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勅使河原蒼風とバウハウスとの出会い

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【勅使河原蒼風もバウハウス式の造形論を学んでいた】 勅使河原蒼風が川喜田煉七郎の新建築工芸学院に学んでいたという話は、論文にひとつあり、それがWikipediaに載っているが、初めて他の本のなかで証言されているのを見つけた。山脇道子『バウハウスと茶の湯』1995、134ページ 戦前の日本でドイツ、バウハウスの教育を精力的に紹介した川喜田煉七郎は、1930年、ウクライナ、ハルキウのウクライナ劇場国際設計競技において、アジア人として初めて4等入賞し、その力を魅せた。彼が作った新建築工芸学院は、桑沢節子や亀倉雄策が出ている。

1955年、勅使河原蒼風、霞両氏の2ヶ月におよぶヨーロッパ旅行の記録

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 草月流家元、勅使河原蒼風氏は1955年5月6日から7月の上旬、ヨーロッパをめぐる旅に出た。各地を見て回ったほか、パリではバガテル宮殿を使って大きな個展を開いている。個展は大きな反響で、『ル・フィガロ』『ル・モンド』のほか各紙および、アメリカの『タイム』にも「花のピカソ」という言葉で紹介され、たいへんな数の観客が訪れたという(『創造の森』1981)。 下は、フランスの美術と建築の専門雑誌『オージュルデュイ』に掲載された記事である。 *********************** 『Domus』302号、P42に蒼風の記事「 composizioni decorative giapponesi 」 (日本の装飾造形)があるそうだが、未見です *********************** 『ヨーロッパの旅』は、蒼風氏が旅の記憶が新しいうちにまとめられたもので、見聞きし体験し感じたことがいきいきと描かれており、当時の欧州の状況が垣間見れる。先年(1952年)にアメリカに招待されて見てきているので、その比較も興味深い。 ・ヨーロッパ各地に戦前からの草月流で学んだ弟子がいて多くの孫弟子がいたこと (大正から昭和のはじめに外務大臣をしてい内田康哉氏の妻子が草月を学んでおり、その知人、各国大使夫人の間では草月流を学ぶ人が多かった) ・写真家の巨匠、ドアノー氏と交流し、モデルの頭に花をいけたものを「ヴォーグ」誌のために撮影した、という話 ・バガテル宮殿での個展のために、どのような準備をしたのか ・当時のフランスやイギリスの「いけばな」がどのような状況だったのか ・パリにおける芸術家のようす など、 興味深いことがたくさん拾うことができておもしろい。 ゴムの葉とプラタナスの葉、たった2枚で構成された この作品がとても注目されたという 勅使河原蒼風 『ヨーロッパの旅』 昭和31(1956)年 東峰書房 から ******************* ドアノさん  パリでカメラマンのドアノさんとたびたびあえたのはうれしかった。  いちばん最初は大使館公邸のレセプシンのときで、わたしはもうじきお客さんが来るというので、会場全体の仕上げに廻っていると、女の人にライトを持たせてわたしの花を写真にとっている人がいた。  ちょっと見ても普通の写真屋さんでないことがすぐわかるので、誰かしらとおもって

