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3月, 2022の投稿を表示しています

昭和8年、「新興いけばな宣言」について 柳本重甫氏の思い

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  『フローラルアートの完成』には、「新興いけばな宣言」に関して、その宣言に関わった一人の花道家、柳本重甫氏に関する記事が掲載されていた。 次のような内容である。 新興いけばな宣言とフラワーデザイン 柳本俊雄氏談  昭和5年(1930年)に、重森三玲、藤井好文、勅使河原蒼風、中山文甫、桑原専渓 柳本重甫各氏によって宣言されたものですが(*正しくは昭和8年)、それは 従来のいけばなが床の間の装飾のみに傾いていたのを反省して、近代的な生活に合わせたいけばなに高めようと主張し、いけばな界の新しい流れをつくろうとする運動でした。その当時発刊されていた雑誌”道”に掲載されている各氏の作品からも、うかがえます 兄が存命していれば、もっと詳しい事が語れるのですが・・・ 少年時代に兄が苦しみながら新しい作品を生み出していた姿、特にカーネーションとの戦いは、今でもはっきり記憶しております。  日本のいけばなが.海外に広められて行<事によって、逆に海外のフラワーデザインが入って来ました。このフラワーデザインのテクニックが、その頃のいけばな作家を刺激していたと思います。  又、園芸界の中も、新しい洋花の栽培が盛んになり、これらの新しい素材をどう扱うかと言う事からも、いろいろと研究されていた様です。特に柔かい茎のカーネーションをどう扱い、どの様にしていけばなに取り入れるかと言う事が大きな課題とされていたと思われます。そして、フラワーデザインといけばながお互いに影響し合っていたと言う事は、この雑誌”道”に作品としてはっきりと現れております。  特にフラワーデザインのテクニックを、ストレートに取り入れられているのは、中山文甫先生の作品に多く見る事が出来ます。  私はいけばなが、世界のフラワーデザインに大きな影響を与えたのと同様に戦後の新しい生花はむしろフラワーデザインから、影響を受けたと思います。いけばな界に新しさを取り入れた昭和初期の作家は、前衛いけばな運動として出発したのです。しかし昭和16年、大平洋戦争に突入し戦時体制に入り、戦後古いものを打ちすてて新しさが当然の世の中に、新興いけばな宣言は、新しさを感じさせなくなってしまいました。 ここで出てくる「新興いけばな宣言」とはどんなものだったのか、そのいきさつをふくめた重要な資料が、工藤昌伸氏の著作に記載、記録されている。ここにその部分を抄録

成瀬房信氏のこと 1998年『花時間』1月号 第8巻第1号 通巻第76号「花びとたちの履歴書」から

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 花屋の息子として自然にいけばなを習い、家業を継ぐことを考えていた青年は、ある日、配達の途中(当時はバスや電車、自転車、徒歩です)のバスの中でみつけたフラワーデザインの広告に驚き、その足でマミフラワーデザインスクールに入門する。その後、アメリカへの留学、武者修行を経て、「エクセレント12」という大きな花のデザインイベントを成功させ、また渋谷パルコ一階にだれもが憧れるすばらしいお店を開いて大きく展開した。2010年に亡くなった成瀬房信氏のことばをいま再び読み返してみたい。参照するのは、1998年『花時間』1月号 第8巻第1号 通巻第76号「花びとたちの履歴書」という特集記事から。〈あの時代が私の「今」を作った〉とあるように、花の世界で著名な方々の若い頃、修行時代のエピソードを取材しているたいへんに貴重な記録だ。  プロフィールから換算すると、成瀬房信氏は、1944年に生まれていると思われる。残念ながら2010年に急逝された。僕は大田市場の仲卸時代にたいへんにお世話になった。成瀬氏は旧青山市場からの関係で世田谷市場をメインに利用されていたが、大田市場に来られるときはいつも声をかけていただいた。亡くなられたという話は、知人からの知らせで知った。たいへんにショックを受けた。今でも、最後にお電話でお話したことをありありと思い出し、もっとお話を聞いておきたかったと後悔しかない。 ◎ナルセフローリストの沿革 (HPから) http://naruseflorist.com/history/ ※今回参照した同朋舎の雑誌『花時間』1998年1月号では、成瀬氏のほかに、マミ川崎氏とあんりゆき氏が登場している。マミ川崎氏はいうまでもないが、あんりゆき氏に師事して本業界で雑誌などの花で活躍されている方は数多くおられる。  ****************************  成瀬房信 (なるせ・ふさのぶ) ナルセフローリスト社長(当時) 1960年 中学時代に 草月流 師範資格取得。 1962年  マミフラワーデザインスクール に入門、後に講師となる。 1966年 渡米して アーサー・イトウ 氏の経営する フラワービューガーテン で1年間研修後、足かけ3年にわたり、北米・ヨーロッパを回って帰国。 *1972年  「エクセレント12」 開催 (1月、27歳) https://karuch

