【重要資料】 1958(昭和33年) アメリカにおける空前の「イケバナ」ブームの状況と危惧について 小原流、小原豊雲氏の欧米講演旅行報告

 1950年代にバディ・ベンツ氏が打ち出した

「ジオメトリック・デザイン」には、いけばなの影響が強くみてとれるが、

いけばな史研究者の工藤昌伸氏によると、

ベンツ氏のアメリカ式いけばなは、

「スタビリティ(安定性、永続性)」を重視したものであって

そこが本質的に大きく異なっている、と看破している。

その証左が小原豊雲家元の講演の話の中に出ている。




◎昭和33年 1958年の『小原流挿花』12月号から


 この資料は、昭和30年代の日本のいけばなと欧米の、とくにアメリカの「イケバナ」ブーム、あるいは、アメリカンスタイルの花がどのように東西交流のなかで形成されていったのかがわかるたいへんに重要な証言だと感じられる。

 当時、アメリカでは空前のいけばなブームがあったという。その原因は、戦後、日本に駐留した米軍兵士に帯同して来日した夫人たちが数少ない娯楽のひとつとしていけばなを学び、その魅力を知ったのちに帰国して花を教えるようになったことが大きい。さらに、花をもりもり飾るだけのスタイルがあきられていたところに新しい流行として広められたこと。もうひとつは、コストが安くすむということだったと小原氏は述べている。お金をかけずに、美しく飾れて、しかも目新しいスタイルだというのは確かに、誰にとってもたいへんに魅力がある。

 日本の戦後のフラワーデザインに重要な影響を与えた、”ビル”・キスラー、”バディ”・ベンツ氏がともに小原流いけばなに深い関係を持っている人であったことは非常に興味深い事実なのだが、この講演録では、ベンツ氏が小原豊雲氏にたいして、ヒューストンのアトリエで特別に披露してみせたことがかなり具体的に話されているところが注目に値する。

 ベンツ氏は、自分のスタイル(のちに「ジオメトリック・デザイン」と呼ぶようになる)について、日本のいけばなの影響をかたくなに否定したというが、その一番のポイントが、日本のいけばなは「すぐに壊れてしまう」「持ち運べない」ものであるのに対して、自分のスタイルではそれがない=技術的に完成されている、と考えていたのではなかったか。これは、職業人としてのフローリストが自分の工房で花を制作し、それを完成品として飾られる場所へ運ぶ、という欧米のフラワーデザインの基本であろう。その意味からすると、日本のいけばなは、現場でその空間に合わせて即興でいけられるものであり、飾って楽しむ人といける人が同じである、というのとはまったく異なる考え方がそこにはある。

 このベンツ氏の「ファンデーション(土台)づくり」に関するしごとのやり方が詳しく語られるところで、1954年にアメリカで発売されたスミザーズオアシス社の製品である「オアシス」らしいものが使われていることがわかる。剣山や金網とセットで使っており、枝物のような硬い材料は剣山に挿して、柔らかいものはオアシスで保持、吸水させようとしていたのかもしれない。小原氏はつぎのように書いている。

「(前略)剣山の裏へ、油つちのようなもの*を密着させて水盤の底ヘグッと押しつけ剣山が離れないようにする。その上にいわゆるプラスチックの新しい資材を、いろいろな形に切って水にひたして剣山の上にピシャッと置く。それからいける。そうしてその上に、鉢植のように針金のネットをかける。(以下省略)」*(プラスティック製の粘着性のあるガムや粘土みたいなもの。よく手で練ってからつける。現在も「フィックステープ」という商品名のものがある)

 フラワーデザインでは、器と植物に水を与えるための材料(みずごけや吸水性スポンジ)は一体となっていてはずれたり、崩れないことがもっとも重要なことなので、そのあたりのことをベンツ氏は(資材もふくめて)非常に重要だと示している。と同時に、日本の家元というような偉い人に対して、「いけばなには根本的に弱点がある」ということを強く指摘したかったのではないか。「どうする?」ということを問うたのだと思う。小原氏を目の前にして、アレンジを逆さにして見せたというのだから、すごい自信だと感じる。

※豊雲氏は、ベンツ氏が陽気であると同時に感情を表に出す、強気な人物であったと述べている。

わが友 バディ・ベンツ

https://ainomono.blogspot.com/2022/04/blog-post.html


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欧米を旅して(下)  小原豊雲

東京国風会主催の家元帰朝記念講演会より


アメリカでのいけ花


 時間がありませんので、アメリカへ参りましての話は簡単にして終りたいと思います。

 ローマの個展では、初日の日に文部大臣のモロー氏がわざわざ来場して下さった。この近代美術館の館長であるブカレリィさんは、これは女の館員さんですが、近代美術館に対して文部大臣みずから来てくれたということはかつてない、これは近代美術館として大変な名誉である」といって喜んでおられました。私の個展は五日間ということでしたが、七月九日から二十日まで延長して公開されました。そのようなわけで、どちらもともに非常に効果がありました。

