玉川温室村を支えた人々(2) 森田喜平氏、間島五郎氏 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から
『世田谷の園芸を築き上げた人々』 湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970
※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。
八、温室村の園芸
温室村は、我が国の企業的花卉園芸の発祥地として、園芸史に永久に残し得る規模と内容を整えていた。これは同時に東京園芸の誇りであり、それにふさわしい人材と技術を包含していたのである。
ここは多摩川に沿った沖積土の肥沃な土地でもあり、その昔は田圃であった。太古はこの辺りまで海であったが長い年月の間に河川の氾濫によって次第に埋まり、やがて陸地を形成した。慶長年間、鎌倉幕府の命により、六郷用水が開さくされ、(狛江町より分流)その周辺に田圃を作り、稲作を奨励したのであった。(世田谷区史より)
こうした土地に昭和初期、三十数名の園芸家が大温室を建たのであるから、その偉容は正に花卉園芸の殿堂たる風格を備えたものであった。南は多摩川を隔てて川崎に広がり、北は田園調布から上野毛に続く丘陵によって北風を防いでいる。従って夏は涼しく、冬は暖い、台地よりは優に二度は高いのであった。
カーネーション、バラ、メロン、スイトピーなどには最適であり、ここにアメリカ帰りの新人達が目をつけ事も当然であろう。最も盛んな時代は一万五千坪の温室があり、洋花生産のメッカとして、東京市場に君臨していたのであった。
そもそも、この温室村建殻は森田喜平氏発案のもので、早川源蔵氏が相談役として、地主(※落合孝之助氏)との交渉に当り、話し合いは順調に進行した。併し森田氏は事情があって直ぐには経営にうつれず、荒木石次郎氏が第一陣として、大正十三年に温室を建設したのであった。其の後になって森田氏は烏丸氏と共同で二項園を設立、千五百坪の温室を建てて、バラ、カーネーション、メロン、洋蘭などの栽培をはじめられたのであった。
大正十四年、犬塚卓一氏がアメリカより、温室資材一切を持ち帰り、新しい方式でカーネーション栽培をはじめられた。併し、アメリカと日本では気象条件が違うので、予期した成績は挙らなかった。そこで、アメリカ式連棟温室を改造して通風を図り、「日プロ(※日本フロリストか)」のカーネーションとして定評のある切花を得るようになった、との事である。(詳細は別項参照)
※犬塚氏は日本フローリスト東京分園を名乗っていた。本園はシアトルのおじの農場。
こうして新進の園芸家が、この温室村で、模範的な経営をはじめられた事が刺激となり、宮崎、間島、桜井などの諸氏が次々と温室を建てられ、更に、国分、藤井、土田、鳴川、村上、大沢、加藤、大和田、長門、植松の諸氏が温室園芸を営まれるようになった。伊藤東一氏の経営になる、東光ナーセリーは、昭和三年頃、ここに園芸場をもたれたのであった。育種と種苗販売に独特の技術と手腕をもった氏は、各種の園芸団体にも関係し、わが国の園芸界に寄与する所が大であった。この外に島崎氏(カーネション)、秋元氏(現在貸鉢)、秋田氏(バラ)、小杉氏(カーネション)などがおられる。
当時の温室村在住の人々の中で、アメリカに留学した方は、犬塚、桜井、藤井、土田の諸氏であり、間島、加藤の両氏は戸越農園で勉強されている。国分、荒木の両氏は目黒の菜花園で研究され、森田氏は、新宿御苑と戸越農園で巾の広い園芸を研究されたのであった。
こうした、有能園芸家の築き上げた温室村の園芸も、第二次大戦の犠牲となり、一部の人を残して四散の形となった事は残念と思うのである。併し、ここで研究生として働いていた地方出身者の中には現在、その地方の園芸開発の指導者として活躍された人々が、多数おられるのであるから、その意味で温室村の園芸家は、日本の花卉園芸発展の礎を築き上げたものと云えるのである。
現在、温室村に止って孤軍奮闘されている園芸家も、地方園芸の進出によって、大きな打撃を受けているのであるが、都市園芸の中に含まれている有利性を発見し、世田谷園芸に新風を吹き込んで頂きたいと思うものである。
