1941年の新年号、編集後記。いよいよ運命の『実際園芸』最後の一年が始まる。皇紀二千六百年の記念すべき年も暗雲立ち込める重苦しい雰囲気で終わる
『実際園芸』 第27巻第1号 1941年1月号
1941年の新年号、編集後記。いよいよ運命の『実際園芸』最後の一年が始まる。1940年は皇紀二千六百年の記念すべき年であったが、年末に書かれた編集後記には、暗雲立ち込める重苦しい雰囲気、国策への対応や気持ちの焦りが感じられる。
石井勇義は、ここでも意を強くして園芸品種の記録と保存について園芸界を挙げてとりくもうと呼びかけている。この思いは、雑誌が休刊となったのちも引き続き行動に移され、1944年の「園芸文化協会」設立へとつながっていく。
※ここにも書かれているように、園芸雑誌の統合が実行されており、1940年12月末に、木村重孝氏のやっていた『園芸往来』という雑誌も統制により、『実際園芸』誌に統合される形で休刊となった。(「27-2」編集後記)木村重孝氏は、大正7年ころにできた日本園芸組合の事務長をつとめていた人で、関東大震災前にアメリカの市場を視察し、日本にも公正な取引ができる市場が必要だと主張し、のちに高級園芸市場ができる気運を作った人物。大正11年と昭和3年に出版した『園芸人名録』はたいへん貴重な記録になっている。
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光輝ある二千六百年も正に暮れんとする十二月三日、来るべき新年号の〆切にまでこぎつけた。秋以来東都では、農、園芸関係雑誌の合併、統合が警視庁下に行われたが、本誌は園芸専門の代表誌としご同種誌を合併して、年と共に時局重大なる時にあたり、食糧の増産、厚生運動としての家庭園芸や、工場労働者の休養と保険のための集団園芸等の方面の園芸指導機関として国策の一面に協力する事になった。従来、本誌は、自ら園芸界の木鐸(ぼくたく)を以て任じ、指導的内容をもつことに重点を置いて来たが、今後は更に国策に協力してゆく決意を固めている。殊に今後の園芸には次々と難問格(ママ)が起って来る事と考える。例えば花卉種苗の公定価格の発表の如きで、これに依って、特殊なる優良品種の滅減が憂えられるし,品種改良の熱意も挫折するものも多い。花卉の中には骨董的、投機的の高価品もあり。これ等の非国策的な取引を抑制する事は必至であるが、中には将来の花卉の輸出を目標として、海外から多額の母株を輸入して改良を続けているものもあり、又将来我が国が園芸の生産国の位置に立った場合の重要なる生産業の母体となるものもあると考えるが、之等の品種、原種を絶滅に導くことは甚だ残念である。品種保存の必要は低調ではあったが先月号にも叫んでおいたが、事ここに至ると、識者の覚醒を俟つて真剣に討議する必要が迫って来た。民間の力に依り、園芸品種保存協会(仮称)の如きものを起して或は篤志家の協力を俟つて保存に対する具体的の方策を急速に決定しなければならないと独り思をねっている。
アマリリス(正しくはヒッペアストルム)の何物かを知らず、品種改良の困難な事を心得ぬ者にとっては丸弁種を不要と考えるかも知らないが、世界の花卉園芸界の認識ある輩にとっては、殊に将来の輸出を考える時遺憾な事である。併し刻下に直面せる重大時局下に於て、何十年後の輸出目的などは考えて居れぬと云えばそれまでで、結局園芸界の独自の力で日本文化のために、民族の名誉のために保存に努めねばならない。そうしなければ、国家的美術工芸品を一挙に壊滅するに等しいと考える。何もドイツの真似をするのではないが、第一次大戦の時にもフランスが花の種類を失わなかったし、花卉の専門雜誌をズット発行し続け、今日でもドイツの花の雑誌には毎号新種の発表が載っている。輸入もできないから本誌上には紹介しないが、ヒトラー総統の芸術を愛好する民族精神の現れである。識者をして大和民族と花卉愛好の歴史的誇りを本質的に認識せしめたきものである。
今月号では花卉の実地栽培の記事を多くした。京都大学の岩田氏の蘭菌の研究も面白く、また燃料を大切にせねばならない今日はフレームの活用は重大視されている折柄千葉高等園芸の穂坂先生の「花卉のフレーム栽培」は重大な意義を持つものと思う。次号では蔬菜の実際記事を多く集めたい。