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昭和14年のファレノプシスのいいところとその欠点  「洋蘭ファレノプレスの作り方」 山草栽培の名人 鈴木吉五郎氏

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台湾胡蝶蘭の山採一作品 ファレノプシス・アマビリスの花 右 ニューギニア産といわれる大輪種 左上がアマビリス、左下シレリアナ   『実際園芸』第25巻5号 昭和14(1939)年5月号 栽培の困難とされている 洋蘭ファレノプレスの作り方 春及園(※横浜市) 鈴木吉五郎(※きちごろう) ※すずき・きちごろう 1898~1988 (『横浜』 神奈川新聞社 2022年春号 第76号「山野草の“神様” 鈴木吉五郎」斎藤多喜夫 に経歴が詳しく記されている。昭和63年1月24日、脳溢血のため亡くなられたという。享年89歳だった。雑誌「らん」12号、昭和63年4月発行に追悼記事あり)  最近洋蘭の普及は素張らしい勢で、趣味として小温室にも洋蘭を見ないところはないが、一方切花が一般から歓迎されるようになって、高級切花の王者として年と共に多数に消化されるようになって来たが、その主なるものはカトレア、デンドロビューム、シンビヂューム、シプリペヂューム、ジゴペタラム、カランセ及びここに述べる、ファレノプシスである。ところがファレノプシスは非常に作り難いと云うので、花が上品で美しいにも拘らず割合に営利的に作る人が少いのではないかと思われる。然し切花が非常に高価に取引されるのを見ると、営利栽培も栽培上の工夫次第で出来るのではないか、有望な洋蘭として見逃すことの出来ない一つであると思う。私は山草類と熱帯魚を主として、取扱っているが、洋蘭も既に十数年来手がけ胡蝶蘭は大震災の年より下手の横好きの体験を御依頼により一通り述べて見度いと思う。 趣味栽培にも営利的にも向く品種は何か  現在一般に作られているものはアフロダイト(台湾産胡蝶蘭)、アマビリス(ジャバ附近産)及びシレリアナ(ヒリッピン産)であって、その他リンデニー、エスメラルダ、ビオラセア、等も数えられるが、之等は一般的なものとは云い難いようで、先ずファレノプシスを作るならば前記三種が一番適当であると思う。  台湾産の胡蝶蘭は早いものは十二月に開花し、それから順次四月頃迄で咲くが之れを内地(※この時代、台湾は日本領であった)に移入して二、三年すると次第に作が落ちて来て花着が悪くなったり、株の勢力が衰えたりするのが普通であるが、これは何に原因するか未だ判然としないが、ホンノ紙一重位の培養上の欠点があるのだと私は考へている。古根を切って更新するのも

昭和14年のアルストロメリアの栽培法

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 『実際園芸』第25巻5号 昭和14(1939)年5月号 切花にも花壇植にも美しい アルストロメリアの作り方 吉村農園農学士 吉村幸三郎 代表的な花の美しい品種  アルストロメリアは普通球根植物として販売されているが、軟い塊根を持った宿根草としで取扱われるべきものと思う。鮮緑色の茎を持っていて草丈は三尺内外となり、その頂きに百合状の花を五、六輪つけて、切花として大変に価値の高いものである。花の美しい人気のある品種を紹介して見ると次の様なものがある。 シッタシナ は古くから広く作られているもので、渋い暗紅色に一寸緑をつまどった様な色彩であるので、あまりじみ過ぎて大栽培には向かないものであるが、家庭用とか少量ずつの出荷には適している。 オーランチカ・スプレンデンス 比較的珍らしい品種であって、丸弁の橙黄色の花を着け、鮮明な色彩と花持ち、水揚げ共に良好なところから市場向として申し分のないものである。普通は橙黄色であるが、時にはオレンジ色のかからない純黄色のものがある。之れは多分ルテアと云われる品種ではないかと思われる。数年前から私の輸入しているルテアと此の混合品とを比較しているけれどもそういう点は見受られない。 チレンシス・ハイブリダ 殆ど販売されていないが、少しく矮性で丈が二尺位である。小花梗は他種よりも伸びる。色彩には普通桃色、黄色或は紅色及びその中間色等いろいろあるが、時には非常に鮮明な色彩のものがあるので此の様なものは将来面白いものではないかと思う。  作り方の要点  有機質の多いあまり乾燥しない土地に植えるようにするのがよい。植付けは春秋何れでも差支ないが、深さ二寸位に植付ける。非常に深根性の植物であるから、一度植付けたならば数年間そのまま育てた方が花立が非常によい。植付た年には殆ど花は見られないようである。塞さには強く、東京附近では霜除の必要はない。五月頃に夜盗虫が好んで卵を産付けて、大変に害を与えるものであるから、豫め砒酸鉛(ひさんなまり)を撒布して防ぐようにする。  肥料は大して濃いものは必要なく、寧ろ堆肥とか藁を夏に敷いてやり、それを鋤き込む程度で十分である。植付の距離は五寸から七、八寸位でよい。植付たものがあまり大株になったら手で分けられる程度に株分をしてやるようにする。初めての年は太い根をバラバラにして、それぞれが一つの植物の様に考えられているようで