1980年、フラワーデザインといけばなの重鎮が語りあった第一級の座談会資料 『フローラルアートの完成』から

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 L’ Art Des Fleurs ―フローラルアートの完成― 株式会社フラワー教育研究所編 1980 *********************** はじめに  西洋に育ったフローラル・アートが、わが国に渡来して早くも100年以上を経過しています。  この経過の中で、ある時は園芸の世界へ、ある時は園芸をとおして”いけばな”へと影響を及ぼし、更に”いけばな″は西洋の花の文化へと多大な影響を与えています。  花の美しさは人種の区別なく、美しいと感じさせるものの代表といえましょう。この花の美しさに魅かれ、花を素材としたデザインの研究を進めている「フラワー教育研究所」は1年間にわたって、この「L' Art Des Fleurs」の編纂に取り組み、現代のフラワーデザイン界の飛躍の礎になるような大きな目的を持って進めて来ました。特にフラワーデザインの名称をタイトルに使用せず、大きな意味での花のデザインということで「フローラル・アート」といたしました。  作品内容はアレンジメントが主体となっていますが、先にのべたフラワーデザインといけばなの歴史対照、ヨーロッパの絵画と文化に於ける花の歴史、ファッションとアクセサリーの中の花の歴史等。第一章には歴史的体系に主眼を置いています。  作品集的な第二章には、花のデザインに於ける新しい考え方をとり入れました。  第三章は基礎造形ですが、特に色彩の中で配色の説明にウェイトをかけています。付録に貼付したカラーカードと実際の写真とで解りやすく説明されています。  実用とテクニック及び知識編としての第四章。  第五章には、アレンジメント、ブーケのベーシック・デザイン。実際に撮影した写真を更に全てイラストレーションに直し、視覚の上で理解出来る様に編集されている事が特徴です。  第六章はベシック・デザンの素材を変えて応用された作品を再び集めています。この応用から次々に展開されていったところに、ニューパターンを生み出し、第七章に実例を挙げて紹介しました。研究の過程ではありますが、この章のシステム化された図版を完末に添えて参考にしていただきたいと思います。  以上のように豊富な内容を持った、この“L’ Art Des Fleurs″を通して、フラワーデザインにたずさわる方々、及び花に関わる方々にとって貴重な資料となる事を願ってやみません。  こ

