東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です  大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事




花の都に花の村 一年間に切潰(きりつぶ)す花代二百五十万円 甲斐園治

『新公論』28(4)春季倍号から 1913(大正2)年4月

タイトルの切潰す、は、消費するというような意味。
明治末期から大正へ、時代の変わり目のすごいレポート。日本では温室でのカーネーションやバラ切花の営利栽培が始まったばかり。
日本経済はこの後、ヨーロッパの戦争の影響で好景気があり、その後、大不況があり、関東大震災があり、というふうに大きな波にさらされるようになります。
※日本の花産業は、関東大震災を境に、アメリカ式の大型温室による生産革命とセリをやる花市場による流通革命が起きます。その状況を生み出す前史が、この明治末期から大正の前期の好景気の時代になります。
※大正はじめの1円は現在の4000円という説あり。とりあえず、この文章に出てくる金額は3~4000倍にしてイメージしてみるといいかもしれません。3円は1万円から1,2000円。

※注 文中最後に近いところの藤の記述で「野田フジ」の本場、野田を下総野田と書いているが、大阪の野田が発祥の地であるので、勘違いしているのではないか?

※このテキストの下に実際のページ画像があります
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▲花エー、花エーと鋏をチャキつかせ(※注 ハサミを開け閉めして音を出しながら売り声をかけて歩いた)、来る日毎日、八百八町を流し、僅か二銭の仏壇花を切る光景のみを見た人には、それほど花屋の全盛を解し得まい、花エー花エーは僅かに花の都の序幕に過ぎない、植木屋にて取扱う、鉢、庭物の分は先づ別とし東京市内十五区にて切り潰す花代一ヶ年二百五十万円(※注 約100億円)と聞いては、花屋も満更馬鹿にはならぬ。
▲花屋の全盛 は一面に、花の都を語るのである『花を栽(う)えない東京にドウして其んなに花がある』此疑問に対しては普通の物資と同じく花屋にも、一種の問屋(といや)ありて花の都と花の村との連絡を取って居るのだと答うれば足る。
▲問屋 として地方より荷を受け、或は仲買人との間に取引ある主なるものは、花太(下谷)花長、長松(南千住)花源(三の輪)花百、花十(深川)花久米、花彦、花常(浅草)花幾(本所)花次、花直(芝)等にして、昔は江戸の城下に卸しの外は一切小売をせぬ問屋は十三軒と極まって居たが、今は無茶苦茶で、間屋は大に小売を行(や)り、甚しきに至りては大に持出し(※注 行商だと思われる)まで遣って居る、昔のように卸し専門の問屋は一軒もない、其れだけ今は花屋のセリ(※注 セリ売りという意味ではなく競争という意味だと思われる)が劇しくなったのだ。
▲小売の主なる者 は花十(麹町三丁目、宮内省御用)(※注 高木重次郎の花重だと思われる。花十✕)花政(麹町八丁目、小売中の第一流に属す)花茂(青山七丁目、神葬●(※注 文字不明、神葬地? 青山墓地内か?)花屋の親方)花森(青山 ※後の須藤花店と思われる)花岩(赤坂田町六丁目)花久(神田錦町)花重(神田鍛冶町、鎌倉河岸葬儀社の分一手引受)小西(芝三田通り)(※注 花銀)大庖(芝魚籃下)花勝(芝三光坂下)花一(麻布十番、紅葉館出入)花喜三(はなきさ 日本橋檜物町、帝国ホテル出入、小売中の第一流に属す)花安(日本橋蛎殻町)鈴木(同町、茶花投入専門)花●(※注 文字不明、のぎへん、花秋という花商あり)(馬喰町三丁目)花峯(久松町)花喜野(米沢町二丁目、三越呉服店、両国国技館出入)花豊(米沢町一丁目)花作(茅場町、小売中の第一流に属す、横井商店とも云ふ)花清(通り三丁目)花●(※注 文字不明、豊? 花豊という花商が牛込寺町にあり)(牛込寺町、花屋仲間の資産家)花十(下谷谷中)花八十(神田明神下、一名田島商店、宮内省御用、築地上野精養軒出入、小売中の第一流に属す)花仙(四谷塩町三丁目)花豊(四谷伝馬町お假屋横丁)園芸舎(新宿電車終点)花市(本所曳舟街道)花新(本所竹町)等にして、東京市内於ける大小の花屋は、問屋及茶花、投入物専門を合し、其総数五百七十余戸あり、是等花屋の
▲一ヶ月売上高平均拾五万円 此内日本花十三万円、西洋花二万円の割合(主に小売のみの計算にて此の中には問屋の取引商及売子の流し商を算入せず)にして
▲一ヶ年の売上高 は大約百八十万円の多額に上ぼって居る、而して其の商内高(あきないだか)の最高は一ヶ月三千円乃至五千円に上ぼり、第三流以下の小店にても最低三四十円より七八十円を下らずと云う、更に其の小売より生ずる
▲利益の割合如何 を聞くに「薬九層倍、花十層倍(くすりくそうばい、はなじゅっそうばい)」と云う諺さえあり、昔より花屋はアブク銭を取る商売で金の冥利に尽き「花屋三代続かず」と云う童歌(どうか)さえ伝わって居る、ケレど今日のセチガラでは、取りたくも取らせない、先づ折返しが関の山(※注 仕入れ値の倍)。即ち一円売って五拾銭の儲かり、尤とも事と品とに依っては七八掛に廻わるのもある、即ち十円の尻(※注 売価)で七円乃至八円の暴利を貪ぼり得る例も偶(たま)にはあるらしい。
▲其の代りローヅ(※注 枯れ、折れなどによる廃棄ロス)も沢山出る  花のローヅと来ては全然割引が利かぬ、結局の問題が棄り(すたり)ものを巧(たくみ)に拾う工夫に落つるのだ、一把二銭の仏壇花(※注 仏花を買うお客)は花屋としては上々のお客で、お次がお寺物、葬式花、之に反し
▲お屋敷納(おやしきおさめ)乃至活花(いけばな)の先生 と御座っては下の下だ、お小言の割合に儲かりが少い、皇族(みやさま)方、華族、富豪のお屋敷納は通例活手間料(いけてまりょう)を合して、月に七八円から十五六円に上ぼり、暮には七八十円から百二三十円に上ぼる例もあるが、競争流行の今日では、看板のみで威張って居る訳には往かぬ、家扶家令(かふ・かれい)其他のお係に如才なく袖下(そでした)を分けねばならぬ、殊に活花先生の図々しさには驚かざるを得ない。
▲一割よこせ、二割よこせ 花代は一般に弟子持であるから、高くても安くても先生関せず焉(えん)である。其処で、勘定の内より一割よこせ、二割よこせが出て来る、若しそれが不承知なら、他の花屋を聞いて見ようと、ドコの先生でもコンミッション(※注 バックマージン)で大騒ぎを遣(や)って御座る、其の代わり先生さへ巧く取込めば枯れた花でも売れる世の中。

