昭和8年、「新興いけばな宣言」について 柳本重甫氏の思い

 



『フローラルアートの完成』には、「新興いけばな宣言」に関して、その宣言に関わった一人の花道家、柳本重甫氏に関する記事が掲載されていた。

次のような内容である。

新興いけばな宣言とフラワーデザイン

柳本俊雄氏談

 昭和5年(1930年)に、重森三玲、藤井好文、勅使河原蒼風、中山文甫、桑原専渓 柳本重甫各氏によって宣言されたものですが(*正しくは昭和8年)、それは 従来のいけばなが床の間の装飾のみに傾いていたのを反省して、近代的な生活に合わせたいけばなに高めようと主張し、いけばな界の新しい流れをつくろうとする運動でした。その当時発刊されていた雑誌”道”に掲載されている各氏の作品からも、うかがえます 兄が存命していれば、もっと詳しい事が語れるのですが・・・ 少年時代に兄が苦しみながら新しい作品を生み出していた姿、特にカーネーションとの戦いは、今でもはっきり記憶しております。

 日本のいけばなが.海外に広められて行<事によって、逆に海外のフラワーデザインが入って来ました。このフラワーデザインのテクニックが、その頃のいけばな作家を刺激していたと思います。

 又、園芸界の中も、新しい洋花の栽培が盛んになり、これらの新しい素材をどう扱うかと言う事からも、いろいろと研究されていた様です。特に柔かい茎のカーネーションをどう扱い、どの様にしていけばなに取り入れるかと言う事が大きな課題とされていたと思われます。そして、フラワーデザインといけばながお互いに影響し合っていたと言う事は、この雑誌”道”に作品としてはっきりと現れております。

 特にフラワーデザインのテクニックを、ストレートに取り入れられているのは、中山文甫先生の作品に多く見る事が出来ます。

 私はいけばなが、世界のフラワーデザインに大きな影響を与えたのと同様に戦後の新しい生花はむしろフラワーデザインから、影響を受けたと思います。いけばな界に新しさを取り入れた昭和初期の作家は、前衛いけばな運動として出発したのです。しかし昭和16年、大平洋戦争に突入し戦時体制に入り、戦後古いものを打ちすてて新しさが当然の世の中に、新興いけばな宣言は、新しさを感じさせなくなってしまいました。


ここで出てくる「新興いけばな宣言」とはどんなものだったのか、そのいきさつをふくめた重要な資料が、工藤昌伸氏の著作に記載、記録されている。ここにその部分を抄録する。


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資料「新興いけばな宣言」重森三玲 『日本いけばな文化史』三 近代いけばなの確立 1993 工藤昌伸 同朋舎出版 から

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資料「新興いけばな宣言」 重森三玲


花道今昔ものがたり 二十年前の新興いけばな宣言   (『いけばな芸術』昭和26年3月号所載)


 釣り落した魚の大きかつたことや、死んだ子の年を数へることはあまり好きではない。

 庭に苔のあるのはいいものだが、話に苔の生へてゐるのはあまり感心出来ない。

 ところで僕が花を習つた経験があるのだから意外に思ふ人もあるだらう。小学校時代だから四十年以上も昔の話だ。池坊の芳春園女史に就て池坊の立生花と、不昧流の茶を習つた。寒い雪の四五寸も積つた田舎道を、一里許りも歩いて通つた経験もある。その当時花や茶の歴史のことを尋ねて、お師匠さんの説明を聞いて帰つて、後で種々と調べて見ると伝説程度の話で不満足に思つたこともある。まだ投入も盛花もない頃だつた。その後、専敬流と未生流の生花も習つて見た。子供時代に八宗兼学をやつた訳だが、その頃からお花やお茶の先生には成らうと思はなかつた。

 大正三年に東京へ出て、日本美術学校へ入つた頃、もう少し習つて見たいと思つて、当時技術の達者な人を選んだ結果、龍生派の吉村華芸(よしむらかうん)師に就いた。その頃花道誌の平元さんを初めて識つた。青二才のクセにその頃の美術雑誌『絵画清談』や『現代之美術』その他へ、帝展や現展や二科の批評その他を書いた。そんな関係で『花道』へも何か書き始めたが、今から思ふと赤面至極な論文であつた。

