成瀬房信氏のこと 1998年『花時間』1月号 第8巻第1号 通巻第76号「花びとたちの履歴書」から



 花屋の息子として自然にいけばなを習い、家業を継ぐことを考えていた青年は、ある日、配達の途中(当時はバスや電車、自転車、徒歩です)のバスの中でみつけたフラワーデザインの広告に驚き、その足でマミフラワーデザインスクールに入門する。その後、アメリカへの留学、武者修行を経て、「エクセレント12」という大きな花のデザインイベントを成功させ、また渋谷パルコ一階にだれもが憧れるすばらしいお店を開いて大きく展開した。2010年に亡くなった成瀬房信氏のことばをいま再び読み返してみたい。参照するのは、1998年『花時間』1月号 第8巻第1号 通巻第76号「花びとたちの履歴書」という特集記事から。〈あの時代が私の「今」を作った〉とあるように、花の世界で著名な方々の若い頃、修行時代のエピソードを取材しているたいへんに貴重な記録だ。
 プロフィールから換算すると、成瀬房信氏は、1944年に生まれていると思われる。残念ながら2010年に急逝された。僕は大田市場の仲卸時代にたいへんにお世話になった。成瀬氏は旧青山市場からの関係で世田谷市場をメインに利用されていたが、大田市場に来られるときはいつも声をかけていただいた。亡くなられたという話は、知人からの知らせで知った。たいへんにショックを受けた。今でも、最後にお電話でお話したことをありありと思い出し、もっとお話を聞いておきたかったと後悔しかない。

◎ナルセフローリストの沿革 (HPから)

http://naruseflorist.com/history/

※今回参照した同朋舎の雑誌『花時間』1998年1月号では、成瀬氏のほかに、マミ川崎氏とあんりゆき氏が登場している。マミ川崎氏はいうまでもないが、あんりゆき氏に師事して本業界で雑誌などの花で活躍されている方は数多くおられる。 

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成瀬房信 (なるせ・ふさのぶ) ナルセフローリスト社長(当時)

1960年 中学時代に草月流師範資格取得。

1962年 マミフラワーデザインスクールに入門、後に講師となる。

1966年 渡米してアーサー・イトウ氏の経営するフラワービューガーテンで1年間研修後、足かけ3年にわたり、北米・ヨーロッパを回って帰国。

*1972年 「エクセレント12」開催 (1月、27歳)

https://karuchibe.jp/read/13149/

https://karuchibe.jp/read/13235/

1974年 渋谷パルコの1Fフラワーブティック・ノブ(FLOWERBOUTUQUE NOV)を開店し、話題を呼ぶ。(30歳)

1990 アメリカのフラワーデザイナー協会(AIFD)シンポジウムにデモンストレーターとして招聘される。

1993 ヨーロッパデザインの勉強の場フロレスティック・インターナショナルを開設し、ウルズラ・ヴェゲナー、ピーター・アスマンらを招聘。

 

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 〈自ら「花屋の親父」と称する成瀬房信さんだが、その目の奥には”花職人”としての自負がはっきり読み取れ、こと業界の話題となると、時間がいくらあっても足りないほど、自身の哲学を語る言葉が続く。自分たちのステージである店への目くばりにも余念がなく、花材名へのこだわりやスタッフに対する厳しさはつとに有名。世界的なデザイナーと肩を並べ、いつでも国際舞台に立てる自信も、そうした普段からの徹底した姿勢によって培われるのだろう。〉


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以下、『花時間』の記事からの抜粋


あえてアーティストと名乗らず、フローリストに徹する職人気質。

 写真館の四男坊だった僕の父(*1958年に成瀬生花店を設立した成瀬四郎氏)は、母方の祖父の商売を継ぎ、戦後、渋谷の街で花屋を開きました。当時には珍しく生活は洋風で、お客さんにはGHQの上官の家族もいたし、米国にいる祖母の妹から、向こうの花業界誌がいつも送られてきて、僕はそれらを眺めては「へえ、生花を使ったコサージュやブーケなんてものがあるんだ」と感心しつつ育ったんです。

 僕はどういうわけか、幼い頃から家業以外の仕事に就くことは考えず、中学時代に、草月流の師範資格を取得。今でこそ渋谷は都会だけど、僕の幼少時には畑でトウモロコシが実り、小川が流れ、家の外でも中でも花に触れる機会が豊富でした。