【堂本兄弟】 堂本誉之進、兼太郎兄弟を語らずして、カリフォルニアの日本人による花園業を語ることはできません

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  『加州日本人花園業発達史』1928から ※堂本兄弟の名前の読み方について 誉之進 Takanoshin、兼太郎 Kentaro、元之進 Motonoshin、光之進 Mitsunoshin とのこと。  『Living with Flowers: the California Flower Market History   Hana to Tomo Ni 』  Kawaguchi, Gary 1993 ……堂本兄弟……  花園業者の元祖は吉池寛翁でありますが、植木業の元祖は堂本兄弟であります。  吉池氏は早く花園業を退かれ他の事業に転ぜられましたが、堂本兄弟は今日盛大に花園業を営み沿岸屈指の成功者として、又花園業者の先輩として尊敬せられ、中外に名を知られて居るのであります。  堂本誉之進(※たかのしん)と弟兼太郎(※けんたろう)の両氏は明治十七(※1884)年十一月十八日、英船オセアニック号にて、桑港(※サンフランシスコ)に上陸したのであります。  郷里は和歌山県那賀郡田中村大字東大井、家は村では古い農家で門閥家ではありましたが、維新以来の社会の変遷に依り、彼等が物心地つく頃には家運あまり豊かでなく、誉之進を頭として七人の小供を持って居た彼等の父は、逆境を辿りつつあったのでありました。  誉之進氏は一日米国に遊学しつつありし同郷の先輩、三谷幸吉郎氏の宅に於て、米国は修学と労働、両(ふた)つ乍ら有望なる新天地なる由を聞き、少年血気の彼は勇躍措く能わず、奮然渡米を決心し、兼太郎氏と計って、少し許りの旅費を作り雄々しくも故郷を去ったのであります。  時に兄は二十歳、弟十六歳の少年でありました。  堂本兄弟は桑港に上陸するや、同郷の先輩三谷幸吉郎氏を頼りて、下町ゴールデンゲート・アベニュウにありし福音会を尋ね、誉之進は先づエディ街のゴールデンステートハウスなる下宿屋のヂャニター(※janitor玄関番)となり、兼大郎はスクウルボーイとして白人家庭に入り、米国生活を始めたのであります。  兄弟は健康なる体躯の持主として、今日まで、あらゆる困苦を凌いで来ましたが、彼等の美点として世に誇るべきは実に堅忍と質素であります。  誉之進氏のゴールデンゲートハウス生活は、実に十五年も続きました。そしてその間に持主が五人も代りましたが、彼はいつも忠実正直に働いたので、仕事の上では主人よ

