『実際園芸』編集所に3年余り所属した天才農学士、浅沼喜道氏の戦死 昭和12年10月 中国北支戦線にて 享年29歳


※石井勇義氏の偉作『園芸大辞典』編纂の初期に大いに活躍し将来を期待されていた青年がいた。その名は浅沼喜道という。たいへんに非凡な人物で、天才と呼ぶにふさわしいイメージがある。残念ながら昭和12年に戦死した。石井はその死を悼み、園芸大辞典に浅沼氏の名前を刻んで永遠に記念している。
※『実際園芸』編集所に所属しその稀有な才能を発揮して数多くの仕事をされた浅沼喜道氏の没後4年目に、石井勇義氏によって追悼文集『浅沼喜道君の追憶』(石井勇義・編 1941)が編まれた。国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧(図書館・個人送信に限定)できる。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1026682


 浅沼農学士を偲ぶ  石井勇義

曩(さ)きに北支に御奮戦中であった『実際園芸』編集部員、農学士歩兵中尉、浅沼喜道君は十月五日遂に君国の為め、名誉の戦傷死を遂げられた。あまりのことに、それ以来、全く仕事が手につかず、苦しい日を過ごしてゐるうちに、十一月十六日神戸に無言の凱旋をされるといふので、私は十六日朝七時に御遺骨を神戸埠頭にお迎へしたのであった。そして十八日には御郷里鳥取市に於て厳かなる連隊葬並びに市民葬がとり行はれ、京都帝国大学農学部よりは農学部長が弔辞を捧げられた。その節私も参列の心組であったが、御遺族の方々の御胸の内を拝察して、神戸で御別れをして東京に帰ることにした。

そこで実際園芸編集部では、十二月五日の御命日を期し、京都帝大K・N・D(※現在も続く農学科同窓会)関東支部及鳥取高等農業学校同窓会東京支部の御賛同を得て、九段偕行社(※陸軍関係者利用する会館)に於て厳粛裡に慰霊祭をとり行ったのであった。当日は京都帝国大学農学部より同君の恩師である並河博士が愈々(いよいよ)御上京になられた外、故人の御遺徳に依って、園芸界多数の参拝者があり、百余名に達した。

式典は靖国神社の神官により、午後二時に始められ、つづいて、祭主の祭詞、日本園芸界を代表して千葉高等園芸学校長松井謙吉博士の祭詞、京都帝大K・N・D関東支部代表の祭詞、鳥取高等農業学校同窓会東京支部代表の祭詞があり、続いて御遺族の玉串奉奠(ほうてん)、松井校長奉奠、祭主奉奠、同窓会代表奉奠、一同奉奠にて慰霊祭を終り、続いて「浅沼喜道学士を偲ぶ会」を開いて一同故人の思ひ出に数時を過したのであった。

当日の主なる参列者は松井博士、並河博士をはじめ、牧野富太郎博士、農林省農事試験場の木下昆虫部長、田杉技師、田崎技師、文部省山桝督学官、伊集院子爵、新宿御苑の福羽主膳官、岡見御用掛や今井喜孝博士、千葉高等園芸学校の江口、穂坂両教授、松崎直枝氏、古賀上野動物園長、市川技師、東京飛行場長福士中佐、門脇中佐、等多数に上り極めて盛儀であった。当日私の心境は、到底長文の祭詞を読み得なかったので、茲(ここ)に私の切なる心持の一端を述べたいと思ふ。

同君は郡長として令名の高かった浅沼喜雄氏の次男として明治四十二年鳥取市川下町に生れ、鳥取県立第一中学校を経て鳥取高等農業学校に学び、昭和四年三月同校を卒業され、同年四月に京都帝国大学農学部に入学、昭和七年三月に同学部卒業後直ちに同学の副手となり、昭和八年一月に幹部候補生として歩兵第三十九連隊に入営、八年十二月除隊となり、九年一月より実際園芸編集部に入られ、昭和十二年七月廿八日に召集を受ける迄三年七ヶ月の間実際園芸編集部にあって、『実際園芸』の「世界の園芸」や抄録欄を担当して居られ、其他又花卉園芸に関する調査や園芸辞典の編纂に協力して居られた。

