玉川温室村を支えた人々(3)  犬塚卓一、伊藤東一氏 『世田谷の園芸を築き上げた人々』1970から

  『世田谷の園芸を築き上げた人々』 湯尾敬治 城南園芸柏研究会 1970


※一部の漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります。

日本フローリスト 犬塚卓一氏

 

 わが国の、花卉園芸史上に不滅の業蹟を残した、犬塚卓一氏は、今は永遠の眠りの中でカーネーションの香りに包まれ、仏の世界に住み長らえておられる事であろう。

 一月七日、私は温室村に、ご子息竜一氏をお訪ねして、父君、卓一氏の「園芸」についてお聞きする機会を得たのである。

 犬塚氏の祖先は遠く、江戸末期、遠州太田藩の士であり、明治維新の改革により、千葉県山武郡に移り、農業を営んでいた。卓一氏はその曾孫(?)であり、小学佼卒業後、神田今川橋のたもとにあった、松屋呉服店に勤め、十七、八才の頃、既に番頭として重きをおかれていたそうである。その頃、お叔父さんに当る人が、アメリカ、オレゴン州のポートランド市で、花卉園芸を経営されていた。氏は一生、呉服屋として生きることに不満を感じ、一つアメリカに行って叔父さんと共に園芸をやって見ようと決心された。時は明治四十年、日本中が開化の夢、華やかの頃であった。僅か十代の少年で、アメリカに渡ることなど稀れであり、余程の決心と勇気が必要であった筈である。叔父さんの所へ行くんだ、という安心感はあったと思うが、非常に度胸のよい少年であったと云えよう。

 卓一氏はここで二十年間、一般草花とカーネションの栽培を勉強された。アメリカでの経営は温室五百坪でカーネーションの切花をなし、その他、露地草花の苗生産を行い、小売業者に卸していた。アメリカの花卉園芸はその当初から企業として発達し、生産規模、取引量共に、日本とは比較にならぬ程、大であり、犬塚氏の農園も、アメリカ人の農園に劣らぬ内容を整えていたようである。

 昭和初期に帰国し、温室村に第三番目の園芸家として、温室百二十坪を建設した。ここで一番早かったのは荒木氏であり、次が森田氏、犬塚氏は三人目であったわけである。その温室は人も知るアメリカ製のものであり、ボイラーもパイプも皆、帰国の際、持ち帰ったものであった。建築様式は連棟式で、材木は米松の赤味を用いてあり、ボイラーは、マリンボイラーと称する多管式のものであった。併しアメリカと気候や湿度が異なるため、カーネーションが軟弱に育ち、切花としての価値は低く、止むなく、サイドや、天窓の構造を変えて、通風を計った。こうして漸くアメリカのものに負けないような、カーネーションが出来るようになったそうである。翌年更に百坪を増設、年々坪数をまして行き、最も多い時は五百五十坪保有していたと云う。

 現主、竜一氏は昭和七年頃より園芸を手伝い、大勢の園丁さん達と一緒に働いた。当時の品種は、大正十四年頃輸入されたものが多く、ラデー、エンチャントレス、ビクトリー、スペクトラム、ノースター、ハーベスター、トプシー、などであり、ピーター系は、昭和十年頃輸入されたようである。白ピーターはピンクピーターの技変りであり、犬塚氏の温室で作出された品種であるそうである。

 犬塚農園の出荷先きは、高級園芸市場であり、その品質の優れていることでは定評があり、カーネーションとしては常に最高位の値を示していた。堅く締っていて花持ちのよいことで生花商の人気を集めていたという。氏の栽培法は低温で育て、通風をよくすることに重点をおいた。朝、一番早く天窓を開けるのは犬塚氏の温室であったそうである。

 併し春先きになると、急に伸びて来て軟弱となり、従って市価も下り、四月頃になると長門氏のものに敵わなかったと竜一氏は述懐されている。この事は、冬期間低温のため肥料の分解度も少なく、生長が押えられていたものが、温度が上昇して来ると、急に成長が促進されるためと思われる。その頃、一番の難敵はスパイダーであり、現在のように効果の著しい農薬はなく、毎日のシリンジで漸く洗い落していたそうである。勿論、農薬も全然使用しなかったわけではなく、硫酸ニコチンや除虫菊乳剤、それにアメリカ製の硫黄剤も使用したのであったが、ワックスが落ちるので常用は出来ないとのことであった。

 栽培管理の上で最も慎重であったのは灌水であり、父君卓一氏以外は誰にもやらせなかったそうである。「たかが灌水」と一口に云うが「水かけ三年」という、園芸家の合言葉通り、潅水技術は生やさしいものではない筈である。その頃の労働力は七人で、その中、研究生は五人居た。給料は一ヶ月五円から七円であり、主任は二十円支給されていたそうである。竜一氏は小使いとして五円渡されていたという。

