「高山植物」の濫觴(らんしょう)時代の話 前田曙山 「山がけがれる」と多くの人が信じていたころに高山植物を求めた人たちがいた


 『実際園芸』第22巻4号 昭和12年4月号

※ヨソモノが地元で大切にしてきた霊山に踏み込むことを地元の人たちは嫌い、また山の神による祟りを恐れた。(修験者や山人以外の人間が容易に山登りをするような文化がない)

ところが、いったん、こうしたヨソモノ、旅行者を受け入れるようになると、自ら地元の植物を根こそぎ取って金に換えるものが跡を絶たなくなった、と記している。


高山植物栽培の濫觴時代

前田曙山


高山植物の濫觴


 高山植物と云う名称が、チラリホラリ好事者の口に上りはじめたのは、明治三十年乃至三十七八年の間である。但しそれ以前、古く幕政の頃から山地性植物を、単に山草と称えて、本草学的に扱いはしたが、特に高山植物なる別格的の名詞はなかった。しかも当年の山草は、たとえ栽培はしても、薬用が本来の目的で、眺矚(ちょうしょく)として紫微天壇(しびてんだん)の雰囲気を座間に彷彿せしめるなどは思いも及ばぬ事であった。稀に庭の下草や、盆栽のあしらいに応用する人が無いでもなかったが、精(せい)ぎり白根葵や草芍薬(やましゃくやく)位で、草本帯の植物を用いる事はなく、寧ろ山気磅礴(ほうはく)たる天擅の霊花の存在さえ知らなかったので有る。

 高山の巓(いただき)に、一種特別の趣致に富む寸憐(すんれん)の植物があり、それを人寰(じんかん)に於て栽培し得ると云う事を知ったのは、英独あたりの高山植物書から知識を得たので、その始め我邦で高山植物の栽培を試みたのは、松平康民氏、城数馬氏等の山草会(さんそうかい)の人々で、その中(うち)現存するのは、木下友三郎翁一人のみとなった。古い洋画家の五百城(いおき)文哉氏は絵筆から栽培に親しむようになったのだが、日光に於ける山荘咬菜窩(こうさいか)に於ける、此の人の設計したロック・ガーデンは、小なりと雖も、日本に於ける最初の高山園として、特筆すべきで有る。


山草の神経衰弱


 今でこそ、百貨店(デパート)に高山植物を陳列し、山ッ掘物すら発売しているようになったが、その当時高山植物を得るには、自から嶮岨(けんそ)を攀(よ)じ、雲表に抽(ぬき)んでて、手づから採集して来なければならなかった。しかもその山たるや、稀に杣山賊(そまやまがら)の足跡を拾い得ても、殆んど道らしきものなく、辿るは雨水の奔駛(ほんし)した急勾配の地溝、米を負い鍋を携えて、露宿(ろじゅく)の覚悟で、喘ぎ喘ぎ登攀する外はなかった。例えば山地の人に、採集方(さいしゅうがた)を委囑したとも、彼等は高山植物に対する認識を持たぬから、写生図でも描いて、捜し索めなければ我等の手に入れる事は出来ない。然し恁(こう)して得た植物に対する欽仰(きんこう)と執着とは、今の同好者の翫味し得られぬ底の有難味が有った。

 然し千辛万苦の結果、前栽や盆栽壇に置いた後の帰結や如何に、忽ち愁に酔う美人の楚囚の苦しみを示し、言い合わせたように衰耗枯消してしまう。我等は之を呼んで、高山植物の懐郷病(ホームシック)と名づけた。正しく山草神経衰弱症に罹ったので有る。



コロンブスの鶏卵


 今から思えば、何等の問題にもならぬ山草の培滋(滋培=栽培)、一考にだも値えせぬ事を、栽培家の思い過しから、当時は強て困難に考えて、独相撲(ひとりずもう)を取りて、転んだり起きたりしていた形が有る。

