仙台のフローリスト、日下一志(惣次郎)氏の回顧 (1968年の記録)

仙台、みどりやフローリストの創業者、日下一志(惣次郎)氏は、戦前戦後に活躍し、これからというときに早逝されtた。日本のフラワーデザインの歴史をたどった論文を残されており、その遺稿はマミフラワーデザインスクールの機関誌『フラワーデザインライフ』の誌上に1969年から1971年にかけて、「フラワーデザインの歴史」(全21回)として連載された。日本のフラワーデザインの歴史を調べた先駆的な著述*で、重要な資料である。

*日下氏より少しあとになるが、1974年に、永島四郎氏の弟子である山本晃氏による『ニューフラワーデコレーション』(新樹社)が発行されている。この本の中にも戦前戦後のフラワーデザイン史が人名を交えてたいへんに詳しく記録されている。


日下氏は戦後、仙台から東京に足繁く通って花を仕入れ、進駐軍関連の仕事に対応されていた。仕入れで通っていた青山市場は、第一園芸の関連会社で、こ此の時代に永島四郎氏から花を教わっている。夜行で上京し、仕入れをして夜の勉強会に参加してまた夜行で帰るということをやられていたと思われる。氏は戦前、東京府立園芸学校で造園や園芸を学び、新宿の「みどりやフローリスト」で吉田跌次郎氏のもとで修行をされた。氏の店名が同じであるのは、そのためである。

今回は、同氏が1968年にJFTDニュースに寄せた文章から要所を抜き出している。この文章は、氏が亡くなったあと、JFTD創立30周年記念誌に再録されている。

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「今日までの回想」 仙台 みどりやフローリスト 理事 日下一志

(『社団法人日本生花通信配達協会三十年史』1983)

 *昭和43年12月11日午前4時50分。狭心症で入院され逝去された日下一志(惣次郎)氏の遺稿である。(享年52才)


●終戦直後の混乱のなかに私はいた。非軍事化・財閥の解体・農地解放・暴動のような労動運動など、めまぐるしい移り変りが走馬灯のように、私の頭の中をかけめぐる。うなぎのぼりのインフレになやまされながら、食糧あつめに血眼になっている私もそこにいた。

●こんな時進駐軍がやってきた。彼等の本国ではとうてい望めそうもない、あこがれのブルジョア生活をまねて、豪華な生活をくり拡げたのである。

●戦前――昭和12~3年頃と思うが一一アメリカでは宴会の装飾代が飲み食いの金額と同じ位であると聞かされたことがある。それ程までにはゆかないにしても、進駐軍の需要は大きなものであった。また、20世紀頃よりアメリカのフラワー・デザインに強い影響を与えた日本のいけばなは、彼等の家族にとって大きな魅力であったにちがいない。

●これらの需要をまかなう幸運なチャンスをとらえることが出来た多くの花屋があった。そしてそれらは大きく見て2つの系統に分類することができる様に思う。

●一つは、欧米帰りのフローリストの系統をひくもので、明治以来の伝統につながる、いわゆる洋花屋と称せられる一群である。もう一つは、いけばなの家元に直結する生花商の一群であった。これらは夫々の事態に応じて、得意な面をまかない、社会不安をよそ目に着々と成長の基盤をつくりはじめることができたのである。

●仙台にも当時、アメリカ第9軍団司令部と騎兵第8師団が駐留していた。毎周土曜日にはフォーマル・パーティが催され。コーサージが飛ぶように売れた。

●私は東京青山の蘭業市場*にせっせと通っては、1輪100円から300円位のカトレヤを40~50輪づつもち帰り、1輪10ドル内外で売りさばいていた

●将校クラブ・下士官クラブで行われる矢つぎ早のパーティでは、バッフェイ・ランチョン・デナー・ガーデンパーティ等々、聞きなれない言葉もいつしか身につく頃ふところ具合も大分良くなっていたし、客に教えられながらも技術も相当に訓練されていた。

●昭和25年6月朝鮮動乱ぼっ発が報ぜられた。

朝鮮戦線に仙台駐留の軍隊が殆んど出征した。戦死したディン中将の歓送パーティは豪華そのものであった。第9軍団と騎兵第8師団の大きなエンブレムを中心に会場あますところなく花でうずめた飾りつけは、今尚はっきりと目に浮ぶ。