▲花屋の売子 市内五百七十余戸ある花屋の下に幾人の売子が居るか、之は一寸(ちょっと)難かしい御尋ね、売子なしに店を女房に任かせて主人自ら流し歩くのもあり、出入先に御用聞き旁(かたがた)途中だけ流すのもある、之は無論売子の部には入らぬ、持出しの小僧は沢山居ても売子のつかない店がある、即ち売子は一定に花屋に専属したものではない、新聞の号外売と同じく儲かれば売り、儲からねば廃める、所謂(いわゆる)旦た(あした)に水草を逐(お)うの徒(※注 住所を持たず、水や草のある場所を求めて移り住むこと=水草(すいそう)を追う)だが、或る確かなる計算によれば、定業(じょうぎょう)のものが四季を通じて千三百人内外はあるらしい、而かも日本橋、神田、京橋、浅草の如き下町方面に最も多い。
▲売子一人の売上高 は期節其の他の関係により無論一様に律すべからずであるが、普通の場合に於て一日一円二三十銭、それで巧く往けば八九十銭の手取
になるので、植木職人の出面(でづら ※注 日雇い労働者の日当)よりは幾分割合がよろしいが、山の手に入れば終日声を涸らして漸(やっ)と三十銭内外のものもある、全部純益にしても僅か一家数口(すうこう)の米代にしか当たらぬ、ダガ、其処が所謂商売だ、賽日(さいにち ※いわゆるもの日)其の他に甘く打っかれば
▲一日に三円以上売れる こともある 仮に七掛と思っても二円余の純益にあたる、犬も歩けば棒に当る、彼等は十年、十五年の永き年月に能く此不定の呼吸を自覚して居るのだ。
▲風来の売子五六百人 桜が終んで花草の期節に這入ると蒲田、仲野、請地(※注 現在スカイツリーのあるところ)、亀戸、板橋、巣鴨、戸塚(※注 早稲田あたり)、千住、葛西、其の他近郷近在の産地より直接に風来の売子が隊を組んで這入って来る(※注 どこから来たのか素性のわからない人たち)、而して其の最も多き時は千二三百人、少き時と雖も猶ほ百人を下らず、普通の日に於て五六百人はドコかにウロついて居る、是等の風来が一日に売り上ぐる金高は、多きは三円、少なきも一円五六十銭を下らず、而かも是等は臨時の現象。
▲一日千円以上の金 は雨さえ降らねば必ず彼等の手に依って予定以外に浚(さら)われて居る、而かもそれが市中の花屋には何等の影響を与えず、花屋は花屋で平日の三倍も五倍も切って居る、天地自然は争わずして人の心機を一転させると見え、お陰で花屋は一年の霜枯れを此季節に取返すらしい、飛鳥山、向島の桜花に酔うた人心は、これからそろそろ真面目腐って目を室内の花に移すようになる。
▲泣くにも笑うにも皆花 花は人生の慰安として趣味の発展に伴い多々益々其の用途を広めて来た、活花、茶花、投入、一輪挿し葬儀用の竹筒挿、桶挿、花籠、環花、其の他西洋式の盛花、凡そ吉凶禍福皆是れ花ならざるはなし、而かも東京は惜しげなく花を消費する都となって居る、今試しに四月より七月まで四ヶ月間ドコの店でも能く売行くものを挙ぐれば、

