【重要】烏丸光大氏の屋号の表記「二頃園」は、「にこうえん」ではなく【にけいえん】と発音されていたのではないか?『蘇秦伝』中の漢詩文「二頃田(にけいでん)」「二頃の田(にけいのた)」から採られていた


『大字典』1963年版から
時間を表す解説のほかに、田畑の面積を表す単位としての記述が見つかった


【重要】 これまで、烏丸伯爵(1885‐1950)が経営した農園の名前を「二項園」と書き、「にこうえん」と読んできたが、どうもそれは、間違いだったのではないか。

【正しくは「二頃園」であり、「にけいえん」と読んでいたと思われる】

これまで、『実際園芸』等の雑誌で「二頃園」という表記の「頃」を「項」の活字の誤植だと思っていたが、あまりにも頻繁に「誤植」が見つかるので、変だな、と謎であったが、先日、「二頃園」と命名された理由が書かれている記事を見つけた。おそらく、この名前について、多くの人から問われることが多かったのではないか、と想像される。

※正しくは「二頃園」としても、これを「にけいえん」と読める人がどれほどいただろうか?多くの人は「にこうえん」と読んでいたのではなかっただろうか?

※一時期、森田喜平氏と共同で経営をしていたので、僕は「二人のトップがいる農園」という意味で「二項園」と勝手に勘違いしていました。その後、二人は別々な経営となりますが、森田氏は「森田二頃園」という屋号になります。これでいくと、横浜富岡の柳下三項園なども、「三頃園」の可能性があり、掲載誌の活字表記を見直してみる必要があります。↓↓

※「17-5」柳下佐喜藏の柳下二項園は「項」。「18-4」柳下三郎の屋号は「柳下三頃園」

※『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970でもすでに「二項園」表記になっている。『カーネーション生産の歴史(百年史)』2009も同様。『日本花き園芸産業発達史・20世紀』2019の烏丸氏の項目には記述なし。


↓「二頃園」命名の理由は、以下の烏丸光大(からすまる・みつまさ)氏自身の記述による。命名について質問されることが多かったと思われる↓

https://ainomono.blogspot.com/2023/02/91.html

上の記事では、「二頃」の意味について調べきれていなかったが、「二頃の田(にけいのた)」「二頃田(にけいでん)」で検索すると、原典が見つかった。

「頃(けい)」は、面積の単位で100畝(せ)というので、2頃=200畝=20反=2ヘクタール

2ヘクタールの田が広いと考えるか、まあまあの面積、と見るか、自分にはわからないが、(先輩の話ではやはり、結構な広さであるとのこと。なので、烏丸家の農地がそれだけ広かったのか、あるいは、それくらい広ければなあ、という思いであったのか。確かに、温室経営は一貫して大規模経営を志していた。)

※畝の広さは日本の面積を示す大きさと同じとは限らないので要注意。(中国の単位は日本の8倍)

Wikipediaから


※字源サイト「二頃田(にけいでん)」
https://jigen.net/jyukugo/20108_38915_30000

※杜甫の漢詩に出てくる甘園(ミカン畑)、千甘「ニ頃の園(にけいのえん)」=ミカン千本も植えられた200畝の広大なミカン畑

https://dl.ndl.go.jp/pid/1685290/1/617

P1210

『園芸通』烏丸光大 昭和5年

*****************

 【二頃の田:にけいのた】、【二頃田:にけいでん】 田二百畝(これだけあれば充分に食べていける面積: 20反、2ヘクタール、東京ドームの半分弱、6,000坪】※古代中国の「畝」の広さは日本の面積を示す大きさと同じとは限らないので要注意(8倍)。


蘇秦伝 ※蘇秦は「キングダム」で描かれた時代より早くに六国の宰相となった弁論家

秦曰、「使㆔吾有㆓洛陽負郭田二頃㆒、吾豈能佩㆓六國相印㆒乎」に出てくる

*********************

秦喟然歎曰、

「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」

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漢文で習う司馬遷の『史記』から優秀な外交官で大国・秦以外の6国をまとめる宰相となった蘇秦について「鶏口牛後」という逸話とともに出てくる文章。

「我をして洛陽負郭の田二頃有らしめば、あに能く六国の相印をおびんや」

〈意味〉

もしも、私が洛陽郊外の良田を「二頃」(2ヘクタール、広大な面積)も持っていたなら、それで十分に生活が成り立ち満足しただろう。世間の人や親戚友人、妻からも侮辱されるようなこともなかっただろうし、ましてや、発奮して向上心を燃やし、六国の宰相になる(六国の宰相の印を腰につける)こともなかっただろう。

※広い田を持たなかったからこそ、発奮し、成功できた。ないから、よいのである。

園芸の生産地は歴史的に米作りが難しい土地から発展している。米がつくれないから工夫をして野菜や果樹や花を育て糧とした人たちの営みの歴史です。



※『園芸人名録』園芸通信社1928 ではちゃんと『頃』になっていた。×光太→○光大


※しかし、昭和2〈1927)年の『全国著名園芸家総覧』で森田喜平氏の表記は「二項園」p8



『実際園芸』10周年記念号「19-4」



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