1980年、フラワーデザインといけばなの重鎮が語りあった第一級の座談会資料 『フローラルアートの完成』から

 L’ Art Des Fleurs ―フローラルアートの完成―

株式会社フラワー教育研究所編 1980


***********************

はじめに

 西洋に育ったフローラル・アートが、わが国に渡来して早くも100年以上を経過しています。

 この経過の中で、ある時は園芸の世界へ、ある時は園芸をとおして”いけばな”へと影響を及ぼし、更に”いけばな″は西洋の花の文化へと多大な影響を与えています。

 花の美しさは人種の区別なく、美しいと感じさせるものの代表といえましょう。この花の美しさに魅かれ、花を素材としたデザインの研究を進めている「フラワー教育研究所」は1年間にわたって、この「L' Art Des Fleurs」の編纂に取り組み、現代のフラワーデザイン界の飛躍の礎になるような大きな目的を持って進めて来ました。特にフラワーデザインの名称をタイトルに使用せず、大きな意味での花のデザインということで「フローラル・アート」といたしました。

 作品内容はアレンジメントが主体となっていますが、先にのべたフラワーデザインといけばなの歴史対照、ヨーロッパの絵画と文化に於ける花の歴史、ファッションとアクセサリーの中の花の歴史等。第一章には歴史的体系に主眼を置いています。

 作品集的な第二章には、花のデザインに於ける新しい考え方をとり入れました。

 第三章は基礎造形ですが、特に色彩の中で配色の説明にウェイトをかけています。付録に貼付したカラーカードと実際の写真とで解りやすく説明されています。

 実用とテクニック及び知識編としての第四章。

 第五章には、アレンジメント、ブーケのベーシック・デザイン。実際に撮影した写真を更に全てイラストレーションに直し、視覚の上で理解出来る様に編集されている事が特徴です。

 第六章はベシック・デザンの素材を変えて応用された作品を再び集めています。この応用から次々に展開されていったところに、ニューパターンを生み出し、第七章に実例を挙げて紹介しました。研究の過程ではありますが、この章のシステム化された図版を完末に添えて参考にしていただきたいと思います。

 以上のように豊富な内容を持った、この“L’ Art Des Fleurs″を通して、フラワーデザインにたずさわる方々、及び花に関わる方々にとって貴重な資料となる事を願ってやみません。

 この本の発行にあたり、工藤昌伸先生をはじめとする先輩諸氏、御執筆いただいた各界の諸先生の暖かい御指導と御協力が大きな活力となり、完成するはこびとなりました。心より感謝を申し上げます。――――フラワー教育研究所一同


L’ Art Des Fleurs ―フローラルアートの完成―

株式会社フラワー教育研究所編 1980


〒106東京都港区西麻布3-2-16-601

TEL (03) 408-7836

定価 38,000円

発行 昭和55年5月5日

発行者 福田悦夫

発行所 株式会社カイガイ

〒564大阪・吹田市広芝町5 -30

TEL (06) 385-5231㈹

〒103東京・中央区日本橋小舟町8-6(新江戸橋ビル)

TEL (03) 662-8786

印刷・製本 ナニワ印刷株式会社

***********************


左から杉森翠甫、工藤昌信、内山錦吾の各氏  右端が司会の池田孝二氏、後姿がサトウ・ジュン氏


【 座 談 会 】

いけばなの歴史とFDとの関わり合い


ところ

東京(ホテル・ニューオータニ)

出席者

いけばな研究家 工藤昌信 K

中央フラワー芸術協会会長 杉森翠甫 S

(社)日本フラワーデザイナー協会理事長 内山錦吾 U

司会

(株)フラワー教育研究所 池田孝二 I ・サトウジュン


◎いけばなのメカニックとその発生

U FDに役立てばと思いましてお聞きするんですが、日本のいけばなの諸流を問わず、ここではやっぱり自然の一本の樹木の形を理想として、花形を理想化したという考え方ではなく、日本の花の留め方がその他に必然的な理由があって出来上がった形なのかどうか。この辺はいかかでしょうか。

S これは工藤先生の方か詳しい。

K それは歴史の中の様式では大体3回位変わってくるんです。私はいけばなの形を持った花と持たない自由な花とに分けて考えてます。まあ構造主義的なものの考え方なんですよ。非常に教条的になるという批判をされるかもしれませんが・・・。私はまずいけばなを聖なる花と俗なる花という分け方にするんです。もう一つの言い方をすれば、タテマエ花(立てる花)とホンネ花(入れる花)であるとも言えます。今、資料として記録に残っているのは、本来、法式をそなえ形を持ったタテマエ花しかないので、もう一つの俗性を持ったホンネ花の記録は、古い時代のものは少いんです。

