60年代まで『家庭画報』など雑誌で活躍されていた村田ユリさんのしごと
女性のフラワーデザイナーとして、戦後の一般女性誌で活躍された村田ユリ(村田フロリスト、のち東洋園芸を経営)さんの仕事がどのようなものであったか、1962年(昭和37年)の『家庭画報』6月号の記事を抄録する。
村田ユリさんは、新潟の大富豪の家に生まれ聖心女子学院を卒業、結婚後に欧州で暮らし、もともと植物が大好きということも合って、戦後に渡米し、フラワーアレンジメントを学ぶ。雑誌等で洋風のフラワーアレンジを紹介した。「アイビー」を現在のように普通にみかけるようなグリーン素材として普及させたのも村田さんの貢献が大きい。(夫、村田政真氏がてがけた虎ノ門の旧・共同通信会館が改築される前に見に行ったときには、つくりつけの植栽スペース=巨大なプラントボックス、が2階のひさしとして設計され、そこに長く育ったオカメヅタやアイビーが残っていた)
また、1949年に麻布の自邸を提供し、松方種子女史とともに東京麻布西町インターナショナルスクールを設立するなど多彩な活動をされた(最初の生徒は村田さんの二人の息子を含む4人の子どもだった。のちに松方家に移る)。
●西町インターナショナルスクール
https://www.nishimachi.ac.jp/
村田さんは1960年代には人に花を教えることや雑誌の仕事を後進のデザイナーにゆずって、晩年は長野県御代田でほぼ自給自足、晴耕雨読の田舎暮らしを楽しんだ。非常に明るい無私の人という印象がある。
記事では、インテリアとしての花、暮らしの中に花を取り入れるために器を選び、さまざまな飾り方を見せている。切り花のクロユリや、根つきのネペンテス(うつぼかずら)を飾っているのは、植物をよく知る村田さんらしいユニークな見せ方だと思う。
チキンネットをつかったアレンジの方法を写真を何枚の使ってわかりやすく解説している。ネットが「3段」になるように入れるのがコツ。オトシとかごはしっかりと針金で留め付けてあり、基礎技術の説明がよくできている。花はストックと思われる。
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表紙はちょうど花が使われている。
グラスのなかのマーガレットが一輪、茎を折って下向けに
してあり、レモンがよく見えるように手を入れてある。
以下、村田ユリさんのページ
●村田ユリ氏のプロフィールについては、『日本花き園芸産業史・20世紀』に、名古屋園芸の「ご隠居」、小笠原左衛門尉亮軒氏が以下のように詳細に記している。
Fデザインで皇后陛下とも交流 村田ユリ(むらた・ゆり) 大正元年一平成9年(1926-1997)
新潟県出身。聖心女学院を卒業。昭和10年建築家村田政真と結婚、子育ての傍らアメリカでフラワーデザインを修得後、国内でフラワーデザインの普及発展に尽力。一方、東洋園芸㈱を設立、観葉植物であったアイビー類を蒐集、修景、グランドカバー。壁面緑化など多用性植物として普及させた。
1992年度園芸文化賞受賞。著書「世界の花・その花のふるさと」(飯田深雪と共著、1970、海竜社)「花の声」(画文集、1981、同社)「おばあさんの野菜と仲よくなる本」(1991、同社)、その他。
昭和12年(1937)花を求めヨーロッパへ渡り、パリ、ベルリン、ロンドンに滞在、14年(1939)満州新京にも滞在、15年(1940)帰国。 24年(1949)都内麻布において松方種女史とともに西町インターナショナルスクールを設立、28年(1953)村田フロリストを設立、数寄屋橋のショッピングセンター内にフラワーデザインを実践的に取り入れたムラタフロリストを開業。
一方、昭和34年(1959)東洋園芸㈱設立。ヘデラ、カナリエンシス、同バリエガタなどヘデラ類を積極的に普及と安定生産に努力、アイビーの存在価値の創造に貢献した。
また、同年、小泉信三氏の熱心なご推挙を受け、東宮御所植物花き装飾のご相談役を拝命、美智子妃殿下の植物花き装飾等非常勤として宮殿内の正月、慶事の花、あるいはマーガレット王女、エリザベス女王夫妻を始め各国皇室貴顕のご参内の折の花き装飾をご奉仕、美智子妃殿下(現上皇后)の絶大な信頼を得ていた。
昭和61年(1986)東洋園芸㈱の社長引退後に、東洋園芸㈱浅間農場(長野県御代田町)に住し、アイビー同様ジャーマンアイリスなど、自ら従事し、晴れた日は耕し、雨の日は植物画を描き、著作する日を送った。この山荘には、美智子皇后も度々私的に訪れた由。
本稿を担当させていただいた小生は、ユリ先生とは東洋園芸入社以前からの知人であった同社専務職猪股正雄氏の紹介により、長くいろいろ幅広い園芸の文化的面を多く学ばさせていただくことができた。 (名古屋園芸㈱取締役隠居・小笠原左衛門尉亮軒)
●村田ユリ氏と猪俣正雄氏 東洋園芸株式会社のはじまり (東洋園芸株式会社のHPから)
