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農村における戦時物資の生産  昭和14(1939)年、日華事変下で、麻が無駄なく利用され、農家の経営を助けていた

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『実際園芸』第25巻11号 1939(昭和14)年11月号 ※戦時下では、不急作物が選定され、生産の制限と食糧増産のための転換が求められた。 しかし、1943年頃から、軍需民需で必要不可欠な物資が不足するようになったために、飼料やエタノール生産のためのトウモロコシ、紙幣をつくるための楮、三叉、繊維を採るための麻、苧麻、桑、兵隊に送るためのタバコ、虫除けに使う除虫菊、医療に使うハッカなど一部のものは、再度作付を認め、むしろ生産が奨励されるような事態になっていった。 以下の話は、まだ日華事変の時代の話である。 麻屑は、古くは麻紙の原料として使われたり、冬に使う衣類や夜具に保温材として用いられたりしてきたが、この記事にある、軍需用として、どのように用いられたかは不明。 当時の時代背景が不明だが、文脈からすると、記事のような事例はたまたま好景気になっているだけ。農村の疲弊を助けて農家経営が成り立つようにしなければ、食糧が危うくなるだけでなく、兵隊に行く農家の子弟もいなくなる、と警告しているように読める。 一寸覗いた事変下の農家収入の一例 栃木県の○○村では麻作りと稲作をやって生計を立てているが、その収入を聞いて見ると次のような喜ぶべきことが伺われた。 麻は稲の植付前に作るが、事変に依る値上りは非常なもので、一反歩の収入は二百円確実という。肥料代が反当り十五円、種子代が八円内外という支出に対して(労力は自家労力で計算しない)二百円の収入である。ところが 麻を製精する場合に出る屑 が最近、 軍で多量使用 するために高値で買上げられるし、 中の心の部分 (繊維の取れない部分)は冬になると一部の人になくてはならない 懐炉灰製造用として買われて行く のである。屑の売上は肥料代を生み、心は種代を稼いでなお余りあるということであるから、二百円は丸儲けというのである。 麻が済んで水田には稲が稔っている。此の作柄では一反六俵は間違いないという。現在の米相場から概算すると一俵十五円内外となるから、一反百円に近い収入である。野菜は自家で出来るし余れば売る。こんなことを考えると本年秋の農家の収入は相当に多く、常に恵まれない農村も久し振りで我等の天下を祝うことが出来るというもの…。 然して 農民は国家の基礎 であり、今事変に沢山の干城(※兵士)を送っている 農民が少くなれば、兵隊が弱くなる といわれ

戦時が始まったら、わが国の園芸がどうなるのか、石井勇義は、第一次大戦の経過を分析し、園芸家に将来への備え、ビジョンを持たせ意識を高めようとしていた

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世界情勢が緊迫の度合いを高め、1939年9月、欧州でついに戦端が開かれた。日本の園芸界はどうあるべきか。いまだ、自分たちの国土が戦火にまみれるとは考えていない時期の論文。  石井勇義は、第一次大戦が勃発した当時、辻村農園に入ったばかり(大正2年4月~7年10月)で、過労のうえに腸チフスを患い療養していた。忘れられない経験。 https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_22.html 『実際園芸』第25巻11号 昭和14(1939)年11月号 ********************* 欧州戦乱と園芸界 主幹 石井勇義 ◇  戦時に於ては園芸は凡そ不必要の如くに考えられ勝ちであるが園芸と言っても蔬菜は重要なる食糧であり、蔬菜園芸の進歩せる国は食糧生産部門に窮乏を来さないとも言い得るが、私は今茲に花卉園芸を中心に卑見を述べたいと思う。  前回の欧州動乱の勃発したのは大正三年の八月であり、私が始めて園芸の実務に従事して間もない頃であったが、当時を回顧するに、我国の花卉の種苗は未だ輸入時代であり、私の関係していた辻村農園では主にフランス、ドイツ等より種苗を輸入して居り球根類は 内地生産が皆無 であった為めに、オランダより毎年相当量輸入していた。 開戦の当初はフランス等欧州からの種子も不自由なく到着したのが、順次に到着も遅延する様になり品不足を来して、結局米国品で間に合わしたように記憶している 。困ったのは球根類で、これも当初は入荷があったが、次期あたりからは 殆んど杜絶し、入荷しても遅着するところから腐敗する物が多くなり、非常なる損失を蒙った 事を記憶している。当時チューリップは食糧として交戦国に供給されたと聞いていた。 しかしその反動が内地生産の動機をつくり、ヒヤシンスの如きは。在来種を僅かに栽培していたいわゆる植木屋などの手持品が極めて高価に取引されたるを覚えている が、当時は輸入品に依存していた為めに、栽培法が皆目解らず、当時は球根類が非常なる不足を来たしたが、 これが一つの機運をつくり、オランダでなければ出来ないと思われていた球根が内地で試作されるようになり、現在では反対に輸出に迄生産が増大した事は慶賀すべき事であった。 ◇   前回の戦乱で学ぶべき事は、予想外に園芸品種が保護されていた事 で、 英国等に於ては戦乱