 ご承知のように日本の場合、整斉を持つという意味は、まっすぐに立つと言うことですネ。なぜ立てるかという問題から解明していかないと、いけばなが足元一本というのが解らなくなるんです。日本の場合、供花が始まりだと一般に言われてぃるでしょう。まあ本当は供花以前の依代としての枝を立てるという事とこれが結びつくんですが、供花を見ますと最初から囗が広くて喉が細い水瓶とか、花瓶(*けびょう)とか言われるものに花を入れてるんです。しかも蓮の花なんかは、のどの細いところに詰め物をしてそこに立てるんです。そうすると中心の花が高く伸びていてしんとなり。 下には下草がある。こうしてしんと下草で形づくられます。下草って言うのは本来留めの役目をしているんです。メカニックからいってもー番留めにくい形の花瓶に、留めにくい花を入れていることに気がつくんですネ。これをどうするか、要するに喉の細い所で動かない様に留めれば良いのです。こういう草を詰め物にして、そこへ押しこんで挿すんです。

 やがて時代が変遷するに従って詰め物が”こみ”になってくる。”こみ”と言うのはやはりイネ科の植物が一番なんです。最後には”稲“の中心の細い軸を引き抜いて使うのが”こみ”でしょう。こうなると足元は一つになってしまう。一つに寄せなければ留まらないですヨ。それが口が広くて喉が細い器でやったもんだから、そこで水際というのを伝統的に意識するようになって来るんです。この花形はまっすぐ立てるものに聖性の形を見たんでしょうね。たまたま仏教の供花とうまく結びついたんですね。供花は一時期この様なものでしたが、あとは薬師寺なんかにある様に造花で作る花、華やかな色彩的な飾り花です。

 だから室町時代に供花、仏花なんて呼ばれていたのは唐様の花とも呼ばれました。あれは盛る花です。椿か何かの花をサハリの舟に盛ったのがやはり供花だったんですから、日本の仏教のオファリングフラワーが即、立てると言う意識を形作ったとは思えないんです。わずかに蓮の花の供花が形を作ったんですヨ。しかし首の重たい物を器に立てるにはその方法しかなかったんですネ。ですから留める場合”こみ”を入れてそれが動かない様に器に砂を入れる。これが京都で始められたんですネ。何故かと言えば、京都の風土を考えてみて下さい。あれだけの花崗岩の風化したものが流れて来る白砂があったからこそです。実はこの留めは、いや応なしに出来たんです。そうしますと今度は足元を全部寄せて幹のようにとおっしゃるけど、室町時代の伝承では幹という言葉はなかったんです。むしろカブ立てといって何本かの枝を合わせて立てていました。一番初め形は”天上天下唯我独尊”なんですね。

U あーあ、そうですか。

K だから足元がバラバラでは困るんです。聖なる花は然るべき聖所かあるいは床の間でも、足元一つでなければならないと言うのは室町時代のたて花以来、大原則になっています。本人の考え方というのは、こうした形の花が一種の依代の変形だったんです。つまり神が宿る聖なる存在のように思えたんです。だからこうして生けた物は聖なる花なんですよ。ヨーロッパでは聖なるものはギリシャやロ-マにおけるシンボルとしての樹の枝でしたね。日本の樹木信仰の発想というのは、そこに神を降臨するからこそ意義があり、聖なる場所に立てたものは神聖にして犯すべからざるものだと言う意識が基盤としてある訳です。


左、ジョサイア・コンドル、右はヘリゲル夫人の著作

◎クレッセント・ホガースは、いけばなから生まれたパターン

 ここで、ちょっとおうかがいしておきたいのは、直線的な問題は別といたしまして、クレッセントとホガースの問題を少しお話していただきたいのですが、これは、未生のですが、古流の生花からヒントを得ての、クレッセント説みたいなのがある訳ですが…。

S 私はアメリカでね、デモンストレーションをやった時、フローリストの方から聞いたんだけど、昭和42年に、これが日本から来たと言うんだナ。日本のいけばなから来て、”何という流派だ?”って言ったら、古流だって。(マツ注: 昭和42年に話を聞いた、ということか)

K そうですね。どなたかがお書きになったものには、古流ってありましたけれど、私の見解は違うんです。古流じゃなくて遠州流だと思っています。なぜかと言うと、明治以前に一番強く外国に影響を与えたのは遠州流だと判断するのは、やっぱり出版物です。しかも英訳された本を調べなきゃならない。その場合には、J・コンダー(*ジョサイア・コンドル)の本ですネ。コンダーのあの本と言うのは大変なものです。それが取り上げている基本的な形というのが遠州流(*非常に深く枝を曲げてつくる形が特徴)なんです。それからもう一つ。ヨーロッパでも紹介されていったのに、池坊の立華もありました。古流もありましたが、古流のものがタトに出たという記録は、あまりないんです。古流が外に出て行ったのは、かなり後になるんです。むしろ遠州流の形なんですネ。明治後の西洋に影響を与えたのはやはりJ・コンダーですネ。理念としてはヘリゲルです(*東北大学に招聘されたドイツ人オイゲン・ヘリゲルは日本文化を紹介した名著『日本の弓術』『弓と禅』を著し、妻のアウグスティ(グスティ・L)は日本でいけばなを学び『生花の道(華道と日本精神)』を書いている)。ヨーロッパに強い影響を与えたのは、ヘリゲルなんです。例えば、ビル・キスラーはいけばなの美をジャストバランスと言うけれども、タトの評価としての日本のアレンジメントは、ライン・アレンジメントとしてとらえる。そうすると、ライン・アレンジメント最も曲があるのは遠州流でしかない。※最後のラインアレンジメントに着眼したところは、ヘリゲルではなくコンドルではないか?