【インフルエンザの流行、花がいくらあっても足らぬ】1918年 米国カリフォルニア州の当時の情況

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サンフランシスコの日本人経営の花市場のようす 1920年代 【インフルエンザの流行、花がいくらあっても足らぬ】1918年 米国カリフォルニア州の花園業者の情況について 欧州大戦の終盤、スペインから始まったインフルエンザは世界中で大流行し、戦争以上に恐れられ、多数の死者を出すパンデミックとなった。カリフォルニア州では、1918年の秋頃から災厄の大きな波に飲み込まれた。 ******* ―マスクの世の中  この病気は向寒の期節に当り、空気伝染をなすため、病毒の散布拡大に対する防御困難にして、予防注射と、マスクを以て口を蔽って、危険を防ぐより他に方法なく、世界は一時、白布を主として用いたる、マスクの世の中となり、マスクとマスクとを対談することとなり、平常に見ざる奇観を呈したのでありました。  この流行性感冒はその影響すこぶる重大で、死者多数、欧州大戦に勝る意外の惨事なりと称せられ、最も多忙を極めた者は、医師、看護婦、病院、収容所、マスク製造業者、注射薬製造業者、教会寺院、僧侶牧師、葬儀社墓地などで、花園業者もまたその中に包含せられて、莫大なる花の需要に接し テンテコ舞いの多忙を極めた のであります。 ―いくらあっても足らぬ花の需要  喜びにも、悲しみにも、どうしても無くてはならぬ、花の有難味と尊さは、この時分に最もよく、実験せられたのであります。   病人の見舞、葬儀、その他の目的に使用せられたる花の需要は実に莫大なるもので 、花園業者、市場、販売業者は予期しなかった繁忙に全く目を回したのであります。  限りある生産は、急激なる無限の需要に応ずるべくもあらず、供給の不足は 市価の暴騰 を来し、花であれば、いかなるものにても可なり、といった時代もあったのであります。  世人が看護に忙殺せられ、葬儀を営みつつあった間に、花園業者は、多大の注文に応ずべく、昼夜兼行無理をなし、一生懸命に花を切り出し、いかにして花を早く咲かせんかと当惑しつつあったのでした。 この年の最高相場は、 菊 上等品 6ダースバンチ 19ドル ロウズ 同 2ダースバンチ 8ドル カアネエション 同 2ダースバンチ 2ドル50セント などで、 記録破りの値段 として、今日なお昔話の種となっております。実際、 花であったらどんなものでもよかった とは、世の中の回り合わせは、不思議なものであります。 ******

昭和3年の農業テクノロジー 温室の環境制御のための技術 温室は工業的な思想で経営する必要がある 日新電機株式会社の広告

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『実際園芸』第4巻3号 日新電機(京都)は現在も続く大企業(創業112年) https://nissin.jp/ ウィキペディアによると 「重電8社(日立製作所、東芝、三菱電機、富士電機、明電舎、ダイヘン、東光高岳、日新電機)の一角。電力機器(重電:受電設備、変電設備)などを製造・販売。特に、電力用コンデンサや世界最小クラスのガス絶縁開閉装置 (GIS) などに注力している。また近年はビーム応用装置や制御システム、電子デバイスなどを製造・販売。さらに中国、東南アジアに現地法人を設立し積極的に営業展開している。」 その他の広告 伊藤東一氏の東光ナーセリー (池上町堤防906、玉川温室村に移る前か?) 磯村謙蔵氏の「不休園」のちの大森園芸市場、現在の大田花き(大田市場花き部) 湯浅四郎氏の東京農産商会(有楽町、蒲田他)  

日本人の園芸能力はすごかった  昭和一四年、カリフォルニア州の園芸界を一年半かけて視察した人の話

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  『実際園芸』25巻5号 昭和14年5月号 アメリカ、カリフォルニア州の園芸業界視察レポート 滞在一年半に見聞きしたこと ※現在では不適切とも思われる表現がありますが、そのまま掲載します。日中戦争が泥沼化するなか、日本国はドイツ、イタリアと枢軸国の同盟を結んでおり、連合国との対立が深まっています。昭和一六年の日米開戦の二年前の情況であることを前提に読むことが重要です。排日の情況は明治30年代からずっとあるのであって、日系人第一世代はその現実のなかで翻弄されながら地位を築き、二世はアメリカ人でありながら、さまざまに差別を受けて生活をしていました。それでもカリフォルニア州ではたくさんの日系人が園芸に関わる仕事をしており、庭の仕事にしろ、農産物の生産にしろ、いずれも高い品質を誇り、つつましくもひたむきに暮らしていたのです。 垣本勇さん(元・東京農産商会蒲田農場主任)の土産話 加州の花卉栽培の進歩振り  久しく東京農産商会の農場におって球根や一般花卉に造詣の深い垣本さんが一昨年六月に、同氏の厳父(※実の父親)が大規模に花卉栽培をやって居られる加州の園芸場に行かれ、加州の花卉栽培について視察をして四月一日にお帰りになられたので、大日本園芸組合有志主催の下に四月十日午後六時より新橋東洋軒に於て視察談を聞く会が催されたのでその時のお話の大要をここに御紹介します。垣本さんのように十分知識経験を有する方の眼に映じたアメリカの花卉園芸談こそ貴重なものである。 ▼日本人園芸家の発展振り  私は一昨年の六月に花卉園芸視察の目的で米国に渡り、 一年半に亘って各地を視察して 四月一日に日本に帰着したのであるが、その間の私の見たままをお話しよう。  米国と言っても私の行ったのは加州だけであるが、花卉栽培の中心地であるサンフランシスコとロサンゼルスの附近には久しく滞在して出来るだけよく見たのであるが、何分栽培家の間をみて歩くと言っても、日本とは一寸勝手が違って歩いて見に行くというわけには行かない。道路はよく出来ているが自動車を持っていないと、どうにもならないところである。  向うに行って驚いた事は、 米国の花卉栽培は断然日本人が優勢な事で、絶対的の勢力を持っている事には非常に力強く思った 。 日本人のガーデナーが多く、その活動は全く想像以上で実に愉快に感じた 。しかし、今日の花卉園芸に於ける日本