●しかし、その頃の日本の社会不安はつのるばかりで、昭和24年にはインフレ抑制のためドッジラインが実施された。不況にあえぐ日本経済はもはやこれまでの、崩壊寸前にあったように聞いている。

●ところが、この朝鮮動乱の特需によって、日本はやがて生気をとりもどすことになるのである。その后インフレ、物資不足からようやくぬけだすことができた。一般大衆の購買力は日増しに大きくなっていった。

●一方進駐軍の需要は朝鮮出兵の豪華な歓送パーティの装飾をピークとして徐々に減少しはじめていた。しかし。その頃すでに進駐軍を媒介として花の国際交流がはじまっていたし、むずかしいドル割当を受けて、ゴトウ花店を筆頭に、各地の有名フローリストはFTDに加入し、国内の取引も互いに協力して行われていたように聞いている。その間ゴトウ花店の鈴木さんによって、FTDの日本版J FTDの組織をつくる計画が徐々に進められていた。

●昭和28年4月、洋花屋を中心に日本生花商通信配達協会が生ぶ声をあげたのである。

日本にはじめてアメリカのFTDを紹介したのは、日本フラワー・デザインのパイオニアとして知られる吉田鉄次郎先生で、昭和4年FTD発足10年目の状況を昭和4年2月実際園芸第8巻2号に発表している。昭和22年のリーダーズ・ダイジェスト日本語版にインターフロラの組織が紹介され。入会をすすめていた。

●技術の革新は収益を増すための第一の手段として鈴木さんは積極的に国際的な技術交流を押しすすめ、1954年ディン女史のフラワー・デザイン講習会を皮きりに、1961には一郎さんをアメリカに遊学させて、最新の技術を会員に普及した。我々会員はうえたようにこれにとりつき、熱心な質問をくりかえしたものであった。

●1964年(昭39年)はマスコミによるレジャーとおしゃれムード一杯の年であり、フラワー・デザインの爆発的な流行は、コーサージ・コンテストにそのまま反映した。

●1963年FTDのまねきを受けて鈴木さんと沢田さんが渡米された。日本のフローリストのトップレベルにある両雄の渡米は業界の経営と技術面に大きな影響を与えたのは勿論であるが、FTDとの強い結びつきをもったことは偉大な成果であった。

●翌1964年には副会長の内山さんがFTDの州議長会議出席のため渡米され広くアメリカの業界を視察された。内山さんの的確な視察報告は会員をめざめさす覚醒剤となった。

●その年鈴木さんの綿密周到な計画の下に――食事のメニューまで予定された――JFTDのメンバーによる北米・ハワイ業界視察旅行が行われた。当時ハワイを訪問した記事を掲載した現地新聞のタイトルから“4ダース花の旅”となづけられたが、団長の内山さんが云われたように、日本のフローリストのレディス・ジェントルマン50名が大挙、2週間に亘って米大陸・ハワイを濶歩する、まことに愉快な壮挙であった。業界の向上発展に、一時代を画する成果をあげたばかりでなくJFTDの国際性を助長したものと思う。百聞は一見にしかず、目のあたりに見るアメリカの実情は、貴重な資料となって業界に反映した。

1966年9月には、日比谷花壇の宮島さんのインターフロラ大会への出席があった。宮島さんのイギリスに於けるデモンストレーションは、世界のデザイナーに強い影響を与え、J FTDの名を世界に轟かしてワールド・インター・フラワー・フェスティバル日本開催を土産に帰国された。

●理事会の議論も、ロマンチックなナショナリズムから脱皮して、インターナショナル的なものへと大きく変化していったのである。すでにアジアの指導的立場に立った鈴木さんの胸には、 FTDとは別に、オーストラリア・東南アジアを含めて太平洋ユニットの構成など、夢は無限に拡がっていった。

●1961年私は仙台総会の計画をふところに、有馬温泉の理事会に出席した。総会の計画のあらましと予算承認をうけたのち、コーサージ・コンテストの案を提出したところが、内山さんの強力な支持を受けて立ちどころに衆議一決した。こうして第一回コーサージ・コンテストが、J FTD第9回仙台総会で実施されることになったのである。