二項園 森田喜平氏
森田喜平氏の事蹟に関しては、今までにも幾度となく、園芸関係の雑誌や新聞に報道されているようであり、皆さんもよくその人となりをご存じであると思われる。併し私は自分なりの観点で、氏の今日まで歩んで来られた園芸の道を記録する必要があったので、目黒のお宅を訪問した次第であった。
呑川のほとりに樹木に囲まれた静かな住居があり、お庭には観音竹の鉢植が十五、六鉢ココスやしの、大株が二株、見事に繁っていた。招かれるままに玄関を入ると、彫刻家、沢田氏の手になる森田氏の木彫が飾られてあり、ケヤキの台木で作られた裸体像である、等身に近い彫像の中に氏の六十有余年、園芸の道で苦闘された風格が深く刻み込まれているのであった。 私は、はじめて氏とお会いするわけであったが、八十二才の高齢とは思われない元気さであり、目も耳も若い人と変りない位はっきりしておられ、お話の中でも聞きにくい点は少しもないのであった。私の質問に関しては、いろいろと参考になる昔の本や、写真、新聞切抜きなど出して来られ、事こまかく説明して下さった。その言葉の中には、まだまだ園芸に寄せる愛着と希望は失っておられない頼母しさを感ぜられたのである。
森田氏は明治二十二年、安行の農家に生れ資産家であったが、不幸にして家運傾き、氏は少年の頃から親戚にあずけられ、自らの道を開拓しなければならない運命を負わされていた。その頃、足立に日本農会(今の農協のようなもの)があり、そこで農業や園芸に関した技術指導を行っており、農学校としての役目も果していたようである。ここに通学して学科や実技を勉強されたのであった。
大正元年、三軒茶屋の騎兵一連隊に入営したのであったが、その頃虚弱であった氏は半年位で除隊を命ぜられたのである。その後新宿御苑に入り、日本園芸の先駆者福羽逸人博士の下で本格的な温室園芸を勉強されたのであった。当時二十一才、御苑には五島氏や岡見氏、或は市川氏などおられ、欧米の園芸知識の吸収に若い血を燃やしていたのである。ここでは主として洋蘭の研究を行い、その他バラ、高級果菜の栽培も折にふれて勉強された。
ここで二ヶ年間経過、二十三才の年、中野にあった東京府農事試験場に技手として採用された。見習期間一ヶ年、本雇いになってから月給二十五円を支給されたそうである(昭和三十四年発行の、東京府農試六十周年記念史を氏より借りて見た所、その中の森田氏寄稿の記事によると、明治四十一年に見習生として入所したように記されているから、前記のお話しは再度、入所された折のことと思われる)。
ここで約五年間、主として温室花卉、果菜類の栽培を研究され、大正七年、試験場を辞して戸越農園の主任として迎えられた。当時の園長は鳥井(※忠一)子爵であり、新宿御苑時代共に働いていた関係上、お互いの気心が分っていたので氏としても思い切り、その手腕を発揮することが出来たようである。当時、ここには石渡善吉氏や、鈴木春雄氏が働いており、森田氏と共に農園の経営に尽力されたのであった。給料は一ヶ月五十円、この外、成績の挙った年には賞与として年間二千円近くの報償金とも云うべき手当をもらったそうである。戸越農園は三井家同族の共同出資による趣味園芸であり、最初から利益をあげることは考えていなかった。単に三井一族の需要をまかない、余分のものは千疋屋や三越の売店に売る位のものであったのである。併し球根栽培や鉢物生産をやるようになってから、その経費も相当多額に上り、或程度の販売収入も必要となって来たのであった。そこで、六本木花午、飯倉、槇町、花清などの花屋に卸すことにした。それでも赤字が解消しないので、いよいよ独立採算性で、その経営をやって見ることにした。この案も森田氏の発案であり、氏としても責任上、一層の真剣さが要求されたわけである。幸いその1ヶ年の収入は増加し、黒字とはいかなかったが、赤字解消までにこぎ付けたのである。ここでの栽培品目は、メロン、温室ブドー、チューリップ、その他の鉢物であり、球根は新潟の小須戸から直接購入した。温室坪数三百坪、その経営はたとえ趣味家的であったとしても、当時の園芸界に与えた(よい意味で)影響は大であったと思う。