同君は京都帝大も最優秀の成績で卒業された方で、将来園芸学者として、大いになすところあるべき偉材であった。同君が京大の卒業論文であった「日照時間の長短が朝顔の成育開花に及ぼす影響に就いて」の一文は、同大学園芸研究室から出して居る『園芸学研究集録」第一集に載せられて居り、引用文献を博く渉猟した点に於て学界注視の的となって居た。私共が三ヶ年間机を共にして仕事をしてきた点から同君の人となりを述べて見やう。

同君が語学の天才であった事は有名で五、六ケ国語を読破してゐた。最も得意として居たのはドイツ語で、英仏語も相当にやり、殊にロシヤ語の出来た事で、為めに編集所で二、三のロシヤの園芸に関する文献を収集して、すでに同君は読破して居られたが、同君が応召後私に下すった手紙の中に「ロシヤ語は夜業では仲々骨が折れたが、例の挿木の文献は八月一杯で読み終るところであった」と書いて居られた。ロシヤ語の外にイタリー語、オランダ語も読まれ、其の方の花卉園芸の文献も編集所で収集して居たが、同君が担当して将来花卉の試験研究を始める準備をして居たもので、全くこれから本格の仕事にかかると云ふ時であった。出征後並河教授へのお便りに依ると同氏は何時の間にか、支那語を覚えられて、北支で「支那人と直接話をするのに不自由なくやって居る」と云ふ事であったが、同君の語学の才は全く天禀(てんりん)と云ふべきもので、又同君程読書力の旺盛な人は珍しく、並河先生も何時か「あの位読書力のある青年は曾て(かつて)なかった」と申して居られたが、氏の語学の天禀を以てして、又旺盛なる読書力と記憶力と非凡の着眼を以て将来花卉の試験研究をなされたならば、どれだけ園芸界を啓発する様な研究を完成したかと、今更ながら残念に思ふ。

そして同君には、趣味であり、仕事を楽しんで居られた人であった。而もペンを執ると機械の如く早く、疲れると云ふ事を知らず、読書や研究を一つのスポーツと思って努力する人であった。しかも其のやり方が見て居ると易易と、気楽さうにやって居て、それで能率は人の倍であり、やった仕事は正確そのものであった。三年七ヶ月の間に同君が欠勤されたのは確か数日であったと記憶して居る。そして編集所に来て机に向ふと、帰る迄傍目を一つしない人で、他人から話しかけられなければ、一日でも二日でも自分から人に話しかける人ではなかったので、同氏の令兄も「弟は物を言はぬ男で、何を毎日やって居るのか、遂に話した事もなかった」と話されたが、全く其の通りである。併し同君の無口は少しも人に不安を感じせしめない、暖い無口であった。同君が何日もものを云はなくても、傍で仕事をしてゐて少しも気にならない、むしろ其の熱心さに尊敬の念が起る位であった。又同君は決して怒ると云ふ事のない人であった。そして私と云ふものをよく理解して、呼べば何時でも応えてくれる人であった。同君は無口でありお世辞など云ふ人ではなかったが何時も心深く「誠」を藏してゐる人で、此の上もない善良な性格の持主であられた。

同君は仕事に熱中するあまり、退所の時間を忘れることが多く、大抵六時を過ぎて、私に促されて始めて帰って行く位であった。

又氏は学級的な論文を纏める事は最も得意とする所であるが、其の反面ジャーナリスティックな所があり、ユーモラスな文章をも自由にかける人で、旅行中などから頂いた便りには実に面白い名文が見出された。

氏は又物質に対しても極めて恬淡(てんたん)で、当然私すべきものをも私せず、時にはそれを以て編集所の図書の充実に当ててくれた事もあった。現在私に協力してやって居られた仕事の性質を充分理解されて、自己を忘れて協力されてゐた程美しい心の持主であり、私と共鳴して将来とも種々仕事をして行ける人であった。