◎四月 (此の月にも桜は多少残れり)金仙花、黄金水仙、矢車草、新菊早稲、藤、水仙、牡丹、躑躅、椿、スミレ、こうちょう(※注 どんな花か不明)、だんちょう(※注 シュウカイドウ、ベゴニア?)、バイヲレット、レナンキュラス、ムスカリ、ヒヤシンス、アスパラガス、エラーロップ(※注 ヘリオトロープ?)、サイネリヤ、ダリヤ、シクヌンバーシカム(※注 シクラメン・パーシカム)
青物類、即ち伊吹、そなれ、あららぎ、きゃら、まき、かんな、尺楠花(※シャクナゲ)、しだ、万年青、ひば、葉蘭の類にして是等は四季を通じ何れの月にも相当に売れる。

◎五月 牡丹、金鶏章、藤、矢車草、金仙花、花菖蒲、石竹(せきちく)、山吹、大和菊、翠菊(アスター)、芍蘖、撫子類、杜若、深井草(ふかいぐさ ※どんな植物か不明)、耬斗菜(おだまき:ろうとうさい)、夏菊早稲、躑躅(躑躅各種は此月の上旬最も能く売れる)藤、水仙、すみれ。フリジヤ、カイユウ(※注 カラー)、カーネーション、シクラメン、パーミカム(※注 シクラメン・パーシカム)、クロッキシスヤ(※注グロキシニア、クロコスミア?)、レナンキュラス、アスパラガス、ダリヤ、此外にも猶お前月よ りつづく者あり。
青物類一切。

◎六月 略ぼ前月に同じ。百合、千島草(一名飛燕草)皐月(さつき)、秋海棠、あやめ、梔子(くちなし)、虞美人草、黒種草、ナスタチアム、ベコニアセンパローレンス。
青物類一切。