『実際園芸』は昭和16年11月、日米開戦直前に突然、休刊に追い込まれた。吾が子を葬る親の思いを吐露する石井勇義氏のことば

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  『実際園芸』最終号 昭和16(1941)年12月号 第27巻12号 昭和28(1953)年7月、最晩年の石井勇義氏 このあとまもなく急逝された(7月29日) 享年60歳。没後一周忌を記念して関係者が『農耕と園芸』誌に寄稿している。 https://karuchibe.jp/read/15301/ 『実際園芸』誌がうまれた千葉の「三上館」についても注目した 『実際園芸』第2巻4号 (大正8年頃の写真 『思い出の七十年』原田三夫 誠文堂新光社 1966) ******************** 吾子をいたむ 主幹  石井勇義   わが子『実際園芸』が大正十五年十月に創刊されてから去る十月号で満十五ヶ年を経過したが、この度突如として休刊の止むなきに至り、一時でも我が園芸界から消えることになった。それについて私は先ず、その理由をご協力の諸先生、並びに読者各位に対して真実率直に述べる責務を感ずるものである。最近、警視庁当局に於て、東京市内各社から発行されている雑誌の数を減ぜよとの命が下り、本誌の発行所たる誠文堂新光社に於いては三誌を減ずるの指令があり、同社八雑誌の内『商店界』 『広告界』『実際園芸』の三誌を廃刊するの議が社内に起ったのであったが、後に『実際園芸』は先年農園芸雑誌の整理統合の際にも、代表園芸雑誌として残ったものであるし、廃刊には及ぶまいとのことであったが、一方に『航空少年』という新雑誌が生まれることになり、その代償として十一月に入り突如として休刊しなければならなくなった。これは当局に於て『実際園芸』はいらぬからやめよというのではない。  この話が一部園芸界の方々の間に伝わるや、存続の声がしきりに高まり牧野博士はじめ、農林省の園芸係官たる熊沢農林技師は、吾国園芸界の為にと、百方奔走され、発行所に小川社長を、また警視庁に係官を訪ねられて、小誌の園芸界に必須なること、十五ヶ年間の足跡や、また将来本誌に依存してなさるべき刻下の園芸対策等について熱烈なる御盡力を頂いたにも拘らず、発行所の方針は翻し得ず、遂に十二月号を以て休刊するの止むなきに至った事は、不肖微力の致すところで何共申訳ない次第である。殊に新宿御苑の福羽、岡見両御用掛、松崎直枝氏、小林宣雄氏をはじめ各方面に存続の声は熾烈なるものがあったが、夫れにも背いて中絶することになったのである。しかも経営上では十分ペ

