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1941年、ユリとチューリップの切り花用球根が代用コーヒーとして利用される 背景には公定価格の設定

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 『実際園芸』第27巻第12号 昭和16(1941)年12月号(最終号)

【重要】烏丸光大氏の屋号の表記「二頃園」は、「にこうえん」ではなく【にけいえん】と発音されていたのではないか?『蘇秦伝』中の漢詩文「二頃田(にけいでん)」「二頃の田(にけいのた)」から採られていた

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『大字典』1963年版から 時間を表す解説のほかに、田畑の面積を表す単位としての記述が見つかった 【重要】 これまで、烏丸伯爵(1885‐1950)が経営した農園の名前を「二項園」と書き、「にこうえん」と読んできたが、どうもそれは、間違いだったのではないか。 【正しくは「二頃園」であり、「にけいえん」と読んでいたと思われる】 これまで、『実際園芸』等の雑誌で「二頃園」という表記の「頃」を「項」の活字の誤植だと思っていたが、あまりにも頻繁に「誤植」が見つかるので、変だな、と謎であったが、先日、「二頃園」と命名された理由が書かれている記事を見つけた。おそらく、この名前について、多くの人から問われることが多かったのではないか、と想像される。 ※正しくは「二頃園」としても、これを「にけいえん」と読める人がどれほどいただろうか?多くの人は「にこうえん」と読んでいたのではなかっただろうか? ※一時期、森田喜平氏と共同で経営をしていたので、僕は「二人のトップがいる農園」という意味で「二項園」と勝手に勘違いしていました。その後、二人は別々な経営となりますが、森田氏は「森田二頃園」という屋号になります。これでいくと、横浜富岡の柳下三項園なども、「三頃園」の可能性があり、掲載誌の活字表記を見直してみる必要があります。↓↓ ※「17-5」柳下佐喜藏の柳下二項園は「項」。「18-4」柳下三郎の屋号は「柳下三頃園」 ※『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970でもすでに「二項園」表記になっている。『カーネーション生産の歴史(百年史)』2009も同様。『日本花き園芸産業発達史・20世紀』2019の烏丸氏の項目には記述なし。 ↓「二頃園」命名の理由は、以下の烏丸光大(からすまる・みつまさ)氏自身の記述による。命名について質問されることが多かったと思われる↓ https://ainomono.blogspot.com/2023/02/91.html 上の記事では、「二頃」の意味について調べきれていなかったが、「二頃の田(にけいのた)」「二頃田(にけいでん)」で検索すると、原典が見つかった。 「頃(けい)」は、面積の単位で100畝(せ)というので、2頃=200畝=20反=2ヘクタール 2ヘクタールの田が広いと考えるか、まあまあの面積、と見るか、自分にはわからないが、(先輩の話ではやはり、結構な広さであ

