アメリカのイケバナ・キング、コンウェイ氏とヒューストンで数多くの日本人を教えたバディ・ベンツ氏と小原流の関係について


日本フラワーデザインの恩人、バディ・ベンツ(テキサス州ヒューストン)は小原流とどの様に関係していたかがわかる随想。さらに、アメリカいけばなのキング、コンウェイ氏もまた戦前に長く日本に滞在し、小原流でいけばなを学んだ。
戦後に来日し、日本にフラワーデザインを教えてくれたビル・キスラー氏もまた小原流によって日本に招聘された人物である。
ここに、日米の花の交流があり、歴史がある。
そして、わたしたちもまた彼らの歴史の先にいるのだ。

※『日本花き園芸産業史・20世紀』2019のp534、内山錦吾氏の履歴のなかで、昭和9年に来日中のコンウェイ氏の技術研修会があり、そこで花き装飾への触発をうけた。ということが書かれている。これ以前、昭和3年には、錦吾氏の父、内山友次郎氏(名古屋切花業組合組合長)が中心となって米国から技術者が来日して講習会が開かれている。東京以外の動きがわかる貴重な事例。

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『盛花と小原流』 小原豊雲 主婦の友社 1963年


わが友、バディ・ペンツ


 神戸の御影に住む小寺夫人の紹介で、アメリカ人バディ・ベンツが私の展覧会を見にきたのは、たしか東京で棟方志功氏の版画といけばなの流展が終わったあとのことだったと思う。

 ちょうど神戸で支部の流展の最中であったが、このテキサスからきたベンツ氏は、さかんに八ミリの映写機をかまえて会場の作品をとりまくっていた。アメリカではすでにアメリカ流のいけばなで一家をなしているということで、なかなか自信の強い男だなという第一印象をうけた。

 そのときはそれなりであったが、別れぎわに、ぜひアメリカヘきてくださいといい残していったのが、その後ブリュッセルの万国博にいけばなのデモンストレーションジ’ンをしに渡欧しての帰り途、アメリカ南部のテキサス州ヒューストンまで足をのばして彼を訪れることになってしまった。

 私たちがヒューストンに着いたのは暑い盛りの七月で、海辺にある市のせいか、湿度が高く、汗かきの私にはとくにたえがたい気候のところであった。

 しかしバディ・ベンツさんの家にくつろいで、ルームクーラーのよくきいた別棟にしばらく滞在しているうちに、こうした気候で育つ熱帯、亜熱帯の植物に心勣動かされてしまい、不思議なことにしだいにその気候にもなれてきた。

 メキシコ・モスというこけが、あのさるおがせのように垂れさがっているのを見たり、リアトリスの自生する郊外を歩いたヒューストンの印象は忘れがたい。

 が、何より印象の強烈であったのは、バディ・ベンツ氏その人であった。典型的な南部人であるらしく、親切ではあるのだが、その表現の大げさなことと、感情をむき出しにする態度とには、はじめびっくりしたものだ。


 びっくりするといえば、飛行場に降り立ったそもそもから、若くてチャーミングなミス・テキサスに花束を贈らせてみたり、ヒューストンを案内するといって友人の飛行機で空から見物させたり、人を驚かせるのを趣味にしているようなところがあった。 

 サンアントニオからきた青野君という二世の通訳は、アメリカ流いけばなのお弟子さんとかいうことだが、その彼によるとベンツ氏は、典型的な南部っ子らしい。新聞記者が私のインタビューにきたので、問われるままに、「日本のいけばなから見ると、アメリカ流いけばなはまだまだ日本いけばなから多くを学ばなければならないように思う」といったら、バディ・ベンツは自分のことをいわれたのだと思ったらしく、ひどく不きげんになって私をあわてさせたりした。

 直情径行ということばがあるが、これはまさにわが友、バディ・ベンツにあてはまる。それだけに、たいへん人のよい世話好きな男でもあった。

 彼は独身のために、黒人の男子をメイド代わりに使っていたが、私たちの毎日の食事には、彼みずからのこまかい心づかいがくばられていた。

 彼は二世の青野君から、ドロボーということばを習った。というのは私が郊外を車で走ると、必ずといってよいくらいめずらしい野草や、いけばなの材料となりそうな路傍の植物を失敬するので、青野君に、ものを盗むのを日本語で何というのだときいたのらしい。

 デモンストレーションの日が近づいて、いよいよ花材さがしに忙しくなると、いつでも彼の大きな声がきこえてきた。ところが彼はまちがえてこう叫ぶ。ヘイ・ミスター・オハラ、ロドボー。

 いくら注意しても、とうとうバディ・ベンツにとってドロボーは、常にロドボーであった。



アメリカいけばなの王様


 先年「小原豊雲作品集」を発表したとき、大作の蓮の水ものをいけたことがある。そのときにも誌(しる)したことだが、私が蓮をいけるとき、きまって思い出すのが、グレゴリイ・コンウェイ氏のことである。

 先代(*二代、光雲氏)に師事していた異邦人の中で、このグレゴリイ・コンウェイ氏は、たいへんな変わり者であった。

 きちんと和服を着て、長いひざを折りたたんで正座し、稽古するさまは、端然としてりっぱであったし、先代もそのまじめさに惚れこんでいたものだが、いまではこのコンウェイ氏は、アメリカいけばなの第一人者である。