 その第一の主張とするところは、下界に接致した山草を無理やり自生の環境に置こうと云うのだ。それは外国の山草栽培書を露出(むきだ)しに直訳すると、蔓越橘(つるこけもも)や姫石楠(ひめしゃくなげ)のような、沮洳地(そじょち)の水苔を剔(えぐ)って成長する種類は、大盥(だらい)一杯に木苔を詰め、山型に盛上らしたところへ植込み、そうして盥の一方から、絶えず清冷な水を注入し、他方底部近くに設けし排泄栓からは、その水が排泄され得べき設計になっていたり、或いは山地には霧が襲来するからとあって、日に幾回となく、自動噴霧器で霧を吹きかける。打ち返しの熱風を防ぐ為に、後の障蔽物からは、一間余も離隔して置く。鉢植物ならば、少なくとも地上三尺以上の高さに壇を造って、それへ配列せねば、盛暑大地の熱雰(ねつふん)を防がれぬと言った工合に、苦辛惨澹したところで、山霊徜徉(しょうよう)の碧落と、紅澹熱閙(こうじんねっとう)の都門(※都会)との相違を、奈何(いかん)ともする事は出来ず、見るみる野垂死をさして了ったので有る。畢竟山草を高山自生の状態に置くというところに、出来ない相談があり、認識不足の過誤が有ったのだ。

 野生の動物を檻養すべく、原産地の環境を保存するというので、北極熊には白ペンキで混凝土(コンクリート)の岩を塗り潰したり、ライオンには人造の熱帯樹林を設けたりしたところで、檻は終に檻で、自由の天地に咆哮されぬところに悩みがあるのと同じである。

 一時猛然と勁興し来った高山植物熱は困難という帰結から、次第に冷却し去ったが、その沈黙の時代が、軈て(やがて)研究の雌伏期で、此間に栽培家の百折不撓的苦闘が続けられ、始めて明朗な陽光が、燦然として栽培技術上に耀くにいたり、さしも培養困難とされた高山植物も、昭和の現代では東京附近の海岸でも、市中の家根の上でも、遺憾なく生育し得るのみならず、自由自在に挿芽を行ない、或いは人工媒接によって、種々の変品を輩出し得る事、なお一般園芸植物と異なる無きに到り、百貨店(デパート)に妖姿稚態を曝して悔とせざるに及んだので有る。

 鶏卵を机上の立てる百度試みて百度失敗する。然しその一端をトンと漬せば、容易く立つ、それはコロンブスが亜米利加大陸を発見した時、無責任の漫評家に酬いた比喩である。亜米利加大陸は元々存在するものだから、誰でもそこへ向ってコンパスを正せば、容易に到逹するに極っているが、亜米利加大陸が、水天彷彿たる万里の洋上に横たわっている事に想到した者は一人も無いのだ。鶏卵の一端を潰せば、誰にでも立てる事が出来るが、潰すと云う点に想到し得ないで無いか。高山植物を人寰(じんかん)の雰囲気に同化せしめれば、秦々(しんしん)として茂生するが、余りに簡単容易なる点へ心附ずして、偏え(ひとえ)に自生地の状態に獅噛み(しがみ)附こうとして、好んで失敗しているのだ。


当年の採集登攀


 日本全土は殆んど山で成り立っているが、我邦俗(※風俗、国風)は反って山を知らず、寧ろ恐怖的畏敬観念を懐くのが通有性になっていた。御山を涜すと山が荒れて、五穀が取れぬ、濫りに山に登ると天狗に引裂かれるなどと、迷信的俚俗に囚われるので、登山者は山神礼拝の講中連に限り、山麓の村民達でさえ、山は下から仰ぎ看るもので、登るものでは無いと信じて居た。従って他方人などが、採集胴籃の類を担ぎ、牛肉の缶詰や、バタ臭い食料品を携帯して登山する事は、山を涜すものとして、地元では蛇蝎の如くに嫌っていた

 かつて明治三十九年、白馬登攀を試みた事がある。一行六人に、人夫や学生を合せてニ十三人、可なり多人数の同行だった。

 人夫は糸魚川街道の四ッ屋在細野で雇い学生三人は同所で偶然同伴したものだった。

 その年は初夏から天候悪く、陰晴定まらずして、雨のみ多く、晴天を予期して出立する事が出来ぬので、儘(まま)よ行き当りバッタリ、東京出発の時さへ降らねばよいというので、八月始めに上野から首途(かどで)についた。

 大町で一泊し、四ッ屋で一泊し、山麓細野村の人夫を催うして、登山の途に就いた日は、果たして濃雨蕭條、乾坤全く暗雲に閉ざされ、東西をさえ分たぬので、四顧の山容などは視界から遮蔽されて、昼ながら殆んど暗中模索だった。此悪天候を冒して登臨せんとするは、無謀極まるものだと、当然惹起されるべき異論が、果して一行中から起ったが、人夫達は、白馬尻の大巌窟を、今年発見して置いたから、そこへ辿り附けば、宿泊は安全、明日は雨が上るというので、一同大いに心を強くした。