S しかも、幕末まで遠州流は非常に強かったんですネ。お大名あがりなんです。

K 現在、例えば資料的に錦絵、浮世絵、明治20年迄に出て来るこういう錦絵の中に、ずっと調べて行くと、そこに出て来る花型と言うのは、全部古流じゃありません。遠州流なんですネ。

I それでは資料的に遠州の諸々って言うのは結構残っている訳ですネ。

K ですから、明治時代のいけばなで根強く力のあったのは遠州流でした。当時の西欧の人たちは、浮世絵ってのを沢山持って帰っていった訳ですよ。文化文政以後の錦絵や浮世絵に描かれているいけばなは、全部遠州流なんですネ。つまり遠州流の花形が絵になりやすいんです。日本のいけばなは、一番最初こういう綿絵で紹介される訳です。

S 今でもネ、立華が殆どだけれども、たまたま盛花がある。それがやっぱり遠州で古流でも未生でもない。

I 又、ホガースになればニュアンスか違うんでしょうか。その辺から、もしホガースが古流の流し物で、あるいは中段、若しくは上段的に、 NFDで言う主軸が流れて来た時には、まあホガースに見える訳ですヨ。その辺の論拠と絵画きのホガースのSサインとの関係は。

U あのSサインは、ずい分後の話だろうと思うよ。

K 只、気をつけなければならないのは、器の線を切って下までスッと流している花形は、遠州流しかない訳です。やっぱり私はあの曲がりの美しい線に外人は強い魅力とある意味でのセンシアリティーを感じたのだろうと思いますネ。そうでないと、こういう線の下がりというのは日本のいけばなでは出てこないです。遠州流だけなんですね。古いものだと。

U まあ、未生が先だと言うけれど…。

S 僕も工藤先生の考えに賛成ですネ。なぜかって言うと、幕末まで大名の時代には、非常に盛んだったんだね。ところが古流が認められたのは商人で、商人が力を持つのはもっと後だからネ。


◎明治・大正におけるフローリスト

U 花卉装飾という次元のFDをとらえるならば、ずい分昔からそれなりにと言えますが、その点は日下さん(*日下一志「みどりやフローリスト」仙台市)のとらえ方で充分だと思います。現在のフラワーデザイナーといっておられる人達のFDと花屋のやった仕事、実務に於ては一緒だと思いますが、以前はやっぱり実業ってのは(花屋というのは)元来お客から教わるという商売ですからね。お客の要求を満たすという形で、だから神戸なりに、横浜なりに、東京は東京なりにそれなりの交流なり何なりはあったんじゃないんでしょうか。

I  資料によりますと、恩地さん(*恩地剛)が渡米されたのが1897年、明治30年です。それで帰国されたのが大正5年ですから。

K その間にねえ、西洋花卉裝飾という出版物があった。いけばなの方から言いますと、明治43年、この時の西洋花卉装飾法というのは非常に強い影響を持っています。

 この頃岡田広山という人は、大正2年の記録のある写真でコサージュを作っているんです。何で池坊の名手で広山流を創始した人がコサージュをやらなきゃならないのか、大正2年と言えば安達潮花が最初の展覧会をやった年ですよ。彼は横須賀で観艦式をやる所の飾り、アーチ飾り(*緑門)等いろいろやっていました。この辺の明治37~8年代の記録をもう少し掘り起こすと面白いですネ。同年である彼が日本のいけばなも良いけれど、こういうものもあるんだと知って西洋から来ているこういうコサージュをどうしたらいいか、研究のためにいろいろ真似して作っているんですよ。

S 国会図書館にあった恩地先生の本を写して来たんです。(*誠文堂新光社、昭和5年の綜合園芸大系第8巻「最新花卉園芸・総論/1、2年草」に「花卉装飾法」という題名で80ページにおよぶ論文が収められている。1980年当時、見ることもできない幻の書と言われていたもので、貴重な本としてデザイナーどうしでコピーをまわしていたという)

U 恩地先生の本に採用された写真が全て収録されたアルバム(*恩地は欧米で出版された本の写真を抜粋して著作に使っていたようだ)がNFDの事務所にありますよ。今日本で何冊位あるかなあ。戦前に何冊か入っているけれど皆戦災でなくなっているでしょう。石井さんの「実際園芸」も1~2冊置いてあります。昭和5~6年の、今の吉田さん(*吉田鉄次郎氏、新宿のみどりやフローリスト)がアメリカ・レポートを石井さんの「実際園芸」に書きました。まあ一番の草分けでしょうな。