●村田ユリ氏と西町インターナショナルスクールについて
クリスチャン・サイエンス・モニター誌のサイトを自動翻訳
https://www.csmonitor.com/1982/1104/110428.html
文化をつなぐ絆
1982年11月4日
クリスチャン・サイエンス・モニター記者 岡隆史 東京
青い目、黒い目、白髪、茶髪、青白い肌、黒い肌、様々な国籍の子供たちの叫び声と笑い声が運動場に響く。
西町インターナショナルスクールでは、30カ国365人の幼稚園児から中学3年生までの子どもたちが、勉強し、遊び、互いを認め合うことを学んでいる。
この年代の子供たちの素晴らしいところは、『彼はアメリカ人だから』『私はインド人だから』『私は日本人だから』と頭ごなしに決めつけないで、みんなで協力することを学ぶところです」と松方タネ校長は言う。
「フェアプレーとは何かを学びます。正直であることを学ぶ。正しいやり方は一つじゃないということも学ぶ。あなたはあなたのやり方でやってください。私は私のやり方でやる。そして、他の子のやり方も自分のやり方と同じように正しいかもしれないと思うようになるのです」。
1949年に設立された西町インターナショナルスクールには、2つの目的があると松方さんは最近のインタビューで語っている。まず、本来の目的である、日本の子供たちに世界市民としての資質を身につけさせること。もうひとつは、東京の国際社会の子供たちに、自分たちの国以外の文化や社会、特に自分たちが住んでいる国である日本の文化や社会に感謝することを教えることだ。
少人数制のクラス 家庭的な雰囲気 一人ひとりに目が行き届く。これらは、開校当初から当校の特徴となっている。創立者の一人である村田ユリ夫人の自宅で、4人の生徒から始まった。現在も、都心の閑静な住宅街にある松方さんの実家である広い洋館で続いている。
このように相互の結びつきが強くなっている世の中では、バイリンガルの学校は決して珍しいものではない。なぜなら、日本と欧米諸国との文化的なギャップは、アメリカとフランス、イギリスとドイツとのそれとは比べものにならないほど大きいからだ。日本は驚異的な経済成長を遂げ、ヨーロッパやアメリカ大陸と幅広く交流しているにもかかわらず、日本人は東アジアの偏狭な文化的アイデンティティ、つまり世界から隔絶された感覚をほとんど持ち続けているのである。
日本人が自分の子供を西町に通わせるのは簡単なことではない。西町は文部科学省の認可小学校には入っていない。カリキュラムに関する文部科学省の厳格な規則に適合していないからだ。義務教育の義務を果たすために、親は区役所に申請して、認可されていない学校に子供を通わせる特別許可を得なければならない。しかし、その際、親の責任や、子供が将来、日本社会で自分の居場所を見つけるのが難しいということについて、長い講義を受けることが多い。
「日本社会はまだまだ閉鎖的です」と松方さんは言う。
実際、西町の生徒のうち、日本人の子どもは4分の1しかいない。しかし、松方さんにとって、彼らの存在は必要不可欠である。
日本人の子どもがいなければ、この学校の存在意義はない。日本人が日本人としてではなく、トシやマリとして、他の国籍の人たちと交わることができるこの学校は、教育上とても必要な選択です。だから、あまり大きな学校にはしたくないんです。
もちろん、日本人や中国人、アメリカ人という自分のアイデンティティを保つことも大切です。もちろん、日本人、中国人、アメリカ人というアイデンティティーを保つことも大切です。だから、日本語を母語とする子どもたちには、日本語を第一言語とするようにと主張しています」。
日本語を母語とする子どもたちは、日本語を第二言語として学ぶ子どもたちよりも集中的に日本語を学び、さらに日本語で社会科を学ばなければならない。他の科目はすべて英語で行われる。しかし、日本語を母語とする子どもたちは、夏休みの特別コースで、数学、理科、体育などすべての教科を日本語で学び、進学する際に必要な語彙を身につけている。
いずれにせよ、国籍に関係なく、すべての生徒が日本語と英語の両方を学ばなければならない。初心者の場合は、年齢別のレベルに達するまで個人指導を受ける。アメリカ人の子供にとって、日本語を学ぶことはとても大切だ。
松方さんは、すらりとした体型で、アメリカ的な実利主義と、日本的な人の気持ちを察する感性を兼ね備えている。日本人、アメリカ人を中心とした国際色豊かなスタッフを束ねるには、それが必要だ。
日本人とアメリカ人の考え方には大きな違いがある。アメリカ人は率直で個人を重視する。日本人は間接的で、集団で考える。カリキュラムなどの議論では、常に意見の相違が生じるが、問題への取り組み方がいくつかあることを関係者が理解することで、解決に向かうという。