 昭和十二年頃、カーネーションの市価が稍々(やや)下って来たため、シクラメン、アジサイ、チューリップ、フリジヤなどの鉢物を約百坪程栽培したが、予期した程の収益はなかったとの事であった。中でも、チューリップは病菌が多く、その出来ばえは非常にわるい結果となり、一度でこりたようすであった。

 第二次世界大戦勃発と同時に温室村では、ぼつぼつ温室を売る人が現われてきた。労力の不足と、切花需要の減少は勿論のこと、食糧生産の絶対命令が除々に浸透して来たためであった。昭和十九年、竜一氏の所にも召集令が下り、横浜の照空隊に入隊された。そのために、温室も半分の坪数に減らし、他は解体売却したそうである。残した温室で野菜苗を栽培して、供出の形で販売し、空地は余す所なく自家用食糧を作った。いずこも同じ非常時突破態勢も、戦況の悪化につれて気力の喪失が目立って来たようであった。

 入隊後一ヶ年で終戦となり、無事復帰されたことは、敗戦の悲しみの中にも、幸わせを感じた一時であったと思う。

 終戦後、しばらくは不安定の時期であり、落着いて花を作る心境にはなれなかったのであったが、進駐軍関係の切花需要が多くなり、特に洋花は急激に市価の上昇を示してきた。そこで氏の所でも残存の温室を利用してカーネーション栽培の復活を計った。苗は僅かに残しておいた株から丹念に育て、同業者からも分けて貰い。何とか三百坪の温室にカーネションを定植することが出来たのであった。 昭和二十三年頃から、二十八年頃までは東京の花卉生産者にとっては黄金時代であったと思う。カーネーションの場合でも、一坪一万円の収入が普通であり、洋菊なども一本百円位に売れた時代であった。所が、三十五年頃から、地方の花卉生産が急激に伸びて、東京市場に出荷されるようになって来た。特にカーネーションの場合は、送り荷としても割合に傷みは少なく、水揚げもよかったので、地元産と大差ない価格で取引きされた。

 このような状態で地元生産品はぢりぢりと地方物に圧迫され、一坪一万円の収入のあったカーネーションも五千円~七千円位に低下し、今後の経営に一抹の不安を生じて来たのであった。

 こうした折も折、父君卓一氏は病魔におそわれ、昭和二十九年、六十七才をもって不帰の客となってしまった。竜一氏はもとより、一家は悲しみのどん底に陥入った。六十七才とはいいながら、まだまだ充分働く意志をもっておられた筈であるが、天命ともなれば人力の及ぶ所ではなく、遂に五十年近い「園芸人」として日本のカーネーション栽培を開拓した、その輝しい人生を閉じたのであった。

 其の後、竜一氏は父君の意志を継いで、カーネーション栽培を続けたのであったが、地方の大量生産が年毎に増加すると共に、品質の点に於ても地元品に劣らぬ優れたものが生産されるようになって来たのである。

 当時、ばら切花が人気があり、切花界の王座を占める感があった。昭和三十八年、犬塚氏も三百坪全部ばらに切換える勇断(?)を敢えて実行したのである。併し、カーネーションと「ばら」は全然異質の花であり、その栽培管理の面にも大きな差異があった。燃料費の増加に比例して、切花本数は少なかった。調子の悪くなる時は何をやってもうまく行かない時があるもので、犬塚氏のばら栽培も完全に失敗だったようである。

 この頃、観葉植物が一寸したブームを呼んでいた。世田谷の園芸が殆んど頭打ちの形になっていたので、誰しも何かに活路を見出そうと努力していたのであった。氏も温室の一部を観葉植物に切りかえ、アイビー、ポトスなどを中心として(何れもヘゴ付き)、其の他二、三種を栽培した。元来、地元園芸家の生産品は、その仕上げが垢抜けしているので、当然市場人気はあったのであるが、名古屋を中心とした愛知県の観葉植物生産は群を抜き、従ってこれらに圧倒され勝ちなのは止むを得なかった。只、こうした状態にいつまで堪えられるかが問題であろうと思う。

 犬塚氏もこの事は充分理解した上で、現在尚観葉を栽培しておられるのであるが、既に温室の坪数も減少し、栽培数量も少なくなっているように感じたのであった。 

 後継者を持たない氏は(長男の方はサラリーマン)父君の遺された温室の存続する限り園芸を続けられる意志をもっておられる様子であり、観音竹、シュロ竹、サンセビラ、その他の観葉植物の栽培を続けておられる。