S 戦前、花の栽培で一番の産地は千葉県と岐阜県だったんですね。岐阜の高等農林学校の農芸教室も相当資料があるんじゃないかと思いますね。戦前だったら、それから九州大学農学部の園芸教室にもあるでしょう。恩地先生は札幌農学校を卒業していらっしゃる(*入学はしたが、卒業記録はない)。

U  FDの歴史という事になりますと、これを形成したのは横浜植木、第一園芸とか皆フローリストの仕事で来ているでしょう。もちろん恩地先生の仕事も、長島(*正しくは永島)先生ももちろんそうですが、長島先生のお仕事は三井の茶花の御出身でしたが(*誤りだと思われる)、それは心ならずもなさった訳で、本当にアメリカで勉強して来て何とか植え付けたいと言うお考えだったのでしょう。その仕事を現実にやったのは横浜、東京、神戸などのフローリストでしたからね。

*日下一志氏について

https://ainomono.blogspot.com/2022/03/1968.html

◎大正、昭和にかけてのいけばなの傾向、文人花及び新興いけばな宣言

U 人と花との関わり合いなんてものは、各々原始の時代から、宗教なり何なりでございましょう。それが国情、環境その他で伝承して来た訳でありまして、そうなると日本のいけばなの歴史なんてのは、もうずい分立派なものだし、一番文献的にもはっきりした形の物だと思うんです。ズーと飛び越えて昭和の何年か、格花から脱皮したいわゆる自由花以前に、明治大正頃にすでに文人花があった。じゃあ、この文人花はいけばながFDかと言うとらえ方ね。当時のアーチストの方がそれなりの理論を持ち、アカデミックな花という独立した分野を形成されておったでしょう。

K 今までのいけばなの歴史というのは、常に外国の影響を受けている訳ですよ。室町時代には中国の、更に江戸にもその影響を受けている。ことに文化文政の頃には、出島を通って来る花材によっての影響を非常に受けるから、花のとり合わせ方も変わってくるでしょう。更に明治では洋花の移入、だから明治末年から大正初年にかけてのいけばなの人達の動きと言うのはすごく面白いですね。

 小原雲心さんの場合は最初から盛花ではありませんから、皿花と言う呼び方をされたりしていました。この当時の日本人には二つの面があるんです。一つは文明開花よるよそからの影響と(建築様式かなんかの)、もうーつの側面は国粋的な考え方です。だからこそ小原流の盛花は本当は西洋式盛花であるにもかかわらず、あえて国風盛花という名前をつけなければならなかった状況が大正年間に出て来る訳です。

S 逆に日本的なものへ安達潮花が、何々流でなくて安達システ厶というタト国の名前でむしろフラワーアレンジメントに近ずけて形を大正デモクラシーの時期に作り上げた。だからむしろ雲心さんより今の安達式の方がフラワーアレンジメントに近い訳です。

K 安達潮花がやった場合も盛花という語を使わず飾花と自ら祢していました。飾花といいながら、これは明らかにフラワーデコレーションなんですネ。訳語です。最初は昔からの座敷飾りの花と言う事ともう一つは横文字のフラワーデコレーションというものを念頭に置きながら飾花という言い方をした訳です。明治に於いていけばなをやるというのは、まさに精神修養なんですが、大正になるとそれが教養的なものに変わったのです。そこで初めて自由花というのが出て来るんですよネ。明治の30年代になると何とかいけばなの活路を開こうとする訳で、出て来るのが小原流の雲心に代表される様な人達なんですネ。その盛り花の興隆にインパクトを与えたのが今の西洋花卉装飾法なんです。花を盛るっていう意識の名前の付け方っていうのは違うんですヨ。盛る花って言う意識で非常にバター臭いんですね。

U この辺の所で、結局正統というか、いけばなという関わり合いですと、それなりに背景的には日露戦争の後の大正成り金の時代に、園芸界の海外交流、従ってアメリカよりも直接ヨーロッパから球根品種の導入を通じて、合わせてそれが、ただ生活の暮らしの中に定着しなかったのは非常に残念ですが、戦前も帝国愛蘭会というのがありまして、ガーデンクラブというのが出来たりしましたが、今のお話しのデコレーション的なものになっても、これが先生でないので人に教えたり、伝えたりという事が出来ないから、いわば一部エリートの楽しみに…

 ただ今日になってみるとその当時のいろんな背景的なものが、その当時としては個々それぞれ社会階層の一部の人がね…、という事じゃないでしょか。

K 昭和3年代、その辺までの層は、いけばなは圧倒的に女性達のもので、先生はブルジョアのお出稽古先を五、六軒持っていると、それで生活が成立していたんですよ。だからこそいけばなの大衆化と言う意味では安達潮花のスクーリングが評価される最大の理由がある訳です。で、安達さんは近代的なカリキュラムによる指導ですからいけばなの大衆路線をめざした訳です。そこで自家教場の拡大という問題が出て来るんです。

