投稿

明治43(1910)年 農商務省海外実業練習生、坂田武雄の報告 米国における鉄砲ユリの栽培と利用について

イメージ
明治43(1910)年 農商務省海外実業練習生、坂田武雄の報告 「米国に於ける日本鉄砲百合の栽培及其需要状況 各国産業彙報 ◎米国に於ける日本鉄砲百合の栽培及其需要状況 在紐育海外実業練習生 坂田武雄 報告 米国に輸入せらるる日本百合の殆ど即ち85%が鉄砲種なることは明かなる事実なり、本邦は元来百合の好適地にして其種数十百を有し、然かも其美的価値に於て幾多の鉄砲種に勝れるものあるに拘らず、何故に特に此種か此の如き比率を以て米国に輸入せらるるかを研究し次の事実あるを見たり、即ち (イ)米国に於ける百合花の需要を見るに其の約80%は Easter 即ちヤソ復活祭時に限らるるなり、此時に於ける百合の需要は古来よりの習慣にして、貧民と雖も身分相応に百合の花を携へて、墓前に捧ぐるなり、更に該期に於ける百合花は一種の必要品にして敢て贅沢品にあらざること恰かも内地に於ける葬儀の際に切花が其贅沢的意義を有せざるに似たり、之を以て見るも、此時期に於ける百合花の需要が如何に大なるかを測り知るべきなり、更に此際に於ては幾千万の切花は本場なる Bermuda Islands (※バミューダ諸島)より米国の市街指して集り来るなり、此状況は到底内地人の思ひ至らざる所なりと称せらる、斯の如くして百合花の需要は、多く此時に限られ、小部分のみ他の時期に婚姻葬儀等の時に用ひらるる事此の如きを以て百合花は経済状元来種類に富むと雖も、鉄砲百合を措いて他に求め難き所にして、若し一旦百合花にして此時期を経過する時は、其需要は殆んど消滅するものにして、殊に紐育付近に於ける天候は厳酷にして毎年四月初め頃迄は夜間の温度の氷点以下に在ること多く、五月末に至る時は急に炎暑焼くが如き等の激変あり、然るに多種即ち鹿の子夏透等の開花は七月中なるを以て、此の如き炎暑の時期と一致し、市街付近に於ける富豪は皆閑を盗んで汗を山水明美の地に拭ふの時んしいて、従て花の需要は僅かなり、即ち此の如き時期に開花せる百合の如きは一花に対する値米貨ニ三仙に過ぎず、殊に此の如き時期に開花せるものは、貯蔵にはたとへ冷蔵庫の備へありと雖も、其装飾中に於て或は店頭或は客室等に於ける花の生命は真に瞬時たるを免れず、従て其需要は少きなり、又Easterより五月迄の花の需要は Easter なる大なる堰に遮られて、殊に Easter の促成に失敗したる残留物は...

「俺たちは、ホントに、ヒバリと話でもしていればいいのだ」 今から100年前の、スマート農業の夢

イメージ
『科学の世界』大正15(1926)年10月号 ※日本の農業の規模に合わせた機械を日本で開発する必要がある  

雑誌「婦女界」が主宰する「婦女界花壇」は砧村に園芸場を持って読者に通信販売を行っていた 主任は石山顕作氏

イメージ
  ※昭和6年、雑誌『婦女界』は代理部に園芸部「 婦女界花壇 」を設けて、 種子や球根の通信販売、切花の頒布会、花束、花籠、花環の注文配達などを行っていた。 主任の石山氏は千葉高等園芸学校OB(大正10年卒)で永島四郎(こちらは婦人公論花の店)と同世代。 東京府北多摩郡砧村(世田谷区砧公園あたり)の園芸場で 石山顕作氏が関係していた園芸会社といえば、 藤山愛一郎 氏(外務大臣、経済企画庁長官、衆議院議員(6期)、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、初代日本航空会長、自民党総務会長)が社長で、 姻戚関係にある 資生堂の福原信義 氏が役員をしていた「 東京フロリスト 」のあとを 引き継いだのではないかと推察する。 婦女界園芸部の事務所は丸ビルの2階にあり、ここで注文を受けていた。 ※『婦女界』43(5) 1931(昭和6)年5月号 心得おくべき花環・花束・花籠の常識 婦女界花壇主任 石山顕作 ◯ある失態  ある外国の有名な音楽家が来朝して、第一回の演奏会を華々しく開いた時、ステージに赤い花で作った大きな花環が飾られてあったのを見て、「私の芸術はまだ死んではおりません、また私自身も死んではをりません」と主催者に皮肉りました。併し主催者も、花環を贈る意味を知らなかったので、何の意味か分かりませんでした。  この音楽家は何に憤慨したのでしょうか。花環に対してです。花環は葬式又は追悼会以外には使用されないものなのです。ところが日本ではこのことが徹底していないため、未だに祝儀やステージに花環が送られるのを見受けますが、あれは全くの間違いです。しかも生花ならまだしも、造花の花環にいたっては誤りも甚だしいのです。ですからこの場合、ステージに飾られた花環は、追悼音楽会を意味したことになったのです。主催者の心はステージを美しく飾る好意に外ならなかったのですが、花の正しい使い方、贈り方を心得ていなかったために、とんだ大失態を招きました。  これはほんの一例にすぎませんが、今日の様に花という物が、生活の中に入りこんで、頻繁に使用される様になった現代では、花の使い方、贈り方位の事は、常識として是非心得ておく必要があります。 ◎花環・花束・花籠の意味  花環は一たい不祝儀に使われるもので、葬式に用いて哀悼の意を表したり、追悼会とか追善の様な場合にそれぞれ使われます。  花環の外にも、...