バディ・ベンツの花の学校で学ぶ  2週間、10日のコースで材料コミコミ125ドル

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  8ミリフィルムカメラで動画撮影しているようだ。https://ainomono.blogspot.com/2022/04/blog-post.html 『小原流挿花』 1957年6月号 *********************** ☆アメリカのおはなの学校☆ ―ベンツさんのこと 編集部  ”ベンツ・スクール”ときいても、私達日本人の耳には全然おなじみがありません。しかし、アメリカにもはなのいけ方を教える学校があって独創的なはなの飾り方を研究している人達が多勢通っているときけば、日本はいけばなの総元締と思っている私達もそれはそれはと、目をむいて見直したくなって来ます。ベンツ・スクールというのはテキサスにあり、その様な花のデザインの学校の一つです。  その学校の経営者であり、ガーデン・クラブの会員であり、花のデザインの専門家であるミスター・ベンツが、先頃、御影の家元邸を訪れられ、折からいけこみ中の神戸花展で、流人の活躍ぶりをつぶさに見学、カメラにその情景をおさめて行かれました。  アメリカの花屋さんには。必ず花をデザインする専門家がいて、注文に応じて、花の飾りつけをするらしい。或時はそれがバラのアーチであったり、或時は胸につけるコルサージであったり、出張して行って飾りつけて来たり、買いに来た人に作って渡したりするわけです。日本のいけばなとは全然発端からして違うわけですが、日本では仏への供花から上流社会の室内装飾ともなり、やがて町人階級にも普及し、婦女子のたしなみともたり、現代にいけばなの先生という職業が広くゆきわたっているのに対して、日本の様に安い花が日常手にはいるわけにはいかないアメリカで、花屋につきものゝ花のデザイナーという職業が、専門家として必要されているということは、全く対照的で面白いと思います。  日本のおはなの先生達の中から、段々花のデザイナー的方面への自由な活動を伸ばして行く傾向は、すでにどんどん出て来ました。手近かな所では、銀座のウィンドウをひき受けるとか、パーティーの室内の花を一切受持つとかいう場合です。又アメリカの花屋さんのデザイナー達の中から、より精神的なものを日本のいけばなに求めたり、日本スタイルの花の基本を習ってそれを他人に教授する人なども出てくることでしょう。  教えること、飾りつけの技術で立つこと、更に作品を買われるということ。これ等

1961年(60年前)の、 いけばなとテレビ  舞台空間やテレビ番組の映像イメージを大きく左右させる美術「装置」への展開

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『小原流挿花』1961(昭和36)年 6月号から  図7の右端に見える切り株が「L」を表す (次ページの右上のイラスト) *高田一郎氏は舞台美術家、武蔵野美術大学で教授を務められた。 *ペリーコモ・ショーの図以外の舞台美術、装置の制作は、小原流の「いけばなデザイナー」工藤和彦氏とル・オブジェ・アール・スタジオの栗田明氏が関わったとある。 *工藤和彦氏は大正15年、小原流の工藤光洲・光園の次男として東京に生まれた。長男はいけばな評論家であり花道史家であり実作家でもあった工藤昌伸氏。2016年に逝去された。90歳。 https://www.kenbi.info/introduction/profile-kazuhiko/ プロフィール https://www.kenbi.info/introduction/kenbi-3rd/ *株式会社ル・オブジェ・アール・スタジオ(STUDIO L'OBJET ART CO.,LTD.)は、テレビ番組の美術製作・大道具および背景セット・オブジェを行う制作プロダクション。日本テレビ系を中心に仕事をされているという。 https://studio-objet.wixsite.com/objet ************************* 『小原流挿花』1961(昭和36)年 6月号から 陽のあたる場所の背後で ――若々しいテレビの装置―― 高田一郎  「あなたは最近土をふんだことがありますか」――と都会生活をしている人にきいてごらんなさい。  「土ですって?」  大ていの人はまずそういってから、一寸考えるでしょう。 「さあ、そういわれると……そうだ、先月ハイキングにいったときにはたしかに土の上を歩いたけど…」というようなことになってしまいます。  都会に住む人々にとっては、自然は遠のいてしまい、たとえ小さくとも、庭を持って草花を楽しむことなども難しくなってしまいました。  鉄筋のアパートに住み、コンクリートとガラスの壁の中で、人工光に照らされながら働く、現代の私たちの生活様式は昔とは完全に変わってしまいました。  私たちの周囲には、自然の草木のかわりにビルがそびえたち、その間を沢山の自動車や電車がいそかしげに走り廻っています。  このようなメカニックな世界のなかで過ごす、現代の人間の生活感情には、昔のようにのどかな、ロマ

