『実際園芸』主幹 石井勇義氏(1892-1953)
『日本花き園芸産業史・20世紀』p617 林勇氏の記事に辻村農園時代の写真あり。
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復刻版刊行にあたって(『復刻ダイジェスト版 実際園芸 1926-1936』1987年)
農園芸分野出版活動の源泉
誠文堂新光社創立七五年の記念事業の一環として、雑誌「実際園芸」の復刻版を発行することになった。それは科学部門・電子部門と共に農園芸部門が、誠文堂新光社を支える三大柱の一つであり、そして、農園芸部門の出版活動の源泉が、この雑誌「実際園芸」にあったからである。「実際園芸」は、現在の「農耕と園芸」の前身である。
かつて、私の名刺を手にされた園芸家の誰彼は、「ああ、誠文堂ですか! あの、実際園芸の…」と、いかにも懐しそうに、暫くはその思い出話に花が咲き、お蔭で初対面の方でも、十年の知己のように、親しくご案内下さったものである。もう休刊してから四十数年というのに…。こんなにも多くの方々に、強烈な印象を残した雑誌「実際園芸」(創刊大正十五年十月)とは
いったいどんな雑誌だったのだろう?
休刊(昭和十六年十二月)してから四十数年を経た今日では、話に聞いたことはあっても、実際手にとって見た人はごく少ないに違いない。そこで当初の企画では、当時と同じボリュウムで、似たような質の紙を使って。まず手に持った実感を味わっていただこうと考えたが、いささか欲張りすぎて、重量感はややオーバー気味だ。しかし、口絵のグラビア頁も入れてみたので、開いた時の感じは出せたと思うのだが…。
さて、内容についてはどうだろう?
特色とその表現に苦心
多くの園芸家の激賞を受け、彼等に強烈な印象を残した「実際園芸」とは、どんな特色をもっていたのだろう?
「創刊十周年に際して」(二〇六頁)の中で。当時の園芸界をリードしていた五〇名の斯界の権威者達の言葉が、よくその内容を伝えているので、それらを要約してみよう。
(1) 超一流の実際園芸家の貴い体験を、おしげもなく発表、紹介している。
(2) 新しい学理や技術が一流学者によって、平易に解説されている。
(3) 花を中心に果樹・野菜・造園・ペット・フラワーデザイン等々、幅広く園芸関連の事象全般を網羅して編集されている。
(4) 国内だけでなく、海外の研究速報やニュース、市場の市況も速報されていて。国際性がある。
(5) 学理に偏せず、実技に片寄らず、実際家にも学者や技術者にも、趣味の園芸家にも幅広く役立つので、読者層の幅が広い。
(6) 読んで役立つばかりでなく、美しい写真や図解が豊富で分りやすく、見ても楽しめる。
(7) 時に応じて、①アサガオ、②キク、③サボテンと多肉植物、④高山植物、⑤バラ、⑥皐月、⑦メロン等、主要作目の特集号を発行して雑誌で表わし得ない充実感の欠を補っている。
(8) 内容が斬新で、現在でも充分に通用する価値ある記事が多い。
(9) ある分野に偏することなく、記事の配分のバランスがよいので、どの分野の人が見ても魅力的である。
(10) 総合すると、内外を通じて屈指の勝れた園芸雑誌といえよう。
以上のような点が多くの人々に親しまれたポイントと思われるので、復刻版の編集に当っても、これらの点を考慮して、その特色の表現には注意した。そして、「実際園芸」は創刊から休刊まで全二十七巻に及ぶが、本復刻版は創刊から昭和十年までの間(*10年間)にしばり、その中から、その当時、活躍された方々の記事――現代の園芸の礎となった人々とその植物――という観点から内容を構成した。その経過については編集後記に記したので合わせてご覧いただきたいと思う。 (植村猶行)
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石井勇義の生い立ち
明治25(1892)年9月20日 千葉県山武郡土気本郷町下大和田(現千葉市)の農家の次男として生れた
明治39(1906)年4月 千葉県立成東中学校に入学
明治44(1911)年3月 中退 以後農学校の教師助手を務める
*辻村常助(1908-1959)氏の記憶で「埴科農学校」という名前が出てくるが、実際は、千葉県山武郡の山武杉育成に貢献した「埴岡農林学校(1908年創立)」ではないか?
