戦後の前衛いけばなを生み出した「素材」の革命的変化 アンスリウム・ストレリチア、鶏頭・ひまわり、つるもの、枯れ木・晒れ木

『勅使河原蒼風作品集』 第1集 ホームライフ社 1952


以下も同じ




   

以下、『日本いけばな文化史』第4巻 工藤昌伸 1994 から


三つの素材革命


 いけばなに使用する素材は、一般に「花材」という名でのみ語られてきたが、戦後の前衛いけばな運動が展開されて以来、造形的ないけばなに使用する材料については、花材という名称を捨て、他の造形ジャンルが使用している「素材」という名に置き換えて使われはじめた。

 いけばなが対象にする素材(花材)が大きく変化するのは、いけばなの歴史では次に挙げる三つの時期である。まず江戸中期の元禄以降、享保から宝暦・明和・天明にかけて(十七世紀後半から十八世紀後半)江戸の園芸が盛んとなり、花材の種類が豊富になってきた時点が、いけばなの素材革命の第一期であると考えられる。この園芸の興隆は、新しい品種の作出や、斑入りの植物の生産、長崎を通じて輸入された西欧の草花を含めてのことであり、江戸中期までの立花(りっか)、抛入花(なげいればな)に使用される花材に比べて、質、量ともに大きく変化した。

 江戸中期の花材の革命で重要な点は、園芸の興隆にともなってそれまで山採りによって提供されていた花材が、再生産される園芸花材として非常に多く供給されるようになったことである。生花(せいか)に見るような伝統的ないけばなのライン・アレンジメント、すなわち線の芸術としての特性は、都市近郊の生産者によって再生産可能な枝ものが大量に提供されるようになって生み出された。立花全盛の時代から、生花のように比較的形の小さな枝ものが好まれるようになり、文化文政(一八〇四~二九)時代には非常に多くの人たちの支持を受けて生花の全盛期を迎えるようになる。それは、花材の生産と供給の状況が変わってきたからこそ、生花が成立したのではないかという見方さえできるほどのものである。

 第二期は、明治の文明開化によって洋花が流入してきたことによって始まる。洋花とともに西洋の花卉装飾法が紹介され、それまでのいけばなにはなかった色彩の問題が重視されるようになる。例を挙げれば、明治末期から大正にかけて小原流における色彩本位の盛花のようなものが成立する。またこうした洋花を花材として扱うようになって、大正末期から昭和初年にかけて自由花の運動が盛んになる。それは、格のある伝統的な生花の束縛を離れて自由な表現をしようという意識に基づいてのことでああった。しかしそれよりも、市場に流通する洋花花材そのものが、白然の出生(しゅっしょう)を重視し、伝統的な天地人三才格をもつ形式化されたいけばなでは使用することが難しかったことを指摘できる。素材的な側而から自由花の出現があったと考えることさえできよう。

 第三期のいけばな素材の革命は、戦後の前衛いけばなにあった。前衛いけばなの運動の始まる以前、終戦直後の昭和二十年十一月に行われた、主婦之友行における勅使河原蒼風・小原豊雲の.二人展における素材について、まず見てみることにする。ここでは、たしかに植物としての素材が使用されているが、爆撃によって灰燼と帰した東京の町の焼け跡の自然が、この展覧会の素材に反映している。昭和二十年当時、きわめて珍しかった花、例えばアンスリウムや、温室栽培のカトレア、シプリペジウムなどを使ってはいるものの、主としてすすき、月見草、秋のキリン草、からすうりなどの焼け跡に生じた自然の草花が使われていることに気がつく。この展覧会を契機として、いけばなは復興しはじめ、いけばなの素材としてそれまでになかった新しい花が登場する。


新しい植物素材 


アンスリウムとストレリチア


「プレ前衛一九四五-五○」の章に記したように、昭和二十一年、勅使河原蒼風は、皇居前の馬場先門にあった銀行協会内のバンカース・クラブで外国人に対するいけばなのレッスンを始める。当時の駐留米軍の夫人たちは.アメリカ本国との間をしばしば往復したようで、彼女たちが帰米し.再度日本に戻る折りに、ハワイからの土産として花を持ち込んでいた。その中で、日本人が非常に驚異を感じて強い関心を示したのがアンスリウムとストレリチアであった。昭和二十二、三年といった時代に、真っ赤な苞(ほう)に黄色の肉穂花序を有するアンスリウムは、人工的な美しさをもつ材料で注目を浴びた。またストレリチアは、極楽鳥花と呼ばれるように羽を広げて飛び立つ鳥の形をした、鮮やかな色彩をもった幻想的な花であった。こうした花は、わが国ではそれまで特殊な園芸品種の花として一部で温室栽培されているに過ぎず、まず一般の目に触れることはなかった。この二つの花材は形も人きく造形的にも強い印象を日本人に与えたもので、戦後のいけばな作家たちにとってはきわめて魅力ある花材であった。この時代の新しいいけばなは、あたかも、アンスリウムとストレリチアによって触発され新しい展開をしていったといってもよい。