「高山植物」の濫觴(らんしょう)時代の話 前田曙山 「山がけがれる」と多くの人が信じていたころに高山植物を求めた人たちがいた

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 『実際園芸』第22巻4号 昭和12年4月号 ※ヨソモノが地元で大切にしてきた霊山に踏み込むことを地元の人たちは嫌い、また山の神による祟りを恐れた。(修験者や山人以外の人間が容易に山登りをするような文化がない) ところが、いったん、こうしたヨソモノ、旅行者を受け入れるようになると、自ら地元の植物を根こそぎ取って金に換えるものが跡を絶たなくなった、と記している。 高山植物栽培の濫觴時代 前田曙山 高山植物の濫觴   高山植物と云う名称 が、チラリホラリ好事者の口に上りはじめたのは、 明治三十年乃至三十七八年の間 である。但しそれ以前、古く幕政の頃から山地性植物を、単に山草と称えて、本草学的に扱いはしたが、 特に高山植物なる別格的の名詞はなかった 。しかも当年の山草は、たとえ栽培はしても、 薬用 が本来の目的で、眺矚(ちょうしょく)として紫微天壇(しびてんだん)の雰囲気を座間に彷彿せしめるなどは思いも及ばぬ事であった。稀に庭の下草や、盆栽のあしらいに応用する人が無いでもなかったが、精(せい)ぎり白根葵や草芍薬(やましゃくやく)位で、草本帯の植物を用いる事はなく、寧ろ山気磅礴(ほうはく)たる天擅の霊花の存在さえ知らなかったので有る。  高山の巓(いただき)に、一種特別の趣致に富む寸憐(すんれん)の植物があり、それを人寰(じんかん)に於て栽培し得ると云う事を知ったのは、英独あたりの高山植物書から知識を得たので、その始め我邦で高山植物の栽培を試みたのは、 松平康民 氏、 城数馬 氏等の 山草会(さんそうかい)の人々 で、その中(うち)現存するのは、 木下友三郎翁 一人のみとなった。古い洋画家の 五百城(いおき)文哉 氏は絵筆から栽培に親しむようになったのだが、日光に於ける山荘咬菜窩(こうさいか)に於ける、此の人の設計した ロック・ガーデン は、小なりと雖も、 日本に於ける最初の高山園 として、特筆すべきで有る。 山草の神経衰弱  今でこそ、 百貨店(デパート)に高山植物を陳列し、山ッ掘物すら発売しているようになった が、その当時高山植物を得るには、自から嶮岨(けんそ)を攀(よ)じ、雲表に抽(ぬき)んでて、 手づから採集して来なければならなかった 。しかもその山たるや、稀に杣山賊(そまやまがら)の足跡を拾い得ても、殆んど道らしきものなく、辿るは雨水の奔駛(ほんし)した急勾配の地