1941年の新年号、編集後記。いよいよ運命の『実際園芸』最後の一年が始まる。皇紀二千六百年の記念すべき年も暗雲立ち込める重苦しい雰囲気で終わる

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『実際園芸』 第27巻第1号 1941年1月号 1941年の新年号、編集後記。いよいよ運命の『実際園芸』最後の一年が始まる。1940年は皇紀二千六百年の記念すべき年であったが、年末に書かれた編集後記には、暗雲立ち込める重苦しい雰囲気、国策への対応や気持ちの焦りが感じられる。 石井勇義は、ここでも意を強くして園芸品種の記録と保存について園芸界を挙げてとりくもうと呼びかけている。この思いは、雑誌が休刊となったのちも引き続き行動に移され、1944年の「園芸文化協会」設立へとつながっていく。 ※ここにも書かれているように、園芸雑誌の統合が実行されており、1940年12月末に、木村重孝氏のやっていた『園芸往来』という雑誌も統制により、『実際園芸』誌に統合される形で休刊となった。(「27-2」編集後記)木村重孝氏は、大正7年ころにできた日本園芸組合の事務長をつとめていた人で、関東大震災前にアメリカの市場を視察し、日本にも公正な取引ができる市場が必要だと主張し、のちに高級園芸市場ができる気運を作った人物。大正11年と昭和3年に出版した『園芸人名録』はたいへん貴重な記録になっている。 *****************  光輝ある二千六百年も正に暮れんとする十二月三日、来るべき新年号の〆切にまでこぎつけた。秋以来東都では、農、園芸関係雑誌の合併、統合が警視庁下に行われたが、本誌は園芸専門の代表誌としご同種誌を合併して、年と共に時局重大なる時にあたり、食糧の増産、厚生運動としての家庭園芸や、工場労働者の休養と保険のための集団園芸等の方面の園芸指導機関として国策の一面に協力する事になった。従来、本誌は、自ら園芸界の木鐸(ぼくたく)を以て任じ、指導的内容をもつことに重点を置いて来たが、今後は更に国策に協力してゆく決意を固めている。殊に今後の園芸には次々と難問格(ママ)が起って来る事と考える。例えば花卉種苗の公定価格の発表の如きで、これに依って、特殊なる優良品種の滅減が憂えられるし,品種改良の熱意も挫折するものも多い。花卉の中には骨董的、投機的の高価品もあり。これ等の非国策的な取引を抑制する事は必至であるが、中には将来の花卉の輸出を目標として、海外から多額の母株を輸入して改良を続けているものもあり、又将来我が国が園芸の生産国の位置に立った場合の重要なる生産業の母体となるものもあると考えるが

「二頃園」という名前の由来について  烏丸光大(からすまる・みつまさ)  『実際園芸』第9巻1号

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『実際園芸』第9巻第1号 p80 ※烏丸光大(からすまる・みつまさ:1885‐1950)『園芸通』1930という著書の名前ではフリガナが「みつとも」となっているが、家系図では「みつまさ」。 ※腕まくりのヒゲの人物が烏丸氏 アメリカで園芸を学んだ実際家であった。 『園芸通』昭和5年から  国会図書館デジタルコレクション個人・図書館送信 https://dl.ndl.go.jp/pid/1179285/1/1 ※玉川温室村の烏丸二頃園の全景 手前右、前列の白い半袖が烏丸氏だと思われる 『実際園芸』第11巻第8号 1931 ※「二項」という名前の由来はわかったが、依然として「項」に対して活字が「頃」を用いる場合が非常に多く見かけられる理由がわからない。『大字典』などでも「項(コウ)」と「頃(ケイ)」は関連がなく、「頃」には傾くという縁起の良くない意味が含まれているので、屋号にはふさわしくないと思われる。(※これは先日まで僕が思っていた疑問です。ずっと誤植だと思っていた。) ⇡ 「頃」という文字が正しかった。正しくは「にけいえん」と読んでいたのではないか?(2頃=2百畝=2ヘクタールほどの園地) https://ainomono.blogspot.com/2023/02/blog-post.html ※『園芸人名録』園芸通信社1928 ではちゃんと『頃』になっていた。×光太→光大 ****************  二頃園の由来 私の農園二頃園に就き各方面より種々問合せがありますので、一寸申上げて置きます。これは明治39年の夏私が渡米する前に、先代光亨 (※みつゆき) 氏が堀切の菖蒲園内の烏丸所有の小園に対して命名したものでありまして「我れ田園に二頃あらしめば良く立国 (ママ※六国?) の特印を帯むや」という林生寺僧の言葉をとったものに外なりません。 ※父、烏丸光亨(みつゆき)氏は周囲からは奇人と称されていたが、漢詩文や書にすぐれた人であったという。光大(みつまさ)氏は長男。 ※麹町元園町は、英国大使館付近。現在の千代田区麹町一丁目8、10、12番、二丁目6、8、10、12、14番、三丁目4、6、8、10、12番、四丁目6、8番、一番町の一部だという。 ※大井町篠谷(しのやつ)は西大井駅の辺り。地名は合併して大井伊藤町となり現在は西大井と呼ばれる。大井伊藤町は伊藤博文がこの