鶏頭とひまわり


 これに対して、焦土と化した東京で、新しいいけばなの素材として注目されたのは鶏頭とひまわりであった。なかでも鶏頭は、花が大きく帯化した石化鶏頭であって、かつて元禄時代頃まで、二代専好ならびにその弟子たちが立花に使っていたとさか鶏頭のように、かなり大きなものであった。石化鶏頭は、夏から秋にかけて二メートルを超えるほど高く花をつけ、異形にも見える華麗な姿を焼け跡に誇っていた。鶏頭が石化した理由は、本来、種を下ろす時期を遅くして夏の炎天のもとに急激に成長させることにもよるが、とくに戦後の焼け跡には木灰が多く、肥料に富んでいだからであろう。

 同じように焼け跡の中で育つ巨大なひまわりにも大きな関心がもたれた。ともに、いけばなの花材として生産されたものではなかったが、強烈な色をもった石化鶏頭と、巨大な輪に黒い実をつけたひまわりは、焦土と化した大都市に生育する植物を代表するものであった。この二つの植物は、前衛いけばなの素材として、七、八年にわたり好まれ、最盛期には、造形的ないけばなにふさわしい材料として非常に多く使用された。一つには、焼け跡にたくましく育つこれらの花材は、戦後日本の国土復興を象徴するものとして、当時の人々に共感を覚えさせたのだろう。しかし、昭和三十年代の半ばを過ぎると、使われることが次第に少なくなってしまった。

 ちなみにいけばなの歴史のうえで、この巨大な石化鶏頭が好んで使われたのは、先述したように江戸の初期から元禄までと、戦後の前衛いけばな運動の展開された時期の二回だけである。推論すれば、焼け跡の地に、いち早くその巨大な姿を見せる石化鶏頭は、まさに焼け跡文化を代表するものかもしれない。


つるものとみつまた


 植物素材の中で、花ではないが、もう一つ注目しなければならないのが藤づるとこくわづる、みつまたであった。これら、前衛いけばな運動の中で非常に多く使われた材料のうち、藤づるは、第一回日本花道展(日花展)における勅使河原蒼風の「望古譜」などにも見られるように、蒼風ならびに小原豊雲においては、巨大化していくデパートなどの展覧会の出品作にもっとも多く使われた。 藤づるがこの時期使用されたのは、作家自身の嗜好によって花屋を通じて取り寄せたというものではなく、戦争によって手を入れられなかった山林で、戦後新たに木を育成するうえで不要なものとして切られ、素材として提供されたというのが。一番大きな理由であったのだろう。なぜならば、巨大な藤づるは、山林の育成を阻害するものであり、戦争中に放棄されていた山林を、再び整備しようと思えば、大きな藤づるから小さな藤づるに至るまで、まさに邪魔物となっていたものであった。すなわち藤づるは自然のジャンクであった。自然を破壊してまで伐採されたものではなく、いけばなは自然を保護するために切られた不要物を取り上げて見事に造形化し、芸術作品としたというように考えてよいだろう。 藤づると同じような理由で、戦後、稽古花にも使用されるようになっていったのは。こくわづるであった。藤は「木の病なり」と「仙伝抄」にも述べられているように。植林された木に絡みついて木を枯らしてしまう性質をもち、こくわづるも、藤づる同様日照を必要とし、林の縁、林の外側に生育するマント植物である。山林で働く人たちは、林縁に生い茂ったこくわづるを山で切り、里に降ろして焼却したものであった。 こうした捨て去られたこくわづるを新しいいけばなの素材として使用することを考えたのは、花材流通に従事する人たちであった。前衛いけばなで、線の動きに重点をおいて構成する作品は、その線の動きに「ムーブメント」という造形用語が用いられたが、これを強調するような索材を求めていたいけばなの人たちにとって、こくわづるなどは、あきらかにそれに適う素材であったのだろら みつまたも廃物化されていたものを、いけばなの材料とした一例である。こうぞ、みつまたなどの生産が盛んな四国では、和紙の生産にその表皮が必要とされ、熱湯で煮て皮がむかれたあとは、こくわづる同様に焼却されていた。それが関西の花商によって取り上げられ、前衛いけばなの新しい素材として市場に出回った。後年、 このみつまたは漂白され、さらに多用されるようになり、現在でもいけばなの稽古花材としてよく使われている。