大正2(1913)年4月 小田原市の辻村農園に園芸研究生として入る
大正7(1918)年10月 東洋園芸会社(恩地剛氏経営)へ引き抜かれ,三軒茶屋の農場の園芸主任となる.東洋園芸は新宿に花店を開設していた(*のちに永島四郎が入社)
大正7年から8年頃の写真だと思われる(原田三夫『思い出の七十年』1966)
大正8(1919)年 結核を発病し,千葉医学専門学校付属病院に入院後、近所の旅館九十九館で予後を養う 前後約3年間を要す
大正9(1920)年5月 誠文堂主小川菊松と知り合う
※遅くとも大正8年までには知り合っていると思われる(上写真)。
大正11(1922)年 大原町の藍野家の地所の一角に花園「イシヰ・ナーセリー」を開設.ここでシネラリア,プリムラなど高級西洋草花の採種をし,種子の販売業を始める
大正13(1924)年 安枝夫人と結婚
大正14(1925)年 長女美代子誕生
大正15(1926)年10月 『実際園芸』を創刊
12月 東京・東中野へ移転
昭和3(1928)年 小石川原町(植物園の近く)へ移転
長男林寧誕生
昭和4(1929)年4月 青山学院女子専門講師となる.昭和23年3月までつづく
昭和10(1935)年 杉並区大宮前へ移転
昭和16(1941)年12月 『実際園芸』休刊(第27巻12号を最終号とした)
昭和19(1944)年3月 『園芸大辞典』第1巻発刊
昭和20(1945)年5月 恵泉女学園女子農芸専門学校(現恵泉女学園短期大学園芸生活科)の教授となり,同校の創立に働く.昭和28(1953)年7月の逝去の日まで続く
昭和23(1948)年10月 農林省種苗審査会委員(後の農林省農業資材審議会種苗部)を務める.逝去の日までつづく.
昭和24(1949)年4月 園芸学会にて「伊藤伊兵衛及び地錦抄の研究」を発表.
昭和25(1950)年度,「葉の形態によるツバキ品種の識別に関する研究」に対し,文部省より科学研究費を交付される
昭和25年度と26年度 『園芸大辞典』に対し文部省研究成果刊行費を交付される
昭和28(1953)年7月29日 逝去される
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『ガーデンライフ』1987年6月号に掲載された『復刻ダイジェスト版 実際園芸 1926-1936』 刊行にあたって植村猶行氏(元農耕と園芸、ガーデンライフ編集長)の案内文
『復刻ダイジェスト版・實際園藝』発刊によせて
植村猶行
誠文堂新光社創立七十五年の記念事業の一環として。雑誌『實際園藝』の復刻版が発行されます。それは農園芸部門が科学部門と電子部門とともに、誠文堂新光社を支える三大柱の一つであり。そして、農園芸部門の出版活動の源泉が、この雑誌『實際園藝』にあったからでしょう。
といっても、最近の読者の皆様方の中には『實際園藝』がどんな雑誌で、『ガーデンライフ』とどのような係わりがあるのか? ご存知ない方が多いと思いますので、その生い立ちについてお話してみましょう。
『實際園藝』の生い立ち
誠文堂の創業者小川菊松が科学ジャーナリスト原田三夫氏(『子供の科学』主幹)の紹介で、石井勇義氏を知ったのは大正九年五月でした。石井氏の熱心な園芸図書著作への抱負を聞いて、すっかり魅了された小川菊松は。即座に『實際園藝叢書』全十二巻の発刊を決意したといいます。
当時の石井勇義氏は、小田原市の辻村農園に勤務していたところをアメリカ帰りの恩地剛氏に引き抜かれ、東洋園芸会社の農場長として働いていたのですが、胸を病み、二年間の療養生活の後、社会復帰をしようと千葉県大原町でイシヰ・ナーセリーを開設したばかりのころでした。
氏の園芸技術や知識もさることながら、文章による表現力の非凡なことを知っていた原田三夫氏の推せんもあって、大正十五年十月、ついに石井勇義氏を主幹として『實際園藝』を創刊し、園芸の大衆化にのり出したのでした。
それは、関東大震災で壊滅的な打撃を受けてから三年目でしたが、この前後は国民の復興への気運が勃然として上昇し、あらゆる面で飛躍的な発展を遂げた時代でした。園芸界もまた、その時流に乗って、今まで一部の特殊階級の間でしか行なわれていなかったものが、国民全体の生活の中に浸透していく気運に向いていました。
それは震災後、国民が生活の内容の豊かさを求めるようになってきたことと、新しく建てられた家に付属して造られる庭も多く、そこを緑化する人も増えてきました。そしてこの傾向は郊外へ郊外へと広がる生活環境によって増幅されて、家庭園芸の勃興を促す結果になったものと思われます。
