大正15年10月、皇太子(当時は大正天皇の摂政宮をつとめられていた)行啓まで1週間、職員たちはいかに準備し、いかにお迎えしたか。






◎天皇(このときはまだ皇太子であるが、行啓の2ヶ月後に即位)をお迎えするということが、どれほどの名誉であり、どのような気持ちで準備がなされ、どのように視察が行なわれたかがよくわかる記事

『実際園芸』第2巻第2号 (昭和2年2月号)1927年

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堀正太郎(インターネット辞典コトバンク)

堀正太郎 (1865-1945)

明治-昭和時代前期の植物病理学者

慶応元年10月15日生まれ。明治26年農商務省農事試験場にはいり、32年初代病理部長。ナシの赤星病やイネのいもち病などの病害防除で業績をのこした。のち千葉高等園芸(現千葉大)講師。昭和20年死去。81歳。出雲(いずも)(島根県)出身。帝国大学卒。著作に「主要農作物病害論」など。行啓をお迎えしたこのとき、61歳。


皇太子殿下千葉高等園芸学校行啓記

堀 正太郎 謹誌


 皇太子殿下には、大正十五年十月廿八日、千葉県松戸町の、陸軍工兵学校御見学の後、千葉県立高等園芸学校へ行啓、親しく園芸教育の実況と、園芸の一班とを、御見学遊ばされた。行啓を仰いだ学校の光栄は、いうまでもなく、我邦の園芸界にとりても、亦無上の光栄であって、我等園芸教育の衝に当るものは、洵に感泣措く能わざるところである。不肖は、当日臨時標本陳列場に充てられた、講堂階上において、殿下に咫尺して一部陳列品の御説明を申上げげ、又種々御下問に奉答した栄誉を担うたので、一層当時の印象が深いから、此記を草して後日の記念に遺さんと欲するのである。


奉迎の準備


 殿下は、十月二十八日午後一時二十五分に、学校へ御着。赤星校長の御先導にて、農場校庭を御巡覧の上、講堂にて園芸に関する諸種の標本を、台覧に供するとの、大体の順序が、行啓一週間許り前に、漸く宮内省との打合せが済んだ。全校が挙って歓喜に充たされ、悦気眉間にあふれ、一同は直ちに奉迎の準備に取りかかった。

 農場では、折から甘藷及落花生の収穫期に際して居ったので、三年生をして、収納の実習を台覧に供することになった。農場までの御往復は、蔬菜園花卉園等は自然に、御台覧遊ばさるることになった。農場から講堂までは、牡丹園、校庭、毛氈花壇を御通り遊ばされるので、毛氈花壇は小菊其他数々の草花を植替え、或は補植されたから見変って美しくなった、屋外の準備は雨天では出来難いので、全力を注いで行われたが、幸に行啓前日までは、晴天続きであったので、予定の準備は遺憾なく進捗して、御通路は隅々まで除草清掃され、又一部の御通路には玉川砂利を、厚く敷き詰められたから、誠に爽々しくなった。

 臨時の陳列場に充てられた、講堂階上の大広間には、殿下御休息の用意に、講壇の前面に金屏風一雙を折廼わし、其前面に円卓及御掎子を置かれた。正面入口から、右に折れ曲った窓下には、白布を被うた陳列台を置き、病虫害、蕈菌類、石燈籠の順に、標本を陳列し、病虫害標本と、蕈菌類標本との間、採光の好い位置に、ツアイス油浸鏡二台を置き、病原細菌二種のプレパラートを装置した。左手には同様の陣列台上に、果実模型、柿の品種十五種、蔬菜類八種、二十三品種、肥料土壌の標本四種の順陳列せられ、その間、程よき間隔にて、温室花卉の盆栽を配し、又所々に盛花、生花を配置して装飾せられた。特に本校産柿の標本は、一品種毎に十数個宛竹籠に盛って十五品種一列に列べられ、蔬菜類には、白菜の大株が陳列され、柿の赤色と対照して美観を呈した。準備がすっかり終わったとき、堂内を窺うと、中央には金屏風を折回わした御座所を拝し周囲の陳列品は和らかく美しいので、如何にも瑞気堂に満つという感じが起った。陳列品の選択には甚大の苦心が払われたことは、殿下は博物に御趣味深くあらせられる由を、承って居るので、此点に留意し、又標本はなるべく学校に於て研究したもの、季節に相応しいものということであったからである。又切り詰めた少時間内に、御見学遊ばさるるのであるから、御説明に時間を要せず、標本も余り雑多に多過ぎぬよう、選ばなければならぬことも苦心の一つであった。

 行啓十分前に、学生一同は、三木少佐の指揮にて、正門外に整列し、職員一同は、講堂入口に於て御着を待ち、不肖一人は講堂内予定の位置にあって、御着を御待ち申し、直に標本の御説明を申し上げることになった。


