1950年代のいけばな東西交流 ヴァイニング夫人のいけばな観
1950年代のいけばな日米交流に関連して、戦後、日本の皇太子(現・上皇)の家庭教師として招聘されたヴァイニング夫人のインタビュー記事が『小原流挿花』誌に掲載されている。ヴァイニング夫人はすでに帰国されていたが、当時、ペンクラブの招きで来日されていたところを親しくされていた小原流の花人、平光波氏に間に入ってもらって話を聞くことができたという。
平光波氏は、仙台で小原流の師範をされていた平一鶯氏(初期の小原流を支えた女流花人、夫は日露戦争で戦死)の娘で、若い頃から親の代わりに稽古を務めるほどの腕前で、大阪に長期滞在し(国内留学)初代雲心、ニ代光雲に花を教わったという伝説的な重鎮であった。のちに上京して、小原流の中核で多くの仕事をなした。キリスト教を厚く信仰した関係から花を通じて上流階級の人々とのつながりができ、皇居内の内親王(女性皇族)の教育に使われる「呉竹寮」で花を飾り、また教えていた。皇太子、宮様方にもいけばなを教える機会もあったという。そのため、戦後に、ヴァイニング夫人とも親しく交わり、夫人の書いた『皇太子の窓』の第28章に登場している。平氏は、戦前にも外国人に花を教える経験を持っていたが、終戦直後に、あのアーニーパイルで進駐軍の夫人方にいけばなを教えた勅使河原蒼風氏や池坊の鈴木玉星、古流の池田理英らで構成された講師陣のメンバーに入っており、そこからさらに大使夫人など数多くの外国人に教えるようになっていった。
この記事は著者が記されていないが、編集部でまとめたものであろう。話を聞いたのは工藤昌伸氏だった。場所は愛宕山下の懐石料理「醍醐」という店で、これは飛騨高山の角正の東京店であると聞いた工藤氏が食通振りを発揮し、会席についてのうんちくを一くさり話してその学の深さを披露したと後記(「スケッチブック」)にしるされている。醍醐は、現在も営業しているようだ。
◎精進料理 醍醐 http://www.atago-daigo.jp/
※参考
『平光波作品集』 昭和59(1984)年発行 小原流文化事業部
●『皇太子の窓』第28章
https://ainomono.blogspot.com/2022/04/blog-post_14.html
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にっぽんのいけばなとアメリカの婦人
アメリカだけでなく、ヨーロッパにおいてさえ非常な日本調ブームを招来しているということだが、あまりに手ばなしで喜んでもいられない。
その例の一つとして、例えばこの間来ていたアンフォルメルのマチウ氏などの話がそうだ。日本の歴史、書道などになみなみならぬ造詣の深さを示していると思われた同氏が、日本のアバンギャルドのチャンピオン岡本太郎氏と誰だかが、一夕彼と語りあう機会を持った折、彼マチウは、食卓の上にあったおてもと、と書いた箸袋の字に圧倒的に感激し、その芸術性をたたえ、二十とか三十とか持って帰りたいといったとか。あわてた岡本氏は、これは日本の職人の手によって書かれたつまらぬものだといったといわれる。
もう一つあった、能の外国での好評はすばらしいのだが、ある外国人が日本人にむかってまったくうらやましい、あなたはあの単純な仕草だけで、すべてを理解することが出来るとはと感嘆したそうだ。ところがその日本人である彼、不幸にしてその謡曲が何をいっているのかよく理解できなかったので赤面したという。
この二つの話は、何か暗示的だが一つは外国の人たちと私たちの間に日本の芸術に対しての理解に違ったところがあるのではなかろうかという疑問。つまり私たちの芸術が外国でもてはやされているということは、何が、どこがということがはっきりしないかぎり、手放しでは喜べないのではないかということ。もう一つの例では、私たちの日本の文化遺産への理解が十分でないということは、一体何故かということだ。
それではいけばなの場合どうなのだろう。これらの疑問について聞いてみたいとかねがね思っていたところに、丁度ペンクラブ大会でヴァイニング夫人が見えられ、平(*光波)先生に御紹介をしていただいて、これらの疑問についてたずねる機会を得た。アメリカの婦人たちがいま日本でいけばなをしている、私たちの知りたいのはその何にひかれているのだろうかということだ。単なるオリエンタリズムへの憧れなのだろうか。
この疑問は明快に答えられてしまった。彼女等はただアメリカにないものを求めているのだということ。そして次には彼女たちが日本の花を愛しているということ。そしてまた自らの部屋を美しい花で飾りたいと思っていること。これらの支えの上に、彼女たちはいけばなを愛好しているのだ。きわめて簡単である。そこには私たちが煩しくいけばなについて考えている余計なものが一つもない。
「私は平先生のなさっているようないけばなが好きた。それはきわめて自然でありもっとも美しいと思うからだ。」夫人はこういっている。アメリカの夫人たちが日本の風土の中の自然に興味を持ち愛しいけばなをする、それは当然のことだ。しかし私にはまだ疑問があった。私たちの見るアメリカにおけるいけばなは、はっきり言ってあまりうまいと思えない。日本でかなり習っていった人でも、博多人形をおいて花をいけたり、中にはまったくひどいものがある。折角日本でしっかりしたいけばなを習っていきながらなぜなのかと思う。このぶしつけな質問にも夫人は笑って答えられた。