60年代まで『家庭画報』など雑誌で活躍されていた村田ユリさんのしごと

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 女性のフラワーデザイナーとして、戦後の一般女性誌で活躍された村田ユリ(村田フロリスト、のち東洋園芸を経営)さんの仕事がどのようなものであったか、1962年(昭和37年)の『家庭画報』6月号の記事を抄録する。  村田ユリさんは、新潟の大富豪の家に生まれ聖心女子学院を卒業、結婚後に欧州で暮らし、もともと植物が大好きということも合って、戦後に渡米し、フラワーアレンジメントを学ぶ。雑誌等で洋風のフラワーアレンジを紹介した。「アイビー」を現在のように普通にみかけるようなグリーン素材として普及させたのも村田さんの貢献が大きい。(夫、村田政真氏がてがけた虎ノ門の旧・共同通信会館が改築される前に見に行ったときには、つくりつけの植栽スペース=巨大なプラントボックス、が2階のひさしとして設計され、そこに長く育ったオカメヅタやアイビーが残っていた)  また、1949年に麻布の自邸を提供し、松方種子女史とともに東京麻布西町インターナショナルスクールを設立するなど多彩な活動をされた(最初の生徒は村田さんの二人の息子を含む4人の子どもだった。のちに松方家に移る)。 ●西町インターナショナルスクール https://www.nishimachi.ac.jp/  村田さんは1960年代には人に花を教えることや雑誌の仕事を後進のデザイナーにゆずって、晩年は長野県御代田でほぼ自給自足、晴耕雨読の田舎暮らしを楽しんだ。非常に明るい無私の人という印象がある。  記事では、インテリアとしての花、暮らしの中に花を取り入れるために器を選び、さまざまな飾り方を見せている。切り花のクロユリや、根つきのネペンテス(うつぼかずら)を飾っているのは、植物をよく知る村田さんらしいユニークな見せ方だと思う。  チキンネットをつかったアレンジの方法を写真を何枚の使ってわかりやすく解説している。ネットが「3段」になるように入れるのがコツ。オトシとかごはしっかりと針金で留め付けてあり、基礎技術の説明がよくできている。花はストックと思われる。 ********************* 表紙はちょうど花が使われている。 グラスのなかのマーガレットが一輪、茎を折って下向けに してあり、レモンがよく見えるように手を入れてある。 以下、村田ユリさんのページ ●村田ユリ氏のプロフィールについては、『日本花き園芸産業史・20世紀』に、名古屋

ハワイの花店とフラワーデザイン クボ・カズマサ氏のレポート 1968年

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 『カリフォルニアの花 ―アメリカ西海岸花と種苗生産視察団報告記―』社団法人日本花き生産協会発行 1968年11月11日 (非売品)から 100番のレイの男性が筆者 ************************ ハワイの花店とフラワーデザイン          クボ カズマサ   僕は今度の視察団とホノルルで別れ、ハワイで約一ヵ月半花店の視察とフラワーデザイン研究のため滞在しました。そこで、その事について少し書いてみようと思います。  ハワイの花店は大きく分けて二つの型に分類されます。一つはワイキキ空港等の観光地域に多いレイやホテルの装飾を主とした店と、もう一つはカットフラワーを主体に売っているお店とに分けられます。前者はレイやホテルの装飾を主とした店で、せいぜい四~五人の家族ぐるみでお店をやっているというのが多く、店舗よりも作業場に重点が置かれている様な感じでした。  客層としても観光客が多い様です。レイにはプルメリア、バンダ、ステフアノーティス、ピカキ、カーネーション等が多く使われ、型もシングル、ダブルと様々あり、さすがにハワイの花の豊富さにはうらやましい感じがしました。  後者の客層としては土地の人が多く、商売の内容が自然前者とは異なります。後者は日本の花店とよく似ている点もかなりあり、アメリカ本土と違って参考になる点も多かった様に思われました。  フラワーデザインにおいては技術的な面で、それ程進んでいるという所は見い出せなかったし、この事はアメリカ本土についても同じ事がいえると思います。  アレンジメントについてはサプライものでずい分日本が遅れている様です。例えばプラスチック製品(コンポート等)は日本の製品とくらべて種類が豊富だし、コストも安いし、品質もよろしいですね。  最後にハワイアン・スタイルのアレンジメントについて少し述べておきましょう。アンスリウム、ジンジア(*ジンジャー)、バンダ等ハワイ特産の花を使った、また、カラフルなアレンジメントが特色といえると思います。それとウッドローズ、ベビーウッドローズ、リップスティック、ウキグラス等を使ったドライアレンジメントもやはりハワイアンスタイルのアレンジメントと言えますね。