●仙台大会ではその出品点数は僅か35点にすぎなかったが。参加人員の数からすれば見事なものであった。当時はまだフロラテープは普及しておらず、2~3軒の方々がアメリカから直接とりよせていた状態であり、多くの花屋にとっては貴重品の部に入るものであった。私の作品も紙テープにワックス仕上げをしたものであった

●審査の結果は思いもよらず、沢田さんと私の作品が同点であった。2度の決選投票にもかかわらず、開票の結果は同じであった。それではジャンケンで決めようと云うことになり、ジャンケンで勝った私か特賞の栄誉をかち得た。

●作品の進歩は著しく、近よりがたい圧力さえも感じさせるものになっていた。

●素材も高価な蘭系統のものから一般の花材へ、そして技術本位のものに移ってきた。デザインはまだ外国書からの模倣の域を脱しなかったが、色調は無意識の中にも日本的なものへと変化していた。日本人好みのするブルー系統でグラディーション効果をきかしたリンドウなどの作品が上位を占めるようになった。

●フランスの花屋さんたちの訪日等々、国際交流はいよいよひんぱんになってきた。

●1965年の箱根大会はアメリカのフローリスト達を交えた楽しい総会であったが、ここで日米合同のコーサージ・コンテストが行われることになった。日米夫々審査員を出して、いざ審査に入ろうとした時、アメリカ側が作品全部をとりさげてしまった。その理由は簡単である。日本の作品の優秀さが彼等をそうさせたのだった。この時点で技術のある部門はすでに世界の水準をぬくものであったと今尚信じている。

●回を重ねるごとに向上を見せ、特に地方各都市のレベルアップが目立ち、技術の平均化に役立ったことは、本年の九州大会が良く証明している。

●日本は本当に幸運にめぐまれてきた。みじめな敗戦直後に、矢つぎ早にマ指令が出されて革命的な改革が断行された。日本政府によっては恐らくあれほどのことはできなかったものと思う。日本人の勤勉さを云々するよりも、あの改革による基盤と、正しい方向に導いてくれた指導者にこそ感謝いたしたい。

●思えば日本の花屋も成長したものである。つい先頃までいけばなの師匠にれいぞくし、水くみ・使い走りまでやらなければ食べて行けなかったし、寺の門前で仏花をほそぼそと売っていたのもそう遠い昔ではなかった筈である。

●今ヨーロッパ中の花屋を見て歩いて、恐らく日本の花屋の一割の方々が優越感を感ずることであろう。業界のパイオニアJ FTDの一員に加盟させて戴いたおかげで、私も遅まきながら何とか引きずって貰って来た。鈴木会長をはじめ、JFTDきっての人格者三杉さん、頭の回転が早く、豊かな協調性をもつ内山さんなど指導者の方々に心から御礼を申しあげたい。

●JFTDも社団法人が本ぎまりのところまできた。会長をはじめ皆さんの御骨折は大変なことであったろう。創立15年目の今、会員千名をめざして突進しているが、会員の増加によって、発生の歴史を異にする幾つかの流れが混入することであろう。それらは夫々の伝統につちかわれた物の考え方、大げさに云えば、異ったイデオロギーをもっているにちがいない。これをまとめて行く政治力が一段と望まれている時、社団法人化は我々に希望とよりどころを与えるものとして、一日も早い設立を願ってやまない。

●(JFTDニュース、1968.10.)


*青山蘭業市場は青山生花市場のこと。昭和26年に創業の第一園芸株式会社の関連会社で同じ敷地の青山通りに面した場所に温室と店舗があった。当時の住所は渋谷区上通り1-8。現在の国連大学の近く、元のこどもの城の隣にあった。


 

図で見るとマミフラワーの青山教室は第一園芸の通りを挟んだ反対側にあった。都電の9、10系統は1963年(昭和38年)に廃止となってるから1971年にはなんの形跡もなかっただろう。

1971年当時の第一園芸と青山学院付近の様子

マミフラワーデザインの機関誌『フラワーデザインライフ』から


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