その結果、『實際園藝』の人気は上昇し、年とともに充実して部数を伸ばし、代表的な園芸雑誌として発展したわけです。
当時の園芸家は雑誌『實際園藝』を片手に経営し、その記事によって育くまれ、高度の理論や技術を習得していった、といっても過言ではありません。それだけに、当時の読者は強烈な印象を植えつけられていたのです。
ところが、昭和六年九月、満州事変が勃発し、政府の不拡大方針にもかかわらず、戦禍はずるずると拡大して泥沼化の様相を呈していきました。とはいっても、昭和十年前後まではむしろ景気のよい宣伝と、戦勝気分と、広大な満州の領土を新しい活躍の場として獲得したわが国の経済は活況を呈していったのですが、やがて世界中のひんしゆくを買い、米英を中心に経済的な締めつけが厳しくなって、昭和十六年十二月八日、ついに米英と戦争を開始するの止むなきに至ったのでした。
その結果、物資は欠乏し、新聞や雑誌の用紙不足から、各社で発行する雑誌の数を減らすよう警視庁から指示されたのでした。これを受けた誠文堂新光社では全発行雑誌八誌のうち『商店界』と『広告界』と『實際園藝』が廃刊と決まり、多くの読者に惜しまれつつ、昭和十六年、二十七巻十二号をもって休刊となりました。(*休刊が決定したのは米英との開戦前の話だと思われる)
『農耕と園芸』に改題して
激しかった第二次世界大戦も、大きな犠牲をはらって、昭和二十年八月十五日、敗戦に終わったのです。かつて大正十二年の関東大震災で壊滅的な打撃を体験していた小川菊松は、戦争が終わると早速復興への計画に立ち向かいました。
当然ながら『實際園藝』誌の復刊が計られましたが、昭和十六年当時『農業世界』などが、食糧増産のための重要な指導誌として継続して刊行されていましたので、『農耕と園芸』と農の一字を入れることを提案し、ここに『實際園藝』は『農耕と園芸』と改題して昭和二十一年から新しく出発することになりました。編集主幹は前と同じ石井勇義氏でした。
以来『農耕と園芸』も戦後の農園芸界の変化につれて、食糧増産の記事をとりあげてきましたが、二十年代後半になって食糧事情も安定化のめどが立ち、家庭菜園がじよじよに花作りへと移行し始めますと、昔の『實際園藝』への復帰を望む声が出始めました。
このころ、主幹の石井勇義氏は畢生の大事業としての『園芸大辞典』の編集に没頭し始め、『農耕と園芸』の編集は小松崎英男編集長に任されていました。そして、昭和二す八年七月二す九日夜中過ぎまで、机に向かいペンを走らせていた石井勇義氏は突然苦しみを訴え、呼吸困難におちいり、早朝ついに不帰の客となりました。心臓肥大と肺水腫が重なっていたとのことです。時に六十歳とすヵ月、まだまだ活躍のできる年齢でした。
昭和二す年代の終わりごろから趣味の花作りが急増し、適切な指導雑誌を求める声が出始めましたが、そのころ『農耕と国芸』はすでに獲得した営利園芸の面での指導的雑誌としての立場を変更できない情勢下にあり、色紙による若干頁を趣味園芸家向きの頁として創設して、それらの要求にこたえようと努力しましたが、昭和三十七年春、ついに趣味園芸家を対象とした『ガーデンライフ』(季刊誌)を創刊し、『實際園藝』の現代版を目標に編集を始めました。そして、九年後の昭和四す六年、ついに月刊に踏み切り現在に至っ
ています。
そして昭和五十九(*1984)年三月、『ガーデンライフ』ではカバーしきれなくなったグリーンビジネス分野、つまり花や緑を扱うお店や、グリーンインテリアの仕事に従事する方々、フラワーデザイン関係の方々を対象とする新雑誌『フローリスト』を創刊して、ここに『實際国藝』誌は三誌に分解して、それぞれの分野でより充実した記事と内容で、より多くのより新しい情報を提供し続けています。
つまり、『農耕と園芸』と『ガーデンライフ』と『フローリスト』の三誌はいすれも『實際園藝』の現代版なわけです。いわば、これら三誌の総本家ともいうべき『實際園藝』とは、どんな雑誌だったのか理解していただくために『複刻版實際園藝』を刊行したわけです。
特色とその表現に苦心
当時の園芸家達がこの『實際園藝』誌をどのように評価していたか?を知ることのできる記録が、同誌す九巻四号に載っていました。というのは「創刊十周年に際して」と題する特集があり、当時の園芸界をリードした五十名の、斯界の権威者達が感想文を寄せていますので、それらを要約してご紹介してみましょう。
(1) 超一流の実際園芸家の貴い体験を、おしげもなく発表紹介している。
(2) 新しい学理や技術が、一流学者によって、平易に解説されている。