ヴァイニング夫人といけばな 小原流、平光波さんとのつながり

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  『皇太子の窓』ヴァイニング夫人/小泉一郎・訳 文藝春秋2015 1 949(昭和24)年に行なわれた文部大臣招待 第一回日本花道展 作品集『日本芸術 いけばな』 文部大臣招待第一回日本花道展出瓶花全集 日本華道会編集発行1949から 展覧会は上野の東京都美術館にて4月2日に開場、皇后陛下、三笠宮殿下が来場し鑑賞された。 ● ヴァイニング夫人のいけばなとの関わりと平光波先生とのつながりの深さがよくわかる記録。恵泉女学園でも教えていたこともここに明記されいており、秘書、高橋たね氏とのつながりも見えてきた。非常に興味深い。 ● ヴァイニング夫人が見た展覧会は、戦後初めて、日本を代表する一流のいけばな作家を集めた大きな花展で夫人が1950年には帰国しているところから見ても、第一回の日花展であったと思われる(皇太子の家庭教師は1946年から50年の12月まで務めていた)。 ●ちょうど、その作品を撮影した本が見つかったので、写真を掲載する。 ●ヴァイニング夫人と平光波氏について https://ainomono.blogspot.com/2022/04/1950.html 平光波氏の肖像 『花と緑の三十年』浅田藤雄1990から ********************* 第二十八章  皇太子殿下が西洋の世界へ小旅行を試みておられる間に、私の方では、日本のいつも変ることのない生活や思想――私をとりかこんでいる戦後の日本ではなく、戦前に、そしてあらゆる戦争とは別個に存在してきた日本、政治の嵐にみだされることなく、永劫の未来へ続いてゆく日本の生活や思想――への洞察を与えてくれる経験をしていた。  日本の生花は古い、立派な芸術である。それは、はじめ仏教のある僧侶が一枝の松を寺に持ち帰って、枝を矯め形をととのえてから仏壇の前に供えた、数百年の昔にさかのぼる芸術である。生花のお稽古は、日本のほとんどすべての若い娘たちの教育の一部となっており、結婚した婦人たちでも何年もお稽古を続ける者が多い。男の人でも、この道に深い造詣を示している者がすくなくない。  日本ではどこへ行っても生花が見られる。個人の家のどの部屋にも、トコノマに生花がある。私たち西洋人の活ける花のように、あらゆる角度から眺めるという活け方ではなくて、絵のように、正面からだけ眺めるものなのである。ほとんどどの店にも生花がある。

1987年に発行された『復刻ダイジェスト版 実際園芸 1926-1936』 刊行にあたって植村猶行氏の案内文

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  『実際園芸』主幹 石井勇義氏(1892-1953) 『日本花き園芸産業史・20世紀』p617 林勇氏の記事に辻村農園時代の写真あり。 ************************* 復刻版刊行にあたって (『復刻ダイジェスト版 実際園芸 1926-1936』1987年) 農園芸分野出版活動の源泉  誠文堂新光社創立七五年の記念事業の一環として、雑誌「実際園芸」の復刻版を発行することになった。それは科学部門・電子部門と共に農園芸部門が、誠文堂新光社を支える三大柱の一つであり、そして、農園芸部門の出版活動の源泉が、この雑誌「実際園芸」にあったからである。「実際園芸」は、現在の「農耕と園芸」の前身である。  かつて、私の名刺を手にされた園芸家の誰彼は、「ああ、誠文堂ですか! あの、実際園芸の…」と、いかにも懐しそうに、暫くはその思い出話に花が咲き、お蔭で初対面の方でも、十年の知己のように、親しくご案内下さったものである。もう休刊してから四十数年というのに…。こんなにも多くの方々に、強烈な印象を残した雑誌「実際園芸」(創刊大正十五年十月)とは いったいどんな雑誌だったのだろう?  休刊(昭和十六年十二月)してから四十数年を経た今日では、話に聞いたことはあっても、実際手にとって見た人はごく少ないに違いない。そこで当初の企画では、当時と同じボリュウムで、似たような質の紙を使って。まず手に持った実感を味わっていただこうと考えたが、いささか欲張りすぎて、重量感はややオーバー気味だ。しかし、口絵のグラビア頁も入れてみたので、開いた時の感じは出せたと思うのだが…。  さて、内容についてはどうだろう?   特色とその表現に苦心  多くの園芸家の激賞を受け、彼等に強烈な印象を残した「実際園芸」とは、どんな特色をもっていたのだろう? 「創刊十周年に際して」(二〇六頁)の中で。当時の園芸界をリードしていた五〇名の斯界の権威者達の言葉が、よくその内容を伝えているので、それらを要約してみよう。 (1) 超一流の実際園芸家の貴い体験を、おしげもなく発表、紹介している。 (2) 新しい学理や技術が一流学者によって、平易に解説されている。 (3) 花を中心に果樹・野菜・造園・ペット・フラワーデザイン等々、幅広く園芸関連の事象全般を網羅して編集されている。 (4) 国内だけでなく、海外の研究速報や