大正十年、戸越農園をやめ、目黒の土倉氏(目黒の大地主)と共同で菜花園を発足させた。カーネーション専門の経営であり、三百五十坪の温室の建設費、その他を含めて三万円の経費が必要であった。土倉氏が二万円支出、森田氏は一万円支出したそうである。当時、東京でカーネーションを栽培していたのは、江戸川の加藤(※東七)氏と中野の伊藤貞作氏、それと菜花園の三名に過ぎなかった。市価も一本十銭位していたのであるから、当時としては高価な切花であったと云えよう。併しこの共同経営も長く続かなかった。経営上の意見の相違から、約三ヶ年位で訣別しなければならなかった。
大正十三年、烏丸光大氏(子爵、アメリカ帰り)の知遇を得て、再び共同経営で、大型の温室園芸を計画した。田園調布の温室村が話題に上っていた時であり、森田氏も是非、この土地に温室を作りたいと思い、早川源蔵氏を仲介者として、地主落合(※孝之助、重吉兄弟)氏と交渉、氏の尽力でその話しはまとまったのであった。温室坪数七百坪、ばら専門であり、馬込の長田(※おさだ)氏のばらと共に、東京の需要を大半まかなっていたのであった。園名を二項園と命名、自他共に許す企業的温室経営は園芸界の注目の的となり、その将来に大きな期待をよせられていた。併し、華族様と苦労人とでは意見の一致を見る事がむずかしく、経営上の問題から僅か二ヶ年程で分れなければならなかった。森田氏が三百坪、烏丸氏が四百坪を所有することとし、各々が独立した経営に移ったわけである。
それ以後の森田氏は、毎年百坪の温室を増設して行き、昭和十八年頃は千五百坪の膨大な数字を示したのであった。二項園の最も盛んであった頃は、その出荷も毎日、小型トラック一台分あり、市場の仕切金も万単位の金額であったそうである。出荷先きは日本橋生花市場であり、他の市場へは出さなかった。それと云うのも、この市場設立の発起人の一人となっており、他の生花商の、花金、槇町、花七、高木町などが加っていた。その初期の社長は花金(浮貝金次郎)であり、副社長は槇町(紅葉山喜三郎)であった。常務取締役に、花七、高木町(花長)が就任したのであった。森田氏は出資はしなかったが、株主として自園の生産品全部をこの市場に出荷していたので、その出荷分の売上げ、一割を配当される権利があった。併しこれを受取らず、貯えておき市場の株を買ったのである。それが積り積って、日本橋生花市場の株、八割までが森田氏の所有する所となり、従って社長として市場運営の責任を負うたのであった。併し昭和十二年頃より国の内外に様々な事件が起り、世相は不安定であった。花の相場も下り、それが花屋の支払いにも影響して来たのである。氏の社長就任以来、この徴候が増加し、遂には市場経営も困難を来すまでにその財政が窮迫して来た。そこで止むを得ず、市場を閉鎖することとし、そこの土地を日本橋女学校に売却したのである。そこで再び上野に市場を開いたが、場所がわるく軌道に乗らないまま中止する運命となったのであった。こうして氏の市場経営は失敗におわったのであったが剛胆な氏は少しも気落ちすることなく、そめ後は専ら温室経営に力を注ぎ、カーネーション専門とし、「ばら」栽培は中止した。この頃より石炭の需給が困難となってきていたので、低温に耐える花に代えた。併し世相は悪化する一方であり、今にも戦争が勃発しそうな気配さえして来たのであった。
昭和十六年、遂に大東亜戦争が起り、世は戦時体制の中ですべてが耐乏生活を余儀なくされた、温室業者も石炭の不足や、その他の栽培資材の配給制により、その経営が困難となって来たのである。戦争の激化によって花卉栽培は殆んど不可能となり、気の早い人は温室をとりこわして、売却した。森田氏も当時、十五棟(千五百坪)をもっていたが、そのうち十三棟を政府に供出、残りの室で、供出用の豆萌し(※豆もやし)製造を委託されたのである、三百坪の温室も、屋根ガラスは全都取りはずし供出し、スレートを張の(ママ)周囲は板張りとして、豆萌しを作った。日産二千貫(※2.5トン)の生産を行うには労力も必要であり、近隣の八百屋さんが五十人位手伝ってくれていた。(日当を払う)茨木の開拓村からも(加藤完治主宰の)十五人位の応援があり、作業には支障はなかったのであるが、原料大豆の配給が間に合わず、五万円位のものを買入れたこともあったそうである。この外、野菜苗栽培、養豚、養鶏、乳牛まで飼育したというから、その気力のたくましさには驚かざるを得ない。幸い、氏の長年鍛え上げた心身は、よくこれらの困難に堪えてこられたのであった。
