『実際園芸』は昭和16年11月、日米開戦直前に突然、休刊に追い込まれた。吾が子を葬る親の思いを吐露する石井勇義氏のことば

 

『実際園芸』最終号 昭和16(1941)年12月号 第27巻12号

昭和28(1953)年7月、最晩年の石井勇義氏
このあとまもなく急逝された(7月29日)
享年60歳。没後一周忌を記念して関係者が『農耕と園芸』誌に寄稿している。
『実際園芸』誌がうまれた千葉の「三上館」についても注目した
『実際園芸』第2巻4号

(大正8年頃の写真 『思い出の七十年』原田三夫 誠文堂新光社 1966)

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吾子をいたむ

主幹  石井勇義


  わが子『実際園芸』が大正十五年十月に創刊されてから去る十月号で満十五ヶ年を経過したが、この度突如として休刊の止むなきに至り、一時でも我が園芸界から消えることになった。それについて私は先ず、その理由をご協力の諸先生、並びに読者各位に対して真実率直に述べる責務を感ずるものである。最近、警視庁当局に於て、東京市内各社から発行されている雑誌の数を減ぜよとの命が下り、本誌の発行所たる誠文堂新光社に於いては三誌を減ずるの指令があり、同社八雑誌の内『商店界』 『広告界』『実際園芸』の三誌を廃刊するの議が社内に起ったのであったが、後に『実際園芸』は先年農園芸雑誌の整理統合の際にも、代表園芸雑誌として残ったものであるし、廃刊には及ぶまいとのことであったが、一方に『航空少年』という新雑誌が生まれることになり、その代償として十一月に入り突如として休刊しなければならなくなった。これは当局に於て『実際園芸』はいらぬからやめよというのではない。

 この話が一部園芸界の方々の間に伝わるや、存続の声がしきりに高まり牧野博士はじめ、農林省の園芸係官たる熊沢農林技師は、吾国園芸界の為にと、百方奔走され、発行所に小川社長を、また警視庁に係官を訪ねられて、小誌の園芸界に必須なること、十五ヶ年間の足跡や、また将来本誌に依存してなさるべき刻下の園芸対策等について熱烈なる御盡力を頂いたにも拘らず、発行所の方針は翻し得ず、遂に十二月号を以て休刊するの止むなきに至った事は、不肖微力の致すところで何共申訳ない次第である。殊に新宿御苑の福羽、岡見両御用掛、松崎直枝氏、小林宣雄氏をはじめ各方面に存続の声は熾烈なるものがあったが、夫れにも背いて中絶することになったのである。しかも経営上では十分ペーしていたことは勿論である。

 しかし、私個人として考えると、この度刊行を発表したように、昭和六年四月より半生の努力を傾けて来た『園芸大辞典』の編纂が容易の業ではなく、来春にはどうしてもその一巻を上梓しなければならないので、その方に専念するには好都合なのであるが、何分にも十五ヶ年の間、我思うままに育てあげ、園芸界から少からず愛撫されつつ、園芸界の隆昌と共に生長して来た愛児であるから、今日休刊を決しかねるものがあった。休刊と腹をきめた去る十一月廿七日には、私は吾子に別るる心地して深く悲しみ、失われゆくものを心の中で静かに考えようと、終日郊外に出て、雨眼に涙をたたえつつ、心ゆくまで別れを惜んだ事であった。初冬の木々の葉はわびしくも散りはてて何となく悲哀を感じ易く、あたりの畑の野菜などに眼をやれば、何となく愛惜の情が胸にせまり、生ける吾子を失ふ心地もかくやと思われる程に、一人涙にむせぶのであったが、今も涙と共にこのペンを採っている。それは決して明日を考えるためではない。それ程に過去の十五ヶ年間は『実際園芸』を愛撫しつつ今日に至ったのであった。不肯馬齢五十を数え、些事に涙を催すのではなく、性来物質に淡く、櫃中に一掬の飯米を欠くも敢て悲むものではないが、今日齢十五を数えた健かなる吾子を突然失うの悲みを何をか例えん哉。本誌の休刊を伝え聞くもの日に加わり、存続を切望する温情に接する度毎に吾が胸は裂けん許りである。或る人日く「かかる重大時局下に於てこそ園芸が必要である、隣組園芸指導、品種の保存、精神の糧としての花卉の指導、食糧の増産指導、有用植物知識の普及など『実際園芸』の今後に待つこと切実なものがある、殊に農林省係官の御支持ある本誌は廃刊すべきではない」と、併し当局も園芸雑誌の再出発は十分に認めるので、早ければ来春四月頃を期して『日本園芸』または『国民園芸』(仮称)の誌名の下に再刊の用意を続けている。