「明治年間花卉園芸私考」 前田曙山  (『明治園芸発達史』1915から)

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  前田曙山の肖像(『明治園芸発達史』1915から) 『明治園芸発達史』1915から前田曙山(前田次郎)の「明治年間花卉園芸私考」をテキスト化しました。旧漢字や送り仮名を直して読みやすくしてあります。 ************************ 明治年間花卉園芸私考 前田曙山   著者日 本記述は明治年間に於ける花卉園芸の管見で、只著者の見たまま感じたままを、記憶を辿って記載したに過ぎない、或は無用の漫罵に過ぎなかるべきも、若しも他山の石となる事あらば、著者望外の満足である。  細身の刀に巻羽織、華奢風流を競いし徳川氏の中世は、竹刀執る手に三味線擁えて、端唄の咽喉を自慢するような怪しからぬ武家が出て来た。 世を挙げて滔々文弱に流るる時に、我花卉園芸は発達した のである。花卉園芸と淫靡という事は、何等かの関係があるように聞えて語弊があるけれども、事実 殺伐な世の中に、花や盆栽を楽しむような余裕はない 、うっかりすると笠の台が飛ぶような物騒な時に、植木道楽でもないとすると、大刀は鞘弓は袋の 泰平無事な時でなければ園芸は発達せぬ 。勿論単に此道ばかりではない、 凡ての文化は泰平にして始めて発展するのである から、 花卉園芸と文弱とは、親類より親しい他人でなくばならない 。例へば夫婦の如きものであろうか、夫婦は元々他人であるが、之が一つになると、親子兄弟よりも親しくなる、花卉園芸と文弱とは猶人間の夫婦の如きではあるまいか。但し媒人を立てた正式のものか、野合で出来た内縁かは、説明の限りではない。  遡って東山時代、即ち足利義政公、或は更に遡った藤原時代には、花卉を愛翫する事が盛んであった。夫は史乗のみならず、文学書類にも散見する、藤原時代に花卉を贈物とした事や、花卉に寄する恋の歌、或いは菊合の会に菊花の品評をしたり、花の宴という風流な遊びをしたなど、数えれば僕を更うるも盡きぬ程ある。降って東山時代の足利氏掉尾の全盛期には、立花の名匠として名人珠光を出し、書人にして造庭盆栽の技に秀でた松雪斎相阿彌が居る、其他絵画に彫刻に、大家巨匠一代に輩出したのである。夫より豊臣氏が天下の権を掌握し、四海暫らく靜謐となるに及んで、千利休の如き花道の巨匠を出し、 頓て(やがて)徳川氏になってから、次第に花卉園芸の技術が進歩したのである 。之を明治年間に比すると、 明治の方が徳川氏中世の全盛