大正15年10月、皇太子(当時は大正天皇の摂政宮をつとめられていた)行啓まで1週間、職員たちはいかに準備し、いかにお迎えしたか。

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◎天皇(このときはまだ皇太子であるが、行啓の2ヶ月後に即位)をお迎えするということが、どれほどの名誉であり、どのような気持ちで準備がなされ、どのように視察が行なわれたかがよくわかる記事 『実際園芸』第2巻第2号 (昭和2年2月号)1927年 ************************ 堀正太郎(インターネット辞典コトバンク) 堀正太郎 (1865-1945) 明治-昭和時代前期の植物病理学者 慶応元年10月15日生まれ。明治26年農商務省農事試験場にはいり、32年初代病理部長。ナシの赤星病やイネのいもち病などの病害防除で業績をのこした。のち千葉高等園芸(現千葉大)講師。昭和20年死去。81歳。出雲(いずも)(島根県)出身。帝国大学卒。著作に「主要農作物病害論」など。行啓をお迎えしたこのとき、61歳。 皇太子殿下千葉高等園芸学校行啓記 堀 正太郎 謹誌  皇太子殿下には、大正十五年十月廿八日、千葉県松戸町の、陸軍工兵学校御見学の後、千葉県立高等園芸学校へ行啓、親しく園芸教育の実況と、園芸の一班とを、御見学遊ばされた。行啓を仰いだ学校の光栄は、いうまでもなく、我邦の園芸界にとりても、亦無上の光栄であって、我等園芸教育の衝に当るものは、洵に感泣措く能わざるところである。不肖は、当日臨時標本陳列場に充てられた、講堂階上において、殿下に咫尺して一部陳列品の御説明を申上げげ、又種々御下問に奉答した栄誉を担うたので、一層当時の印象が深いから、此記を草して後日の記念に遺さんと欲するのである。 奉迎の準備  殿下は、十月二十八日午後一時二十五分に、学校へ御着。赤星校長の御先導にて、農場校庭を御巡覧の上、講堂にて園芸に関する諸種の標本を、台覧に供するとの、大体の順序が、行啓一週間許り前に、漸く宮内省との打合せが済んだ。全校が挙って歓喜に充たされ、悦気眉間にあふれ、一同は直ちに奉迎の準備に取りかかった。  農場では、折から甘藷及落花生の収穫期に際して居ったので、三年生をして、収納の実習を台覧に供することになった。農場までの御往復は、蔬菜園花卉園等は自然に、御台覧遊ばさるることになった。農場から講堂までは、牡丹園、校庭、毛氈花壇を御通り遊ばされるので、毛氈花壇は小菊其他数々の草花を植替え、或は補植されたから見変って美しくなった、屋外の準備は雨天では出来難いので、全力を注いで行われたが

戦後の前衛いけばなを生み出した「素材」の革命的変化 アンスリウム・ストレリチア、鶏頭・ひまわり、つるもの、枯れ木・晒れ木

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『勅使河原蒼風作品集』 第1集 ホームライフ社 1952 以下も同じ     以下、『日本いけばな文化史』第4巻 工藤昌伸 1994 から 三つの素材革命  いけばなに使用する素材は、一般に「花材」という名でのみ語られてきたが、戦後の前衛いけばな運動が展開されて以来、造形的ないけばなに使用する材料については、花材という名称を捨て、他の造形ジャンルが使用している「素材」という名に置き換えて使われはじめた。  いけばなが対象にする素材(花材)が大きく変化するのは、いけばなの歴史では次に挙げる三つの時期である。まず江戸中期の元禄以降、享保から宝暦・明和・天明にかけて(十七世紀後半から十八世紀後半)江戸の園芸が盛んとなり、花材の種類が豊富になってきた時点が、いけばなの素材革命の第一期であると考えられる。この園芸の興隆は、新しい品種の作出や、斑入りの植物の生産、長崎を通じて輸入された西欧の草花を含めてのことであり、江戸中期までの立花(りっか)、抛入花(なげいればな)に使用される花材に比べて、質、量ともに大きく変化した。  江戸中期の花材の革命で重要な点は、園芸の興隆にともなってそれまで山採りによって提供されていた花材が、再生産される園芸花材として非常に多く供給されるようになったことである。生花(せいか)に見るような伝統的ないけばなのライン・アレンジメント、すなわち線の芸術としての特性は、都市近郊の生産者によって再生産可能な枝ものが大量に提供されるようになって生み出された。立花全盛の時代から、生花のように比較的形の小さな枝ものが好まれるようになり、文化文政(一八〇四~二九)時代には非常に多くの人たちの支持を受けて生花の全盛期を迎えるようになる。それは、花材の生産と供給の状況が変わってきたからこそ、生花が成立したのではないかという見方さえできるほどのものである。  第二期は、明治の文明開化によって洋花が流入してきたことによって始まる。洋花とともに西洋の花卉装飾法が紹介され、それまでのいけばなにはなかった色彩の問題が重視されるようになる。例を挙げれば、明治末期から大正にかけて小原流における色彩本位の盛花のようなものが成立する。またこうした洋花を花材として扱うようになって、大正末期から昭和初年にかけて自由花の運動が盛んになる。それは、格のある伝統的な生花の束縛を離れて自由な表現をしよ