 こうした藤づる、こくわづる、みつまたなどの材料がいけばなに初めて登場するのは前衛いけばな運動を契機にしてのことであって、それ以前のいけばなにこの種の素材が多量に使われることはまったくなかった。戦前、自由花などの作品で。一部に線の動きを表すものとして、つる梅もどきなどが使われることはあったが、実のつかないこくわづるや、直線的で撓(た)めのききにくいみつまたなどは用いられることがなかった。これらは山林の育成や和紙生産にとっては不要なジャンクであって、それをあえて前衛いけばなの素材として取り上げたのは、有機物としての植物がもつ出生や叙情性などの側面をまったく否定して使い得る、無機物に近い素材であったからなのだろう。しかし、こうした素材を、まったくの無機物として捉えるのではなく、その中に新しい植物の自然を見ようとしたという側面もあった。


枯れ木と晒れ木(かれぼくとしゃれぼく)


 前衛いけばなの時代は、枯れ木(かれぼく)と藤づるの時代だといわれたこともあった。 巨大な展覧会作品に藤づるとともに使用されたのは。哂れ木(しゃれぼく)であった。哂れ木というのは、かつて、安土桃山から江戸時代にかけて、「曝れ木」と立花の板本に記され、苔木(こけぼく)とともに、立花だけではなく砂の物などにも使用されていたもので、そうした材料がこの時期に登場したのは、京都近辺に戦乱で荒れた山の自然の状況が存在したからであろう。第二次世界大戦後も、戦争中の山林の木の濫伐や治水の不備から洪水が頻繁に起こるようになり、また、周知のように、戦後しばらくの間、台風が度々上陸したこともあって、治水が完全でない山や川はたちどころに荒れた。河川敷には洪水によって流された枯れ木や風倒木などが累々とし、それが時間が経過する中で哂れ木と化した。こうした哂れ木や山で立ち枯れた木は、勅使河原蒼風の大作「虚像」をはじめとして、前衛いけばなの素材に非常に多く取り上げられた。枯れ木の形姿を否定し、逆さにして扱ったり、また切り込みによってその形姿を変化させるなど、彫刻的な作業による造形化を行った。外国人たちは枯れ木や哂れ木を「ドリフト・ウッド」(流木)と呼び、これらによって構成された前衛的な作品に強い興味を示した。

 本来打ち捨てられて省みられることのなかった枯れ木、哂れ木、風倒木などが、戦後ただちに新しいいけばなの素材として登場してきたのは社会史的にみても興味深い。いけばな作家が当時の社会状況における自然の中からこうした素材を発見したことは、それはまさに自然の植物を素材対象にするいけばなが、いけばなとしてのアイデンティティを確かめて、新しい造形活動を行ったのだということもできるのではないだろうか。 こうしてみると、前衛いけばなの素材領域の拡大というものは、当初から無機物に対する眼だけではなく、当時の自然界の中からの素材の発見という新しい眼もあったわけで、これは前衛いけばなの素材論として注目すべきことなのではないだろうか。これらの自然の枯れ木とか哂れ木の存在は、戦後の前衛いけばな運動の中で素材に対する号え方に変革を引き起こし。造形される作品にオブジェという言葉をもたらした。


 オブジェとしてのいけばな


 前衛いけばなの作家たちが、大谷石、軽石、石膏、鉄、金属など、花以外の材料に強い関心を抱いたのは、オブジェの慨念が導入されてからであった。オブジェの概念は、もともとシュールレアリスムの作家たちによって提唱されていたものであったが、戦後の特徴は既製の存在物をデペイズマン※の作業によって存在する場を変え、本末のものとはまったく違った価値観を与えようとする前衛作品が紹介されたことである。 

(※あるものを本来あるべき環境から異なる場所に移すこと。本来のコンテクストから別の場所へ移し、異和を生じさせるシュルレアリスムの方法概念)


 これに対して、日本の前衛いけばなの作家たちは焼け跡のレンガやコンクリート、鉄条網などのジャンクを、自然物と同じような生命をもつ物体として発見し、それらを素材として造形構成を始めた。これらの作品は、作家が発見した自然のオブジェによって構成されたものであり、厳密にいえば西欧美術においてオブジェと呼ばれたものを単に組み合わせたものとなってしまっていた。しかし、やがて自然のジャンクともいえる巨木や藤づるによって構成される前衡作品も、オブジェと呼ばれるようになった。ことにシュールレアリスティック作品にはおしなべてオブジェの名が使われるようになる。

 小原豊雲が昭和二十年の神戸の大丸における展覧会で廃墟の屑鉄など使ったり、勅使河原蒼風が昭和二十五年の美術文化協会展に「散歩」)と称する鉄のオブジェを出品した背景には、まさに焼け跡社会の文化があった。また当時の平和のための美術展や各種の展覧会に出品された若いいけばな作家たちの作品には、焼け跡にあるオブジェの発見によって再構築されたものがきわめて多かった。同時に前衛いけばなの作家たちは、前述したアンスリウム、ストレリチア、鶏頭、ひまわり、そして藤づるや枯れ木などの植物素材に対しても、新しい眼をもちはじめる。