◎七月 前月よりつづくものあり、そろそろ秋草を見る。桔梗、苅萓(かるかや)、女郎花。梅撫子(ビランジ)黄金柴(※注 不明)、金魚草、金雀花(えにしだ)、鶏頭、虎の尾、蔡(※注 不明 イネ科草もの全般?)、紫陽花、月見草、藤袴、紫苑、姫、すすぎ(※注 姫ススキ?)、松虫草。サスピクロッシス(※注 サルピグロッシス)、ゼラニューム
青物類一切。

以上は僅かに其の一例を示したもので、此以外にも猶お各種の草花類の多々あることを知るべしだ。

▲僅かに五十銭 か七十銭しか売上ない、小さな花屋の店頭にも、ダリヤ、カイユウ、カーネーション、ポインセチヤの如き西洋物を見るようになった、而かも一輪挿に向く花は海老茶袴の姐さんや、お若い書生さんに、何時も能く売れますと花屋の小僧は笑顔で語る。
▲花の大別 花には青物、木花、草花の三大種別がある、また自然咲と温室咲の区別がある、温室物は植木屋が本家だが植木屋は鉢と庭が専門で、僅かに切花の材料を出して居る位だ、ケレど花屋と植木屋とは恰(あた)かも兄弟の関係がある、怪しむ勿(なか)れ植木屋のローズは常に花屋の珍品となるのだ。
▲木花の取引市場 埼玉県足立郡安行二十三ヶ村は、既に人の知る如く、植木の市場を以って有名だ、安行に行けば植木は何んでもあると云うが如く「赤山(あかやま)に行けば木花(きばな)は何んでも揃う」ことになって居る、即ち赤山は木花の取引市場にして東京市内全部に切出す木花は其の九分通り
▲赤山の仲買 に依って取引せられて居る、仲買でも道楽商売の一種花屋の仲間には俗に「切出屋(きりだしや)」と云われて居る、即ち花屋と山元(やまもと)との間に立つ一個の鞘取(さやとり)である、木花では仲買と云い、草花では鞘取と云う通り名になって居る(※注 いわゆるブローカー)。
▲赤山は木花の中心ではあるが 絶対に花の産地ではない、先づ安行の咲残り、所謂植木のローヅをカキ集め、更に秩父、岩槻、熊谷方面数里の地を漁って切出すのが即ち赤山の本領である、市内の花屋で赤山に取引のない花屋は第三流以下の花見として賎しまれて居る。
▲赤山は鳩ヶ谷在 里余の地に在り、安行二十三個村の一部に属し、大門、新井宿、西新井宿、赤山嶺、原、新町、領家、大竹、尾間木等の諸部落を総称して俗に之を赤山と云う、此地に二十四五戸の仲買あり。
▲草花の取引 木花の如く大袈裟ではない、又それほど系統的にも現われては居ないが、産地には若干の鞘取ありて常に一般の仲介を掌理し小規模ながら市場の形式を取って居る、之も矢張り切出屋の仲間だ。
▲草花の産地として特筆すべきは 向島より西新井に達する一帯の地あろう、総武線亀戸、平井、小岩、市川の背面は殆んど草花を以て掩われて居る、亀戸は鉢物としては今や殆んど日の出の形であるが、切花としては未だ其れほどの勢力はなさそうに思わる、亀戸は鉢の流しに於て有名也。
▲をわい屋の本家(※注 汚穢屋 下肥にするために糞尿の汲み取りをする人たち) 葛西八ヶ村は数年来草花の産地として大に名をなして来た、篠原、青戸、沙原、堀切、宝木塚(ほうきづか)、中原、葛西川、立石、原、四つ木、淡野須(あわのす)、中平井、小村井戸(※注 小村井おむらい?)、渋江、川端、名倉、請地は其の主なる村落にして、各戸を通じ小は三四十坪より大は七八反歩に及ぶ畑地に内外各種の草花を栽培し、農家の副業として少なきは三四十円、多きは六七百円に及ぶ収穫を算して居る、此の地方一帯より東京に向かって切出す草花のみにても一ヶ年五六万円を下らず、