60年前のシクラメン プラ鉢がない時代の荷造りと出荷の工夫 『シクラメンと鉢物園芸』樗木忠夫1961(昭和36)年

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樗木忠夫『シクラメンと鉢物園芸』誠文堂新光社 1961(昭和36)年から 樗木忠夫(おおてき・ただお) 東京農大農学部昭和24年卒、研究室にて育種学を専攻後、現在(当時)、千葉県農林部専門技術員(花き) 昭和36(1961)年初版、昭和41(1966)年に増訂版発行 ※三井の戸越農園で19年間活躍され、最後は園長まで務められていた実力者で。千葉県から招聘され農林部の技術員となられた ◎ 出荷と荷作り   栽培地域で出荷時期が異なる 栽培地域の環境条件や需要量などと関連して出荷時期は、栽培地域によって多少異なるが、一般に年末から一二月にかけて狙うのが営利的にはもっともよい。東京近郊では、近県からの輸送園芸の発達によりそれらのものと対抗していくためには、ほとんど年内か一月上旬までの出荷量いかんが経営上にも大きくひびくため、もっぱら目標を、そこにおいて出荷をするようにしている。  東京近郊の地方都市では、その年の出荷状態をよく検討しながら上手に出荷を回転させることが大切で、無理をして早期に出荷するよりも、一~二月を狙って出荷するとか、三~四月の出荷量のへった時期に集中して出荷した方が、経営的によい結果をもたらすこともある。  寒い地方での出荷は、三~四月の春出しが主体となり、ほとんど無暖房で栽培できる暖地では二月が出荷最盛期となる。  要するに需要量に応じて適切な出荷時期がきめられるわけで、それにかなうように栽培管理の調節を入念におこない、出荷体制を上手に作るようにすることがなにより大切である。  ○ 出荷に適する仕上げ鉢  東京近郊では非常に高級なものが需要の対象ともなるので、仕上げ鉢の大きさは二〇~二三cm(六~八寸)鉢程度の大鉢ものがかなり多く出荷され取り引きされている。しかし大部分は一四~一六cm(四・五~五寸)鉢のものが需要量がもっとも多い。高級品になると鉢形もやや尻細の腰高素焼き鉢を用いるとか、クリスマスや年末年始の贈答品としての需要量がますますふえてきたため、装飾的に効果のあるきれいな塗り鉢に植えかえて出荷するのもよい方法である。  地方都市からの輸送園芸や中小都市を対象とした出荷の場合には、あまり大鉢ものは消費量がきわめて少ないせいか、東京近郊のものとは逆に一三cm鉢前後の小鉢ものが主体となり、小鉢作りで立派に大きく仕上げたものを出荷するようにした方が、手

「ガク割れ」カーネーション split galyx を手直しするクリップ 【Baur carnation Clip】【staples】について

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 1907年2月2日の『Horticulture』誌に掲載された バー・カーネーション・クリップの宣伝記事 1908年12月24日の『Florist Review』誌に掲載された広告 1910年1月29日『American Florist』に掲載された広告 『Florist's Review』1913年3月6日の広告欄 Carnation Staples 『Florist's Review』1920年4月29日の広告欄 『Florist's Review』1920年4月29日の広告欄 『Florist's Review』1920年4月29日の広告欄 1921年1月10日の『Horticulture』誌の広告 carnation staple いわゆる「ガク割れ」したカーネーション 『カーネーションの研究』 土倉龍次郎、犬塚卓一共著 1936(昭和11)年  萼割の花の処理法   ※漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります  萼割のしたものは 米国ではあまり意に留められない ようである。したがって他の一般のカーネーションと区別されることがなく、ことに 冬季の萼割は気候、風土上、止むを得ないものとして、普通品と同様にして取り扱われている 。それがため、値段も普通品と同等に取引されている点は、販売者もまた消費者もよくカーネーションの習性を理解しているのであるということができる。  しかし 我が国では以前から嫌われており、たとい花萼が丈夫で長いものであっても、中等品として一段落されているのが普通の状態である 。しかし萼割したからといって、切花の耐久性においては少しも変わったところがないものであり、 かえって花弁の重ねが多いために一層大輪に見える ところから、用途によっては萼割といえども決して捨てたものでもない。それゆえ最近の米国ではかかるものを喜んで使用するものがあるように見受けられる。  萼割のカーネーションを補正するには、 バー・クリップ Baur clip またはステップル ( staple) という細い針金で製作された特殊なもの が米国等では使用されている。これは萼の外部に出ている花弁を萼の中に納めて、割れた萼と萼とを合わせ、その合わせ目の両方の萼の上からこれを押しさして止めるに用いるものであるが、これで補正すれば殆ど普通の花と区別