私たちアメリカの婦人たちはあまりにも忙しすぎるようだ。いけばなを習うということは私には単にいけ方をどうするということを学ぶのではなくて、いけばなのすべてを学ばなければならないのだ。たしかにまちがいはある。しかし日本の和室に日本のいけばながあるように、アメリカの家庭にはアメリカのいけばながなければいけない。しかし現在のアメリカの生活の室内の様式は、まだ全体からいえば十八世紀の名残りが多い。そんな部屋の中におかれるいけばなは、いまだになお人形をおいて花をいけるといったようなものがふさわしい場合もある。これは歴史的な過程であって、このままであろうとは思えない。
夫人のこうした答えの中にあるインテリジェンスは、かつて私の会ったことのある何人も残念ながら持ちあわせなかった。こうしたきっぱりした意識をもっていけばなをしているアメリカの婦人はそういないといってよい。重ねて、それでは日本のいけばなの精神を学んで、若しアメリカにある花でいけるいけばなができた時、それをほんとうのアメリカのいけばなと呼んでもよいのかという問には大きくイェースと答えられた。
アメリカの生活の中に、日本の自然調のいけばながそのままいけられることはあり得ない。日本のいけばなを愛し、自然の花をみつめいけばなをする態度を学ぶ中から、それはやがて、彼女たちがアメリカに帰ってアメリカのいけばなをいけることのできる何物かを発見するに違いない。
若しこうした態度で学ぶアメリカの婦人たちが、このヴァイニング夫人のような人人(※ママ)が多ければ多い程、これは私たちにとってはまったく油断のならないことなのだ。何故かといって私たちのいけばなという芸術のすべてが吸収され、アメリカにはなばなしく開花するからなのだ。その時に私たちがいけばなのほんとうの心を忘れるようなことになってしまったのでは、これはまったくとりかえしのつかないことになる。
ヴァイニング夫人の考え方を、すべてのアメリカの婦人たちがしているわけでもあるまい。しかし熱心な人人、いまは成程盲目的であるかもしれないが、長い時間日本のいけばなを習っていった人人の中の幾人かは、アメリカのいけばなを創造するだろう。何故かといって、それは日本のどの芸術よりも生活にむすびつき、家庭的であるからだ、彼女たちは必ず自分たちのいけばなをつくりあげるに違いない。
してみるとあの受取り方のちがいはやはり過渡的現象なのであって、私たちの心配はいけばなに関する限り杞憂であるのかも知れない。
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ヴァイニンググ夫人と私
平光波
私がヴァイニング夫人にお逢いしたのは、戦後、まだ物資も乏しい頃のことでした。戦災ですべてのものを失い、いけ花の中で静かにその日を送っていた私は、そのいけ花によってゆくりなくも先生にお逢いするようになったのです。
先生は、その著 「Windouws For The Crown Prince」の中で、私が呉竹寮のあちらこちらにいけさせて頂いた花のことを書いておられます。当時花材も未だ乏しく、呉竹寮の御内園からの採集のものが大部分だったのですが「簡素なる美」がかえって先生の御趣向に迎えられたのではなかったかと思われます。
弟子とか呼びするのにはあまりに優れた存在でいらした先生は、あくまでも私に師としての礼をつくされました。舌足らずの英語でも先生はよくわかって下さいました。常に内面的な生き方をなさる先生の前には、一本の線の動き、一つの空間も、その語るところをよくとらえられ御自身のものにされたのです。先生は瓶華を好まれました。その作品には人の追従を許さぬ気品と、深さを湛えておりました。その著書にも書いておられるように、当時先生はその姉上のミス・クレーと御一緒にいけ花のレッスンをとっておられたのです。むしろ先生はお姉様を慰められるためにはじめられたように拝察しております。その風景はまことに和やかそのものでした。
お姉様は盛花を好まれました。先生はよくそれを「ユアー・フィールド」 (あなたの畑)とおっしやってその作品をお褒めになっては励ましておられました。
先生が日本をお去りになる一九五〇年の七月、私が軽井沢の先生方からお招きを受けてお客様にして頂いた数日の思い出は、生涯忘れ得ないものとなりました。あの学習院に近い目白のおすまいでの先生は、常に皇太子の師としての印象でしたが、この軽井沢でのあけくれに、ミセス・ヴァイニングとしての個人的な温かさ、親しさにしみじみと触れることができたのです。
此の度のペン大会御出席の先生と、思いがけぬ七年目の再会の日を、去る九月四日の宮内庁の歓迎パーティーに得ました。極めて親しい方々二十三名という少人数の中に入れて頂いて…
おもえば先生と私、一体何ケ国語に訳されたことでしょう。「ウインドウズ・フォア・ザ・クラウン・プリンス」の行くところ常に共に在る光栄を感謝いたしております。(東京国風会副支部長)