  併し、私は斯くも考へる。『実際園芸』が今日まで目標として歩んで来たところは、花卉園芸を専門とし、高等技術に属する温室園芸や、高度に発達した蔬菜や果実の品種の紹介や生産技術であった。また海外に於ける新品種や新研究の紹介にも相当の役目を果して来たのであったが、非常時局下に於ける園芸生産品は、全く本質を失った変態であって質より量の一本立であり、我国独特の高度に発達せる蔬菜、果実の高等 的生産法は退陣し、花卉に於ても極めて消極的な生産状態になって仕舞っている。むしろ、過去の小誌が十五年間に亘って誌上に図解式に発表して来た栽培技術や品種や出荷法などが、何時かは園芸が常道に立帰った時には、多少の資料を提供するのではないかと考えるので、一応は小誌も我が園芸界への責務を果し、足跡を残して来たようにも思う。

終わりに臨み、創刊以来、お世話になった方々へお礼を申し上げたい。大正十五年五月に本誌の発刊が定まった時からいろいろと面倒を見てくれたのは親友の原田三夫君であった。氏は雑誌を編集することに無経験な私を、手をとって教えてくれたので初からまごつきなく運ぶ事が出来た。また多年米国にあった園芸家で、今は故人の恩地剛氏(※1877~1939、享年62歳)にも創刊当時から非常に御協力を頂いたし、原田君と同じ理学部植物学科の出身である恩田経介君や稲垣乙丙博士の長子であられる穣君、吉野正平君なども陰に陽に面倒を見てくれた友人であった。殊に故稲垣博士は、私に多くの学者を紹介して下され、それが一つの陣容を整える土台をなしたことで殊に恩田鐵彌博士、故白井光太郎博士、故原熈博士、堀正太郎博士、故佐々木忠次郎博士、故桑名伊之吉博士の諸先生には創刊の頃少からず御指導を頂き牧野博士には慈父にもまさる御力添を下さった。北大の栃内博士や大井上康所長は始めから親しく御協力を賜った。園芸界では辻村常助氏、伴田四郎氏、湯浅四郎氏、大塚春雄氏、長田(おさだ)傳氏、犬塚卓一氏、石田孝四郎氏、伊藤東一氏、長尾次太郎氏をはじめ業界多数の方々から多大の声援を頂いた。

学界では京大の菊池秋雄博士、並河功博士、東大の浅見与七博士、北大の島博士、千葉高等園芸学校の松井謙吉博士、黒上泰治博士、穂坂八郎教授、西ヶ原農事試験場の石原助熊先生、木下、田杉両技師にも少からず面倒を見て頂いたし、別に友人として新宿御苑の福羽、岡見両御用掛、松崎直枝氏、小林憲雄氏、京都の岡本勘治氏、日本園芸の池田成功氏、桜井元氏、久保田美夫氏、吉村幸三郎氏などには何かと御後援を頂いたのであった。菊、朝顔界では内藤愛次郎氏、奥田繁次郎氏、池田喜兵衛氏に非常に御世話になっている外、地方技師の方々では、齋藤氏、関慎之介氏、石川禎治氏、古川賤男氏、桑原守夫氏には夫々専門の方面で御力添えを頂いたし、尚数え切れぬ程の方々から温情を以て『実際園芸』を御支持頂いた事に対し私は御親切に感泣し、温い思い出が次々と胸に迫るのを覚ゆる。謹んで御礼申上げる。(十二月興亜奉公の日記す)


誠文堂新光社社主、小川菊松氏によるあいさつ

『実際園芸』休刊に当りて  昭和六年(※十六)十二月

誠文堂新光社社長  小川菊松

雜誌「実際園芸」は大正十五年十月創刊以来、誌齡十五年を算え、今や園芸の専門指導誌として確固たる地歩を礎くに至ったが、臨戦下における小社の出版の態勢を完くするために、止むを得ず本号を以て休刊することとなった。この間本誌がわが国園芸界に寄与したところ決して少くないと信ずるが、これは偏えに御後援御執筆を賜った諸先生の御高庇によるものに他ならず、この機会に改めて厚く御礼申上げるとともに今後とも御嚮導下されたく懇願申上げる次第であります。然しながら編集の実務に就ては、創刊以来十七年間専ら主幹の石井勇義君の苦心経営したところであって、その功は没すべくもないと深く信じますゆえ、君が畢生の事業として営々進行しつつある『園芸大辞典』をして光輝を加えしめられるよう大方の御高庇を賜りたく冀い、且つは「実際園芸」再刊の機のあらんことを期する次第でございます。