戦前日本の植物輸出で最大の品目であった百合根、その大半をしめたテッポウユリ球根は大田区蒲田で栽培されていた「徳兵衛」氏のものがきっかけ

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 鈴木一郎『百合根貿易の歴史』昭和46(1971)年 p20 ***************  ヤマユリについでテッポウユリの栽培が開始されたのであるが、これは明治24(※1891)年、横浜杉田村に居住していたユリの仲買人の 間辺銀蔵 が 東京府下蒲田に花園をひらいていた、通称徳兵衛という人から テッポウユリの球根を輸入して栽培をはじめたのが最初であるともいわれている。 しかし 、前記の 鈴木清吉 が 横浜日下村関に栽培をはじめたのが輸出用テッポウユリ栽培のはじまりで はないかと考えられる。これについで、 横浜中原の黒川銀蔵、横浜日下村の田野井利八郎一族が漸次多量に栽培をはじめ 、その中から柳葉種(※早生種)が選別されたのである。 *************** ※この柳葉種ものちに「黒軸種」へと変遷していく。 ※間辺銀蔵や鈴木清吉らはアイザック・バンディング(百番)に贔屓にされていたという ※ボーマー商会を引き継いだフルトン氏は、大正時代に第一次大戦が勃発し、日独が敵対する関係になったため、ボーマーというドイツ人の名前をロバート・フルトン商会に改名したのだという。このロバート・フルトン商会もほどなく閉じてしまい、28番の歴史を終え、日本人だけによる輸出時代となった。

関東大震災を契機に、はっきりとわかったことは「花はパンについで人間の生活に必要欠くべからざるものである」こと 森田喜平氏のことば

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 『実際園芸』第4巻2号 昭和3(1928)年2月号  東京を中心としたる 温室の発達と生産品の調査 二項園 森田喜平 趣味から実用有位に進歩した温室園芸  最近の温室園芸界を観まして著しく感じられますことは、従来の趣味本位のものから脱却して、漸く実用本位のものになりつつあります。今日から十年から十五年前までは、東京付近の温室総面積が漸く二三千坪位に過ぎなかったものであります。それが今日のような進歩発達を遂げました事について、この進歩の道程をたどって見ますと、最初は新宿御苑のいわゆる御苑風のものが土台となり、明治三十年から四十年代は趣味本位の温室園芸が全盛時代でありました。この頃でも実用本位の園芸温室の営業温室はありましたが、その数(すう)から云っても、またその生産物の品質から云っても、到底趣味温室の足下にも及びつかなかったのであります。その一例を申しますと、明治天皇の時代には、宮中に御宴会などのお催しがありまして、花卉を沢山に御用(おもち)いになる場合でも、 一切御苑の生産物によられた もので、いわゆる 帝室の自給主義 が行なわれたものであります。ところが今日では民間の園芸が進歩発達すると共に、その技術も進歩して有良なる高級花卉蔬菜を作り出すようになり、またその種類物(もの)を作ることも、専門化して来ました結果、今日では帝室で御入用(にゅうよう)の場合には、それぞれの専門栽培家からお買上げになる方が、優良なものを得られるようになって来たのであります。 温室園芸の進歩した分岐点  このように趣味温室全盛時代から、実用温室の勃興した分岐点は何かと申しますと、それはかの 大正十二年の大震災 であります。東京を中心として関東の主な都市が殆んど焦土と化し、何物も見られないと云う時に、花卉の売行きが非常に良くなったと云う事は、高級園芸品が、 パンについで人間の生活に必要欠くべからざるものである と云うことを、明らかに物語るものと云わねばなりません。  これと同じような実例は、 桑港(サンフランシスコ)の地震 の後で花の売行きが非常に良かったと云う話がありますから、文化人にとっては、 花はパンについで必要な日用品 と考えられるのであります。※サンフランシスコの大地震は1906(明治39)年4月18日に起きた。  しかしその後一時の好景気と反動として、また財界のパニックの影響を受

