玉川温室村を支えた人々(4) 桜井政雄氏、宮崎農園 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から
『世田谷の園芸を築き上げた人々』 湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970
※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。
カーネーションの 桜井政雄氏
一九二五年(大正十三年)桜井氏は、アメリカ、カルフォルニヤ州へ園芸の勉強に行かれた。日本大学経済科卒業、氏の二十五才の時であった。アメリカには叔父に当る人が花卉園芸を経営していたので、そこで約五ヶ年間、カーネーションの栽培を研究されたのであった。
当時、アメリカでは、花卉園芸が盛んであり、主として日本、伊太利、中国の移住者によって経営され、その実権もこれらの人達によって握られていた。園芸品の取引市場も生産者によって営まれており、相対取引きである。氏のおられた農園は約七百坪の温室をもっており、カーネーション専門であった。品種はビクトリヤ、エンチャントレス、スペクトラムなどであり、温室村の人達が当初、栽培していたものである。この地では人種によって栽培品目が違い、日本人は主として、カーネーション、バラを栽培し、伊太利人は、球根類、宿根草の露地栽培とこれらの促成。中国人は、菊を主とし、その他の露地切花栽培であった。雇人はメキシコ人、フィリピン人などであり、中々よく働き、日本人に負けない辛抱強さも持ち合せていたそうである。
切花の価格は日本とほぼ同じ位で、一打(二十四本)五十セント位であった。暮れには一ドル(日本円にして一円)にもなったのであるが、この相場では引合わないので、何とか新らしい市場開拓を計画、シカゴやサンフランシスコを視察、切花の消費状態、取引き価格などを調査した。その結果、カ州の相場の安いことが判明、当地の相場を引上げると同時に、他の州にも出荷することを実行した。これによって花卉園芸の将来に曙光を見出したのであった。
その当時は重油を燃料としていたが、天然ガスが豊富に湧出していたので、瓦斯会社に交渉し、暖房の燃料として使用出来るよう設備を整えたのである。それ以後、天然瓦斯を燃料として使用しているそうである。アメリカ時代の園芸については、後日、氏の手にょってくわしい手記を綴りたいと申されていたので、私の方はこれ位にしておき、氏の帰国後の模様について述べることにする。
昭和七年、現在の地に百坪の温室を建ててカーネーション栽培をはじめられた。その初期は中輪のダークレッド、エンチャントレス、スペクトラムなどの品種を作ったが、ピーター系が輸入され、次いでコーラルが作出されたため、殆んどの栽培家はこれらの品種に変って来たようである。戦後は一時、切花の需要が増加し、従って市価もよく一坪一万円位の収入を挙げることが出来たが、昭和三十五年頃から、地方にカーネーションの栽培が盛んになり、漸次、東京産のものが圧迫されて来た。
桜井氏は早くから大輪種への切替えを志しており、戦後誰よりも早く、ウィリアムシムの系統を輸入栽培した。その折、他に五、六品種輸入し試作したのであったが、日本の気候には不適のものもあり、シム系が一番適合していたようである。この品種は低温にも強く、特にピンクシムには花梗もしっかりしており、花もちのよいものが多うかったのである。中輪カーネーションが豊富に出廻るようになり、市価の低迷している折、この大輪カーネーションは市場の人気を呼び、一流生花商は挙げて大輪を歓迎した。その初期にはガク割れの多く出る品種もあったが、現在は技術的にも進歩し、新しい優良品種も輸入されており、今や全国的にこの大輪カーネーションが普及しつつあるようである。このため市価は低迷を続け坪当り収入も六千円~八千円位であると云う。
氏は現在、ご子息、喬氏と共に創業当時の温室を丹念に使用しながら、カーネーション栽培に余念ないのである。喬氏は、鉢もの栽培も取入れ、庭先き販売を主とし、切花は小売形式を取り、配達も行っているのであった。こうした経営の多様化は、今後の需要供給の変化に対応するための一布石であろうと思われる。かつての花の殿堂、温室村も急激に住宅化し、残っている園芸家の中にも老朽温室を整理、住宅を建てている人も見られ、近き将来にはその経営内容にも、大きな変化が見られるものと思う。
わが日本の花卉園芸が誕生した大正時代に青雲の志を抱いて渡米、五ヶ年間の修業を経て帰朝した新進園芸家、桜井政雄氏の人生は、過去四十年間、決して華やかなものではたかったようである。併し、異郷にあって、人種を越えた人間関係の中で体験した、青年グロワーのアメリカ生活は、その後、日本に於ける園芸家としての体験と融和して、いよいよ円熟した人柄を作り上げられたように感ぜられるのである。花の心をわが心とし、栽培にも、地域社会のためにも、無私の心境で奉仕しておられるのであった。
住所 世田谷区玉堤一の一五の二七
電話 七〇一‐八六三六
カーネーションと鉢物の 宮崎農園
現在、温室村で最も内容の充実した園芸を営んでいる人は宮崎氏であり、約三百坪の温室と百坪程のフレームで、カーネーションの栽培と一般鉢物栽培を行っておられる。四季を通じて切れ目のないように計画されたその経営は、最も多様化され且、集約的である。その労働力は父君と後継者の孝明さんの外園丁さん二人、計四人であり、決して充分とはいえないが、よく整備された温室、圃場或は作業室など、宮崎氏の性格を表わしていると思えた。堅い信念とそれに基く合理的な計画、それをどこでもやり抜く心構えは、園芸人として一本の筋金が通っている感じである。とかく斜陽化を歎き、都市園芸に懐疑的になりつつある現在、敢えてこれに挑戦する如く、常に需要の変化を洞察しながら、それに見合った作付けを行い、小鉢物ながら丹念に作付けを続け、小売屋さんに或程度の満足を与えようと努力されておられるのであった。