 さて、ヨーロッパにおきましてもアメリカにおきましても、各地で私が感激を覚えましたことは、日本を離れてあちらへ参りますと、たとえば池ノ坊の流派をやっていらっしゃる方もあり、古流の方もあり、草月流もあり、遠州流もあるというふうに、各流をやっていらっしゃる先生方が多い。もちろん外人の方もあり、日本の方もある。日本の方などは早くからあちらに行って、そして自分たちがアメリカあるいはヨーロッパに来るまで日本のいけばなを娘時代にやったのだ、こういう人たちが先生をしておるのでありますが、そういう先生方がみな出て来られるわけです。その先生方たちが、いけばなインターナショナルの各支部のメンバーであったり、いろいろするのです。ところが決して、流派が違うから協力をしないとか、そういう何か狭い流の妙な対立というものは全然ないのであります。各地において私はそれに感激いたしました。

 ヨーロッパにおいてはロンドンで、やはりいけばなインターナショナルの支部があってやったのであります。もちろん日本の大使館におられる皆さん方の協力もありましたけれども、その支部長は、草月流のはなを長くやっていらっしやったミセス・コーという奥さんです(*草月流師範『ヨーロッパの旅』勅使河原蒼風1956、P61)。非常にりっぱな支部長であって、まず私は、ヨーロッパからアメリカをずっと回りまして、ほんとうに外国の人が日本のいけばなというものの本質をしっかりつかんで外地で指導しているのは、このロンドンにおけるミセス・コーという婦人だけだと思います。実にりっぱな態度であって「私は、日本のいけばなというものを正しく指導したいと思っております。この頃日本へ行ってニヵ月や三ヵ月おはなを稽古して帰った人が、直ちに、これが日本のフラワー・アレンジメントだといって指導するけれども、ああいう年期を入れていない、年功を積んでいない、短かい間にやったようなふまじめなというか、徹底していないものを教えられるということはまことに困る。日本のいけばなの本質をあれはあやまるものだ」といった見解を述べたりして、なかなか態度もりっぱでした。そういう方々が流派を超越して、いわば小原流の家元としての私が行っておるのでありますけれども、そんな小原流とか、池ノ坊、草月、古流、遠州というようなことを超越して各地の支部の方が協力して下すったということは、私はほんとうにうれしく思いました。

 アメリカにおけるロスアンゼルスの話でありますけれども、ロスアンゼルスでも草月の先生、池ノ坊の先生、古流の先生、遠州の先生が何かステージに前衛挿花をつくりたいというのです。それを旅行先の私どもがやるとすると、なかなか一つのボクを集めるのも困難なのであります。そういう先生方は、小さい作品をつくるために御自分の家にボクを一つ二つずつ持っていらっしやる。そのボクを、各先生たちが「お役に立つかどうかわからないけれども、一つこれを使って下さいませんか」といってみんな持ってきて下さる。私は工藤君とこの皆さんから拝借したそのボクを使って、りっぱな前衛作品をつくったのでありますけれども、これはほんとうにロスアンゼルスの皆さんの諸流合同の協力によるものだと思います。三十人ばかりで組んでいらっしやるグループですが、このグループが和気あいあいとして、各流派を超越して日本のいけばなを正しく紹介しようとしている。私は、「あなた方の気持は、この作品の魂の中にこもっているように思えて非常にうれしい」と話しましたし、私のデモンストレーションの中でもそれを皆さん方に説明いたしました。

 かようなわけで、外地におきましては、非常に各流の方がそういう気持でやっていらっしやる。この頃は日本においても、東京あるいは大阪、あるいは京都方面では、各流の先生方が合流して、非常にあたたかくスムーズに行っておりますけれども、まだまだ広い全国の各華道界におきましては、そういうところまで行っていない面もあるのであります。外地におきましては、ヨーロッパにおいてもアメリカにおきましても、そういうふうに非常に和気あいあいとした実情なんであります。そういう実情で、各地どこへ参りましても、日本のいけばなというものは非常に魅力があります。