1950年代のいけばな東西交流 ヴァイニング夫人のいけばな観

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  『小原流挿花』1957(昭和32)年9、10月合併号から 記事右上の肖像写真は、ヴァイニング夫人 1950年代のいけばな日米交流に関連して、戦後、日本の皇太子(現・上皇)の家庭教師として招聘されたヴァイニング夫人のインタビュー記事が『小原流挿花』誌に掲載されている。ヴァイニング夫人はすでに帰国されていたが、当時、ペンクラブの招きで来日されていたところを親しくされていた小原流の花人、平光波氏に間に入ってもらって話を聞くことができたという。 平光波氏は、仙台で小原流の師範をされていた平一鶯氏(初期の小原流を支えた女流花人、夫は日露戦争で戦死)の娘で、若い頃から親の代わりに稽古を務めるほどの腕前で、大阪に長期滞在し(国内留学)初代雲心、ニ代光雲に花を教わったという伝説的な重鎮であった。のちに上京して、小原流の中核で多くの仕事をなした。キリスト教を厚く信仰した関係から花を通じて上流階級の人々とのつながりができ、皇居内の内親王(女性皇族)の教育に使われる「呉竹寮」で花を飾り、また教えていた。皇太子、宮様方にもいけばなを教える機会もあったという。そのため、戦後に、ヴァイニング夫人とも親しく交わり、夫人の書いた『皇太子の窓』の第28章に登場している。平氏は、戦前にも外国人に花を教える経験を持っていたが、終戦直後に、あのアーニーパイルで進駐軍の夫人方にいけばなを教えた勅使河原蒼風氏や池坊の鈴木玉星、古流の池田理英ら で構成された講師陣のメンバーに入っており、そこからさらに大使夫人など数多くの外国人に教えるようになっていった。 この記事は著者が記されていないが、編集部でまとめたものであろう。話を聞いたのは工藤昌伸氏だった。場所は愛宕山下の懐石料理「醍醐」という店で、これは飛騨高山の角正の東京店であると聞いた工藤氏が食通振りを発揮し、会席についてのうんちくを一くさり話してその学の深さを披露したと後記(「スケッチブック」)にしるされている。醍醐は、現在も営業しているようだ。 ◎精進料理 醍醐    http://www.atago-daigo.jp/ ※参考 『平光波作品集』  昭和59(1984)年発行  小原流文化事業部 ●『皇太子の窓』第28章 https://ainomono.blogspot.com/2022/04/blog-post_14.html ***********

【重要資料】 1958(昭和33年) アメリカにおける空前の「イケバナ」ブームの状況と危惧について 小原流、小原豊雲氏の欧米講演旅行報告

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 1950年代にバディ・ベンツ氏が打ち出した 「ジオメトリック・デザイン」には、いけばなの影響が強くみてとれるが、 いけばな史研究者の工藤昌伸氏によると、 ベンツ氏のアメリカ式いけばなは、 「スタビリティ(安定性、永続性)」を重視 したものであって そこが本質的に大きく異なっている、と看破している。 その証左が小原豊雲家元の講演の話の中に出ている。 ◎昭和33年 1958年の『小原流挿花』12月号から  この資料は、昭和30年代の日本のいけばなと欧米の、とくにアメリカの「イケバナ」ブーム、あるいは、アメリカンスタイルの花がどのように東西交流のなかで形成されていったのかがわかるたいへんに重要な証言だと感じられる。  当時、アメリカでは空前のいけばなブームがあったという。その原因は、戦後、日本に駐留した米軍兵士に帯同して来日した夫人たちが数少ない娯楽のひとつとしていけばなを学び、その魅力を知ったのちに帰国して花を教えるようになったことが大きい。さらに、花をもりもり飾るだけのスタイルがあきられていたところに新しい流行として広められたこと。もうひとつは、コストが安くすむということだったと小原氏は述べている。お金をかけずに、美しく飾れて、しかも目新しいスタイルだというのは確かに、誰にとってもたいへんに魅力がある。  日本の戦後のフラワーデザインに重要な影響を与えた、”ビル”・キスラー、”バディ”・ベンツ氏がともに小原流いけばなに深い関係を持っている人であったことは非常に興味深い事実なのだが、この講演録では、ベンツ氏が小原豊雲氏にたいして、ヒューストンのアトリエで特別に披露してみせたことがかなり具体的に話されているところが注目に値する。  ベンツ氏は、自分のスタイル(のちに「ジオメトリック・デザイン」と呼ぶようになる)について、日本のいけばなの影響をかたくなに否定したというが、その一番のポイントが、日本のいけばなは「すぐに壊れてしまう」「持ち運べない」ものであるのに対して、自分のスタイルではそれがない=技術的に完成されている、と考えていたのではなかったか。これは、職業人としてのフローリストが自分の工房で花を制作し、それを完成品として飾られる場所へ運ぶ、という欧米のフラワーデザインの基本であろう。その意味からすると、日本のいけばなは、現場でその空間に合わせて即興でいけられるもので