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日本初のフラワーデザインと花鉢の展覧会か?大正7年2月、東洋園芸株式会社と高島屋呉服店の共同イベント開催

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 日本で最初にいけばなの展覧会がデパートで開催されたのは、1912(明治45)年、大阪三越店での、いけばな小原流(2世家元・小原光雲)であった、とされています。 これを皮切りに、大正から昭和にかけて、他の流派も百貨店とコラボして(場の提供と集客目的)、展覧会を開催するようになります。 記事は、新しくできた園芸会社がデパートでイベントを行った、ということを伝えています。三枝守富は、大隈重信の義兄(妻の兄)です。 フラワーデザインと花鉢やグリーンを並べる展覧会としては、このイベントが初なのではないかと推察します。 アメリカのボストンで10年以上園芸研究に携わった恩地剛が帰国して、中心となって会社を立ち上げて間もない時期で、意欲的に取り組まれたイベントであったと想像します。 高島屋呉服店は、この当時、京橋(京橋区南伝馬町)にあった。関東大震災で焼失し、現在の日本橋高島屋SCの位置に移転。 記事は『実業の日本』1918年3月号(第21巻6号) 園芸は今日までは殆んど隠居の手すさびか、病人が保養がてらの遊び事のように思われていた。けれども、その色彩に於て気品に於て、吾人の眼を娯しましめ、吾人の生活に健康と慰安とを与えること決して少なくないという見地から、園芸を社会的に広く世間に紹介し、座敷の装飾りに、店前装飾に、また衣裳との配合に、如何の効果を齎(もた)らすかを見せ る為、三枝守富(さいぐさもりとみ)氏を社長に、恩地剛(おんちごう)氏を取締役兼技師長に、新たに新宿終点に設けられた東洋園芸株式会社と高島屋呉服店とが協力して、本月上旬、高島屋にその展覧会をを開いた。日本に於ける殆んど最初の試みであるが、頗る有益に興味あることに思われた。なお、東洋園芸会社に於ては一般草花の種子、販売苗木等を確実廉価に販売する。 ※関西に拠点を持つ高島屋の東京進出は、明治33年(1900年)に京橋区西紺屋町で東京店を開店したことに始まり 、その後、京橋区南伝馬町を経て、昭和8年(1933年)に現在の東京都中央区日本橋(日本橋髙島屋S.C.)の位置へ移転・開店しました。 『開拓者』 17(6) 日本基督教青年会同盟 1922-06

1933(昭和8)年10月号 『実際園芸』 森川肇、小山重、垣本勇らのプロフィール

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 第15巻第6号 森川肇は戦後、都立園芸高校で花卉装飾を教え、フラワーデザイナーを育てた 小山重は新潟のチューリップ生産の恩人、故郷は長野県松代町で永島四郎と同じ。 垣本勇は渡米し、親戚が手掛けるカリフォルニアの農場で働いた