明治40年代に小田原で大規模な花卉園芸施設、「辻村農園」を興し、東京に売店を設けて直売を行った辻村常助氏の肖像

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第11巻第8号 昭和6(1931)年12月号 辻村常助氏(1881-1959)の肖像   辻村常助氏が記した「著名欧米園芸書解題」から花卉装飾に関する書籍 『実際園芸』第22巻4号 昭和12(1937)年4月号 新しい園芸加工品 フルーツ・バタの話(1) 辻村農園主 辻村常助(つじむらつねすけ)  園芸品の用途を開拓するために、園芸品利用学と、園芸品加学とは、農村の窮境打開、及び天恵に富める我が園芸国の、地産の発揚に喫緊の急務として、此新使命の遂行を痛切に感ずるのである。  此分科の範囲は、一は食用以外の用途、後者は生食以外の食料品としての、園芸利用の方法である。園芸品利用学は姑く他日の問題として、先づ園芸加工に於ても、古来既に我国独特の園芸加工品が無数に行われ、また欧米の園芸加工法を伝習して、我国に製造される物も甚だ多種類である。なおその上に、近代科学の進展に伴って、益(ますます)新種目を加う可きは期して俟(ま)つべきである。我国民は、模倣に長じて独創に欠けて居ると世評を受る通り、古来の園芸加工品とても、支那若しくは朝鮮から伝授された物が多い。しかしながら、また之を邦人の嗜好、及栄養に適する様、幾 多の改良を施し、現在としては、既に本邦独自の、園芸加工品たる資格を具(そな)えたる品種も極めて多いのである。只明治以来、西欧園芸の輸入されて、その資材に依る園芸加工品なる物は、依然として彼れの亜流たるは反省を要する次第である。小生等も及ばずながらシロップやジュースに関しては、独自の見解を施して、必しも欧米現存の製品と一様ならざるを期したつもりでは有るが、それにしても根本に於て、原料と目的とが同一なる以上、無闇に飛び離れて異った製品の出来る筈は無い。要は品質に於て一頭地を抜いた位に止まるのである。吾等は親愛なる我が園芸家が、斯の如き些細の相違に得意めかしく自慢する様な、小さな心を捨てて、真に独創に充ちたる園芸加工品を製作されん事を希ふのである。  然ながら独創的園芸加工品が出来るとしても、自ら楽しむので無くして、之を販売して世間の需要に対応するので有れば、そこに聊(いささ)か考なければ成らない事情が存在する。 ◇  近来我が国民も、自己の資力を稍(やや)認識して、 あながち欧米に劣る者で無い事に気が付き始めた様であるが、それにしても末だ末だ欧米を尊んで自らを卑しと為し、祖

昭和2年の広告 『実際園芸』第2巻第3号

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『実際園芸』 第2巻第3号 昭和2(1927)年3月号 東京農産商会 太田鉄工所 福羽逸人氏がひいきにしていたボイラー製作会社 横浜植木株式会社は 総合園芸企業として早くから資材を取り扱ってきた。 輸入品だけでなく自社製品が数多くある。 『実際園芸』第14巻第5号 昭和8(1933)年4月号 玉川温室村 東光ナーセリー(伊藤東一氏) ばら新(動坂上、横山新之助) 鈴木吉五郎氏の春及園 春及園の所在地は、 横浜市磯子町富岡二二二二番地 (昭和12年4月号の広告) ※鈴木吉五郎 すずき・きちごろう 1898~1988 (『横浜』 神奈川新聞社 2022年春号 第76号「山野草の“神様” 鈴木吉五郎」斎藤多喜夫 に経歴が詳しく記されている。 昭和63年1月24日、脳溢血のため 亡くなられたという。享年89歳だった。 雑誌「らん」12号、昭和63年4月発行に 追悼記事あり)

昭和2年の玉川温室村のようす 烏丸光大氏、藤井権平氏、犬塚卓一氏、鈴木譲氏、荒木石次郎氏らの温室写真 冬季、東京もマイナス10℃になる時代

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 『実際園芸』第2巻第3号 昭和2(1927)年3月号 大規模なる切花栽培を専門とする欧米の園芸場さながらの、玉川温室村 東京 目黒駅より 、日黒蒲田行の郊外電車に乗り換えて、 『田園調布』 という停留場で下車して、それより 西に五六町 、玉川河畔の上沼部というところに行きますと、所謂 玉川温室村 があります。ここには僅か数町の間に、二千坪近い温室があり、今も続々と新温室が建てられて居ります。ここに居られる園芸家は、大抵米国に長い間居って温室業に従事して居られた人々が、帰朝して米国式にやって居られます。 (1)温室村の中央にある、藤井(※権平)氏の温室。百坪からの温室が二棟ありましてカーネーション、洋菊などをアメリカ式作られております。 (2)ここで一番大面積の温室を有する烏丸光大(※からすまるみつまさ)氏の 二項園 の温室、総面積六百坪以上あり、 府下大井在の園芸場 と合わせて、千数百坪の温室を持っておられます。 (3)これは、ここの温室村の開拓者ともいうべき、荒木石次郎氏の温室。荒木氏はスウヰートピースでは日本一といわれているくらい、優れた切花を市場に出しております。 (4) 鈴木譲 氏の園芸場。鈴木さんは、農業大学の講師をされている方で、実際的の研究を深らしむるためにここに立派な園芸場を経営しておられます。 ※鈴木譲氏は銀座、スズキフロリスト、鈴木昭社長の父親 https://ainomono.blogspot.com/2022/11/200380100.html 東京ですらも零下10℃という極寒の真中に、玉川温室村には、かくも美しき色どりの世界が見られる 1 荒木石次郎氏のスウヰートピース温室の内部。前にも述べた通り、冬咲スウヰートピースの切花栽培では荒木氏は代表的な人であります。いずれもスウヰートピースは温室内の床にぢかに定植してあり、上へ上へと花をつけております。 2 温室村の中央にある犬塚氏のカーネーション温室です。犬塚さんは、米国オレゴンに十八年も居られた方で、この温室の材料も全部米国からお持ちになられたものだそうです。カーネーションの花立ちがいかに見事であるかを御覧ください。 3 二項園(※烏丸氏)温室中のシクラメン栽培室の内部 玉川温室村は、切花ばかりかというと、こうした鉢物も見事なものを作っておられます。 4 同じく二項園のバラ栽培室の内部、何

