれいな花」という兄の理想の実現にもうってつけであり、花部は資生堂パーラーの入口に置かれたこともあったようだ。  部といっても、主任以下2、3人の小さな世帯であったと思われるが、事務室もあり入口には看板がかけられていた。当時宋朝体をもとにして完成間近だった資生堂書体を使い、黒地に金文字で入れたシンプルな看板だ。  父は自ら青山の高級生花市場(※青山ではなく銀座。高級園芸市場は資生堂から数ブロックしか離れていません)や多摩川の温室村の園芸家たちから良質の切花を仕入れに行ったりしていたが、折からの不況もあり、売れ行きはもう一つだったようだ。 そうこうしているうちに、健康を完全に回復した父は、本社の会計主任として給与計算などの仕事を誠実にこなした。 ※アール・ヌーヴォー風のオリジナル花器で花を飾ったという。他の記事では、店の前が水でいつも滑りやすくなるのでクレームが多く、営業しにくくなったとも記されています。   こんなわけで、私の半分は花屋の息子であり、半分は文学青年であった父の影響を受けて育った。その原点がこの看板なのだから、私にとってはかけがえのない宝物なのである。 『石垣』日本商工会議所のビジネス情報誌  19 (5)/ (231) 日本商工会議所 1999-08 『東京都農業試験場60年史』 東京府立農事試験場の研修生名簿から(入場年) 大正12年には「花郷園」の野口真吾の名前もある。 ●大正14年から戦前期にかけて東京砧村大蔵94に所在した株式会社「東京フロリスト」という大きな園芸生産会社(敷地...

日本初のフラワーデザインと花鉢の展覧会か?大正7年2月、東洋園芸株式会社と高島屋呉服店の共同イベント開催

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 日本で最初にいけばなの展覧会がデパートで開催されたのは、1912(明治45)年7月、大阪・三越呉服店での、いけばな小原流(2世家元・小原光雲)であった、とされています(「第一回小原式盛花大会」小原流史上巻年表1996から)。 これを皮切りに、大正から昭和にかけて、他の流派も百貨店とコラボして(場の提供と集客目的)、展覧会を開催するようになります。 記事は、新しくできた園芸会社がデパートでイベントを行った、ということを伝えています。三枝守富(さえぐさもりとみ)は、大隈重信の義兄(妻の兄)です。 フラワーデザインと花鉢やグリーンを並べる展覧会としては、このイベントが初なのではないかと推察します。 アメリカのボストンで10年以上園芸研究に携わった恩地剛が帰国して、中心となって会社を立ち上げて間もない時期で、意欲的に取り組まれたイベントであったと想像します。 あらためて、1917年暮れに会社設立 → 1918年早春にこのイベントという時間の短さは、かなり重要だと思います。東洋園芸は、会社を作ってからじっくり顧客を開拓したというより、設立時点ですでに人脈・顧客・事業構想が相当できあがっていた感じがします。 大隈重信らの出資、三枝守富のような人物が社長、そして恩地が園芸の実務・技術を担う。さらに政財界上層のイベント装飾や葬儀装花を引き受けていく。これなら設立直後から大きな仕事を動かせたのも納得できます。 しかも恩地は、アメリカで長く園芸・造園の世界を見て帰ってきた人物です。そう考えると、このイベントも単なる「開店記念」ではなく、東洋園芸とはこういう新しい園芸事業をやる会社なのだ、と東京の上流層に一気に見せる旗揚げ興行みたいな性格があったのかもしれません。 会社設立から数か月で、もう外に向かって動いている。「勢い」という言葉がまさに合います。 ※高島屋呉服店は、この当時、京橋(京橋区南伝馬町)にあった。関東大震災で焼失し、現在の日本橋高島屋SCの位置に移転。 記事は『実業の日本』1918年3月号(第21巻6号) 園芸は今日までは殆んど隠居の手すさびか、病人が保養がてらの遊び事のように思われていた。けれども、その色彩に於て気品に於て、吾人の眼を娯しましめ、吾人の生活に健康と慰安とを与えること決して少なくないという見地から、園芸を社会的に広く世間に紹介し、座敷の装飾りに、店...