▲四つ木の吉野園 堀切の小高園、武蔵園は倶に草花を以て有名である、又菖蒲、牡丹の本場としても広く其の名を知られて居る、篠原、堀切、渋江、名倉には通じて十七八人の仲買あり日に一二回ずつ必ず東京に往復して居る。(※注 花慶、日比谷花壇は堀切の出身者)
▲西新井、練馬 は葛西八ヶ村と相対し毫(ごう)も遜色なし、西新井には二百七十余戸の花作あり、花の作付け反別三十数町歩の多きに上ぼり、之より生ずる収穫も亦三万円を下らず、而して此以外各戸の間作(まさく)を計上する時は、西新井、練馬の全部より東京に持込む花も隨分莫大のものであろう。
▲蒲田方面 には青物あり、木花あり、草花あり、此方面は荏原郡池上、新井宿、ヒブスマ(※注 碑衾)、六郷、矢口、平塚、馬込、稲毛其の他の諸村に亘って花の種類甚だ多し、蒲田は即ち是等諸村に対する中心の市場(しじょう)である、蒲田には花浅、花豊、花重、池上には花作と称する仲買兼問屋がある。
▲一農家の作花は二反歩 同地方の農家も葛西向島辺と同じく、小は三十四坪、大は一町歩に及ぶ花の栽培をして居る、蒲田村字新宿、町屋、蒲田の三部落八十戸の平均に於て、花の作付は一戸平均二反歩に当って居るそうだ。
▲麦(※注 蒲田、大森のある大田区は麦作が多く、大森のムギワラ細工は名物だった)の収入は一反歩七俵 二十八円にして、花には豊凶如何の開係もあるが、一年を通じて
▲豊年で七十円、凶作で三十円 が落ちだ、即ち年によっては麦を作るより割のいいこともあり、また麦に及ばざることもある、蓋し花の豊凶とは作其者の関係如何と云うよりは、寧ろ売行き如何の問題である、去年売れた花は、今年必ず売れるものと限っては居ない、去年全然客のつかない花でも今年は羽が生えて飛ぶこともある、売れさえすれば
▲花ほど儲かる作はない 其処で農家は麦や米を作るような頭では花を作る訳に行かぬ、一年で懲々(こりごり)するのもあり、三年経(たた)ぬ内に廃めるのもある、五年七年十年と根気強く作って、大当りに当たる人もある、蓋しいやしくも花を作らんとするには、市場の大勢に鑑み、ドウ云う種類の花が能く売れるかを考え流行に遅れぬように注意して居らねばならぬ。
▲亀戸、葛西、西新井辺の百姓 が西洋花、西洋花と騒ぎ出したのも、ツマリ其の意味である。
▲鉢がガラリと作になり 作がガラリと鉢になるので、花作ほど秋風無情のものはない、併し根気よく作る内には当たること必ず請け合い也、荏原郡馬込村字千束に岸田庄右衛門という豪農がある、此人は二年三年の不作には懲ぬ、道楽半分に根気能く奮闘した結果、今日では副業として毎年千円以上に及ぶ花の収入がある、斯う云う手本が広がると
▲東京十里四方は皆花の村 になる、十里四方ではマダ足りぬ、近年では房州の大部分が花の国になりかけた。
▲房州は古来ラッパ水仙の産地 を以って有名であった、今も現に有名だ、保田を中心として東京に輸出(※注 輸送)する百合及水仙のみにても一ヶ年五万円以上に上ぼって居る、近来にては実に館山、北條地方よりも水仙を輸入し又更に
▲百合、フリジャ、カイユウ 等をも盛んに輸入(※注 導入栽培)するようになった、保田には花の仲買が二十三四戸ある、其の主なるものは吉田、宇部、岡本、江戸屋、榎本等にして、館山、北條にも数十戸の仲買がある、此処両三年中には
▲房州より東京に切出す花 の産額は少くも一ヶ年三十万円以上に上ぼるようになるそうだ、蓋し房州の新開拓によって従来の本場が衰微するかと云うに、否然らず。
▲花は年々其の需要を増して来た 近来西洋花の流行に件い、盛花、環花、籠花(かごばな、バスケット)花束、襟花(ボタンホール)花簪、花枕等に切り潰す花は、往々花屋の手を経ずして植木屋より直接(じか)に這入るようになった、中には花屋で植木屋の下請をして居るのがあり、或いは植木屋と花屋の共同もある。