 このようなオブジェ概念の導入による素材の発見については、「前衛いけばな芸術運動の総括」の章でも述べているが、前衛いけばなの素材領域の拡大は、超現実主義に影響された観念的なものであり、前衛芸術としての明確な意識によってなされたとは言いがたいものがあった。植物素材であれ、石や鉄や軽石という植物以外の素材であれ、自然に存在するものへ新しい眼をもつことによって素材を拡大していったというのが、当初の出発であったと考えていいのではないだろうか。


既成の花器の否定


かつて山根有三が前衛いけばなを語る中で、きわめて興味ある発言をしていた。それは、前衛いけばなが造形化の道を歩む中で、三巨匠展における勅使河原新風の作品をいくつか例として指摘したうえで、花器を自分でつくろうとし、それに花を加えるという一つの考え方が基本にあるのではないかというものであった。

 実際、戦後の前衛いけばなの運動の中で、いけばなの新しい造形性を求めようとした作家たちは、それまでの伝統的な既成の花器の使用を否定していた。なぜならば、彼らはすでに形の与えられた花器にどのように材料を足していけても、その花器は既成のいけばなを前提としたものであるだけに、まったく役に立たないという考え方をもっていたからである。そのことから登場したのが、勅使河原蒼風においては大谷石によって、小原豊雲においては軽石によって、花器あるいは花器に類似したものをつくることであった。一つの作品をつくるうえで、石、軽石の質感にあきたらない場合には、鉄および金属、あるいは石膏によってそれぞれ形をつくっていくような作業が行われていた。いけばな作家が花をまったくつけることなく、石、軽石、石膏、鉄、金属などだけで制作していこうとする造形作業に強い興味をもちはじめ、花を組み合わせることのない彫刻的な前衛いけばなが出現したのだ、という山根の視点は重要な指摘であるといってよい。


宇野三吾氏の肖像

宇野三吾と四耕会


 前衛いけばなの花器を語るにあたって、「三巨匠展」の章に登場した陶芸家・宇野三吾の存在について語らねばならない。戦前から在野の陶芸家であった宇野は、近代の西欧美術に強い関心を示し、東京の美術家たちとの交流も深く、伝統的な京都にあっては特異な陶芸家であった。宇野は「四耕会(しこうかい)」を主宰して、三浦省吾、鈴木康之、林康夫、中西美和ら若手の陶芸家たちとともに前衛陶芸活動を続けていた。彼らの作陶は、いけばな作家たちにそれまでの花器の概念を打ち破る新鮮なものとして迎えられた。

 宇野三吾の存在がなかったら、前衛いけばなのあれほどの激しい展開はなかったであろうといわれる。それは三巨匠展においてみるように、蒼風、豊雲、文甫という前衛運動の旗手たちが、いずれも宇野に前術的な花器の制作を依頼していることからも理解できよう。宇野がグループの名称に四耕会の名を冠したのは、工芸、絵画、彫刻、写真の四つのジャンルを耕すという意味によるものであった。彼の主張は陶芸のジャンルを越えた総合的な前衛連動を目指すものであったのである。京都の工芸作家・黒田辰秋との親交が深く、また東京の彫刻家・本郷新(ほんごう・しん)、写貞家・土門拳らが宇野の理解者であったことも、宇野が戦前からこうした主張をもっていたからなのであろう。もし彼が東京の陶芸作家であったなら、おそらく東横展の審査員の一人となっていたものと思われる。

 宇野は『いけばな芸術』誌上においていけばなについて批判的な発言をしていたが、いけばなの造形性を追究しようとする前衛いけばな運動については、同じ仲間意識をもってその展開に大きな期侍を寄せていた。前衛陶芸はのちに器の用を離れて、花をまったく必要としない完成した造形物、つまりオブジェとしての工芸をつくりあげてしまうが、宇野の器は組み合わされる花の存在を意識した「用をもった」ものであった。

 伝統的な花器を否定し器とともに作品を構成する、造形的ないけばなの構成素材の一つとしての作陶は、宇野三吾によって新しい道が開かれたといってよい。昭和二十九年に大阪・三越において開催された、いけばなの安部豊武、絵画の須田剋太と四耕会のメンバーによる「非形象美術展」は、彼の主張を明確に打ちだしたものだった。近年、宇野と四耕会の活動を取り上げ、鳥取美術館をはじめ関西の美術館において特別展が企画されているのは、ジャンルを越えた彼らの前衛運動が.再評価されているからである。

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