昭和6年の記念写真 大日本カーネーション協会創立総会

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『実際園芸』 第11巻第8号 昭和6(1931)年12月号から ※大日本カーネーション協会の正式な発足が昭和7年ということなので、その前に開かれた総会の際の写真だと思われる。 ※日本のカーネーション生産の沿革 https://ainomono.blogspot.com/2022/11/11.html ◉大日本カーネーション協会の設立 1931(昭和6)年1月、土倉龍次郎の呼びかけにより玉川温室村生産者などが集まり相談した結果、 1932(昭和7)年5月、大日本カーネーション協会が設立された。会長には土倉龍次郎、副会長に犬塚卓一が就任した。 (『カーネーション生産の歴史』(100年史)p8) 著名な生産者の姿が収められている貴重な集合写真。 前列右から石井勇義(『実際園芸』主幹)、岡見義男(ランの大家、新宿御苑)、福羽発三(ふくば・のぶぞう果樹の専門、新宿御苑)、松崎直枝(小石川植物園技師)、古市未雄東京農業大学教授、長田(※おさだ)傳(バラ、カーネ―ションの専門家、生産者)、石原助熊(西ヶ原の農林省農事試験場技師、静岡県興津の園芸試験場の主任技師で西園寺公望の「坐漁荘」の土地選定に関わった)、井田孝(※井田ナーセリー主)、池田成功(※日本園芸会社主)、鈴木譲(※温室村、東京農大講師、スズフロ社長鈴木昭氏の父)、伴田四郎(※高級園芸市場組合理事長)、犬塚卓一(温室村)、阿部忠一、土倉龍次郎(※日本のカーネーションの父)、川泉弘治、後列右より荒木石次郎、湯浅四郎、藤井権平、七條(※光明子爵)の各氏 第14巻第5号 昭和8(1933)年4月号 大日本カーネーション協会展覧会(同協会の最初期の展覧会)における集合写真 左から土倉龍次郎会長、幹事長、池田成功氏、犬塚卓一氏、国分清三郎氏、藤井権平氏、吉田鐵次郎氏(フラワーデザイナー、みどりやフローリスト)、川泉弘治氏、加藤光治(三越園芸部)氏 ※加藤光治氏(最前列左)の頭髪がきれいになでつけられていてたいへんにダンディであったことがわかる。犬塚氏の身長が低いことが意外な印象。