 当時平元さんから先生と言はれて、美術学生の僕は顔が赤くなつたのを思ひ出す。

 大正初年からやつと投入や盛花が東京にも始まつた。安達さん、平一鶯(たいらいちおう)さん、小林鷺洲(こばやしろしゅう)さんなどが先陣だつた。小林さんとは親しくしたが、その頃から新しい花の創作でなくては駄目だと思つてゐたので、特に親しくした訳だ。

 当時美校では印象派や、後期印象派、特にセザンヌと、表現派のキャンデンスキーが好きで、一生懸命に研究してゐた僕にとつては、早くもその頃から今日のシュールリアリズムや、アバンギャルドを目指してゐた。日本画にエキスプレッショニズムの絵を試みたのは、恐らく僕が最初かも識れない。もとよりそれは何の自慢にもならないのだ。力がなくて大成し得なかつたからだ。

 然しそれには原因があつた。洋画なら兎も角、日本画で未来派や表現派の行き方ばかりしてゐるのだから、先輩も後輩も一人の賛成者もなかつたからだ。今から思へば、もつとやり遂げたらよかつたと言ふことになるが、飯が食へないと思つて、中止してしまつた。

 その頃から美学や美術史の方に努力した。それはもつと一応研究してからの方がいいと考へたからだ。ところで、結果は頭デッカチで、腕がモノを言はないので、つまり絵をやめてしまつた。美学や美術史は、その代りに、一生懸命努力したが、美学にはいい友を得た。故渡邊吉次氏がそれだ。デッソアーの美学などを中心によく語つたものだ。美術史の方は、その頃から庭園や花や茶の面がないので、自分一人で研究し開拓して見る気になつて、美術史の中へそれをとり入れて見た。今から考へると、三十年も早く時代を歩かうとしただけに苦労が多く、酬ひられるものが少なかつた訳だ。庭園や花や茶の研究では、勿論飯が食へる訳ではないが、もう関東の震災頃からは一種の病みつきとなつてしまつた。一人位は学問的に研究する者があつても良い筈だと思つてコツコツやつた。何時まで経つても、僕は結局美の殿堂を造る為の石垣工事をやつてゐる様なものだ。今後の研究家や作家がドシドシ出て来て、建築を造つてほしいと望むのみだ。或る意味では世の中の皆んなが縁の下の力持で、それでいいことだ。僕もその役目を果せば幸福である。その頃、新しい立場で書いたいけばなの論文などは、殆ど没になつてしまつた。今日でさえ成りさうだから、三十年も前では当然なことだ。従つてその頃、お茶や花の先生達と話して見たいとは思はなかつたし、訪ねて行くのはあまり好まぬ性格だから、その方の知人は殆んどなかつた。昭和四年に京都へ出てから間もなく茶や花の人々と識る機会が多くなつて来た。十冊前後の毎月の雑誌にも何かと書いた。池坊の国風は、京都へ出るよりも前に、社長と言ふことにさせられた。毎月の社説に池坊の革新論を書くのだから、この社長は一ヶ年ほどで首になつた。『花道美学』がその当時の置土産である。同じその頃表現派のは畑君がやつてゐた『国華』にも筆をとつた。

 京都へ来てから『日本花道美術全集』を編纂して見たが、今日なら兎も角、その頃飛びつく人は少くて失敗した。然し昭和五年に、アメリカン・ガーデンクラブー行の来京の節、それが皮肉にも全部売り尽せた。花道家の頭が、何故こんなに低いのかと、その時に驚いたことだつた。その頃識つた人々は、山根翠堂(やまねすいどう)氏、三田重男(みたしげお)氏、藤井好文(ふじいこうぶん)氏、桑原専渓(くわばらせんけい)氏、柳本重甫(やなぎもとじゅうほ)氏、西阪専慶(にしざかせんけい)氏、長谷川菊洲(はせがわきくしゅう)氏、芦田春濤(あしだしゅんとう)氏、その他で、間もなく小原光雲氏、中山文甫氏、その他があつた。