 蓮をいけるときごとに思い出すといったのは、私も当時若かったので、このコンウェイ氏と安部豊武君と三人づれで、ひとつ蓮の花の閧くのを巨椋池(おぐらいけ)にききにいこうかといい出してヽ早暁のまだ日のあがらぬ巨椋池の蓮の間に舟を出したのだった。

 ところが蓮の花の開くこのころは、また蚊のすさまじくわくころでもあり、三人ともうちわでハタハ夕と蚊を追いながら、いまかいまかとそれを待ったものだった。

 結局、音がするかどうかが問題だったのだが、とうとう音はせず、蓮は美しく咲いた。

 こんなことがあったものだから、なんとかアメリカ滞在中に久濶を叙したいと思い、二ューヨークについて以来、彼の消息と住所を鵜の目でさがしまわった。

 アメリカでいけばなをする人なら、だれでも彼の名前は知っていたが、その住所まで知る人は案外になく、ヒューストンにきて、バディ・ベンツ氏にきいてはじめて、ああ、あのイケバナ・キングか、ということだった。

 ベンツ氏も、アメリカ流いけばなにかけては相当のボスであって、各地を講演して歩いたりしているが、その彼もコンウェイ氏には一目も二目もおいているようだ。

  アメリカ流いけばなの本として、いままでに書かれたものでは、このコンウェイ氏のものが最高の人気をえているらしく、とにかくテレビなどでも、彼をアメリカ随一のいけばな作家と紹介していた。バディ・ベンツをして、「彼くらいになればたいしたものだ」と羨望的な口吻をはかせるほど、大きな存在であることはたしかであった。

 バディ・ベンツの便宜によって住所はすぐしらべあげられ、昔の朋友コンウェイ氏は口スアンゼルスの郊外の宏壮な邸宅に住んでいることがわかった。

 ロスアンゼルスについてから、ミセス・ヘンドリクソンというここのイケバナ・インターナショナルの支部長さんに話をしたら、「おお、ミスター・オハラが友人とはすばらしい。すぐ連絡してみましょうにという。さっそく車をとばしたが、ロスアンゼルスというのは広い郊外をもつ街で、コンウェイ氏のところにゆきつくまでにも車で一時間近くかかった。

 とにかく何十年ぶりで会うわけだから、どんなに変わっていることだろう。またベンツ氏が大邸宅といっていたが、どんなところだろうと、およその期待は抱いていたが、いざ見るコンウェイ氏の邸宅は、想像を絶していた。門内ははるか先の玄関まで、すばらしい樹木がつづいている。その風景はカリフォルニアの景色を模しているかに見えたが、少し進むと流れがあり橋があり、おやと思うまもなくあたりの感じが一転して純日本風に変わっている。

 橋を渡ると、その流れは左に見える大きな池に注いでいて、やがて彼の住まいが見えてくる。その住まいがまたまったくの日本建築であった。瓦の屋根、池に張り出したテラス。これは釣殿風な設計。玄関の右手は、道が飛石伝いになるあたりから白砂をしいた枯山水の石庭が見えてくる。まるで何万キロの国境もないにひとしい風景ではないか。

 しばらく見とれてたたずむ私の前に、玄関があくと、和服を着たグレゴリイ・コンウェイ氏が、足袋はだしのまま、玄関のたたきまでとび出して、「オハラサーン」といいながら、固く私の手をにぎりしめた。その手は昔と同じ暖かくて大きな手ざわりだった。

 宏壮な邸宅に彼もバディ・ベンツと同じ独身で、黒人の助手が一人いるだけのようだったが、この日は、おそらく枯山水の白砂や飛石や、玄関には、彼自身の立ち会いでそうじが行なわれたにちがいない。何十年ぶりで会う私を、日本的な心入れで迎えてくれたわけだ。

 床の間のある和室からテラスふうに池の上に張り出した廊下で、長くつき出したひさしの先に垂れる風鐸を見越して、睡蓮ひらく池をながめながら、この日私は、別れて何十年ぶりのイケバナ・キングとなったアメリカの友と語りあった。

 この王様の占める地位は、いままでは他の追随を許さぬほどであったらしいが、近ごろのようなイケバナ・ブームは、彼にとっては、いまごろやっと日本いけばなのすばらしさに気がついたのかといいたいらしいし、それに最近の新しいいけばなは、あまり好まないようでもあった。

 彼にはずっと後輩にあたるアメリカ流いけばなの先生たちが、どんどん日本へ研究にゆくのを、彼は彼一流の皮肉な顔つきでたいへんによいことだといっていたが、あのバディ・ベンツ氏も合めて、彼の後輩たちは、このイケバナ・キングをなんとか追いぬこうと一生懸命のようである。

 先代に師事したコンウェイ氏が、こうしてアメリカのイケバナ・キングであるというのは、まったく愉快なことであるし、その後継者たちにまたオハラ・スクールを学ぶ人たちが多いのは、小原流の国際的進出を約束してくれる心強いしるしであるともいえる。

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