頂上のいけ花ブーム


 ところが、この魅力があるという面で、先ほどヨーロッパのお話をしたのでありますが、アメリカの日本のいけばなブームというものは、私の見解では、今が一番頂上ではないかと思うのであります。といいますのは、日本にいる向うの方たちが日本のいけばなというものをドシドシ自分の国、アメリカへ持って帰っていらっしやる。と同時に今はこちらからおはなの先生が行っても、ワンダフルといってとても人気がある。ニューヨークのウォルトマンなんかでいたしましたときは、一日千二百人くらいの方々がお集まりになられて、われわれはほんとうに汗だくで悲鳴をあげたのであります。ニューヨーク・タイムスがその実情を初日の夕刊に出したのですが、そのあくる日も出したのでやはり前日と同様に集まったという大へんな景況であります。こんなに人が集まるのはどういうわけであるか、私は私なりに考えた、日本のいけばながあちらで受けているのはどういうことかというと、それは、アメリカの人たちが各家庭においてやっているフラワー・デコレーションというものに対してもうあきてきている、何をやってもただたくさん花を盛りあげるということだけで、もうマンネリズムになっている。そこへ戦後日本へ来た人々によって、日本のいけばなというものがあちらに積極的に紹介された。これは非常に形式が違う、考え方が違う、表現が違うということで魅力を感じておることが一つ。もう一つは、あちらの人たちは、なかなかソロバンがしっかりしている。だからさっきも申したように、花が高い、日本の五倍や七倍というくらいに高い、もとより菊一本でもちょっと大輪の菊になりますと、二ドルから二ドル半というわけでありますから、まあ日本の金にいたしますと一本が七百円、八百円ということになるわけであります。そういうきれいな花を、あちら式のフラワー・デコレーションにするとたくさんの材料がいる。従って日本のいけばなのように非常に数が少なく、単純にいけて、それでいて魅力があるはなは、経済的な面からいってもすばらしくよろしいのであります。その点から「ヴェリー・グッド」と言われるのだと思います。ですから、そういう意味でも、今大へんな人気のありようなんであります。

 ところがこれを向うの人たちがみんな覚えちゃうと、今度は何も日本の人たちに教えてもらわなくとも、私たちが日本のスタイルをうまくアレンジメントして、それでアメリカの一般大衆の中に流行をはかる、教えるのだ、指導するのだ、こういうことになるのです。ですから、そうなってくると、よほど日本から行く人は、日本のいけばなの真髄を知らせなくてはならぬ。ちょっと小さい花をテーブルの上でいけてお見せして、そうして向うも「オー・ワンダフル」「オー・サンキュ」(笑)これではいけないのであります。やはりよほど徹底的に日本のいけばなの技術とか、その表現内容とか、その日本のいけばなのうしろにあるところの日本の文化、歴史、向うの人たちはヒストリーというものに対して非常に興味をもっておりますので、それらに対してよほどの深い知識を持った権威ある先生方が行って指導なさらないならば、日本ブームに乗ったいけばな紹介はやがて頂上に来て、これから下り坂だと思うのであります。ですから、今後向うにブームを持続させるためには、よほど良心的に、そういう高い見識をもってあちらで指導しない限りはだめだと思うのであります。

 これが実情でありますのと、もう一つ私は驚いたことがあります。これはテキサス州のヒューストンの話でありますけれども、ミスター・ベンツ氏、この人が一晩、私に向うのフラワー・アレンジメントのやり方を自分のアトリエで見せてくれました。私が日本の家元であるならば、彼はアメリカの家元であるというプライドを持っている、いろいろいけて見せてくれた。いけたあとで「ミスター・オハラ、どうだ」といって、今いけた花を逆さまにして振って見せる。(笑)どうです、これがアメリカのいけばななんであります。ですから、いけるときに水盤の中に剣山のようなものを置きますが、その剣山の裏へ、油つちのようなものを密着させて水盤の底ヘグッと押しつけ剣山が離れないようにする。その上にいわゆるプラスチックの新しい資材を、いろいろな形に切って水にひたして剣山の上にピシャッと置く。それからいける。そうしてその上に、鉢植のように針金のネットをかける。そして水盤のふちへ持って行って、ネットをみなうまく輪のようにしてネットが抜けて落ちないようにする。それから好きなようにデコレーションをする。この花を高くいけてひっくり返るとか、ネットが抜け落ちてグラグラするように思うと、針金の適当なかたさ、太さのものでネットの間を縫うのです。それでも動く花は、茎にプスッと針金を突き通して、向うのネットまで持って行ってくくりつける。ですから「ミスター・オハラ、どうだ」といって、逆さに持って振っても、花はピシッともしないのです。これが向うのいけばなの一つの手なんです。