 京都へ来てから、最も努力したのは、いけばなの古書やその他の花道史関係の資料であつた。幸にその頃は幾等でも興味あるものが入手出来た。と言つても勿論相当に苦心した。その頃既に、色のある図版物は、外人が高価に求めるので、貧乏世帯の僕には、それがかなり苦労だつた。時には米代まで失敬して買つた。珍資料と聞けば何処まででも行つた。何とかして新しい花の時代を出現したい念願は、その頃も今も変りはない。当時勅使河原氏を識つて、何度か東京へも行く度に合ひ、京都へも来てもらつた。さうした機が熟して、中山、桑原、柳本、勅使河原、藤井諸氏と僕とで、新しい花の運動を起すことになつた。それまでに、未来派や立体派の人々がやつた様に、日本に花の新しい運動を起すべきだと、新興いけばな協会を作り、宣言書まで作つた。幸にその草稿が机の中に保存されてゐるので、二十年も前のものだが記してみよう。

 

 われわれは一つの宣言をする。――日本新興「いけばな」の発見と創造とを。独創性をもつて、そして迫力ある真摯をもつて。――

 われわれは新しいものを求める。仮装された古いものでない新しいものを求める。真に生き生きとした現代の思想や感情や表現を要求する。

 世界大戦を契機として躍動した文化は、芸術の分野に於いても暴風を捲いた。総ゆるものが再吟味せられ、再発見せられ、再躍進し、総ゆるものが新興の機運をもつて展開した。そして過去の総ゆるものから、よきものは貪り摂取せられて、新しきコスチュームの光沢に陰れてよきものはよきモメントとしてそこに在り得る。われわれの「いけばな」は極楽の島の上に、惨めにも取り残された運命的な敗残者の一人だ。或る時代、われわれの「いけばな」は一つの完成した芸術であり得た純真素朴の美しさ、枯淡、侘び、渋さ、俗世を超脱した自己陶酔の三昧境に尽されたそれ。同時に仏教建築の荘厳に象徴化されて、信仰の無知境に尽されたそれ。――だが現代に於いて「いけばな」は一つの形骸に過ぎない。それは既に最も低き芸術として、又その形骸は巷を彷徨し、われわれの生活に関はりをもつてゐるのだ。芸術としてではなく、婦人の身だしなみとして、閑人の芸事として。われわれはかかる不幸と、かかる冒涜と、かかる堕落から「いけばな」を救はなければならない。過去に於いてわれわれの持ち得た生命ある「いけばな」を、現在に於ける新しき生活意譏のもとに、発見し、批判し、把握しなければならない。われわれはもとより今日「いけばな」の伝統的精神とする所のもの、日本的なるものを排斥するものではない。それは現代に於いて正しく把握されることによつて、現代に生き得る。かつて、或る人々によつて、それは屡々囗にせられた。然し未だ成されてゐない。断じて。われわれは「いけばな」を封建的イデオロギーから解放し、床の間の壁面と型とを否定することから始めなければならない。壁面への否定は、「いけばな」を立体芸術としての本質に完成せしめることであり、型を否定することは、作家の個性と自由な表現とを生かすことであり、そこにのみ初めて「いけばな」を芸術として発見する。その鋳型を熔鉱炉に投げ込まう。われわれは「いけばな」を古典の祭壇から取り下し、床の間の桎梏から解放し、その分別臭い衣装と道義の仮面を剥ぎ去らう。興隆二十年早くもその屈伸性と発展性とを完全に喪失した「なげいれ」と元来笑ふべき菓子である「もりばな」を時代の彼方にとり残さう。