結核患者と園芸 昭和19年2月号 『農業世界』39(2)-1944-02

イメージ
  結核患者と園芸  昭和19年2月号 農業世界39(2)-1944-02 ※白衣の勇士 戦地で国のために戦い負傷した軍人として、当時の日本では「白衣の勇士」と美称され、国民による慰問や支援の対象とされた 闘病生活者の手記 "結核と園芸” 歩崎悠哉 これから書かうとする事は、園芸をする事によって結核が直ってしまった、と謂ふ過去の事ではない。目下園芸の道に入らんよする途上、発熱したり、或は自己の労力が常人の何十分の一しか発揮出来ぬ悩みに苦心をし、又はたしてこの病で園芸が可能かどうか、若し之が世にあ る或自叙伝の一形態をなすとするなら、このー文はその第一頁に相当するわけである。これから身をもって体験してゆく、即ち結核を従来の病床生活より希望も明るき天地の変化と共にくらし、しかも太陽や暖かな土の匂ひや柔らかな雨に生産をいとなみつつ生きんとするのだ。その日月が連続するなら、それは更に一頁、一頁の本論へ、そして幸(こう)にして或程度の年月を生きぬく事が出来たなら、それは遂には完成されるところの終止符が打てるわけとなるだらう。 ◇  十数年前の最初の吐血は、トマト畠の土に点々とたらした。そのトマト畠は、その春上京中母の看病に帰省して疲れた体と、長い都会の生活に急に土への親しみが増して、廃屋を取りこわした跡を耕して初めて作った畠であった。  重病の母には秘めていなければならず、私はその後連続している血痰をみながら、平気をよそうていなければならなかった。療養生活そして最悪のものであらう。然し乍ら母は死んでしまひ、そして又私も母の希望で入社した会社を止めざるを得なくなった。  だが独り者で、その上兄のある私は充分に休養する余地もあった。それよりも何よりの事は、半都会地の地域としては、ふんだんに太陽を裸に浴びられ、新鮮な食物と広々とした眺めは、たちまちにして体重をふやしていったのだった。そして自然と興味は昆虫や植物に向けられ、母の百ヶ日に集まった人々からは、トカゲや蟻の生活或は盆栽の鉢を熱心にみつめる私を変人あつかひにされる様になっていた。  その以前、サツキ作りでは地方名人あつかひにされた叔父は、本業の養魚に失敗し、又肉体の要求からサツキの新種培養等に全力を打込んで、やはり、“結核と園芸”とを結びつけて、十数年をその生活に生きて幸福な生涯を終わった。 ◇  然し私は若いので...

『実際園芸』誌の専用原稿用紙が存在していたことについて

イメージ
  園芸文化協会『園芸文化』2023年1月号(第131号)から https://engeibunka.com/activities/Brochure/%E5%9C%92%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%8C%96131%E5%8F%B7_2023%E5%B9%B41%E6%9C%88.pdf 小笠原左衛門尉亮軒先生の寸暇録 第6回 牧野富太郎著作本とその出会い 牧野富太郎先生による 「シュロチクとカンノンチク」の生原稿が掲載されていた 実際に記事になったものはこちらの号に掲載された 『実際園芸』第23巻第1号もくじ 小笠原先生と作家朝井まかてさんとの対談 https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_s_edoengei_1 https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_s_edoengei_2 https://www.shuminoengei.jp/?m=pc&a=page_s_edoengei_3

北米、カリフォルニアでバラ生産者の息子に生まれた日系人園芸家 Henry Nishi のオーラルヒストリー

イメージ
 Denshoデジタルアーカイブ https://ddr.densho.org/media/ddr-manz-1/ddr-manz-1-60-transcript-d4c47033bf.htm https://ddr.densho.org/media/ddr-manz-1/ddr-manz-1-64-1-transcript-c0da2f78fd.htm https://ddr.densho.org/interviews/ddr-manz-1-60-1/ インタビューはセグメント1から27まである https://ddr.densho.org/interviews/ddr-manz-1-64-1/ つづき。こちらはセグメント28まである 父、九一郎は前列左から2番目(『南加花商組合史』1933から)※後列に池上順一氏の姿あり Who he is: Henry Kenichi Nishi (born March 20, 1919) was a Nisei (second-generation Japanese American) who was imprisoned at the Manzanar concentration camp during World War II マンザナー国立史跡コレクション タイトル:ヘンリー・ニシ インタビュー ナレーター:ヘンリー・ニシ インタビュアー:リチャード・ポタシン 場所:カリフォルニア州サンタモニカ 日付:2009年1月8日 Densho ID:denshovh-nhenry_2-01 <セグメント1開始> RP: マンザナー国立史跡です。今日の午後、ヘンリー・ニシさんにお話を伺います。ヘンリーさんはカリフォルニア州サンタモニカの16番街3002番地にお住まいです。インタビューは2009年1月8日に行います。ビデオ撮影はカーク・ピーターソン、インタビューはリチャード・ポタシンです。第二次世界大戦中、マンザナー強制収容所に収容されていたヘンリーさんの体験についてお話を伺います。また、西ロサンゼルス地域での造園業や園芸業における、ヘンリーさんとそのご父君の経験についても伺います。このインタビューはマンザナー国立史跡の図書館にアーカイブされます。ヘンリーさん、インタビューを続けても良いでしょうか? HN: わかりました...