 帰りに昔のボイラーを見せて頂いた。五百坪の温室を温たためたこの巨大なボイラーは一晩に石炭一トン、燃やしつづけたのであった。

住所 大田区田園調布七の四五

電話 七二一‐三〇四二



伊藤東一先生を偲ぶ


 私は昭和の初期から、世田谷で園芸を営みながら、温室村に四十年間もの長い間、草花研究に余念のなかった、伊藤先生を知る機会を得なかった事を、今更の如く残念に思うのであった。今回、この記録を綴づることになり、今は亡き先生の事蹟について、是非、知っておく必要に迫られたのであるが、どなたにお尋ねしてよいか見当もつかなかった。幸い園芸学校の卒業生で、現在、元住吉で園芸を営んでおられる田地良男氏が、先生の下で四年間研究生として働いておられたそうで、先ず、その頃のお話しをおききする事にした。尚、昭和十二年から、十四年まで先生の所で、主として種苗販売の方を手伝っておられた水沢氏を、田園都市線、鷲沼のお宅に伺って、当時の模様をおききすることが出来た。この二人の話を綜合して、東光ナーセリーのあらましを述べて、この項をまとめたいと思う。


 伊藤先生は岐阜県人、千葉高等園芸学佼を卒業後、わずかの間であったが、福島、木曾山林学校に在職された事があった。その後、当時蒲田にあった、湯浅四郎氏経営の農産商会農場に入社、ここで生産園芸とそれに伴う営業面の知識を会得されたものと思われる。昭和初期、池上の堤方に農園をもって独立、種苗生産を目的とした園芸をはじめられた。その頃、鈴木吉五郎氏と知り合い、たまたまお尋ねした所、高砂百合という珍らしい百合を見せてもらい、「実生から約十ヶ月位で開花する性質をもち、原産は台湾で採種も容易である」との説明をきき非常な好奇心を湧かしたのであった。

 先生はかつて製糖会社に勤務し、台湾にも居られた事があり、早速、知人に依頼して高砂百合の種子を送ってもらうことにした。果してどの位の種子が送られて来たのか分らないが、それを小袋に詰めて業者に分譲したのであった。その時の価格は、「高砂百合の種子の目方は当時の十円札の目方より軽るかった」と自慢気に話されたそうである(水沢氏のお話)。このことによって、いかに高価に取引きされたかがうかがえると思う。

 昭和三、四年頃、田園調布の温室村に農場を作り、温室百二十坪、附属圃場も相当借用して、園芸部門では最も高等技術を要する品種改良と、それに伴う販売を目的とした経営をはじめられた。「東光ナーセリー」の園名を用い、国内産の草花でも比較的高級品種を対象とし、「育種、苗の生産販売」と巾広い園芸であった。特に、アメリカ、イギリスなどから、未だ国内では開発されていない種類を集め、それらの、育苗試作、或は交配による、品種改良など、先生独特の勘と知識を思う存分発揮されたのであった。こうして育てられた草花は一応その価値を知る必要があり、市場にも出荷し生花商の評価を求めた。これによって生産価値のあるものは、どんどん繁殖して、園芸商や栽培者に販売した。東光ナーセリーの経営内容は、このように多様化の中に合理性をも包含しており、万全の構えであったように思われる。当時、各所で催うされていた園芸市では、常にその取引高に於ては首位を占めていたそうである。

 その頃、自動車の未だ普及されていない時代に早くも、伊藤先生は中古車を買入れ、走り廻っていた。但し、運転技術はあまりほめたものでなく、曲り角にあった岸さんと云う家の塀に打突けたり、門を傷つけたりするので、当家ではエンジンの音を聞くと、急いで防御態勢を講じたと云う。こんな調子で自動車にも自信がもてなくなり、売却してしまったそうである(田地氏のお話)。

 水沢氏の働いておられた、昭和十二年頃は種苗生産が盛んで、三越、千疋屋、横浜植木、東洋園芸などに卸していた。アスチルベ、スズラン、アスパラガス、秋の七草のセット、カーネーション苗のセットなど、新しい工夫をこらして、販路を拡張したのであった。カーネーション苗は、外国種は自園で苗作りをし、一般品種は、温室村の同業者から挿芽を求めていた。夕方、切花のおわった頃を見計らい毎日のように、かき落した芽を集めに歩いたそうである。何がしかの芽代を払い、それを苗床で育てて売ったのであった。

 当時、ここで品種改良されていたものは、菊、カーネーション、水仙、花菖蒲などであり、ストレリチヤーの実生も行っていた。また、夕ぎり草の種子を輸入し、苗を作って販売した。その頃は未だ、採種の容易であることは 一般には知られておらず、東光ナーセリー独占であったようである。尚、園芸用器具の発明にも興味をもち、移植用器具、或は、水栽用グラスなどで新案特許をとり、ナースと呼ばれる水栽用肥料も発明されたと云う。園芸家には珍らしい多才の持主でもあった。