玉川温室村を支えた人々(6) 荒木石次郎氏、秋元農園、ほかに小杉直氏について 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から

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   『世田谷の園芸を築き上げた人々』  湯尾敬治  城南園芸柏研究会 1970 ※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。 玉川温室村のパイオニア 荒木石次郎氏 昭和8年 『農村を更生する人々』第一輯から スイトピーの 荒木石次郎氏  昭和の日本園芸史を飾る第一頁は、何といっても温室村の花卉園芸であったろう。ここに最初の足跡を止めたのが荒木石次郎氏であった。大東亜戦争の初期で八百五十坪の温室を有し、スイトピー、カーネーション、ばら、メロンなどを栽培しておられたのである。  氏は北海道の生れであり、小学校卒業後、土地の建設会社に勤務された。ここで田中銀次郎氏の知遇を得、氏の身辺に関することはすべて田中氏の配慮に基いており、親とも師とも仰ぐ恩人であった(※田中銀次郎氏は北海道で明治から昭和にかけて活躍した建設業の重要人物)。二十才の時、園芸を志し東京府立園芸学校に入学する決心をして上京した。氏は農家の出身であり、小学校のみしか卒業しておらず、園芸学校の入学資格はもっていないのであったが、当時の山本正英校長に「何とか入学させてほしい」と懇願した。氏は英語を不得意として全然分らず、入学試験を受けるにしても自信などあろう筈もなかったが、とに角試験を受けることにした。幸い合格者の中に自分の名前も加っていたので、山本校長の理解ある処置に感謝したそうである。  入学したからには誰にも負けてはならんと苦手の英語はもとより、専門教科など人一倍勉強した。その甲斐あって昭和十一年、無事卒業(第十三期)当事沼袋にあった。中野定作氏の農園に研究生として入園された。中野氏は農業大学出身であり、ばら、カーネーション栽培を主とし、約一千坪余の温室をもっていたそうである。ここで一ヶ年間勉強し、目黒の菜花園にも僅かの期間であったが、研究のため働いていたことがあった。  その頃、荒木氏を全面的に支援されていた田中氏は「どうだ、アメリカへ行って園芸の実際を勉強して来ないか」とすすめられたのであった。併し、荒木氏は「同じ花を作るなら、アメリカへ行かなくとも、その分だけ日本にいて栽培した方が、早く実力がつく」という信念から、そのことを断り、早速、独立経営の計画を立てた。  当時、田園調布(温室村)は区画整理が済んだ許りで、田圃は多摩川を改修した残土で埋めてあったが、道路には砂利を敷いてなく雨が降ると

玉川温室村を支えた人々(5)  加藤昇之助氏、植松清農園 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から

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  『世田谷の園芸を築き上げた人々』  湯尾敬治  城南園芸柏研究会 1970 ※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。 温室鉢物栽培の 加藤昇之助氏  温室村の加藤氏は、大正十一年に園芸学校(※東京府立園芸学校)を卒業されている。造園家の吉村厳氏、元玉川仲町に貸鉢業を営んでいた篠田氏などが同級生であったそうである。  園芸学校卒業後、千葉高等園芸学校に入学、大正十四年卒業、直ちに戸越農園に実地研修のため入園された。ここでは主として温室ブドーの栽培を研究し、将来、この方面の経営を目的とされていた。昭和二年、現地に温室百坪を建て、ブドー栽培をする予定であったが、よく調査して見ると地下水が非常に高く、とてもブドーには適さないことが分り、これをあきらめ、カーネーション、メロン、トマトなど栽培することにしたのであった。  昭和八年頃、更に二百坪増設して、カーネーション二百坪、球根類(百合、チューリップ、水仙)、カランセ(洋種のエビネ蘭)などを栽培されたのであった。加薩氏のメロンは高級園芸市場でも評判よく、常に百匁三円位の高値で取引きされ、一個九円(三百匁位のもの)にもなり、一箱に十二、三個入れて肩にかついで行っても百円以上になったので、出荷のための肩の傷みも忘れる程、楽しかったと述懐されていた。トマトも百坪の温室で栽培、神田市場や、新橋の和泉屋に出荷していたのであるエビネ蘭も二十坪位の栽培面積であったが、一本二円に売れたのであるから、当時としては高級品扱いされたようであった。  氏のご子息も園芸学校の卒業生であり、千葉大学造園科を卒業後、地方の各県庁に勤務、公園の設計施行の指導をされ、現在は島根県庁に在職されているそうである。  昭和十九年頃は第二次大戦のため。石炭の入手も困難となり、召集による労力不足に加え、空襲による危険も伴い、温室の取りこわしも止むなきに至ったのであった。物資は極端に不足し、衣食住は勿論、軍需工場用資材も不足していたため、古ガラス、古鉄など、温室建築当時の二倍以上に売れた。ガラス一枚五円に売れたのであるから、予期しない収入源となったわけであったが、生活を支えて来た温室がなくなったことは、悲しい限りであったのである。古材木は燃料とし、とに角生き抜くためには、何もかも犠牲にしたわけであった。  戦後は、小じんまりとした小温室で、シクラメン、ゼラ