日米開戦直前、だれも先端がすぐに開かれるとは思いもしなかった。
すぐに対策して名称、内容を刷新して復刊しようとしていたようすがうかがえる。

再刊に就て読者へ のお願

事情に依り本誌休刊の止むなきに至りましたが、来春四月頃を期して改題再刊の計画を準備中でありますので、其の際は旧に倍する御援助を賜り度く、就ては挿入「はがき」は是非御利用下さいまして、御投函賜り度いと存じます。
実際園芸編集部

貴重な園芸品種保存の運動は、長引く日中戦争のさなかであり、日米関係の悪化といった国際関係の緊張がその理由であるだけでなく、それ以外にも、明治後期から活動されてきた諸先輩たちが少しずつ鬼籍に入られる時期にさしかかり、名称不明のものも現れていたのかもしれない。

その後の品種保存運動について
石井勇義

現下に於ける園芸品種の保存の問題は、国際情勢が窮泊の度を加えるにつれ、最も真剣急速に具体的方法を講じなければならないが、本誌が休刊になるが、私のこの運動は停止せず、努力を払おうと考えている。殊に、園芸大辞典に登載する為めに、花卉品種の現地調査をやってゆくので、それと関連して蒐集と保存法を講じ度いと考えている。園原徳蔵氏寄贈五百円の使途としては、取りあえず、埼玉県安行に於ける「かへで」類品種の蒐集保存に三百円をあて、あとは「いぱひば」その他日本特有の花卉の保存者に補助をし、また適当な管理者のある学校等にも蒐集補助して交付し度いと考えて居り他にも保存資金寄贈の申出もあるが、少くも日本特産の花卉だけでも自分の手で確実な保存法を講じ度いと準備中である。「かへで」の方は安行の蒐集家の一人である上野己作氏が去夏死去されたので、取あえず同氏蒐集の百五十種 (既に名称不明も出来ている)と他二、三の蒐集品を一ヶ所に集め調査を行い、一種二株宛とし、東京府下調布町小島分の吉野氏圃場に栽植し、自分が責任者として管理してゆく計画で準備中である。何分本誌の休刊が突然なので、来春三月までに何れかの方法で保存運動の経過を公表する予定である。


編集部の北川氏のあいさつ

感謝

北川春雄


十年一昔といい、月日の経つのが早いと言っても十年というと相当に長い。私が実際園芸社に入社して丁度満十年となり、『実際園芸』と十年間暮した。昭和六年の十二月一日に石井主幹を原町のお宅に訪問し、翌二日から出勤することになった。そして昭和七年の新年号から編集の一部を手伝うことになったが、それから十年目の昭和十六年十二月号で、『実際園芸』と一時別れる事情に立到った。
この十年間に普通号が一二〇冊、増刊号が十数冊発行されているから、原稿用紙とペンとインクに供養してやらなければならないと思っている。それは今後何年かまたペンと原稿用紙に親しんで行かなければならないからである。所が私の供養に先立って、古ペンも古原稿用紙も廃品回収の波に乗ってお国の為めに既に度々動員されたのは誠に幸であった。兵役のない私に使われて、私の代りに何かの形で戦場へ銃後へ働きに行ってくれたのだと、勝手に極めて喜んでいる。


農業関係の学校へは行ったが、事実私は草花の名前はろくろく知らなかったし、作って見たこともなかったので、果して御手伝い出来るかどうか不安でならなかったが、いざその仕事に取掛って見ると、園芸界の諸先生方や諸先輩は誰方も非常な親切さを持って指導下さったのである。十年の間この仕事が手伝えたのは総て園芸界の方々の御力添に依るものであることは言う迄もなく、私はひたすら感謝するのみである。
何んの御知らせもせずに、自分の都合のよい時ノコノコ出掛けて行っても、心よく御執筆を承諾下さったり、御多忙中数時間に亘って実際のご経験をお話し下さると云う工合で、恐らく雑誌の編集に携わる者では、私程苦労せずに過したものはなかったと思っている。私の一生を通じて此の十年間こそ最も思出多い時代になるのではなかろうかと考えている全く唯感謝あるのである。
微力非才な私には、十年も『実際園芸』と生活を共にしたに拘らず、園芸界に何等寄与することの出来なかったのは残念でたまらない。然しながら「園芸界の僕として懸命な努力を致し、多少なりとも貢献し度いと記事の蒐集や写真の撮影に力めよう」と常々考えて居た。ところが今過去をふり返って見て余りに微力だったことを知り慚愧に耐えない次第である。
園芸界の諸先生や実際栽培家及び愛読者各位の絶大な支持があって今日迄大過なく歩んで来た『実際園芸』も、本号を以て休刊になると思うと転(うたた)感慨にたえぬものがある。さりながら本誌はまたの日を期待して再び発足する運びになり得ると思うので、その際は旧来に倍する御高援を賜り度いものである。
『実際園芸』が休刊の止むなきに至った事情は石井主幹が述べられた通りであり、石井主幹は勿論のこと陰に陽に多くの方々の絶大な御力添えがあったに拘らず、遂に生活様式を変えるのみではなく、従来の思想も同時に改めねばならない筈であると信ずる。その意味で私は秋の景色深き靖国の宮に詣で、その帰途次の駄句を詠んだので、今回本誌の為に何くれとなく御力添下さった方々に味って頂き度いと思うのである。勿論、句には成っていないこととは思うが、私はこうした気分を望み度いのである。
秋深く譲り合う席の暖さ
かくして休刊と決定した日、私は本当に心淋しく思った。然しながら、それも一時的な休刊だと思うと、心の一隅に一抹の寂しさはあるとはいうものの、遠からざる春に期待してそれに備えるだけの用意を整えているものである。   