こうして、戦時中の危機は切り抜けたのであったが、只一つの不幸は長男が出征したまま生死不明となった事であった。二男の光男君が園芸高校を卒業後、父君の業を継いでおられることは、せめてもの幸わせであると思う。戦後は約四百坪の温室でバラ、観葉植物など栽培したが、その成績はあまり思わしくなかった。森田氏自身は調布の進駐軍、アメリカ科学農園(清浄栽培)の指導をしており、東京都の農地委員としての仕事も大変忙しかった。労力は不足し、光男君の努力も実を結ばなかったことは残念に思うものである。
その頃、都立ろうあ学校が敷地を求めており、氏の温室のあった場所が候補地にあげられ、売却の話しが進んできた。氏としてはここを売却しても園芸から離れる意 志はなく、むしろ地方に行ってもっと規模の大きい園芸を計画していたのであった。土地売却の話しは一坪四万円程で決定、九千八百万円で四十年間住みなれた土地を 手放すこととなったわけである。氏はこれを資本として、昭和三十六年伊豆下田に五町歩程の土地を購入。観葉植物と熱帯果樹の栽培をはじめたのであった。
大温室五棟、一棟百五十坪であり三棟に果樹を植え、二棟は観葉植物の栽培に当てた。植物の大半は温室村にあったものを運び、台湾からも二百万円位のものを買入 れたそうである。熱源は温泉を利用しているから温度の方は心配なかった。生産品は東京千疋屋、下加茂の南恵園(熱帯植物園)に卸している。道路が未だ完成しないので観光客を呼ぶまでには行かず、現段階では利潤の上っていないことは事実のようである。日本での熱帯果樹栽培は、観光園芸としての経営形態でなければ、企業としての価値はないように思われる。
森田氏の過去六十有余年の園芸家としての人生は実に波乱に富んでおり、その一貫した信念、一方には事業度胸があり、処世術の巧みさは園芸人には稀に見る所である。このようにして我が国の施設園芸に不滅の光を投げられた氏の力は大きく、今日見られる高級草花の栽培発展は、温室村在住の園芸家諸氏の遺産である筈である。氏は日本園芸の将来にも意見を持たれ、今日の物価上昇の折リにもかかわらず、花の相場の安いのはなぜか。先ず、流通機構の不備を挙げ、日本と云う自然美の環境に生活している国民性をも指摘している。尚、つけ加えれば国民所得の低いことも理由の一つに挙げ、現在のような状態では都市の花卉園芸は発展しないと言われる。その切抜け策として、生産者の共同販売店を各地区の園芸組合中心(或は農協中心)に設け、生産即、販売というシステムに進んで行くべきであると提言されている。問題はやる気があるかないかであり、団結してやる気になればその方法はいくらでもある筈だと言われる。
八十一才となられた今日、赫灼として園芸を語り続ける氏の余生が、より幸わせであらん事を祈るものである。
追記、今まで述べて来た事の外、氏の交友関係や、土地の話しなど、処世上有益なお話しもたくさん語られたのであったが省略させて頂くことにする。
住所 伊豆、下田、
東京出張所 目黒区八雲町
カーネーションの間島五郎氏
白髪に丸縁メガネをかけ、聖ガンジーの風貌をもつ間島氏は、世田谷園芸家仲間では我らのおやじとして尊敬されているのであった。
氏は新潟県高田の生れ、旧制高田中学卒業後、中央大学に入学されたのであったが、健康がすぐれず、中退の止むなきに至った。当時園芸学校におられた、松本先生のすすめによって花作りの道に進む決心をし、二十五才の頃、三井戸越農園に研究生として入園することになった。当時の園芸界は未だ一般化されておらず、一部有産階級の趣味的性格を帯びたものが多かった。戸越農園もこうした中に含まれた存在であったが、その規模は当時としては斬新な施設と栽培内容をもっており、園芸を志す若い人達が研究生として働いていたのであった。ここでは温室果菜と球根類の促成栽培、一般鉢物栽培を勉強された。約二ヶ年の後、温室村でカーネーション栽培を経営する目的の下で、戸越農園をやめ、三ヶ年近く、犬塚氏の温室でその目的とするカーネーション栽培を研究されたのであった。