同君は又、沢山の文献の中から書き纏める事に非常な天才を持って居られた。先頃も並河博士が「あの人は参考書を読む時には、どんどん読んで、それを何時でも自分の頭に覚えて居て、書き出すと一気に書く人であった」と申されたが、全くさう云ふやり方で、氏の非凡の記憶力と語学の天才と、旺盛の読書力、学的態度、この素質を以てしたならば、将来まことに恐るべき大業をなし遂げ得る人であったに相違なかった。氏は又学的良心の極めて強い方で、自己の研究論文の他は決して自分の名義で執筆しなかった。『実際園芸』誌上に於ても、同君が匿名で書かれて居るものが非常に多い。農学士松本英吉、坂田嘉穂とか云ふのは皆同君のペンネームである。

君は又実に人情の細かな暖かい人であった。君が召集令を受けたのは七月二十八日の午前三時で、私は其の時肺炎で入院中で、君は誰れともお目にかかる時間がなく出発されたが、七月廿五日に私の病院を訪れてくれ、私の健康の事許りでなく、仕事のこと、人事などについて色々と心配され、秋からはかうした方針で躍進を画しやうなどと数時間に亘って親しく話しあったが、それが遂に永久のお別れになって仕舞った。憶へば、君は始めて来られた時には、私はリウマチスで伊豆山の温泉で静養中で、床中で来任の御挨拶を交はされたが、今度又病院で最後のお別れをした事は誠に不思議であった。君は応召後私に四通の御手紙を下さったが、その文中には最後まで、私の健康を案じられた親切なお言葉や、仕事の大成を祈ってゐてくれた事や、凱旋後に花卉の試験研究をやらうと云ふご希望やら、其他、私の仕事を心配された上の心使ひには、私は涙なしには居られない。深く暖かい思ひ出の数々が残されて居る。

かかる立派な素質に恵まれた君が、今や我々の眼より忽然として消えて仕舞ったのである。惜しみても尚且余りある君ではあった。私は今もただ泣かんばかりである。

(昭和十三年一月一日発行『実際園芸』第24巻第1号より転載但し一部補正)



坂田嘉穂

(浅沼氏の叔父だと思われる この名前では浅沼氏がペンネームで使っていたうちのひとつ、もうひとつの松本英吉も親戚の名前だという)

(浅沼氏は、自分の息子と同じ京大に学び、東京の『実際園芸』社に勤めていた。応召し中国の戦場で負傷し野戦病院を転々とした後ようやく陸軍病院で手当を受けた。しかし看護の甲斐なく亡くなった。亡くなる前に、ベッドで母親に向けて軽傷で大丈夫だからという手紙を書いており、それが最後の手紙となった。)

一、彼は実際園芸社に於て雑誌編集に従事して居たのであるが、特筆せねばならぬことは彼が園芸辞典の著作に従事して居たことである。不朽の名著をこの世に残すことほど高貴な功績はないのであるから、そして彼は鳥取高農を主席で通した程度の学才もあったし、京大では英・独・仏・露語を解し、蘭書までも手にした程の語学の天才を称せられて居たし、元来が寡黙な勉強家であったから、その成功を期待して居たものはわたくしばかりではなかったであろう。

(中略)

一、彼戦死して、遺愛の蔵書は大部分、京大と『実際園芸』社と鳥取高農とに寄贈されたが、京大へ寄贈の洋書は羽田総長からの謝状に六十五部百五十二冊とあったのを見た。そして並河教授からの手続き上の通知で該書籍の代価は八百七十円であったと聞いた(※昭和12年公務員の初任給75円)。私は彼が若うしてかくまでに購読研究して居た志の大なるものありしを追懐してやまない。かくして彼がそのいのちと名と恋(※許嫁がいた)を合わせて国に捧げたことこと貴けれ。私は一門の子弟が彼に励まされ彼と劣らぬ捨我の決心を以てこの世に生くるならば、必ずや人生問題に累はされざるいつも清く澄み切った心に恵まれた仕合せなものとなるであらうと思ふ。(彼の遺骨は鳥取玄中寺の累代墓に納られた。因みに云ふ同寺には有名な寛永の義人荒木又右衛門の墳墓がある)

(以下略)

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