平成から令和への時代の変わり目に 平成の花業界のまとめ記事 『フローリスト』2019年5月号付録

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  花のクロノロジー特別編 「平成」を振り返る 1989年1月8日より、30余年。今、1つの時代が幕を下ろそうとしている。この時代を通して花の世界に身を置いてきた松山誠氏と、「平成」の花の歴史を振り返る。 ※*平成元年*は1989年1月8日から始まり、*平成31年*4月30日に終了し、翌5月1日に令和に改元となった。このたびの皇位継承、新天皇のご即位は、崩御にともなうものではなかったため、事前に日程が明らかになっていたため、平成を振り返る、という記事が企画された。 序に代えて~平成の3区分~  平成という時代が終わる。花産業を取り巻く環境も、この30年で激変した。あまりにも多くの要素があるので、思い出すことだけでも多岐にわたり、そのときどきに味わった感情が溢れ、尽きることがない。  平成を3つの時期に分けるとすると、80年代日本経済急成長の余波を受けた90年代後半までを第1期、次いで大型金融機関の倒産があった97年頃を境に、切り花も鉢物も市場が縮小をはじめ、そのまま右肩下がりで2000年代へと推移する第2期。この頃、バブル崩壊後の経済への危機感が強まるなか、生産・流通・販売それぞれがマーケティングを意識し、力を合わせて花の需要拡大に努めることになった。この間、IT技術の驚異的な発展と普及により情報環境は激変した。2008年のリーマン・ショック以後、市場の縮小が落ち着きを見せた2011年に東日本大震災と原発事故が起きた。ここから現在までが第3期と考えている。花の価値について、本質的な部分の議論が求められており、人口減少社会や超高齢化といった日本社会の状況や世代交代を着実に進め、未来への新しい体制作りが待ったなしとなっている。  ここからは、花材とその利用(業務、小売りの商品、デザイントレンド)、国内生産、輸入の花、流通(市場、輸送)、品質管理技術、情報、消費・需要拡大のための動きといった項目を立てて概要をみていく。 新しい花の登場  この30年で新たに登場してきた花材は膨大な数になる。経済が好調な第1期は、海外で育成された新品種の輸入が先行し、その後、国内栽培がはじまるという型があった。スプレーギク、ポンポンマム、ミニガーベラ、アルストロメリア、サンダーソニアなどがそれに当たる。バラは、高芯剣弁の品種から、ガーデンローズに見られるような丸い姿のものが数多く出て...

バラをつくっている秋(とき)ではない

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 子どもたちの太平洋戦争 : 国民学校の時代 (岩波新書) 山中恒  岩波書店 1986.11

「生花我観」 西川一草亭 昭和10(1935)年 高等女学校の「国語」の教科書に載った一草亭の随筆

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  https://dl.ndl.go.jp/pid/1269129/1/101 ←参考書(教師用) 『茶心花語 : 茶の話・華の話』 西川一草亭 実業之日本社 昭和6(1931)年 https://dl.ndl.go.jp/pid/1175431   「生花我観」 西川一草亭 省労抄 : 純正女子国語読本参考書 巻6 五十嵐力 監修 早稲田大学出版部 昭和10(1935)年 から  日本の生花に取って第一の命ともいうべきは枝振を生かすことである。この枝振が善いか悪いか、それから枝の布置配位号が面白いか面白くないか、これがあらゆる生花の高下優劣を判断する最高の標準で、この点に於いては抛入(なげいれ)も立花(りっか)も更に違うところがない。  枝振にはリズムがある。そしてそれを見る人に音楽的な快感を与え同時に日本画の筆勢を味わわせる。これは西洋の草花にはほとんどないことで、もともと日本人の自然に対する趣味の教養から来たことであり、殊に日本画の影響から来た結果であるが、これと共に見逃すことの出来ないのは日本の植物が天性曲折に富んでいることで、もしあの二三尺の小枝までが、変化に富んだ風流な姿態を見せて、我々に花道の極意の暗示を与えることがなかったならば、またもし日本の植物が、西洋の植物に見るように、ヒマラヤ杉やポプラのような物ばかりであったならばいくら日本人でもあの生花(いけばな)のような特殊芸術を思いつくことは出来なかったであろう。  アメリカ人で花の稽古を始めた棒の夫人が、「せっかく花を習っても、私の国には日本のような面白い枝振の木がありません。いくら花菖蒲や百合の類はあっても、木物がなくては駄目ですからね。」と言って、稽古を中止してしまったというが、さもあるべきことである。  日本には到る所に枝振の好い木がある。もっともこれについては、国が小さいので、木までが小さく島国的にこぢれていると言って非難する人もあるが、とにかくそのこぢれたところを生かして、独自の芸術を工夫したところに面白味があるので、これは生花のみならず庭園や盆栽に就いても、同様の事がいえるのである。枝振からいうと、梅のごときは生花に最も適当した材料であろう。梅は花や匂もよいが、その東洋人に喜ばれるのは、主として木振、枝振の妙趣にある。枯れ切った書や画でも見るような、その一種特別な風致にある。梅に...