宮崎氏は東京中野の生れ、生家は油屋さんであり、現在も営業を続けているそうである。少年の頃から草花が好きで、ひまを見ては、近くにあった東京府の農事試験場や、国民中学会々長河野氏の園芸場などに行き、色々と質問したり、観察させて貰ったりした。千葉の「高等固芸」でも見学に行き、温室や実習地を見て廻り、当時園芸関係の最高学府としての実態に触れ、自分の将来に大きな夢を描くようになったのである。たまたま、近くに石渡善吉氏の農場があり、ダリヤの栽培や草花の採種など行っていた。氏はそこへも時々手伝いに行き、栽培の状態を知ると共に見聞を広くしたのである。
大正十二年、徴兵検査に合格、二ヶ年の兵役を終えて後、小杉喜四郎氏の農園で一ヶ年間研究生として勉強された。当時小杉氏は目黒本園の外、矢口にも分園を持ち、カーネーション、フリジャなど栽培していたのであった。
その後、昭和三年、温室村の二項園に入園、約三ヶ年間本格的な切花園芸を研究されたのである。ここは鳥丸光大氏と森田喜平氏共同経営のものであり、その規模も東洋一を誇るアメリカ式大温室であった。坪数約千百坪、ばらの切花を主体とし、洋らん、メロン、トマトなど栽培していた。出荷の最盛期には小型トラック一台分もの生産量があり、その仕切代金も当時の金で二万円もあったと云うから、欧米の園芸家に匹敵するものであった。
昭和六年、現在の地に独立、温室三百坪を建てて、カーネーション専門の園芸をはじめられたのであった。当時は温室園芸の黎明期であり、一般社会は左程好景気とは
云えない時代であったが、生産費の未だ少なかった洋花の需要は多かったようである。カーネーションー本五銭位であったというから、今の金に換算すると五十円位であるから安い値ではない。
氏の場合、親御さんの理解があり将来性のある事業と認められ資金の援助もあったそうである。温室も漸次拡張し、昭和十年頃は一千坪位に増設し、園丁さんも十人程雇っていた。主に地方の農学校卒業生であり、花卉園芸の研究が目的であった。
大和田氏も主任として働いていたそうである。カーネーションの最盛期には毎日三千本の切花をしたため、指先きが痛んだそうである。温室村には多くの研究生が来ており、これらの人々は郷里に帰っても当時の社会状勢、特に農村ではこれらの新しい温室園芸を受け入れるだけの知識も、資金の持合せもなかった。折角研究した園芸知識も土の中に埋もれたかに見えたが、戦後の地方園芸発達の陰には、かつての研究生諸君の努力がひそんでいるものと考えられる。
氏の温室暖房はスチームボイラーであり、機関士の免許が必要であったが、幸い一等機関士の免許を持っており、ボイラーたきには自信があった。
ある年、小笠原島視察に行き、その時乗った汽船の汽罐室に興味を党え、特に請うて見せて貰った。はじめて見る汽船の動力である汽罐室の大きき、構造の精密さには驚いたそうである。小笠原視察の目的は、フリジヤ球根の買付けであったが、大量仕入れは止めて自家用だけ少し買ったのみであった。これとは別に南の島の自然は雄大であり、強烈な太陽の下に、樹木、花木類すべてが充分の温度と湿度を与えられ、ギラギラと輝き燃えているように感じたそうである。
第二次世界大戦それに続く戦後の激動期には温室の規模も縮少し、皆さんと同じく家庭菜園の苗作りや、自家用野菜を作った。漸く花作りが出来るようになり、市価も戦前をはるかに上廻る状況にはなって来たが、既に世情は一変していた。物価の暴騰、労力の不足、更に地方園芸の発達等々、ために近郊園芸の受ける打撃は大きく、再び規模を元に戻す時期ではないことを悟った。そこで、宮崎氏は経営の内容に検討を加え、カーネーションの外に大衆性のある鉢物栽培を取入れ、ピットとフレームを利用して、小鉢草花の周年栽培を実行した。稍々(やや)温度を必要とするもので、早期出荷が有利であるものはピットを利用し、低温でも生育し花壇用に利用される鉢物はフレームで栽培した。尚、従来市場出荷であったものを漸次庭先き販売に切pかえ、販路の固定化を図っておられる。
孝明氏も父君に劣らぬ堅実型、杉並の農芸高校出身の優等生であり、徒らに時流にてらうことなく営々として惓くことなく、万単位の小鉢物を次々と育て上げているのであった。
宮崎氏は既に七十才に近い年令でありながら、今尚赫灼として朝早くから、夕おそくまで、若い人達と共に働き「花を作る」ことの楽しさを味い、その事に人生の喜こびを味ってがられるのであった。尚、人生観そのものにも枯淡の色を添え、或る時は現代の思潮を嘆き、又、或時は、あきらめに近い心境で園芸という仕事を達観し、「儲かるどころか毎年赤字ですよ、只、毎日こうして楽しく生きておられる現在を大切にしたいと思っている」と語られた。更に、私自身にも「湯尾さん、あまり物事をつきつめて考えない方がいいですよ」と忠告もして下さった。
現在の社会状勢では、農村人口は年々減少し、その反面都市人口は急激に増加している。農業をすてて他の産業に就く人は昔から多いのであったが、宮崎氏の場合は町の商人の出でありながら、敢て農園芸の道に入ったのである。世間の人は変りものだと思った事であろうが、金儲けには縁のない仕事ではあっても少しも後悔しない」とも言われる。
淳々として語り、尽くることを知らない氏の言葉の中に、四十年の土と共に生きて来た人間の純粋な、そしてたくましい園芸人としての意気を感じたのであった。 住所 大田区
田園調布七の三九の一
電話 七二一‐三○九一