 歪められたる或は美しき屍と化した「いけばな」に新しき「生きつつある芸術」としての生命を吹き込むために、われわれは敢然として「いけばな」奪還の十字軍を組織するのだ。太陽の下に新しきもの無しであらうか。われわれの「いけばな」の貧しさは驚くべきものだ。そしてそれはいつまで続くだらうか。しかし、われわれは、真摯な長い深い探索によつてのみ得られるといふことを知つてゐる。われわれは、新しき組石をもつて、新興の迫力をもつて現代の「いけばな」を組み立てやうとするものである。日本新興いけばな協会。これはわれわれの新興「いけばな」運動の抜錨港であり、実験室である。


宣言

新興「いけばな」は懐古的感情を斥ける。懐古的な如何なるものにも生きた世界は求められない。そこには静かに眠る美よりない。

新興「いけばな」は型式的固定を斥ける。創造はつねに新鮮なる型式を生む。固定した型式は墓石でよりない。

新興「いけばな」は道義的観念を斥ける。「いけばな」は宗教的訓話ではなく、道話的作話でもない。何よりこれは芸術である。

新興「いけばな」は植物学的制限を斥ける。芸術としての「いけばな」は断じて植物標本ではなく、又植物学教材でもない。植物は最も重要なる素材であるのみである。

新興「いけばな」は花器を自由に駆使する。

花器によつてわれわれは制限を受けない。自由に駆使する。花器は又われわれの手によつて屡々製作せられ、よき製作者とのよき共同が行はれねばならない。花器は又われわれの新しき意図のもとに、古きものを新しき生命あるものとして、生かさねばならない。

新興「いけばな」はあくまで発展的であつて、一定の型式を持だない。だが現代の生活様式に対して、つねに芸術的良心をもつて結びつけられる。時代を超越した遊戯でも、生活を逸脱した形而上学的存在でもない。ただそれは在来の「いけばな」に対する偏見と盲従とから見るときわれわれの仕事は全く別の仕事である。新しき精神は全く新しき相貌をもつて表はれるであらう。


 以上が決定したが、それが実行されなかつたのを惜む。だがこの宣言は、今日の「いけばな」の世界に於ても決して矛盾はなく、二十年前に既に現在のあり方を指摘してゐることは注意に値するであらう。それが二十年後の今日尚遥かに、ここまで来られない人々の多いのに、今更の如く驚き且つ悲しむのである。(『いけばな芸術』昭和二十六年三月号所載)


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*小林鷺洲氏について

https://karuchibe.jp/read/16020/


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重森三玲日記抄 (昭和六~九年)のうち、昭和八年のところを抜粋


昭和八年


三月七日

朝、山根翠堂君、勅使河原蒼風君、横地氏等へ第三回挿花展の審査員依頼状を出す。

十二時から伏見の西阪氏宅へ行つて、大阪の西阪氏、熊谷氏等と共に『華之栞』四月号の編集をやる。午後五時過ぎ終つて帰る。帰途中野氏へ寄つたが、留守だつたので帰る。


三月十四日

朝中野氏の大観(京都美術大観)の袋を書いた。二時頃から中野氏へ行つて第一回分三十頁あまりの初校を受取つて帰る。帰途を桑原氏へ初着の初品を持参し、京日の挿花審査展へ東京の勅使河原、横地両氏、大阪の山根氏が審査員を引き受けたことを告げると大変喜こぶ。後にご馳走に成つて帰る。

帰つて見ると大野氏夫婦来宅されてゐたので十時頃まで話す。帰られてから校正を始めて、三時頃までにやつと終わつた。楽しいものだ。

今日、石井氏が久しく芝辻氏へ持つて行つてゐた政信の絵が帰つてきたので嬉しい。


四月十日

京都日日新聞社主催の第三回京都挿花芸術展覧会が開催される。

十二時から大丸の会場へ行くと、もう勅使河原氏や横地氏が東京からきてゐられる。

午後三時半頃までに大体の活込を終つたので審査会を開き、五時から審査に掛る。今年は吉沢博士も、植田博士も、野間氏も三千家も、堂本画伯や、太田画伯が何れも来られなかつたのは、京日のやり方が悪いからだ。