ハリウッドの花屋で厳しい修業

 高校に入ったある日、大森方面にシクラメンの鉢を配達に行った僕は、偶然バスの中でマミフラワーデザインスクールの広告を見つけます。

 「日本でもブーケやコサージュを教える人がいるんだ!」と背中に電気が走り、その足でマミ川崎先生のもとへ。当時はまだ川崎家の客間でお茶を飲みつつレッスンという形だったけど、それでも高校生の小遣いでは通えない。そこで、先生の鞄持ちや花材の調達・水揚げといった雑用をこなす条件で、月謝を半額にしてもらいました。以後、高校から大学にかけてスクールに入り浸り、レッスンを担当するまでになりましたね。

 やがて大学(*明治学院大学)を卒業後、マミ先生の紹介でハリウッドにあるフラワービューガーデン(*ロサンゼルスに本店)という花屋で修業するため、渡米。アーサー・イトウという日系二世が経営者で、映画スターたちが花を買いに来る店でした。ところが、向こうに着いた途端、僕は耳を患い、ドクター・ハラというやはり日系の医師に人工鼓膜移植の大手術を受けることに。激痛にホームシックが重なってメロメロ状態の僕に、ドクターは「貴様には大和魂があるのか!」と日本語で一喝。普段英語しか使わない人だっただけに、僕はハッとし、人間こんな弱腰じゃ何もできないなと痛感したんです。

 その後、店でどんな苦労があっても乗り越えられたのは、最初にこんな苦痛を経験したおかげ。アーサー・イトウは非常に厳しく、僕の周囲にも途中で挫折して辞めた人は多かった。今の店でスタッフに対する僕自身の姿勢にも、当時アーサーから受けた影響が色濃くあると思います。

 ともあれ僕は働きながら、夜は英語学校に通い、2年目には店の電話をとったり、お客さんと打ち合わせができるようになりました。最初は1年で帰国する予定でしたが、「米国は広いから、各地の素晴らしい花屋を見ておいで」とアーサーに紹介されニューヨーク、シカゴ、マイアミなどの花屋で何何ヵ月かずつデザイナーとして働きながら、1年かけて見て回ったんです。確かに、どの花屋も規模・センスともに日本の花屋とは比較にならないほどすごかった。その後ヨーロッパを半年放浪し、そこでもフラワーデザイナーや花屋の人脈を培うことができました。


花屋さんがブティック化する時代

 帰国してからは、いかに西洋化された花屋を作るかが僕のテーマで、それが一番顕著に出たのが、渋谷パルコフラワーブティック・ノブ

僕が30歳の時ですが、その年はパルコ出店のほか、渋谷の本店をビルに建て替え、僕自身の結婚などで忙しい年でした。

 その後は、相次いでブティック化した花屋さんが誕生し、アレンジやブーケで花の付加価値を高める時代へ。それまで両親がやっていたのは、いけばな花材の店でしたが、それも僕の代ですっかり様変わり。今では花屋のブティック化の流れが頂点に登り詰め、どこの店も洋風のフラワーデザインを取り入れ、おしやれになっていますね。


普通のおじさん、おばさんが花を買うヨーロッパの花文化

 花屋はきれいになったけど、欧米に比べると、日本ではまだ花が暮らしに根づいていません。たとえば、ヨーロッパへ行くと、金曜の夕は花屋が大忙しで、若い女性だけでなく、普通のおじさん、おばさんがみな花を抱え、友達の家へ遊びに行く。花が生活の一部なんです。でも、日本では金曜の夜は友達とどこかの店へ飲みに行ってしまう。この文化の差!僕が子どもの頃は、決して今のように豊かな時代ではなかったけれど、近所に画家夫婦が住んでいて、いつも描くための花を買いに来ていました。「たとえ食べる物がなくても、花を買いに来ますよ」と語る姿が印象的で、今もはっきり覚えていますが、こういう日本人は、残念ながら今もまだ少数派ですね。

 だから、不景気が長く続くと、花屋のビジネスは、非常にしんどい。それでなくても、かつてうちの店で修業した人たちが独立し、またインテリアやブティックなど他産業から花業界に進出した人がたくさんいます。彼らの店がこれまた素敵で、店の空間そのものが素晴らしい。そんな形で、業界はすでに供給過剰、共食い状態が始まっているのが現状ですね。