 南北両股(ふたまた)川の合流点は、業に水勢奔盪(ほんとう)して、石と石とは電駛して流れ。巌に当って怒忿雷号しつつ有ったが、大石と巨巌とを選んで、丸太の仮橋を横たえ、辛うじて対岸に到達する事が出来た。

 雨に歎(なげ)く信濃瞿麥(しなのなでしこ)、露に酔う曙草(あけぼのそう)に送られて、漸く日蔭淵の急湍(きゅうたん)に及ぶ頃、雨は歇(や)んだが風は蓬勃(ほうぼつ)として横さまに吹き出でた。葉背(はうら)を風に翻えして白き戸穩升麻(とがくししょうま)の郡落を山披に発見し、中山澤に到って、縷(る)の如き樵夫の通い路は氓滅(ぼうめつ)して、大唐扶(おおいたどり)の竹より太きもの、水芭蕉の人丈を没するのが、行手を塞いで狼藉たるに加えて、榛莽(しんもう)網の如くに封じるので、人夫は鎌を揮って、一歩々々に芟截(せんさい)しつつ進む外はない。

 この山を鎮護する山神祠(ほこら)こそなけれ、山塞(さんさい)が怒って途を拒むのではないかと、忽ち山の神秘な伝説を憶い泛(うか)べる程物凄かった。

 恁(こう)して辛うじて白馬尻に到着し得て、大雷雨に脅かされ、山津浪に襲われ、凍死状態に瀕した二三者を出した程の惨澹たる光景を描き出した。

 そうして数日後、明科駅(あかしなえき)に向うべく帰路に就いた時に、道路目を欹(そば)だてて、一行をみつめている。我等は其何(そのなん)の故たるやを知らなかったが偶ま偶ま(たまたま)池田の町へ入って、煙草を買うべく路傍の店鋪に立寄った時に、其処(そこ)の老主婦から怒罵(どば)を蒙って、始めて覚り得た。彼等土着人(どちゃくじん)は、天候の不良なるは、洋服を著(き)た唐人擬ひの人間が、屡次荒山へ入って、山霊を冒涜するから。連日雨と陰冷とで、今年の収穫を無にするのだというので有った。今二三日遅れ帰路についたら、鋤鍬棍棒の邀撃(ようげき)を受けたのは、必然だったのだ。


山案内拒絶の村会決議


 此年の天候は引続いて悪く、盛夏日を見る事稀に、冷気面を掠めて、陰欝骨を徹する為、田園の収納は皆無だった。これは古来立ち入り禁制の不文律にあった霊山へ、東京人が濫りに闖入(ちんにゅう)する為、山神怒って譴(けん)を下す嵐を下されたに違いない、然し山は官林だから、村民が入山禁止を命ずる事は出来ぬが、山案内や担荷夫の募りに応じさえせねば、東京人は登山する事は出来ぬのだから、一切村方から人夫の募りに応じない事にし、違反者には五円の過怠金を徴収する事を村会の決議を以て、満場一致で可決した。そうして現に山に入っている者は、残らず喚び戻す事になったので、当時山嶺の小舎に籠もって、研究に他念なかった武田久吉君(今の理学博士)などは、人夫の奪還に値(あた)って、一万尺の雲表に俊寛僧都の如く取残され、言外の疾苦を享けられたという事だった。

 当時我等一行中の某が、更に二百十日の厄日(やくじつ)を期して、反抗的に登山せんとして、細野村へ行くと、村会議決の為に、山案内の人夫は、涙を呑んで応じない。去って駐在所に警官を尋ねて、説得方を依頼したところ、警官の言うには、 「御尤もではありますが、本官が村民に反対して、山案内を強要すると、本官が此の村に居られなくなりますから。此の先半里の森へ行けば、此決議に関係ない土地ですから、其処で荷担ぎを雇われるがいい」という答えを得て、唖然として口が塞がらなかったという。

 その蒙冥(もうめい)な土地が今如何、一朝(いっちょう)目が覚めると、覚め過ぎて、貴き霊山を囮鳥(おとり)にして、登山熱患者を釣る者すら出て来て、植物採集禁止の金札下から、東京へ向って、山神愛惜の霊卉(れいき)が輸送される。飽くまで気のいい大山津見神(おおやまつみのかみ)は、これで譴(けん)を下されぬのかと、其の寛容に驚かされる。

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