然し審査員としては

東京側 横路宗庭氏 勅使河原蒼風氏

大阪側 中山文甫氏 山根翠堂氏

京都側 西阪専慶氏 桑原宗慶氏

    柳本重甫氏 上野啓純氏

    芦田一馬氏 大野松石氏

    長谷川菊洲氏 藤井好文氏

    江畑裕之氏  僕

と云つた顔振れで、三都の連中が顔を合わせたのはよかつた。

七時頃審査を終つたが、東京の勅使河原氏の門下、久保田暁林氏が第一特選で京都市長賞をもらい、永井氏が今年で第三回目の特選で挿花芸術賞をもらつた。

大体構成風の花器と装飾花が可也多く、西坂、桑原、柳本、永井、中山、大野氏等は何れも新傾向を見せてゐたのは喜しかつた。

八時頃から山佐で洋食の御馳走に成り、九時半頃から〇時半頃まで三都の連中で討議会を開いた。全く疲れてしまふ。


四月十一日

朝九時頃に東京から稲田氏来宅され、屏風をお目に掛けて立花に就て説明する。

十一時頃大丸へ行き、第一日の花展を見る。今年も相当の人出であつた。佐分(雄二)氏と会場で会つたので同伴して帰り、屏風を見せる。大変喜んでゐられた。

夜勅使河原氏を中心として今夜も討議会だ。十二時頃まで話しぬいて散会した。やはり勅使河原氏等が花道家としては話せる方だ。

毎晩おそいので全く閉口する。


九月二十八日

十時頃川勝(政太郎)氏の処へ行つて話し、更に中野氏、川崎氏の処で話す。

夜円山公園で、藤井、桑原、柳本諸氏と会合し、鳥岩で挿花芸術への近代運動を始めることを話す。十一時頃又長崎屋へ行つて話し十一時半に別れる。果して出来るだけの力があるか何うか。それが心配だ。

 

十月二十八日

朝から『華之栞』編集をやつて、午後出来たので送付する。勅使河原氏来宅、晩方だつたので、一寸一時間ばかり話して藤井氏を訪ね同伴して十二段屋へ行く。そこで柳本君も来て四人で話してゐる処へ桑原氏も来て話す。一時半頃まで話す。勅使河原氏は大阪の堂ビルホテルへ帰る。

今日で大体今度決行しようとする革命的挿花会の話が纏まつた訳だ。

大体

日本新興いけばな協会

と云ふ名にして、中山君を加へて六人の同人だ。これ以上に今の処全日本に一人として加入させる挿花家はない。

一番新らしい作家であり、イズムを充分もつて行ける作家なのである。先づイズムを充分明にして、これを近く宣言し発表し、且つ機関誌としてもズバヌケて立派なものにして行くこととするのだ。これ以上に、芸術的に立派な会は恐らく出来ないであらうと思ふ。


十月二十九日

朝八時半に藤井氏と新京阪に乗り大阪へ行く。阪急で勅使河原氏と会つて一緒に中山文甫氏を訪ねる。午後四時頃までこの話ばかりする。中山氏としても非常に喜こんで大いに協力するとのことだ。

これで愈々話は全部纏つた。東京と京都と大阪の三都の人で、而も僕と藤井氏が策の方からも努力するのだからこれ以上立派なものに成り様がない訳だ。

今日は全く疲れてしまつた。


十月三十一日

(前略)朝医者へ行つて来る。帰ると間もなく藤井氏来訪され、僕の草案による「日本新興いけばな協会」の宣言書に就て話し、藤井氏が一応帰つてこれに加筆することとして別れる。

夜『プラスター』の原稿を書く。


十一月二十二日

(前略)京都へ六時半に帰る。ステーションホテルへ勅使河原氏が来てゐるのを訪ねる。

大津寄、藤井柳本中山諸氏も見へる。

後、十二時まで藤井、中山、柳本、勅使河原、僕の五人で今度の「新興いけばな協会」に就て宣言書やらその他を協議して十二時に別れる。

随分今日は歩いたのと、夜おそくまで話したので疲れた。

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