 そういう時代だからこそ、花の仕事をするなら、若い頃からいい勉強をして、一生心に留めておける師匠をどれだけもてるかが鍵。さらに、美術や歴史、文化、インテリア、ガーデニングなどにわたる幅広い知識と能力を蓄え、着る物、食べる物もバラバラでなく、トータルにライフスタイルを提案できるようになれば理想的です。神が創造した中で最も美しいもの、命あるものに携わり、それで自分たちの命も成り立つなら、これほど素晴らしい職業はないというプライドを、花屋の僕はいつも秘めています。

 確かに店を大きくしたのは僕であり、僕の夢でしたが、今自分の心の中にあるのは小さな花屋さん。手作りのよさを売り物にし、僕の名前でお客さんが集まってくれる店が理想。これからは、レストランも美容院もそんな小型化の傾向が進むでしょう。


”作品”ではなく”商品”としての評価が問われる

 才能を授かっているわずかな人々は別として、僕の師アーサー・イトウは我々凡人がなすべきことをこう語ってくれました。

 「まず自分が好きだと思うものを真似しなさい。真似たものが人から真似られるようになれば、そこから自分のオリジナリティを出すことができる。だからコピーに遠慮することはない」

 まずは「これ好き」「すごい」と思えるものを見つけること。それをコピーし、その中から自分のほしいものを整理し、コピーから抜けること。

 なおかつ我々はフローリストですから、作ったものを。”作品”ではなく。”商品”として評価してもらい、お金に換えてもらわねばならない。絶えず素材に対する新しい切り口を考え、”商品”を創造するのがフローリストなんです。だから、我々はアーティストとは線引きをし、フローリストとしてのテリトリーをきちんともつべきでしようね。


心に残る恩師アーサーの言葉

まず自分が好きなものを真似しなさい。

尊敬する華道家・アーティスト

勅使河原蒼風、マミ川崎…一生心に留めておける師がどれだけもてるかが鍵です。

若い人へ

花だけを見るのでなく、美術や歴史、食物や着る物までトータルに。


◎ミニQ&A

第一線で活躍する花びとたちにまだまだ聞きたい!

 花の世界をリードするフラワーアーティストたちに学べるのは、花だけではありません。ライフスタイル、趣味、嗜好など、花びとならではのこだわりをぜひ知りたいもの。その仕事ぶりからはうかがい知れない、意外な発見もあるかもしれません。

成瀬房信

1 花の職業に就いていなければ、何の仕事をしていたと思いますか?

1 親父の実家が写真館だった影響が多分にあると思いますが、カメラマン。ポートレートを撮るのが好きで、外国人のアーティストたちも何人か撮影しました。

2 特に好きな花、嫌いな花はありますか?

2 好きな花はいろいろありますが、「これしかない」という花はないですね。フローリストとしては、どんな花でも使える可能性をもっていたいので。同じ理由で嫌いな花もないけれど、体質的に苦手なのがユーフォルビア。かぶれてしまうので、店にも置いていません。

3 休みの日は何をなさっていますか?

3 テレビを見てゴ囗寝といきたいところですが(笑)、そうもいかない。雑貨屋さんが大好きなので、あちこちの街に出かけては見て回ります。見るだけでめったに買いませんが、たまに店に置きたくなるようなものがあれば、買いますよ。

 見て回った店の中でも、ザ・コンランショップはすごい。東京・新宿の店もいいけど、やはりロンドン、パリの店は素晴らしい。コンランという人が自分の生活文化をすべて売り物にしているという感じ。家具屋や雑貨屋が花の分野に進出しているのは世界的な傾向で、花屋顔負けのセンスですね。

4 どんなファッションがお好きですか?

4 普段着るのはもっぱらイッセイ・ミヤケ。彼が世に出始めた頃からのファンです。

 下はジーンズ。戦後まもない子どもの頃、まだジーンズが普及していない時代から履いています。

5 どんな音楽がお好きですか?

5 好きな音楽はジョージ・ウィンストンのようなメディテーションミュージックかクラシック。

オーケストラの指揮者は小沢征爾にしろ秋に来日したケント・ナガノにしろ個性的でそれぞれに面白いね。

クリスチャン家庭に育ったので、パイプオルガンやゴスペルなどの教会音楽にも親しんでいます。カラオケは聴くのも歌うのも大嫌い。


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