U まあ、安達先生というのは私が子供の頃、先代の時代の人でよく知りませんが、ローカルでは大変御苦労されてね。必ずしも今日のような評価がストレートに、実体がそうであったとは言えませんね。まあ私個人の立場で言えば今の教室的な場所を提供したりというからみがありましたけど、今先生のお話しにありました様に教室を貸したり、まあいけばなじゃないけれども写真で残されたりネ。残るものの方作がね、あそこはすごく豊富でしょう。今日ずい分有効なものじゃないでしょうか。

K コンポートをはじめて使ったのは、あれなんかフラワーデコしーションの影響ですよ。あるいは飾花の出なんですヨ。それから40いくつという花形構成なんて言うのも明らかにその影響でしょう。

 こうした形に対する考え方の導入と言うのは、ヨー囗ッパの絵画に於ける構成理念の導入じゃあなくて、フラワーデコレーションという具体的なフォル厶からの影響が強く、いけばなに反映していたと見るべきですよ。

I だからさっき言われた菊の盛花的なものが、今資料的に見るとエル・シェープに見える訳です。

S あのねえ、小原雲心先生が一番先に小原の盛り花をお作りになったと言うのは非常に興味があるんだけれど、小原先生が一番卓越している第一段階は、外国の花を使いたいという事から来ているのか、形から来ているのか…。日本のフラワーデザイン的なはしりだと思うんですがね。やはりフラワーデザインの歴史というと、僕はどうしても小原雲心先生、安達潮花先生、それからこれはどうしてもと思っていたんですが先程のお話しでビックリしました。岡田広山先生、我々はこういう風に理解していいでしょうかね。

 明治の初めに戻りますが、西川一草亭、岡田広山、その次に安達潮花、小原雲心のフラワーデザインの走りは、昭和の初めまで来て、新興いけばな宣言になって行く訳ですね。これには6人いるんですよ。中山文甫.勅使河原蒼風、重森三玲、藤井好文,桑原専渓、柳本重甫の各氏です。

U 日本だから掛け軸の調和うんぬんと言う事だけれど、表現を英語的に言えばまるっきり一緒になって行くけれども、当時の人の意識は、僕のうちも文人の傾向だけれども、他の先生方は笑いますが、発祥したお家元が創始者当時で凍結しているからね。いわば当時アブストラクト的であり、最も自由花であった文人がその時点で凍結し、以後それを伝承してるもんだから今日から見ればあたかも他のいけばなと同じ様な…。これはお家元の意識だからね。しょうがないですね。まあこういう御意見の人もあった。けれどもその当時宣言される人の意識は、何かのしがらみから、脱皮すると言う御意図があったのだろうけれど脱皮以後、その次その次が伝承と受け取ってやって行けばもう殻が出釆てしまう。むしろ新しい殻か出来たというのが日本の場合多かったんじやないでしょうか。

S 新興いけばな宣言というのは二つの要素が入っていると思います。室町の茶花、投人花への回帰。もう一つは当時入れました、西脇順三郎、高橋信吉、大宰冶とか、そういうものの影響を受けて入って来たものもきまれているのではないのかと…

U あの頃関西では、西川一草亭先生、高橋雲窓先生、私共の親がお世話になった方でございまして、私などかすかになあーという程度でございます。

S あの人が文人派の正統なものでした。今度「野草を生ける」というのは現代の日本のいけばなに挑戦している様な花でしょう。西川一草亭というのはその様な傾向です。

K 西川一草亭という人、日本のいけばなを海外へ紹介したという意味では交通公社から出しました「日本のいけばな」を書いていますが、その人が大正12~3年頃、時代挿花展というのをやったんです。京都でこれをやった時その中で国書陳列をやるんですね。その中の1/3位はフラワーデコレーションの本なんです。

S これはびっくり。

K そのフラワーデコレーションの本と言うのは、西洋花卉装飾法を含めしかも原書なんです。

U 西川一草亭の活躍と言うのは関西だけでなく全国的に渡った御活躍でしょうか。

K 明らかにそうです。あの人はすでに明治23~4年頃、当時の各新聞に原稿を書き、東京都の都市美論というのを何回か投書しています。要するに今で言うネオンサインとかを肯定した論なんです。

S へえー僕はまた作品から受ける感じでは逆にクラシックな…。

K いいえ、そうじゃありません。大体お茶と言うのはプロレタリアートの物であると書いたのは西川一草亭なんですね。

S うわーすごいな。

K だから一草亭というのは、かなりバター臭いんですね。決してフラワーデコレーションみたいな事はしなかったんですけれど、大体文人流派っていうのはかなり進歩的だし、新し好きなんですよ。フラワーデコレーションに於けるペリオドアレンジメントと言う意識での日本的展開は、西川一草亭の時代挿花展にあると言えます。