玉川温室村を支えた人々(4)  桜井政雄氏、宮崎農園 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から

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  『世田谷の園芸を築き上げた人々』  湯尾敬治  城南園芸柏研究会 1970 ※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。 カーネーションの 桜井政雄氏    一九二五年(大正十三年)桜井氏は、アメリカ、カルフォルニヤ州へ園芸の勉強に行かれた。日本大学経済科卒業、氏の二十五才の時であった。アメリカには叔父に当る人が花卉園芸を経営していたので、そこで約五ヶ年間、カーネーションの栽培を研究されたのであった。  当時、アメリカでは、花卉園芸が盛んであり、主として日本、伊太利、中国の移住者によって経営され、その実権もこれらの人達によって握られていた。園芸品の取引市場も生産者によって営まれており、相対取引きである。氏のおられた農園は約七百坪の温室をもっており、カーネーション専門であった。品種はビクトリヤ、エンチャントレス、スペクトラムなどであり、温室村の人達が当初、栽培していたものである。この地では人種によって栽培品目が違い、日本人は主として、カーネーション、バラを栽培し、伊太利人は、球根類、宿根草の露地栽培とこれらの促成。中国人は、菊を主とし、その他の露地切花栽培であった。雇人はメキシコ人、フィリピン人などであり、中々よく働き、日本人に負けない辛抱強さも持ち合せていたそうである。  切花の価格は日本とほぼ同じ位で、一打(二十四本)五十セント位であった。暮れには一ドル(日本円にして一円)にもなったのであるが、この相場では引合わないので、何とか新らしい市場開拓を計画、シカゴやサンフランシスコを視察、切花の消費状態、取引き価格などを調査した。その結果、カ州の相場の安いことが判明、当地の相場を引上げると同時に、他の州にも出荷することを実行した。これによって花卉園芸の将来に曙光を見出したのであった。  その当時は重油を燃料としていたが、天然ガスが豊富に湧出していたので、瓦斯会社に交渉し、暖房の燃料として使用出来るよう設備を整えたのである。それ以後、天然瓦斯を燃料として使用しているそうである。アメリカ時代の園芸については、後日、氏の手にょってくわしい手記を綴りたいと申されていたので、私の方はこれ位にしておき、氏の帰国後の模様について述べることにする。  昭和七年、現在の地に百坪の温室を建ててカーネーション栽培をはじめられた。その初期は中輪のダークレッド、エンチャントレス、スペ

玉川温室村を支えた人々(3)  犬塚卓一、伊藤東一氏 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から