明治40年、きみたちに、イチゴの食べ方を教えやう  『少年世界』明治40(1907)年6月号 第13巻7号 博文館

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  草苺(くさいちご)と其の食べ方  宮川紫外   此都頃下(※正しくは此頃都下=このごろとか)の果物店(くだものみせ)には大概、箱詰にて陳列してある、草苺ストロベリー! 彼(あ)の美しい紅色、その快き香味、私一個の好尚よりせば、果物中これほど上品で、味美(おいし)いものは他にあるまいと思ふ   この美しい甘味(うま)さうなる果物も、少年諸君は僅かに或る点よりのみ之を解し、然も之を無意識に付するものが多い、されば、其の形態等に至っては、実に言ふまでもなきものであるが併し将来は遠からず学校園の設備と同時に、該草(がいそう)の如きは第一に裏付けらるゝ至適のものなれば、百聞一見に若かざるの日、亦た遠きにあらざるを以って茲には其概略を述べ、且つ学校園範囲以外の食べ方のことを、序(ついで)に話して置かう。  此草苺ストロベイーは学名をフラガリア、シロエンシス(Fragaria chiloensis) と云ふのであるが、今 此の果実をば植物学上より見ますると私共が此(この)果実と思って居るものは、真の果実ではないのであって、真の果実と云ふべきものは、此(かじつ)果実と思って居る処の果面に付着せる無数の微小なる種子(たね)そのものである。此の果実の如くなって居るのは、花托(かたく)が変形したもので即ち、肉質の花托が果実形をなして、美しい紅色、快き香味がある処の私共の嗜好する上品なものとなったのである。是は果物中に例の無いことではない、無花果樹(いちじく)の如きも、同じ変化を為して居るのである、一般の果実に比する時は、実に奇異の一である。  多くの果実即ち桃でも梨でも柿でも、一股に其の花の中央にある子房、即ち其の開花後。花粉の交接を終わり、花弁が脱落すると雄ずいの基部にある子房が、膀張して果実と成り居るので、誰が見ても容易に分かるが、此の草苺でも無花果実(いちじく)でも、子房が果実にならずして、花托が果実形をなして、花託が果実形をなして居るので一般の果実大(おおい)に異なって居る此の点は能く記憶して置いて貰いたい。   此の甘い奇なる果実は、如何な草に結るかと云ふに、即ち図に示すがごとく、茎は短縮して無茎状をなし、而(そ)して葉柄の長い、葉縁に鋸歯がる、羽状脈の倒卵形なる三個の小葉(こば)に分裂したる葉を生じ、花は離弁であって、五個乃至七個の花弁を着け、雄ずいは二十個乃至三...

記事アーカイブ 100年を迎える花市場誕生の物語 『フラワーデザインライフ』2023年10月号

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関東大震災をきっかけに花市場が生まれた。 震災でもっとも困ったのが「温室経営者」たちであった。 彼らは一致団結して自分たちが主宰する市場の設立へ動いた。  

1952年の座談会の写真 石井勇義、磯村謙蔵ほか

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  磯村謙蔵氏(東京大森園芸市場社長、旧不休園創業者)左から二番目、一番右が石井勇義氏(60歳、翌年夏に急逝) 『農耕と園芸』1952年12月迎春準備号の座談会

記事アーカイブ 日本が誇る名花、ハナショウブ~日本産植物輸出のはじまり~ 『フラワーデザインライフ』2023年4月号

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宮川紫外(本名は孫二郎)の肖像 『盛花と贈花』出版の翌年,1909(明治42)年頃

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  『明治新政譚』(1891)の編纂、また『草苺之栽培』(1906)や『盛花と贈花』(1908)を書いた、園芸家、宮川紫外(本名: 孫二郎)の肖像が見つかった。 博文館の子どもむけ雑誌『少年世界』の1909(明治42)年11月号に、本誌の主要な執筆者の一人として掲載されている。 ほかには植物学の松村任三博士や日本画家、デザイナーの杉浦非水らの顔が見える。