U 話がちょっとそれますけど、何故その当時の文人瓶花と言うのは今の書画、骨董の様にやけに古いねえ。さっきも話題に出ていた様に、文人というのは文字通り先程の先生のお話しではっきりする訳だけれども。

K ただ、大正末期から昭和初年にかけて中国美術の輸入による影響がありましたが、同時にヨーロッパのクラシックな器に花を入れるのが文人投げ入れとして新しく登場してきました。

U そうしますと、つかぬ話になりますが、今文人でいわれる長春であったり富貴ですか、こういう風に牡丹の花を富貴と称し、ばらを長春と言うのは、やっぱり、その当時の文人作家の一つの創作であったか、あるいは中国ではこうだから、こうなるんだと言う伝承的なものなのか、日本の創作というものは…。

K 文人の画題の中でも日本的創作っていうのは、季節の問題になったら中国と日本のシーズンは違うんですヨ。夏の画題などは少いですよ。大体日本の季節に合った様な画題を日本的に展開させていくのです。半数は日本的創作でしょうね。

U なる程…。そう言えますでしょうなあ。話題が飛ぶけど、現在FDの作品でも画題じゃない作品のテーマを色々おつくりになりますが、その場合昔の文人の絵描きさんが、松とばらを書いて長春をイメージアップされた。ところが今の作品名にも時折出る。そこのところがね、今のFDにもう少し体系づけるような理論づけが欲しいところですね。


◎アメリカのフラワーデザイナーといけばなの興隆

I アメリカのビル・ヒクソン氏に至るまでのベンツ氏、キスラー氏の段階で、小原流にも関係の深いディーン夫人グレゴリー・コンウェイ氏などについてお話していただきたいのですが。

K やっぱりコンウェイ氏は落とせない人ですネ、アメリカのフラワーアレンジャーとして日本に来て勉強してその影響力があって、アメリカではマスコミを媒体とするコンウェイ氏の名声と言うのは大変高かったようです。恐らくあの当時、フラワーアレンジャー、あるいはフラワーデコレーターの間で、最も巾のある人でしょうネ。その当時彼の評価として、”キング・オブ・フラワーアレンジャー”と言う言葉が印象に残っていますネ。当時フラワーアレンジャーとしてあれだけ長い間日本に来ていたという人はない訳ですから、そして向こうでやっているのを見ますと、日本のいけばなの影響はあったけれど、やはり彼のアレンジングなんです。その辺は質問してみたんですが、かなり頑強でした。目分のものをしっかり持っていたのは、ベンツ氏もそうで、いけばなはあくまでも参考にしていたという人でした。

U 僕はキスラー氏を横からずっと長い間見ていますが、 FDと言うのか、花と言うのか、人間が自分で持っているものは何年経ってもあまり変りませんですなあ。その一代の間にある一流を創始される方は、たいしたもんだと思います。

 キスラー氏の前はアメリカでも、トミー・ブライス(*正しくはブライト)と言うご婦人が…、日本でもあるじゃない、花屋で物知リのおじさんとかあばさんというの、そういうタイプの男名前の様ですが女性なんです。だんだんゼネレーションの交替期になって、どこか大きな家の結婚式なんかや、又葬式なんかあるとゼネラルホームに飾るにしても、ちょっと先輩に聞かないと解んないでしょう。だから教えてほしい、見てほしいと言われてるうちに晩年あの人はフローラルアートスクールを作った訳。キスラー氏はそこへ習いに行って学校の株、権利っていうのかな、貰った訳、だからキスラー氏の後はジ厶・モレット氏が継ぎますワ。その時ベンツ氏は同門だった。彼はテキサスのお金持ちのスポンサーがありますもんで、キスラー氏がシカゴに残り、ベンツ氏 は別れてヒューストンへ行ったという訳です。

※アメリカン・フローラルアート・スクールの歴史(トミー・ブライトさん他の画像あり)

http://demo.show.bis.tw/americanfloralart/history.asp

※「アメリカンフローラルアートスクール(イリノイ州シカゴ)は、1937年にシカゴの花屋、Ethyl'Tommy' Brightによって設立されました。当初はBright's School of Floral Designと名付けられ、戦後帰還した退役軍人を養成することを使命としていました。エチルはフラワーアンバサダーとして、コカコーラ社から出版された「花のある暮らし Living with Flowers」にも貢献しました。彼女は1968年にSAF Floriculture Hall of Fame(アメリカ花屋協会花卉園芸の殿堂)に殿堂入りしました。SAF Floriculture Hall of Fameは花卉業界で受けることができる最高の栄誉です。SAF Floriculture Hall of Fameは、フラワー業界における最高水準のサービスとプロフェッショナルな責任を認識し、奨励するために設けられたものです。また、PFCI(Professional Floral Communicators - International)組織を通じて、毎年「トミー・ブライト賞」を授与し、トミー・ブライトを称えています。この賞は、フラワー・プレゼンテーションにおける生涯の功績を称えるものです。」

