「二頃園」という名前の由来について  烏丸光大(からすまる・みつまさ)  『実際園芸』第9巻1号

『実際園芸』第9巻第1号 p80

※烏丸光大(からすまる・みつまさ:1885‐1950)『園芸通』1930という著書の名前ではフリガナが「みつとも」となっているが、家系図では「みつまさ」。

※腕まくりのヒゲの人物が烏丸氏 アメリカで園芸を学んだ実際家であった。 『園芸通』昭和5年から  国会図書館デジタルコレクション個人・図書館送信

https://dl.ndl.go.jp/pid/1179285/1/1


※玉川温室村の烏丸二頃園の全景 手前右、前列の白い半袖が烏丸氏だと思われる
『実際園芸』第11巻第8号 1931


※「二項」という名前の由来はわかったが、依然として「項」に対して活字が「頃」を用いる場合が非常に多く見かけられる理由がわからない。『大字典』などでも「項(コウ)」と「頃(ケイ)」は関連がなく、「頃」には傾くという縁起の良くない意味が含まれているので、屋号にはふさわしくないと思われる。(※これは先日まで僕が思っていた疑問です。ずっと誤植だと思っていた。)

⇡ 「頃」という文字が正しかった。正しくは「にけいえん」と読んでいたのではないか?(2頃=2百畝=2ヘクタールほどの園地)

https://ainomono.blogspot.com/2023/02/blog-post.html

※『園芸人名録』園芸通信社1928 ではちゃんと『頃』になっていた。×光太→光大


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 二頃園の由来

私の農園二頃園に就き各方面より種々問合せがありますので、一寸申上げて置きます。これは明治39年の夏私が渡米する前に、先代光亨(※みつゆき)氏が堀切の菖蒲園内の烏丸所有の小園に対して命名したものでありまして「我れ田園に二頃あらしめば良く立国(ママ※六国?)の特印を帯むや」という林生寺僧の言葉をとったものに外なりません。

※父、烏丸光亨(みつゆき)氏は周囲からは奇人と称されていたが、漢詩文や書にすぐれた人であったという。光大(みつまさ)氏は長男。

※麹町元園町は、英国大使館付近。現在の千代田区麹町一丁目8、10、12番、二丁目6、8、10、12、14番、三丁目4、6、8、10、12番、四丁目6、8番、一番町の一部だという。

※大井町篠谷(しのやつ)は西大井駅の辺り。地名は合併して大井伊藤町となり現在は西大井と呼ばれる。大井伊藤町は伊藤博文がこの地で晩年を過ごし墓所があることにちなむ。同じく伊藤博文に由来する伊藤小学校の周辺は垂谷(たにだれ)、金子山(かねこやま)、篠谷(しのやつ)などの地名があったが昭和7年に伊藤町になった。篠谷は東海道線の篠谷跨線橋(ここは、フリガナ「しのや」こせんきょう)にその名をとどめている。

越えて45年後(※ママ 4、5年後、大正はじめ頃か)、長田傳(※おさだ)氏が帰朝さるるや、共同してここに薔薇の栽培を始めたのであります。新種類のバラ苗を輸入して増殖し一方この切花を市場に出荷したのでありますが、これが我が国に於ける温室バラ栽培の先鞭をつける事となり、漸次各園芸業者が同様に営まれるに至ったのでありまして、この点長田氏の本邦園芸界に到せる貢献多しとしなければなりません。


※1917(大正6)年 現在の大阪で、猿棒忠恕氏がアメリカ式温室栽培を始める。

※1918(大正7)年 関東では烏丸光大伯爵が大井町で、伊藤貞作が中野で温室栽培を試みる。

※バラ切花栽培100年史

https://rosy.future.otakaki.co.jp/history/


大正13年夏この多摩川温室村に分園を設置し森田喜平氏と共に、更に大規模なる温室経営をなすに至りましたが、一昨年組織を改めて一部を森田氏に頒ちて私一個の単独経営とし、現在大井町篠谷に七百五十坪・一方温室村に六百三十坪を有し、主として薔薇、メロン、トマト類を栽培しております。

二頃園の由来は上述の如くで、私にとっては先代の命名せる記念すべき園名でありますため、他に同じ園名を用ゆる者もありますので、他に何等か新しい園名を変えたいと思いながら、今なお依然として二頃園の名を存続しているのであります。それ故それと私の二頃園とを混同されないように、特にここにご注意申し添えておく次第であります(烏丸記)

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Hさんに原典を教えていただきました。以下その概略。

【我れ田園に二頃あらしめれば 良く六国の特印を帯むや】の出典を探しました。

戦国時代の弁論家、思想家である苏秦(蘇秦   ? - 紀元前284年)の語のようです。

【 倘若我最初在洛阳有二顷良田,现在又怎能佩戴六国相印呢! 】です。

烏丸さんの記した漢字と違う箇所が多々ありますが、概ね記載事項は

訳すると、【 もし私が洛陽に二頃の良い土地を持っていたら、今頃は六国の印章を身につけていなかったでしょう!】。

つまり、2頃の土地を持っていなかったが故に、今、六国を纏める力を持つことが出来たのですよ!と。

原典は、史記/卷069 に記載があります。下記Webアドレス。

烏丸さんの記事では、林生寺の僧の言葉から取ったとありますが、この点は確認できていない。

苏秦(蘇秦)の記事は日本語のWikipediaにありますが、「二頃」は出てきません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E7%A7%A6

中国版Wikipediaが詳しい。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%8F%E7%A7%A6

 史記 史記/巻069

https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7069#%E8%8B%8F%E7%A7%A6

Webページの中央あたり

北報趙王,乃行過雒陽,車騎輜重,諸侯各發使送之甚衆,疑於王者。周顯王聞之恐懼,除道,使人郊勞。蘇秦之昆弟妻嫂側目不敢仰視,俯伏侍取食。蘇秦笑謂其嫂曰:「何前倨而後恭也?」嫂委蛇蒲服,以面掩地而謝曰:「見季子位高金多也。」蘇秦喟然嘆曰:「此一人之身,富貴則親戚畏懼之,貧賤則輕易之,況衆人乎!且使我有雒陽負郭田二頃,吾豈能佩六國相印乎!」於是散千金以賜宗族朋友。初,蘇秦之燕,貸人百錢為資,乃得富貴,以百金償之。遍報諸所嘗見德者。其從者有一人獨未得報,乃前自言。蘇秦曰:「我非忘子。子之與我至燕,再三欲去我易水之上,方是時,我困,故望子深,是以後子,子今亦得之矣。


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