 田地氏が、東光ナーセリーに研究生として入園されたのは昭和二十九年であり、押田成夫氏もここで働いておられたそうである。その頃は、ダリヤ、アマリリス、花菖蒲、ばら、カーネーションなどを栽培し、特に花菖蒲には異状なまでの愛着をもって、品種改良と、利用の拡大に晩年の精魂を打ち込んでおられた。尚、伊藤先生は多くの園芸団体の指導者として活躍されており、特に、日本花菖蒲協会、園芸文化協会、日本菊花協会などの発展に協力、私財を投じてその育成に尽力して来られたのであった。

 こうして、わが国園芸文化の面に大きな功績を残し、更に雄大な理想に燃え、未だ欧米諸国に劣る日本の園芸開発に多くの夢を抱きながら昭和三十年四月病魔に冒され、僅か三ヶ月の病臥のうちに他界された事は、園芸界にとって大きな損害であったと思う。

 特に心に残された事は、京王百花園の菖蒲園開設の事であったろうと思われる。昭和二十九年頃よりこの問題について、京王電鉄との話し合いが進んでおり、三十年の六月には開園の予定であった。所が不幸にして先生の病臥する所となり、関係者一同、悲壮な面持ちで仕事を進めたのである。幸いにして社長三宮四郎氏の理解ある助力と協会理事者の懸命な努力によって予定通り進行し、先生の所にあった花菖蒲を運んで植込みをはじめたのであった。恩師を失った押田氏と田地氏は、悲しみの中で何としても先生の意志を継いで、菖蒲園の完成に協力しなければならんので、昼夜を分たぬ努力を続けたのであった。

 圃場に残された植物なども、坂田商会が全部ゆずってほしいと申込まれたのであったが、先生の意志でもあったか、それを断り、大半は百花園に移された。まだまだ色々な草花が残されていたが、殆んど消滅してしまったそうである。先生は非常に記憶力が強かった為めか、植物の台帳とも云うべき記録とか、正確なラベルなど、あまり重要視されなかったと見え、逝去後、植物の整理をしようにも、その手がかりとなるものが見つからなくて弱ったと、田地氏が述懐されている。

 先生の花菖蒲は愛好家仲間では定評があり、多くの新品種も発表されており、これは日本の誇りうる唯一の花であると自負していた。ただ、惜しむらくは、花期の短い事である。これを少しでも長い期間、花を咲かせたいものと念願し、研究に研究を重ねた結果、これの抑制栽培法が発見され、昭和二十五年、方法特許第一号として発表されたのであった。この方法によると、九月頃まで順次花を楽しめるそうである(冷蔵処理法)。

 更に特筆すべき事柄は、先生の改良された菊の新品種(品種名不明)が伊太利、ローマで開かれた、世界菊花新品種コンクールで、金賞を獲得した事であろう(一九五八年)これが先生の亡くなられた直後、その報らせが入ったのであったが、今、半年早く分っていたら、どんなに喜こばれた事であったろう。惜しいことに品種の確認が出来ず、残念であるとの事であった(田地氏語る)。

 日本でこの賞を得た人は三人いるそうで、一人は榎本金松氏であり、伊藤先生とで二人、あとの一人は誰であろうか。尚、米国、シヤートル市で開かれた、万国菊花大会に、日本菊花会の名で、先生作出の菊を出品され、ブルーリボン賞を授与された、という話もきいているが、前者と後者との関係については私自身もはっきりしないのである。

 伊藤先生の歩んでこられた園芸の道は、あくことなき、品種改良の顧望であり、それによって欧米に劣る日本の園芸文化を高めようとする情熱であった。この反面、合理性を重んじ、徒らな妥協や情実は許さない、と云う信条に似たようなものを持たれていたと思われる。併し晩年の先生は、私欲を離れ、花を植えることによって、都市美化、乃至は全国土の美化を希っておられたように感ぜられるのである。

 最後に、伊藤先生の発表された草花の新品種の二、三を挙げておわりとしたい。


菊の部

東の光、東光の調べ、香雪、うてな、三色光、東天光、白眉。

ダリヤの部

東光冠、赫躍、玉盃。

グラジオラスの部

ピエロ、花奴、紅胡蝶、東京の夢。

水仙の部

夢、金華山、菊水、白竜、曙、極光。

花菖蒲の部

夕富士、磯紫、友桓、富士、海螢、祥瑞、東京四号、内裏。


 この稿を起草するについて、日本花菖蒲協会発行第十五号を参考にしたことにつき同協会諸賢の御諒承を乞


住所  大田区田園調布

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