昭和5年、アメリカの有名な園芸雑誌『The Florists' Exchange』に掲載された(August 9, 1930)牧野、石井、石原氏の写真  『実際園芸』昭和5年10月号

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アメリカの園芸雑誌『The Florists' Exchange』誌の1930年8月9日号に掲載された、牧野先生と石井勇義、前園芸試験場技師石原助熊氏(『実際園芸』9-4) ※原本をネットで探したが見つからなかった。 東洋の環境をみるアラバマ州のナーセリーマン(※清野主氏を取り上げた記事) *以下機械翻訳 アラバマ州クライトンの苗木商、T. 清野さんから、7月初旬に東京帝国大学(小石川)植物園で撮影した興味深い写真が届きました。左側の帽子をかぶっていない人は、東洋の植物分類学の最高権威者であるT. 牧野博士で、何千もの植物を分類して命名し、清野さんに日本原生の多くの南方系観葉植物の同定を助けてくれました。中央は、本誌通信員が日本一の園芸雑誌と呼ぶ「ボタニカル・ガーデニング」の編集者、Y. 石井氏。

石井勇義夫人の写真見つかる! 石井安枝夫人が参加しての記念写真から  昭和11年 大日本薔薇協会の十周年記念大品評会(於・京都)

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石井安枝夫人 『石井勇義 ツバキ・サザンカ図譜』の巻末にお茶の水女子大学教授であった津山尚(たかし)氏が石井の生涯を紹介している。生前の石井を知る人による石井の唯一の伝記といってよい。これによると、 石井は大正7年に東洋園芸に入社するも肺を病んで数年間治療と療養生活に入る。大正7年から8年というのは希望と絶望が入り混じり数多くの出来事が起きて石井の人生が大きく動いた時期であった。 その後、友人原田三夫(『子供の科学』主幹、日本最初期の科学ジャーナリスト)のつてで千葉県大原にある大地主、藍野佑之氏所有地の一角に「イシヰ・ナーセリー」を始める。この時代に知り合い結婚したのが安枝夫人だった。石井34歳であった。安枝夫人は長女美代子を生み育てながら採種の手伝いなどをしていた。石井が雑誌を始める大正15年以降は東京に住居を移し、編集作業も自宅で行っていたため、編集者、来客がたいへんに多く、女中さんがいても、奥さんとしてはさぞたいへんだったであろう。 ************* 夫人のこと(津山尚 つやま・たかし) ここで著者(※津山)は安枝夫人のことに触れないわけにはいかない。夫人の家庭の外での活動は、石井の死後に現れた。千葉の出で、千葉医専の御用商人の家に生まれた。男女各二名の中の一人である。四歳で父親を失い、母の手で育てられた。教育には熱心で、安枝を千葉師範の付属に入れ、青山女学院に進ませた。石井の生前には家庭の主婦、よき内助者として専念し、直接に石井の仕事を手伝い余地は少なかった。没後には特にツバキ関係に熱心で、石井の遺志が乗り移っているように見えた。青山女学院関係の交際は広かったようであるが、後には石井に代わって石井のし残した出版関係を見守り、ツバキ協会の理事などに選ばれ、種々の園芸関係の会合に顔を出した。電話の声は男性を取り違える位低かった。これは煙草の吸いすぎによるといわれる。髪形や化粧には無頓着で、きわめて俠気のある人であった。会合でも遠慮なく発言した。神田の日本大学付属病院の、前後三ヶ月の入院生活の後に、甲状腺癌によって昭和四十三年六月三日に沒した。渋谷の本田記念教会で葬儀が行われ、石井の墓に合葬された。石井は先の見える人で、老後には夫人を伴って、講演旅行をすることを楽しみにしていた。しかしこれは果たされずに終わった。 ※大正8年頃の誠文堂小川菊松社長(中右端