松方さんは、自分自身の生い立ちから、一国単位で考えるだけでないことを学んだという。松方さんは名家の出身である。祖父の松方正義公は、19世紀後半に日本の近代的な銀行・金融システムの基礎を築いた人物である。松方正義は、日本が西洋から学ぶ必要性を感じ、息子たちを英国、ドイツ、米国に留学させた。もう一人の祖父、新井領一郎は、1871年に17歳でニューヨークに進出した日本初の米国生糸商人の一人である。新井さんは、日本の教育者の草分け的存在である福沢諭吉の友人でもあった。「アメリカへ行け」と福沢は言った。「そこに本部を築きなさい。日本に帰ってきて生活するな」。新井さんは、このアドバイスに従った。娘のミヨさんは、アメリカで、エール大学に留学していた松方正義の息子、ショウクマさんと知り合った。
二人が結婚して帰国すると、松方夫人は自分の子供には、当時の日本の学校よりももっと自由で、個人を中心とした教育が必要だと感じていた。
そこで、種を含む松方夫人の子どもたちは、私立学校だけでなく、一時期は自宅で、家族の友人の子どもたちとともに教育を受けた。これが、現在の西町学校の前身である「松方学院」である。松方学園の中心人物はフローレンス・ボイントンというアメリカ人教師で、松方夫人が自分の子どもや友人の子どもたちの家庭教師をするように説得した。
松方さんはここで、私立学校で受けた日本の教育に加えて、英語で教える英語の教科を学んだだけでなく、価値観、つまり、愛だけでなく道義心のある神の感覚も学んだのである。
松方さんはこんなふうに語る。「日本は人ありきですからね。あの人はどう思うか?あの人はどう思うだろう?でも、絶対的な原理をベースにすれば、神そのものを原理と考えることができれば、傷ついたりすることなく、自然な愛を表現できることに気がつくんです」。
松方さんは、高校最後の2年間と大学生活のすべてをアメリカのイリノイ州エルザにあるプリンキピアカレッジで過ごした。敵性外国人として大学構内に収容された。
松方さんは、アメリカでの生活で身につけた個人の価値観とともに、戦時中の抑留生活で受けた愛情に感謝の念を抱いているという。
戦争が終わり、松方さんはコロンビア大学で図書館学の修士号を取得し、帰国した。しかし、心のどこかに、もし機会があれば、日本人とかアメリカ人とか分け隔てなく人を受け入れる、個人の自由な価値観を伝えていきたいという思いがあった。
松方さんが東京で最初に勤めたのは、アメリカの国会図書館を模した国立国会図書館である。しかし、「デューイ十進分類法か日本十進分類法か」という議論に熱中することはできない。そんな時、1949年に友人の村田ユリさんが、2人の息子の教育を引き受けてくれないかと頼んできた。
これは大変なことである。真珠湾攻撃と広島攻撃までの数年間、何が間違っていたのかを考え、民主的な自由への道を、高揚しつつもリスクに満ちた最初の一歩を踏み出したのである。
村田さんは、軍国主義と戦争という悲劇が再び日本を襲わないようにするためには、新しい世代が狭い意味での国家主義的な考え方や感じ方をするように育てなければならないと強く感じていた。村田は、当時の学校には、自分の子供を入れたいようなところはなかった。松方種さんのような、広い世界を経験した人でなければ、日本の教育に新しい風を吹き込むことはできないと思った。
松方さんは、最初は遠慮がちに言った。「私は教師ではありません。子供のことは何も分からないんです」。しかし、村田夫人の熱心な働きかけに次第に説得された。1949年、村田夫人の平屋の一室に、村田夫人の子供と他2人のための最初の教室ができた。
それ以来、西町は、日本人だけの学校からインターナショナルスクールへ、6年制の小学校から幼稚園から中学3年生まで、着実に成長してきた。
松方先生と50人の献身的なスタッフは、初期の特徴であった家庭的な雰囲気と個人のニーズへのきめ細かい配慮を、どうにかして保ち続けているようです。
これは、東京の他の多くの私立学校のように郊外に移転するのではなく、都心の小さなキャンパスに学校を維持することによって達成されている部分もある。校舎は、木目調の部屋や暖炉のある優雅な旧松方邸で、ほとんどの保護者がこのままにしておきたいと考えている。しかし、現在の生徒数365人に十分なサービスを提供するためにも、現在の施設の再編成と建て替えはもはや先延ばしにはできない。西町は30年の歴史の中で初めて、この建て替えを実現するために300万ドルの資金調達に乗り出しました。
西町の卒業生は、慶応義塾大学、早稲田大学などの日本の名門大学や、ハーバード大学、スタンフォード大学をはじめとする海外の有名大学へ進学しています。外交官、実業家、ジャーナリスト、学者などが自分の子供をこの学校に送り込んでいる。天皇陛下のお孫さんも数年間在籍された。
松方さんは、「世界的な視野を持った子供たちを育てたい」と、設立当初から変わらぬ志を抱いている。