ホーテンス・ディーン夫人と小原流の関係について
1950年代に日本でフラワーデザインのデモンストレーションを行い、「オアシス(スミザーズ=オアシス社が世界で初めて開発したフローラルフォーム) 」を使ってみせた人が、ホーテンス・ディーン女史である、ということは、日本のフラワーデザイン史で欠くことのできない出来事であった。
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このディーン夫人については小原流のいけばなを学びにたびたび来日していた、ということは知られているが、小原豊雲家元に非常に近い人であったということが書かれている本をみつけたので、その部分を抄録する。
この本は、3世小原豊雲氏の長女で、3世、4世家元亡きあと、現在の5世家元に至るまで小原流の屋台骨を支えてきた稚子(わかこ)氏が書いた『胸いっぱいの打ち明け話ー自分のための小さい幸せの本―』青春出版社 (1981)である。稚子氏は、高校を卒業後、アメリカに留学し国際的な環境で学んだことを生かし、豊雲家元の海外出張に同行して通訳を務めた。機関誌『挿花』でも自分のページを持ち、各地を訪ねながら文章を書くといった連載を続けておられる。
本では、第6章でディーン夫人にアメリカ留学時代にお世話になったこと、「アメリカのおばあちゃん」と呼ぶほど親しくつきあっていたことが書かれている。このエッセイで、ディーン夫人の人となりがよくわかる。
稚子氏は、オハイオ州オックスフォードにあるウェスタン大学(おそらくWestern College for Women、現在はマイアミ大学に統合)で学んだ。在学中、最初の夏休みにはニューヨークに移ってアルバイトをしたという。3ヶ月におよぶ長い休み期間をのんびり遊んで過ごすわけにはいかない。学校に募集が来ているもののなかで、「パトリシア・マーシー」という名のレストランに付属した庭と温室の園丁を募集しているところがあったので、応募するとすぐに採用の返事が来たという。ニューヨークに着くとただちにその店に下見に行くのだが、このときディーン夫人につきそってもらって、いろいろチェックしてもらい太鼓判をもらったそうだ。
「パトリシア・マーシー」はたいへんな名店で、アイルランド系アメリカ人の経営だった。小原稚子さんの名前の「Ohara」はまさにアイルランドにある名前で、それで採用になった、という面白い逸話が書かれている。温室や庭の手入れの他に、コサージやブーケの作り方を習って実際につくったりした。
●小原稚子氏のプロフィール(『胸いっぱいの打ち明け話』から)
昭和15年、華道小原流三世家元、豊雲氏の長女として生まれる。
現在、財団法人小原流本部常務理事、渉外部長、オハラセンター・オブ・ニューヨークの部会長を兼任。小原流いけばなの海外普及のため、世界をとび回る忙しい毎日を送るかたわら、随筆、油絵、装飾デザインに才能を発揮する。そのインターナショナルな感覚と独自の観察眼には今後、多方面での活躍が期待される。
まさに今を生きる女性の代表とも言える著者に、本書では、世界のあちらこちらから著者自身が拾い集め心に留めておいた数々の美味しい話を語ってもらった。
著書に『稚子、日本を歩く』(主婦の友社)がある。
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*『胸いっぱいの打ち明け話ー自分のための小さい幸せの本―』青春出版社 1981 から
「レディ」の名にふさわしい生き方 小原稚子(おはら・わかこ)
ニューヨークのホートンス・ディーン夫人は私の”おばあちゃん”である。と言っても、私が混血だという意味ではない。私が尊敬と親しみを込めて、″アメリカのおぱあちゃん″と呼ぶ人なのである。
ディーン夫人とは、私がまだ高校生の頃からの知り合いである。夫人の亡くなったご主人は、ニューヨーク郊外で花屋のチェーンを手広く経営し、バラの栽培では特に有名だったという。五十代でこのご主人を亡くした夫人は、傷心をいやすために日本へ旅行に来て、そこで”いけばな”に出会った。最初はいくつかの流派の花を習ったようだ。その後、再来日して自分が学ぶべきは小原流のいけばなだと強く感じたという。そして教授資格を取るまで頑張ったのである。
父がニューヨークでの仕事の時に、非常に親切に世話をしてくれたこともあって、来日のたびに家に招いたり、食事を一緒にしたりした。十代の私も英会話が少々できることもあって同席させてもらい、顔見知りになっていた。父が冗談に″私のアメリカのママ″と言ったことから、それなら″稚子のおばあちゃん″ということになった人である。
しかし、ディーン夫人を心から“Grandmother”と呼び、尊敬するようになったのは、やはりアメリカへ留学して身近かに接するようになってからのことだ。多感な青春の四年間を親元離れて暮らしていた私にとって、ディーン夫人の存在は非常に大きかったと思う。夫人の言葉や態度や行動が、どんなに私を無言のうちに導いていてくれたことか――。
ある時、こういうことがあった。
