石井勇義夫人の写真見つかる! 石井安枝夫人が参加しての記念写真から  昭和11年 大日本薔薇協会の十周年記念大品評会(於・京都)

石井安枝夫人

『石井勇義 ツバキ・サザンカ図譜』の巻末にお茶の水女子大学教授であった津山尚(たかし)氏が石井の生涯を紹介している。生前の石井を知る人による石井の唯一の伝記といってよい。これによると、
石井は大正7年に東洋園芸に入社するも肺を病んで数年間治療と療養生活に入る。大正7年から8年というのは希望と絶望が入り混じり数多くの出来事が起きて石井の人生が大きく動いた時期であった。
その後、友人原田三夫(『子供の科学』主幹、日本最初期の科学ジャーナリスト)のつてで千葉県大原にある大地主、藍野佑之氏所有地の一角に「イシヰ・ナーセリー」を始める。この時代に知り合い結婚したのが安枝夫人だった。石井34歳であった。安枝夫人は長女美代子を生み育てながら採種の手伝いなどをしていた。石井が雑誌を始める大正15年以降は東京に住居を移し、編集作業も自宅で行っていたため、編集者、来客がたいへんに多く、女中さんがいても、奥さんとしてはさぞたいへんだったであろう。

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夫人のこと(津山尚 つやま・たかし)

ここで著者(※津山)は安枝夫人のことに触れないわけにはいかない。夫人の家庭の外での活動は、石井の死後に現れた。千葉の出で、千葉医専の御用商人の家に生まれた。男女各二名の中の一人である。四歳で父親を失い、母の手で育てられた。教育には熱心で、安枝を千葉師範の付属に入れ、青山女学院に進ませた。石井の生前には家庭の主婦、よき内助者として専念し、直接に石井の仕事を手伝い余地は少なかった。没後には特にツバキ関係に熱心で、石井の遺志が乗り移っているように見えた。青山女学院関係の交際は広かったようであるが、後には石井に代わって石井のし残した出版関係を見守り、ツバキ協会の理事などに選ばれ、種々の園芸関係の会合に顔を出した。電話の声は男性を取り違える位低かった。これは煙草の吸いすぎによるといわれる。髪形や化粧には無頓着で、きわめて俠気のある人であった。会合でも遠慮なく発言した。神田の日本大学付属病院の、前後三ヶ月の入院生活の後に、甲状腺癌によって昭和四十三年六月三日に沒した。渋谷の本田記念教会で葬儀が行われ、石井の墓に合葬された。石井は先の見える人で、老後には夫人を伴って、講演旅行をすることを楽しみにしていた。しかしこれは果たされずに終わった。





※大正8年頃の誠文堂小川菊松社長(中右端の和服角刈りの人)をとりまく若者たちの群像。
誠文堂に始めてのベストセラーをもたらした加藤美侖は人を結びつけるキーパーソンであったが、昭和2年4月に38歳で亡くなった。(『思い出の七十年』原田三夫 誠文堂新光社 1966)
※原田に三越の松前を紹介したのは吉野正平だった。松前氏は、昭和9年発行の三省堂『高山植物と山草の培養』石田・原の序文に、「横浜植木会社内国部(輸出入ではなく国内販売の部署)」の肩書きで著者から協力への謝意が述べられているので、移籍されたのだろう。




 

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