(3) 花を中心に果樹・野菜・造園・ペット・装飾デザイン等々、幅広く園芸関連の事象全般を網羅して特集されている。
(4) 国内だけでなく、海外の研究速報やニュース、市場の市況も速報されていて、国際性がある。
(5) 学理に偏せず、実技に片寄らず、実際家にも学者や技術者にも、趣味の園芸家にも役立つので、読者層の幅が広い。
(6) 読んで役立つのは勿論、美しい写真や図解が豊富で分りやすく、見ても楽しめる。
(7) 時に応じて、①アサガオ、②キク、③サツキ、④サボテンと多肉植物、⑤高山植物、⑥バラ、⑦メロン等々、主要作目の特集号を発行して雑誌の欠を補っている。
(8) 内容が斬新で、現在でも充分に通用する価値のある記事が多い。
(9) ある分野に偏することなく、記事の配分のバランスがよいので、どの分野の人が見ても魅力的である。
(10) 総合すると、内外を通じて屈指の勝れた園芸雑誌といえよう。
以上が本誌の特色であり、多くの方々から親まれた所以であると思われますので、複刻版をみてもこれらの点がよく再現されているように思われます。
●『復刻版實際園藝』の一部
明治維新以後、文明開化の波に乗って、近代国家へ転身したわが国は、あらゆる面でヨーロッパ文明の導入に心がけ、明治十九年には勧農局試験場の技官だった福羽逸人氏をフランスへ留学させています。滞欧三年の後、明治二十二年に帰朝した福羽先生は農商務省の技師となり、一方、農科大学(現東京農工大の前身)の講師となり、園芸の講座を担当されました。わが国園芸界草創期の指導者の中心的人物であります。同氏の紹介記事は即、わが国園芸界黎明期の紹介でもあります。
このころの園芸界をリードした組織として「日本園芸会」(明治二十二年設立)がありますが、その会報『日本園芸会雑誌』も口絵で紹介されています。そのメンバーや活動状況? 何時まで続いた? なども知りたいものです。
●温室園芸の始まり
明治十八年ごろ、横浜市在住の英国人ジンスデル氏は、小型温室を建て、趣味として洋らんを栽培していました。ところが商売がうまくいかなくなって、店をたたんで帰国することになり、家屋敷を売却する破目になりました。
明治二十五年、新宿御苑内に初めて温室が建てられ、熱帯性植物を収集する必要にせまられていたので、このジンスデル氏からラン科植物を園芸図書や栽培に必要な設備、器具資料ともども一括して買いとりましたが、この折衝に当たられたのが福羽逸人博士で、市川之雄氏の「わが国実際園芸界の始祖、福羽博士を憶ふ」には、この間の事情が紹介されています。そして。わが国近代園芸の黎明期、温室園芸や洋らん栽培が開始された当時の事情を知る上に参考となる貴重な資料といえましょう。
これから後に福羽博士は、大隈家や岩崎家など、当時の華族や資産家の間に、洋らんの趣味栽培の楽しさを説き、社交的な趣味栽培としての洋らん栽培と、それに付随して、家庭での温室建設を奨励して、民間での高級な趣味園芸の発展に寄与したようです。
●パリっ子を驚かせた大菊の千輪仕立て新宿御苑の秋の菊花展は伝統ある行事で、そこに飾られるキクの多くは御苑内で改良育成されたもののようですが、その源は福羽博士によることが前述の市川氏の記事に紹介されています。
ところが、明治三十三年(一九〇〇)に、フランスのパリで開催された『万国大博覧会』に参加したわが国は、日本庭園を建設しましたが、その一部に千輪仕立ての大ギクを出品したとあります。一株に数百花の花を整然と並べて咲かせる、この華麗で豪壮な雄姿を見た当時のパリっ子はど肝を抜かれたに違いありません。
文明の進んだ今日でも、ヨーロッパの園芸博に、あの素晴らしい千輪仕立ての大ギクを出品したいと思わないキク作りはいないことでしょう。しかし、その運搬業務の困難さや、現地での手入れのことを考えると、とても実行に移し得ないでいるのに、これを成しとげた明治の人の実行力の偉大さに、ただただ敬服し脱帽あるのみです。
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千葉の九十九館のこと (原田三夫『思い出の七十年』1966 p213)
病院坂の九十九館は、当時、この病院関係では唯一の療養施設だった。
主人の戸村氏は世話好きで親切で病院でも巾が聞き、どの医局にも自分の家のごとく出入りして患者のために医員に相談し交渉もしていた。
丈高く堂々としていたが、気立ては優しかった。若い時、かれはシベリヤ遠征で有名になった福島中将のお抱えの車夫をしていたが、すべての車を追い越す力があったという。
そのあいだに勉強して歯科医になったが、病人を助けようと郷里に帰って旅館を始めた。