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   『世田谷の園芸を築き上げた人々』  湯尾敬治  城南園芸柏研究会 1970 ※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。 日本フローリスト 犬塚卓一氏    わが国の、花卉園芸史上に不滅の業蹟を残した、犬塚卓一氏は、今は永遠の眠りの中でカーネーションの香りに包まれ、仏の世界に住み長らえておられる事であろう。  一月七日、私は温室村に、ご子息竜一氏をお訪ねして、父君、卓一氏の「園芸」についてお聞きする機会を得たのである。  犬塚氏の祖先は遠く、江戸末期、遠州太田藩の士であり、明治維新の改革により、千葉県山武郡に移り、農業を営んでいた。卓一氏はその曾孫(?)であり、小学佼卒業後、神田今川橋のたもとにあった、松屋呉服店に勤め、十七、八才の頃、既に番頭として重きをおかれていたそうである。その頃、お叔父さんに当る人が、アメリカ、オレゴン州のポートランド市で、花卉園芸を経営されていた。氏は一生、呉服屋として生きることに不満を感じ、一つアメリカに行って叔父さんと共に園芸をやって見ようと決心された。時は明治四十年、日本中が開化の夢、華やかの頃であった。僅か十代の少年で、アメリカに渡ることなど稀れであり、余程の決心と勇気が必要であった筈である。叔父さんの所へ行くんだ、という安心感はあったと思うが、非常に度胸のよい少年であったと云えよう。  卓一氏はここで二十年間、一般草花とカーネションの栽培を勉強された。アメリカでの経営は温室五百坪でカーネーションの切花をなし、その他、露地草花の苗生産を行い、小売業者に卸していた。アメリカの花卉園芸はその当初から企業として発達し、生産規模、取引量共に、日本とは比較にならぬ程、大であり、犬塚氏の農園も、アメリカ人の農園に劣らぬ内容を整えていたようである。  昭和初期に帰国し、温室村に第三番目の園芸家として、温室百二十坪を建設した。ここで一番早かったのは荒木氏であり、次が森田氏、犬塚氏は三人目であったわけである。その温室は人も知るアメリカ製のものであり、ボイラーもパイプも皆、帰国の際、持ち帰ったものであった。建築様式は連棟式で、材木は米松の赤味を用いてあり、ボイラーは、マリンボイラーと称する多管式のものであった。併しアメリカと気候や湿度が異なるため、カーネーションが軟弱に育ち、切花としての価値は低く、止むなく、サイドや、天窓の構造を変えて、

玉川温室村を支えた人々(2)  森田喜平氏、間島五郎氏 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から

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  『世田谷の園芸を築き上げた人々』  湯尾敬治  城南園芸柏研究会 1970 ※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。 八、温室村の園芸  温室村は、我が国の企業的花卉園芸の発祥地として、園芸史に永久に残し得る規模と内容を整えていた。これは同時に東京園芸の誇りであり、それにふさわしい人材と技術を包含していたのである。  ここは多摩川に沿った沖積土の肥沃な土地でもあり、その昔は田圃であった。太古はこの辺りまで海であったが長い年月の間に河川の氾濫によって次第に埋まり、やがて陸地を形成した。慶長年間、鎌倉幕府の命により、六郷用水が開さくされ、(狛江町より分流)その周辺に田圃を作り、稲作を奨励したのであった。(世田谷区史より)  こうした土地に昭和初期、三十数名の園芸家が大温室を建たのであるから、その偉容は正に花卉園芸の殿堂たる風格を備えたものであった。南は多摩川を隔てて川崎に広がり、北は田園調布から上野毛に続く丘陵によって北風を防いでいる。従って夏は涼しく、冬は暖い、台地よりは優に二度は高いのであった。  カーネーション、バラ、メロン、スイトピーなどには最適であり、ここにアメリカ帰りの新人達が目をつけ事も当然であろう。最も盛んな時代は一万五千坪の温室があり、洋花生産のメッカとして、東京市場に君臨していたのであった。  そもそも、この温室村建殻は森田喜平氏発案のもので、早川源蔵氏が相談役として、地主(※落合孝之助氏)との交渉に当り、話し合いは順調に進行した。併し森田氏は事情があって直ぐには経営にうつれず、荒木石次郎氏が第一陣として、大正十三年に温室を建設したのであった。其の後になって森田氏は烏丸氏と共同で二項園を設立、千五百坪の温室を建てて、バラ、カーネーション、メロン、洋蘭などの栽培をはじめられたのであった。  大正十四年、犬塚卓一氏がアメリカより、温室資材一切を持ち帰り、新しい方式でカーネーション栽培をはじめられた。併し、アメリカと日本では気象条件が違うので、予期した成績は挙らなかった。そこで、アメリカ式連棟温室を改造して通風を図り、「日プロ(※日本フロリストか)」のカーネーションとして定評のある切花を得るようになった、との事である。(詳細は別項参照) ※犬塚氏は日本フローリスト東京分園を名乗っていた。本園はシアトルのおじの農場。  こうして新進の園芸家が