行啓


 前日までは、快晴続きであったが、行啓当日の天気予報は曇少雨とあった。不幸にも予報は的中して、午前九時三十五分、殿下の松戸駅御着の頃から、ポツポツと小雨が降り初めた。正午頃から遂に本降りとなったので、予定の順序は変更せられ、農場御巡視が.御取止めになったことは、真に遺憾の極みであった。不肖は講堂階上にあって予定の位置に佇立し、時計を手にして御着時刻の至るを待って居たところ正しく定時刻になって、正門の方角に遠く自動車の音が聞えたから、いま正門御通過と拝察された。今頃は玄関前にて御下車、校長の先導にて、そぼ降る雨に洗われた玉川砂利の御道筋を、御通行中と心眼にて憶測しつつあった。忽ち階下表入口に続いて折り曲っ階段に、沓音の響がして、段々に近づくと、先づ校長の姿が見えた。続いて殿下の御勇姿が拝せられた。

 殿下は露台越しに、眼下の新庭園と新利根川とを隔てて東京市の一部を広い武蔵平野との遠望を、細雨霏々煙雲朦々の裡に、御瞥見遊ばされて講堂内に御入りになった。

 其時校長は北面して、学校の歴史、学生数、入学生の分布等を言上し、終って、説明役を承った不肖を省みて、殿下に御紹介申し上げた。

 殿下には学生御答礼があったから、「不肖堀正太郎が、これから一都の陳列品に就て、御説明申し上げます」と言上して、殿下を陳列品の前面に、御案内申し上げ、標本に就て、一々簡単に御説明申し上げた。殿下には一々標本本に御眼を注がせられて、説明を傾聴遊ばされ、一々頷かせられて御挨拶があったのは、恐懼の至りであった。ネマトーダ根瘤病の御説明を終ったときに 殿下は「これは皆異った種類でありますか」と誠に御丁寧な、如何にも親しみある平民的の御下問があったので、説明の足らなかったことに気付いたから、「此処に陳列致しました数種の被害植物は、皆ヘテロデラ・ラヂシコラと申す、線虫の寄生によって起ったもので、植物は違いますけれども皆同一病害であります」と御答え申し上げたところが 殿下は御会得遊ばされたと見えて、頷かせられた、酒精漬けの標本は、壜越しには見え難いものもあったので、殿下は御眼を標本壜に近づけて御覧遊ばさるる故、御不便と拝察し、標本壜を手にして御眼通り近く捧げて台覧に供した。

 顕微鏡では、癌腫病細菌と、虞美人草黒斑病細菌との、プレパラートを台覧に供したが、殿下は顕微鏡の前に立たせられ、右手を微動調節機にかけさせられ、焦点をお合せになり、左眼にて御覧になった御態度は、顕微鏡の使用に練れたものでなければ、出来ないことで、仄聞しては居ったけれども、殿下の御堪能にあらせられるのに驚いた。

 以上の説明を終ると、川村教授が代って、蕈菌類の標本、写生図に就て、御説明申し上げた。

 校長は再び御先導申し上げ、ご休息の用意に置かれた、御椅子の後方の白布を被ふた、小卓上の果物籠に対し、「これは学校の生産果物の献上品でありますると言上し、御答礼後引き続いて果実蔬菜類の陳列を御巡覧になり、最後に、肥料土壌の陳列品の前に成らせられたとき、不肖は再びその御説明を申し上げた。

 御巡覧が終ったので、 殿下は講堂から御退出になった。多数の扈従者が、後から随行したので、不肯が最後に講堂を出て、御見送り申し上げんとしたときには、殿下は既に遠方にあらせられて、唯御後姿を拝するだけであった。


 陳列品目録


一、果樹の人工返り咲試験成績表

一、梨人工返咲写真  三枚

一、大正十四年十月長野県上下伊那郡内彼岸桜返り咲に関する新聞切抜

一、虞美人草の黒斑病脂葉標本

一、同病原細菌塞天培養プレパラート

一、大菊癌腫病標本(鉢植)薔薇、苹果、梨、菊、柿癌腫病標本、病原細菌の寒天斜面培養、病原細菌のプレパラート

一、ネマトード根瘤病標本 五種

一、デリス鉢植、

一、デリス腊葉標本、デリス根粉末、デリス石鹸、ジョアン液、ネオトン

一、蕈菌実物標本  十一種

一、教授理学博士川村清一採集

写生蕈菌図   五十ー種

一、果実病害蝋製模型標本、苹果、梨、枇杷、柑橘、等、数十種四箱

一、蝋製果実模型、支那梨、西洋梨、苹果、柑橘、柿、栗、桜桃、桃、李、枇杷、スグリの各品種

一、石燈籠 石造模型  三十種

一、本校果樹園産柿果十五品種

一、大根三品種

一、蕪菁五品種

一、二十日大根六品種

一、白菜四品種

一、甘藍二品種

一、薯類一品種

一、軟化水芹

一、金糸瓜

一、緑肥用作物腊葉標本及種子(本校産)  四種

一、ラサ島燐鉱鉱原標本  七種

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