私はディーン夫人と一緒に車に乗っていた。夫人が運転していて、ラジオからは音楽が流れていた。私はニューヨークの雑踏をぼんやり眺めながら、音楽を聞いていた。間もなく、その音楽番組が終った。そこで、私はパチンとスイッチを切ったのだ。
すると、夫人は無言で手をすっと伸ばして、またパチンとラジオのスイッチをいれた。そして真っ直ぐ前を見たまま”May I ?"とひとこと言った。
私はハッと気がついて“May I turn it off ?”(「ラジオをとめてもいいですか?」)とたずねた。すると夫人は、ニッコリ笑って“Yes, you may."(「いいわよ」)とうなずいてくれた。
”May I ~”というのは、「~してもよろしいですか」と、相手の意向をたずねる言葉である。黙ってスィッチを切った私の不躾や非礼を夫人は正したのだ。親しい人との間にも、きちんとした礼儀が大切であることを身をもって優しく、しかし私にいちばんこたえる方法で教えてくれたのだった。
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私はニューヨークヘ出るたびにディーン夫人に会い、休暇を一緒に過ごした。そういう折に、夫人は私をよくあちこちへ連れて行ってくれた。貧しい留学生ではとうてい行けないような一流のレストランや、有名なお店や、また、ニューヨークの街を見せてくれた。
夫人はご主人の跡を継いで、花屋のチェーンや、ニューヨーク州で唯一の西洋式のフラワーアレンジメントの学校を経営していたから、花の仕入れも部下ばかりには任せず、よく自ら花市場(フラワーマーケット)へも出かける。私も何度かついて行ったことがある。花の仕入れに行く時も、夫人はいつもきちんとしたスーツを着て、手袋をしていた。夏は真っ白な皮の手袋だった。
夫人の皮の手袋と靴とハンドバッグは、いつも同じ色にさりげなく統一されていた。私は知らない間に、それが西洋の服装の、とくに上流の婦人のマナーであることを教えられた。
その真っ白い手袋で、夫人は花市場の人たちと握手する。”Good morning!”と、にこやかに声をかけて、夫人は手袋をはめた手をすっと差し出す。市場の人たちは汚れた手をズボンのお尻でこするようにして、夫人と握手する。
夫人の言葉づかいや態度はどこにいても同じように穏やかであった。パーティーで会う人にも花市場で会うあらくれ男にも、同じように微笑み、話をする。市場の人たちは夫人と話をするのがいかにも嬉しそうに私には見えた。
花市場で、夫人は「レディ」と呼ばれていた。アメリカ生活の間で、私は「レディ」と呼ばれる人はそうめったにいるものではないことを知っていた。夫人が尊敬され、しかも、親しまれていることがその人たちの態度でよくわかった。
レストランでもそうだった。どんな店に行っても、夫人はボーイさんたちに心から敬われて大切にされていた。それは決してチップをはずむからではなかった。笑顔とともに”Thank you.”という、心からのお礼の言葉や、相手を尊重するその態度が、店の人たちの心をとらえていたのだと思う。
夫人に連れられて何度もレストランへ行くうちに、私は良いお客になる術をいつの間にか覚えていた。オーダーの仕方とか、ウェイターの人たちにはどういうふうに話をするのか、チップはどう置くか……私にも知らず知らずにわかってきた。
その時には少しも気がっかなかったのだが、夫人は私に、真のレディにふさわしい良いマナーを身をもって教えようとしていたのではなかろうか。あえてそうたずねたことはないが、時が経つとともに私にはそう思えてきている。
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あの時”May I ?"と、ただひとこと言った夫人の声や態度を私は忘れることができない。
時間が経てば経つほど、夫人のそうした、折にふれての″躾″がありがたく、また、素晴らしいものに思えてくる。教育とか躾とかいうことは、そういうことをいうのではないかと思うのである。
ディーン夫人は、まさに「レディ」と呼ばれるにふさわしい人である。私は「レディ」という言葉の持つ意味を、夫人を知ることで本当に理解できたと思う。レディという言葉に含まれる内容は多分に、その女性の精神の在り方に関っている。
お金があっても、有名でも、美しく着飾っていても、それだけでは決して「レディ」の呼び名にはふさわしくない。私は、この「レディ」の呼び名にふさわしい夫人から、躾を受けたことを誇りに思っている。
留学したため、普通なら両親のもとで、身につけていくいろいろなことを、私は学ぶ機会を失した。たった一人で、勝手にアメリカで生活していたら、かなり″いびつ″な人格ができ上っていたかも知れない。
だが、幸いなことに、私にはこの“おばあちゃん”や“アメリカのパパやママ″がいた。
夫人は今ではもう八十歳をこえた。しかし、現在もかくしゃくとして活躍している。すっきりと背筋を伸ばして、スッスッと歩く姿も昔と少しも変らない。毅然とした精神が、素晴らしい老年をつくるのだなと、つくづく思う。
いつまでも、元気でいて欲しいと願うばかりである。