▲帝国ホテルの切花 も南品川妙華園と日本橋檜物町花喜三(はなきさ)の手で多い月が三千円乃至五千円、少い月で千五六百円、一本五十円乃至七十円の松を切ることは余り珍しくない。
▲築地精養軒一回の切花 も二百円から三百円に上ぼることはしばしばある、精養軒の花代は、築地と上野で、お客の持込を合して一ヶ月ザッと七千円は内場だそうな(※注 内端 少なく見積もっても、最低でも)。
▲赤十字社総会の如き大会 にあって一回の切花五百円は稀なる例としても、宮内省、外務省其の他大少の宴会或は葬儀等に於て消費せらるる切花を花屋以外植木屋等にて引受け居る高は一ヶ月少くも五六万円を下らず、即ち一ヶ年七十万円は大丈夫此方面にて切り潰して居る、之に前既に記した花屋の商内高(あきないだか)百八十万円を合(がっ)する時は
▲東京市内切花の消費高 は勿驚一ヶ年実に二百五十万円の多額に上ぼりて居る、入谷の清花園及入十(いりじゅう)の本支店より宮内省外務省、各国大使館、公使館其の他に納むる切花のみにても一ヶ年二万五六千円を下らずと云う。
▲金高の上ぼるのは温室物 に多い、一輪六十銭の百合、一輪二十銭のカーネーション、一本五十銭のポインセチヤは惜気なくバスケットに盛られて居る。
▲花の都としての東京 は以上に依って其の一班を窺い知ることが出来よう、更に花の村に就いて一言すれば、花にはそれぞれ本場がある、京の十里四方は何れの村でも花を売る、が、其の中には花として、又土地としての特色がある。
▲秋菊の大輪 は市川在大杉村が本場だ、金町、練馬にも散物(ちりもの)はある、近来盛んに流行して来た、翠菊(アスター)(※注 えぞぎくではなく、えどぎくというルビ)は板橋在十條、稲付(いなつけ)、巣鴨が本場だ、此地方では多く作付にして居る、二三年来仲野よりも盛んに出初めた。
▲桃の本場は板橋在大矢口村(※注 大谷口村) にして、東京全市及横浜に切出して居る、然ども其の多くは仲買人の手によりて遠く東京を離れたる不便の赤山に於て取引せられ、軈て(やがて)其れが東京の市中に逆戻りをして居る、即ち赤山の市に刻印を打たれに行くようなものだ、赤山の刻印がなければ花の相場が出ぬ。
▲梅 も其の通り、相州鎌倉、杉田方面よりする早咲は東京を素通りして赤山の市に上ぼり其れが再び有り難そうに市中の花屋に分配せられて居る、矢口、池上、六郷、馬込、平塚地方の柳、南天、千両、伊吹、そなれの類も矢張り其の通り。
▲藤は下総野田を本場とす 俗に九尺藤と称し、其の長さ六七尺より九尺に及ぶ珍品は武州粕壁(かすかべ)在牛島(うしじま)の特産 ある、斯の如くに花にはそれぞれ大小一定の産地がある。
▲本場以外のものは 所謂散り物であるが、事欠(ことかぎ)の(※注 本場物がどうしても手に入らないときの)間に合せには已むを得ず遠く甲州或は沼津、静岡、名古屋の方面よりも引かねばならぬ、斯(かか)る場合には現価よりも運賃の方が却って高くなる、其れでも商売は可愛いいものだ、尺楠花(しゃくなぎ)、ひば、あららぎ、山橘(たちばな)、しだ、そなれ、伊吹其の他の木花の甲州八王子方面より東京に入る数量のみにても一ヶ年貸切貨車百二三十車の多きに上ぼって居る。
▲要するに 東京十里四方は皆花の村 に相違なし、花は何れの村にもある、唯だ之を巧(たくみ)に切出すの途(みち)備わりて、初めて健全なる花の都が簗かるるのである。    (完)





 

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