昭和六年、現在の地に温室三百坪を建てて願望の独立経営をはじめたのであったが、自営ともなれば矢張り緊張の中にも一抹の不安は免れなかったようである。温室村には当時荒木、森田、犬塚、その他数名の新進園芸家がカーネーションやばらの栽培を営んでおり、これらの先輩を師として、出来る限り無駄のない堅実な経営を行うよう努力されて来た。新潟県人特有の粘り強さは、もろもろの困難に堪えて、大きな支障もなく、内容を充実させて来た。真面目人間であったせいか、物語りとして楽しめる人生遍歴の持合せはないようで、只一途、カーネーション栽培に情熱を注いで来られたのであった。
当時カーネーションで人気のあったのは犬塚氏のものであったが、間島氏のものもこれに劣らない出来ばえであり、各市場では常に上位の価格で取引きされていたのである。特に戦後の需要増加によって益々その真価が認められ、青山市場では最高の人気を呼んでいたのである。氏のカーネーション栽培についての信条は、第一にしっかりしたものを作ること、更に花持ちのよいものをと心がけて毎日の管理を行った。床はベンチとし過混を避け通風には好適であった。高温栽培では軟弱となる恐れがあったので暖房、換気には殊更注意を払った。
こうして東京カーネーションの需要と信望を温室村がになって来たのであったか、戦後、急激に発展して来た地方園芸のため、その市価が値下りを示してきた(昭和三十五年頃)。値下りと云っても経営上採算がとれないと云う程ではなかったが、その将来に不安をもった事は事実のようである。それ以前、カーネーションが頭打ち状態になった頃、ばら切花の相場は非常によく、需要は益々伸びる傾向を示していた。間鳥氏もこのことに関心をもち、温室の一部を「ばら」に切替える事にした。その頃、東京都では農業近代資金の制度を設けて、新しい農業計画のためにその資金を貸出ししていた。氏もこれを利用して、ばら栽培のための暖房を電気によって行う。所謂、電熱暖房を計画した。資金五十万を借入れ設備はしたものの、その電熱費は莫大なものとなって表われて来た。ばらと、カーネションは全然異質のものであり、氏にとっても不慣れな花であったため、中々思うような生育はしてくれなかったようである。それと僅かな坪数では力の入れようも違うわけで、四、五年栽培して見たがどうも氏の性格にも合わなかったと見え、あきらめざるを得なかったのであろう。その後は再びカーネーション専門となり、鉢物需要の増加に刺激されて、二、三の草花を取入れ重油ボイラーとして、現在に至っているわけであった。
昭和二十八年、世田谷花卉園芸組合長に就任し、地区園芸振興のために尽力され、その間十四年、他の役員諸氏と協力し、「世田谷の花」を育てて来られたのである。
昭和四十二年、榎本金松氏と交替、以前から会長の職であった東京都花卉園芸組合連合会の仕事に専心することにした。この方も既に四、五年在任しておられるのであったが、東京園芸全体に大きな変化の起きつつある現在、その運営、指導には多くの難問題があり、資金の少ない連合会ではなす術もないようである。併し、一昨年開催された、日本花卉生産者大会では、地元園芸組合として、最大の協力と奉仕を捧げたのであった。日比谷公会堂に於ける大会から、都内園芸関係施設の案内、八丈島見学など、千四百名の会員に或程度の満足(東京大会の価値)を与えるには、並大低の骨折りではなかったと思われる。とに角、盛会のうちに終了、地方の園芸家に東京園芸の実態(関連事業を含めて)を知らせる事の出来たことは大きな功績であったと思う。ついでにこの東京都花卉園芸組合連合会なるものの運営状態について少し触れて見ることにするが、氏のお話によれば会費は、各地区園芸組合の収める拠出金約十三万円、これだけで運営するのだと云う。この中から、日本花卉生産者組合連合会の方へ七万五千円納入するそうであるから事業も何も出来ないそうである。東京都は事業をしたい組合には補助金は出せないと云う。年毎に悪化して行く都市の中にあって唯一のうるおいを持たせるものは緑であり花であることは誰しも認める所、都市美化の素材を生産する園芸組合に補助金も出せないと云うことは都政の貧困であると氏は大いに憤慨する。