 なぜかというと、向うの人たちは花をいけても、デモンストレーションにしてもレッスンにしても、きれいにいけたら、それをそのまま自分の家庭に運んで行って床の間へ置いて「オー・ビューティフル」と言う。お稽古をして、また抜いて新聞に包んで、提げて宅へ持って帰るということはないのであります。そして家へ帰って、ちょっといけてみようという気持はないのであります。せっかくすばらしくできたのだからと、そのまま何十マイルも運んでも自分の家庭へ運べるものをということを計算に入れている。彼らはみなすばらしい車を持っている。そして日本のような悪道路じゃない、きれいなハイ・ウェイでありますから、大がい七十マイルも八十マイルも先までハイ・スピードで自分々々の家へ帰る。花はちゃんとその奥さんの横のシートに置くなり、うしろのトランクの中に入れていく。そういうはなでありますから、いくら車がこんなになりましてもひっくり返らない、(笑)日本のいけばなは、私たちがいけたものでも 「まあ、きれいですこと。このままで……」といって、じきに向うに持っていく。どのようにしてよく入れてありましても、それはすぐパラパラ落ちるのであります。そうすると、もう「オー・アイ・アム・ヴェリー・ソリー」(笑)というわけで、大へんなゼスチュアで、大へんなことをしたという思いいれよろしくやる。向うの花は絶対そうならない、すぐ持って行ってよろしい。日本のいけばなが大いに向うで発展しますためには、はなを飾る場合、車で運ぶとか持って帰れるとか、生活様式の違いを計算に入れなければ日本のいけばなは発展性がにぶると思うのであります。どうも私が実際に行って見ますと、そういうとりどりのことが感じられました。

 最後に私は、今のことを裏づけますために言いたいことは、私はロスアンゼルス、シアトル、それからハワイの方に回りましたけれども、向うの日本の女の先生たちが、だいぶ鼻の下が乾いてきておるのであります。ということは、今お話ししたように、向うにいるおはなの先生程度の生活をしている人たちは、そう日本に頻繁に来て現代の日本のいけばなを研究するチャンスがない。アメリカの人たちの方は、観光に来てドルでやればぜいたくな立場で研究して帰れる。帰ったら向うの人たちは言葉が自由自在にできる。だから日本でおはなをやってきたアメリカ人はみな指導の面に立って、しかも相当のレッスン料をとっている。どうしても日本の婦人たちは、英語はそれほど流暢じゃなし、教えていることが古いのであります。こういう点で、最近とかく日本のいけばなの先生としての収入は非常に下火になってきています。この実情を考えましても、アメリカにおいては、将来は日本のスタイルを大いに研究して自国のいけ方にうまく取り入れた日本調の新しいスタイルのいけばなというものが盛んになり、それを向うの人たちが大いにやるようになるのではないかと懸念されます。従って私たちは、今日、非常に日本のいけばなが国際的な立場にまで飛躍発展しておりますけれども、ただそれをよいわ、よいわといって有頂天になっておったんでは、せっかくの日本のいけばなが一頓坐を来たすのではないかと思うのであります。

 ですから、どうぞ皆さん方がおはなをおやりになる場合にも、また大勢の会員の皆さん方の中には、外地にお出かけになる方もあると思うのでありますが、そういう皆さん方が、いついつまでも国際性を持った日本のいけばなとして、外国におけるブームを持続させるためには、日本のいけばなのテクニックを十分持ち、日本の芸術、文化、歴史というものによく目を開いていただいて、しっかりした基礎的教養、学問というものを身につけて日本のいけばなを向うに紹介される必要があると私は痛切に感じ、それを皆さん方にお話し申した次第なのであります。

 まだまだお話ししたいことはございますげれども、予定されました時間にちょうどなりました。非常にかいつまんであちらに飛び、こちらに飛び、まことにまとまりのないお話になりましたが、私のあちらへ行ってのいけばながどうであったかということは、これをもって報告のお話にかえたいと思います。

 なお、後刻一時間あまり、あちらで写しましたスライドをお目にかけたいと思います。最初の方が欧州篇、あとの方がアメリカ篇であります。これは工藤(*昌伸)君が全部撮影をしてくれました。私は英語もできず、ああいう機械を回すこともまことに苦手であります。これもみなカメラマンとして工藤君が写してくれました。つまりこれは、日本のいけばなをやっているものが見てきたヨーロッパとアメリカであるわけです。普通の観光にいらっしやった方が、あちらの風景のよいところばかりを写して来たのとは違います。まだ編集も十分ではございません。タイトルもつけてございませんが、場面々々、みなカラーで写しておりますから、ごらんになればごらんになっただけの何かかあるのではないかと思います。どうぞ、まことに素人写真ではありますけれども、しまいまでごらんいただいて私の今の話に対して何かそれを足しにしていただければ大へんけっこうだと思います。

 長々とお喋りをして失礼いたしました。このくらいで終りたいと思います。(拍手)          (終)

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