※「1981年、キスラー氏の死去に先立ち、ジェームズ・モレッツAIFDが3代目校長に就任した。彼はビルのビジョンとフラワーカリキュラムを引き継ぎ、トレンドや新しいデザインスタイルの流行に合わせ、フラワー情報の更新と拡張を開始した。人気が高まるにつれ、西洋やアメリカのフラワーデザインへの関心が高まり、学校は国際的に拡大、特に台湾では、当校が提供するフラワートレーニングやデザインスタイルに興味を持つ生徒が増え、人気が高まった。アメリカンフローラルアート台湾校は、世界レベルのトレーニングと芸術性で、今日も健在である。1966年、アメリカン・インスティテュート・オブ・フローラル・デザイナーズに入会し、業界への特別功労賞を授与される。」




I 私は彼のスタジオで生花を作ったことがあります。彼は生花の構成を自分の眼でたしかめたいという思いがあったのでしょう。彼は私と一緒に仕事をした訳です。

S それは何年頃でしょうか。

K 私が始めてアメリカへ出ましたのが1952年です。その当時逢ったのがコンウェイ氏とベンツ氏でした。キスラー氏はもう少し後でした。名前は知っておりましたが逢ったのは1960年頃だったと思います。3回目位ですから。

U キスラー氏が初めて日本に釆たのが62年か63年でしょうからねえ。

K たまたまアメリカを廻っていてシカゴでデモンストレーションをする為に、私が仕事をする場所をディーン夫人が紹介してくれたのがキスラー氏な訳です。彼は非常に興味を持っていてくれました。ご承知の様に花の材料を入れるとなればやっぱりライセンスを持っていなきゃダメだから、あの時代フラワーマーケットに入れるのはライセンスを持ち、フローリストでなければという事でした。そういう人達がどの町へ行っても協力してくれる。キスラー氏の一番大きな協力は自分のスタジオを便わせてくれた事です。そこで彼の仕事を見て日本のいけばなは、かつてあったものをずい分落している部分があるんじゃないかと思いましたネ。そして何とかして彼を呼ばなければと思い2年位かかって小原さんとも相談して一番最初に彼を呼んだのが、ヒルトンホテルでのデモンストレーションだったんです。その時一般的にフラワーデザイナーと言っても知りませんから、

日本人で一番先に紹介してくれたのが、村田ユリさんなんです。それで村田さんの所へ行っていろいろ聞いて私は非常に感心した訳です。あれは60年か61年かな…

U 先生のお話しをうかがっていますと61~2年ですね。私達が行ったのが63年ですから、その前年と前々年ですから、60年、61~2年にディーン夫人、キスラー氏が来ていましたね。例の青山の講習会で、今おっしゃっている村田様が通訳をしたと言うので、村田様は日本の中で有力なコネクションを持っていた第一番目の人ですな。

(*村田さんは1956年にキスラーさんのところに学びに行っていた。『蘭業組合報』第62号)

K 私もやっぱり村田さんだったと思います。その当時仕事の早さと言いますか、動く手を見てひどく感心したものでした。

U ディーン夫人が最初に来た時には、末だ小原稚子さんとその後の関わり合いはなくって…。

K ええ、ありません。

U ちょうどディーン夫人が初めて日本に来た時、小原さんに御入門の年にFTDの紹介で日本で一回デモンストレーションをやった。その時キスラー氏は来ていたけど彼はディーン夫人が来ているから黙っていた。そして彼がやり出したのはその翌年からですから、その後ディーン夫人も今の家元との関係で本を出したりしたと言う様になって行ったと思います。

K そうでした。キスラー氏は未だ日本には定着しないと言って…。彼の場合はフローリストの養成ですから、その辺の筋金入りみたいな彼の態度には非常に感心しました。

 ですからディーン夫人とキスラー氏とは恐らく対象が違うんじゃないかな。

U だから、むしろ小原さんに打ち込んだのはディーン夫人だろうと思います。

K そうですね。

U その後の彼女のニューヨークの事務所の活動でもです。

K ミセス・ディーンは日本のいけばなの中へ深入りして、その両方の掛け橋として活躍した人ですね

※小原稚子氏(三代家元小原豊雲の長女、小原流の組織運営に携わり、機関誌への連載など多方面に活躍)とディーン夫人はたいへんに親しい間柄であった。

https://ainomono.blogspot.com/2022/03/blog-post.html


◎これからの花、現代美術との関わり合い

I いけばなの方もFDの方も、戦後のアバンギャルドから入って、抽象、シュールを経て、ネオ・ダダの要素に行かないまでも抽象表現をやった人もいますが、その辺で足踏みしている様に見うけられるのですが、どうして今の現代美術と同じ歩みをしなかったのかという疑問があるんですけど。