編集後記

ここに十二月号の編集を終るに当り、十五ヶ年を顧みると、私の下に編集部員として御力添えを頂いた方を回顧して見る。大正十五年の七月頃から凖備にかかったのだが、当時私は千葉県の大原町在若山に栽培場(主にシネラリアとプリムラなど高級花卉の採種)をもち、傍ら私力著書の読者に対し、イシヰ・ナーセリーの名のもとに種苗を分けていたのであったが、編集を始めると千葉市の三上館の一室を借りて、ここで進行し二号位迄はここで一人の助手もなくすべて自分でやった。その年の暮れに、東京市外の東中野に転じ、ここを編集室として三月号位まで一人でやっていた、その内に本誌の外に「最新園芸講座」という予約ものを始めることになり、小石川区原町一〇番地に遺伝した、そこは小川社長の住居も程近かったのと、共同印刷に近いというので便利の為であった。その内に岩田豊三君が来られ、二年位居られたが同氏は不健康であったから大部分自分でやっていた。その内に東京造園学校を出られた三井武夫君が来られた。同君も二年位居られ健康を害されて、早く他界された。その後に千葉高等園芸学校を出られた、鈴木隆次郎君が来られた。同君は非常によい天分を持って居られたが健康者ではなかった。岩田君も不健康で退社されたのでその後に鈴木君の友人土橋啓次君が来られた、一方、園芸講座の方の仕事には駒場の実科出身の田中小七郎君も手伝って居られた。その内に土橋君も鈴木君もある事情で去ることになり、その後に来られたのが北川君で、氏は農大の学部に在学の頃から同大学の新聞の編集をやって居られた程の人で、仕事の能率が非常にあがって来た。その内に京大出身の故浅沼喜道学士が来られ、同氏はあまり『実際園芸』の仕事はされなかったが、応召されるまで主に調査事項と園芸辞典の方の仕事を担当して居られた。若い人では掛川源一郎君が千葉高園から来られた。同君は写真に非常に優れた技術を有し、編集にもまた天分を持って居られた。その外に、在社の短い人が二、三人居られたが、仕事の上で異彩を放ったのは現在の北川君を除いては浅沼学士と掛川君とであった。またこれは別途の仕事ではあったが普通植物に造詣の深い中村守一君も永い間助力されたが、現在同君は病床にあり、牧野博士の高弟として植物の種類に通じて居られる点では得難い方であるが、御快癒の一日も早からんことを祈って止まない次第である。   

◇ 

尚、印刷所開係を顧みると本誌の創刊の頃の共同印刷の担任者は土田五郎氏であった。同氏は今関写真製版所の支配人として今も関係が深い。その後、飯島君の係となり、今月号も同氏の御面倒によって一時終ることになった。三色版では日本美術印刷が多年に亘って特技を発揮してくれていた。製本は井上製本が創刊号から一貫して誠実にやってくれた。以上の関係の方々に対して、この際深く感謝する次第である。(石井勇義)

◇ 

石井主幹の下に本誌の編集を御手伝いさせて頂いてから、本号で丁度十ヶ年である。これが最後の号だと思うと感慨深いものがあり、心に殘る多くのものがあって、仕事の勝率が上らなかった。長い間何くれとなく、多大な御援助を賜った諸先生及び読者各位に深く感謝申上げる次第である。休刊と心に決めていても、いざこれで本誌と別れるのだと思うと涙ぐましい気分になる。然も晩秋のうら寂しさは一入の哀愁をそそるものがある。終りに永年の間いろいろ御協力御支持下さった方々の御健康を祈ってこの筆を擱く。  (北川春雄)

※土橋啓次は編集スタッフとして関わったとあるが「9-6」の「アンスリウム」の表紙絵を描いている。
※掛川源一郎氏はGKKのペンネームで記事を書いている。カケカワと読むのかもしれない。

※浅沼喜道氏の戦死



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