東京における「ムロ」でふかすという技術の原型は大田区池上の徳川家のムロにあったというはなし

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  大田区池上、徳川家のムロがあり、花木切花などをムロで「ふかす」方法の原型がここにあった。ムロはやがて温室に変わっていく。 https://karuchibe.jp/read/11551/ ※鈴木吉五郎/すずき・きちごろう 1898~1988 (『横浜』 神奈川新聞社 2022年春号 第76号「山野草の“神様” 鈴木吉五郎」斎藤多喜夫 に経歴が詳しく記されている。昭和63年1月24日、脳溢血のため亡くなられたという。享年89歳だった。雑誌「らん」12号、昭和63年4月発行に追悼記事あり) *************** 【所長】それから桃などを室(※ムロ)で咲かせるのは、横山さんたちのような小売商の方は、いつごろからお始めになられたんですか。 【横山】そうですね、明治の終り頃か大正の初め、いやもっと前だな。大隈さんが横浜に演説にこられた当時の花の会に、すでに桃なんか活けてあったような記憶がありましたがね。だからもっと前でしょう。明治の末期頃だったと思いますがね。 【中村隆吉】私も兵隊前からやっていましたからね。 【所長】室で麦糖を使って温度をとるというあの方法は、どこから入ったものですかね。 【稲波】あれは、室でふかすという何かあったんでしょうね。農家の方に聞いてみなけりゃわかりませんけど。 【中村】私はね、こういうふうに聞いていますよ。昔ね、 池上に徳川の御用室(土室)があった そうですね。それで 池上が一番古い んだというふうに聞いていますがね。 その時分、私が見習いに行ったところの主人が永久保さんという人でね、その人の話ですと、室ってのは 徳川の御用室が最初だったらしい ですね。そこで行われていた方法ってのはね、 横穴 のおくに麦糖と米糖、それに大根の乾燥葉を混ぜて水で練ったものを置いて発酵させ、熱を出させるって方法だったらしいんですね。 【横山】あれは花屋専門でなしに、何か他からああいう技術を得たものでしょうかね。あの室で花を咲かせるっていうよなことは。 【小島】一番最初は馬糞かな。馬糞は牛糞を入れると非常に高温を出すってんでね。それから始まったらしいんです。それであれじゃ臭くてしようがないんでね、麦糖を使うようになったらしいんです。それで最初は米糖を使ったらしいんですがね。米糖では一度に熱が出てしまっていけないってんで麦糖になったらしんですよ。でも誰が始

育種に7年×4回でざっと28年、広瀬巨海氏によるネリネ(ダイヤモンドリリー)についての解説

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『原色花卉類図譜』石井勇義 1935 『実際園芸』第25巻第10号 1939(昭和14)年10月号 石井勇義氏による「編集後記」    ※昭和14年秋の様子がわかる   第二次欧州戦乱の勃発 は我園芸界にどうひびくか、とは一応誰れしも考えるところであるが、第一は ヨーロッパ向けの百合根の輸出 である。百合は大体ヨーロッパ四割、アメリカ六割というところであろうが、その英国を中心とするヨーロッバ向けがとまる事は必定であり、すでに英国では輸入禁止をした為めに、船に積んだもの・までが、荷下しの運命にあると聞く。その次は英国を中心に、五、六百万円の輸出を見ている 温州蜜柑の缶詰 にどうひびくかが問題であるが、何んでも克服して乗りきる我国運に対しては必ず打開の途が開かれるので、案ずる事はないと考える。 ◇  九月六日は高崎市の愛蘭家、 秋山健吉 氏の招きを受けて、同氏栽培のデンドロビュームやシンビジュームを拝見に伺った、同氏は洋蘭界の新進として知名の方であり、趣味から入って営利経営にまで進んだ方であるが、その卓越せる技術と蒐集とは有名であり、本誌上にもシンビジュームの栽培にっいて述べられたが、今回はデンドロピュームの栽培及び品種について御経験を発表下さったが、氏独自の観察と経験に基く培養談はかつてない記事と考える。  高崎よりバスにて渋川に出で、伊香保温泉にゆく、私もかつて滞在した事のある塚越別荘に案内を受けた。この夏は伊香保も非常に混雑したというが、モウ空室も出来ていたので、ユックリ休み、榛名の湖畔に遊ぶ。湖畔の草原一般は「まつむしそう」で碧色に見え、「うめばちさう」なども盛りであった。一行は秋山氏を中心に、大場(※守一)氏、小島氏の四人であった。三時過ぐる頃、私は一行と渋川にてお別れして、一人四万温泉にゆき、ここで数日、携えて来た校正などの仕事を片づけて帰ることにした。四万も真夏のような雑沓はなく、谷川のせせらぎも何となく秋のひびきがつよく、濶葉樹(※広葉樹)の森にも迎秋の用意が出来ているかに見えて身に爽快を覚え、面倒な校正など仕事も一段とはかがいった。  ◇   十月号は特に何々特集と銘は打たないが、中秋の園芸シーズンに相応(ふさわ)しい内容のものを集めた、秋山さんのデンドロビュームを始め、吉田欽二郎(※東京ナーセリー)氏のアイリスの栽培、広瀬巨海氏のネリネなど面白いもの