アメリカの巨大な花のファッションショー「ヘッドドレス・ボール」見聞録 1968年 関江きよ氏の報告

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  『カリフォルニアの花 ―アメリカ西海岸花と種苗生産視察団報告記―』社団法人日本花き生産協会発行 1968年11月11日 (非売品)から 「ヘッドドレス・ボール」という花のファッションショーは、アメリカ西海岸の花業界が主催する大きなチャリティーショーで、チケットを手に入れるのも難しいイベントだった。*ボールとは盛大な舞踏会のこと 東京・谷中に江戸時代から続く花店「花重」を経営し、また夫の関江重三郎氏とともに上野で花のスクールを主宰する関江きよ氏が参加したアメリカへの団体視察旅行とちょうど時期が重なったためショーを見た感想が報告文集に掲載されていた。 ● Las Floristas Headdress Ball というショーの名前だったようだ ラス・フロリスタス・ヘッドドレス・ボール ↓ 古い写真 このようなイメージだったのかも "Search Results | DPLA" デジタル・パブリック・ライブラリー・オブ・アメリカから https://dp.la/search?subject=%22Floristas+Headdress+Ball+%28Los+Angeles%2C+Calif.%29%22 ************************** この目でみたヘッドドレスボール  関江きよ 入場券が手にはいる  このたび、植物学界、花卉業会のアメリカ西部海岸旅行団に加わり、ロスアンゼルスにおけるヘッドドレスボールに日本人として初めて参加することができました。三年前主人(*関江重三郎氏)がFTDツアーで渡米の際ビバリーヒルのヒルトンホテルで準備中のものを写してきた写真を見たり、映画によってすばらしいショーだと言うことは前もって予知致しておりましたがハワイからサンフランシスコに向う機中、アーサー伊藤さんからの電報で東京フラワーデザインセンター(*関江夫妻経営)の一行の四人分の入場券が手に入ったことを知らされ私達四人は思わず喜びあいました。前もって、エージェント及びアーサー伊藤さんに、主人から手配をお願いして置いたのが実ったのでした。私達東京フラワーデザインセンターの四名は、同行のツアーより一足先にロスに飛びました。  幸い同行の馬場さんは、美容家ですので、一同着物に着かえて、ビバリーヒルのヒルトンホテルに向いました。ロビーで伊藤夫妻に笑顔で

1968年(昭和43年)「アメリカ西海岸 花と種苗生産視察団報告記」を読む (7)苗木生産、野菜種子、参加者名簿、編集後記

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(7)-1 カリフォルニアの苗木生産について 穂坂八郎 P40~43 (7)-2 アメリカ西海岸の花き園芸施設 瀬口弘吉、小杉 清 P44~47 (7)-3 米国における野菜種子採種状況 内野恵司 P7~9 (7)-4 アメリカ西海岸花と種苗生産視察団団員名簿 P92~93 (7)-5 編集後記

1968年(昭和43年)「アメリカ西海岸 花と種苗生産視察団報告記」を読む (6)花き生産、鉢物

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(6)-1 アメリカ西海岸の花き栽培を見て 小杉 清 P10~13 (6)-2 大学と花き園芸の研究 カリフォルニア大学を訪ねて 横井政人 P14~20 (6)-3 カリフォルニアのキク生産 橋本貞夫 P22~26 (6)-4 カリフォルニアのカーネーションの切花栽培 野村 正 P27~29 (6)-5 アメリカのバラ切花栽培を見て 横田長吉 P30~32 (6)-6 開花調節、生長点培養の実用化された洋ラン栽培 三好靱男(ゆきお)・植村猶行 P33~36