K そうですね。それが消滅したかの如くに見えるのはやっぱり流派の企業化でしょうかね。流派の企業化によってパターンを強固に決めなければならない。そのパターン化の中に埋没してしまったと私には見えるんですがね。いけばなもFDも、素材であるフレッシュって言うのは極めて短い時間が故に強烈な主張をする。短かくあってもそれが存在する事に意義があるとしたら、それはイベントである。そういう事ですね。そういう事に賭けようとする人達は、花を分解して散らしたり、どちらかって言うと今のいけばなの場合はコンセプション・アートですよネ内部にある観念を何らかの材料を使う事によってどう表出するか。いわゆる非常にコンセプトな方法論の問題が、今やシュールとかアブストラクトと言う言葉では解決出来ないものが出来ちゃっている。芸術の多様化、この中で何が起きているかというと、やっぱりかなり短かくても爆発する様な一種のイベント、つまリミュージィアム・ピースとしてよりは、むしろ瞬発力のあるイべントによって、多勢の人達に花を通して何かをコミュニケートをする。そういう様な状況が少しずつ出て来ているんじゃないかと思うんです。

I シュール・レアリズムのその中にある技法っていうのは、概念をとらえればパターン化は出来ないけれど、一つの形式化なり様式化の可能性としてある程度把握出来るんですよね。

K ですから、今私が接触しているいけばなの若い人達、若い世代層は、自分達の道として一つのものだけでなく多様なものの中から自分の道を作り上げて行こうとする動きが出て来た。私はどうやら本物になるなって気はしているんです。今流派の力というのは、だんだん上限に達しています。ですから流派は大きく動きませんよ。作品の傾向の問題もきわめて多様だと思います。

I フラワーデザイナーと称する人が、一つの花をテーマに(いけばな作家も同じですが)イベントであれパーフォーマンスであれ、その辺になってくると。フラワーデザイナー、いけばな作家という名称と言うか呼び方は全く関係ないですね。

K 全くない。それはね、かつていけばなが他の質的に素材的に花じゃない全く違った材料を使ったことによって彫刻じゃないかと言われた事と全く同じな訳なんです。ただね、シュールじゃなくてコンセプトという言い方をしたのは、そこには何かがなければならない。その何かって言うのは、人間があり花があるというところまで行かないと、その何かってのは出て来ないまま、その辺でイベントという形に現代いけばなの若い人達が関心を向けていったという最大の理由は、今言った様に極めて短かい間に、あるいは移り変わる間に物を語るという、明らかに植物志向でしかない訳ですよ。

I 我々フラワーデザイナーは、いけばなでもそうでしょうが、大前提に花っていうものがある訳です。一瞬なりそのイベント行為をする為に、素材は別に花じゃなくてもいい訳です。むしろ適切な水とか空気とか砂とか、諸々の関わり合いの素材があるけれども、ここで致命的なのが、我々は花でしなければならない。

K ぶちこわすってことにはならない、と言うのは、花じゃないんですけど、花にしちゃうと言う事なんです。花にしちゃうと言う事は、それが花に似ていると言う事じゃなくて、だから石膏があっても鉄があっても良いんですよ。それはそれで完結して終りなんだと言う事でしかない。

I 今後の問題として、未だ未だ沢山の事をお話ししたいのですが、この辺で締めくくってみたいと思います。

K 花の世界に皆さんか相関わってやって行こうとしたら決して狭いものを見ていただけではダメで、もっと広げて行って庭のデザインが出来る、庭の植栽が出来る、インテリアも出来ると言う所まで育ってほしいと願っています。そして、それが花を中心として、すべてを考えると言う、それくらい大きな観点に立って出来ない事はないと信じてます。

 私が若い頃やって来た昭和20年~30年代というのは、それどころではありませんでした。しかし、今自分がそういう考え方を持ってあと10年仕事をして行こうと思っているね。あと10年後、少くともそういう人達が一人でも二人でも出て来れば良いという事で、経過的な仕事をしている段階ですね。それから国際的に住宅環境っていうのは、かなり変わって来るだろうと言うのを想定しなけりゃならない。そういう中で私達が取り戻すのは、花をいかに造形するか、かつて花を中心にして造形作業をしていた人達の持っていた権利を復活することではないか。つまり日本で言えば室町時代のたて花の師たちが花だけではなく、室内インテリアのしつらえまで含めたデザイナーであることを想いかえすと、花を生ける技術だけではなくもっと大きな世界が我々の前にあって、花を中心としたヒューマン・ライフ全体に相関わる仕事がまだまだあるのではないかと思っている訳です。


***********************

このブログの人気の投稿

横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主と伴田家との関係

大正12年12月20日(木)、有楽町駅すぐ(日比谷側)埼玉銀行の地下にて、高級園芸市場が営業を開始 すぐにスバル座あたりに移る

東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です  大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事