事のついでと云っては失礼であるが、現在の都農業試験場のあり方に関しての発言にも耳を貸す価値あるのであった。東京都の農業は急激に変貌しつつあり、一般作物は姿を消し園芸品生産に今後の発展を期待しているのである。従って現在の機構を一段と充実させ、都市近郊に適する園芸品の栽培研究は勿論、品種改良にも力を入れ、高い種苗を外国から買わず、日本で日本の土地に適した花、日本人の好みに合った花の改良に力を注いでもらいたいと云う事である。花に対する嗜好にも変化があり洋花礼讃の声も一頃より底下し、最近は日本在来の草花に大衆の好みが戻っているのである。勿諭、洋花の中にも日本人の性格に合うもの、或は、会場装飾に適したもの、観光園芸に適したものもある筈であるが、外国のもののみに頼らない、日本で生産されるものの品種改良を行うために、現在の規模を拡大し、陣容を整える時ではないか、と提言されるのであった。
更に東京園芸の将来であるが、都心に近い地域は既に住宅化し、今後は三多摩地区に伸びる傾向を示しているのである。何れにしても輸送園芸では求められない性質の花卉園芸品の生産に重点をおくべきであろう……と。
一例を挙げればフリジヤであるが、これは最も鮮度を尊ぶ花であり、鉢植の場合は輸送困難である。現在、切花としてその大半が地方で生産されているのであるが、これを東京の花として、大いに宣伝してもよいのではないか。球根は八丈島、小笠原、エラブなどで生産されるのであるから入手は容易である。スイトピーも都市園芸から姿を消したようであるが、これも東京の花にふさわしい感覚をもっており、地元産のものは花持ちの点で地方のそれとは大きな違いがあるのである。
戦前はこの花の生産は東京産のものに限られていて、その少女のような花は広く愛されていたのである。日本菊を色々な作風に作り上げたものなど(小菊の懸崖を含めて)東京の花として充分価値があると思う。この外に種々と伝統的なものが残されている筈であろう。併し、交通機関の発達と輸送法の完備によってあらゆるものが近県のどこからでも東京市場に入荷しているのが現状である。鉢物然り、最早、東京だけのもの、と云えるものは皆無に等しいのである。然し、これを手をこまねいて傍観しているのみでは「東京の花」の発展は望まれない。園芸業者はもとより都市の文化生活に最も重要な意義をもつ園芸品の生産に関係当局も積極的に協力してもいいのではないか、……こう発言されるのであった。
話は後に戻るようであるが、温室村のカーネーションも、昭和三十五年頃より、シム系の大輪種に変ってきている。間島氏の所でも現在殆んど大輪種であり、この傾向は全国的に拡って行くようである。品種も次第に実用的な花持ちのよいものが輸入されたり、国内で改良されたものもある。現在の所、温室村で一番カーネーション栽培の面積をもっているのは氏の所であろう。
三百坪の温室は創立当初のもので、それを丹念に修理しながら四十年間のもの長い年月を維持し続けて来られたのであった。既に老化現象を起していることは止むを得ないが、氏が青年の頃より愛撫し続け、わが命のある限り保護しようと、毎年のようにペンキ塗りを行っておられるのである。温室村の名物であったカーネーションも、その栽培環境の悪化と生産者の減少によって次第に他の地域に移動し、近くは神奈川県の秦野、伊豆半島の河津、関西では神戸加古川附近、淡路島など農業構造改革の中で取上げ、大規模な生産を行っている地方もあると云うお話しもなされた。こうした中でも、長野県の夏切り力ーネーションは、その恵まれた気象条件の下に、確固たる地位を保っており、菊栽培と共に長野の産業の中でも重要な位置にあると云われる。
こうした状況の中で氏としても漸次鉢物その他の有望切花を取入れたい希望をもっておられるようであるが、労力の不足によって坪数の縮少も止むを得ないようであった。このように限りないお話しの外、信州人と北陸、東北人との気性の相違(その進歩性と保守性)の起り来る所の原因、それの関連性についての解説もされ、中々味のあるものと私には思えた。
現在、公私共に多忙であり、作業の多くはご子息に任せてあるようであるが、まだまだ元気一杯の様子には矢張り鍛え抜かれた人の気迫を感じとられるのであった。 住所 世田谷区玉堤一の一五の一三
電話 七〇一‐○四九二