日本人の園芸能力はすごかった  昭和一四年、カリフォルニア州の園芸界を一年半かけて視察した人の話

 

『実際園芸』25巻5号 昭和14年5月号

アメリカ、カリフォルニア州の園芸業界視察レポート 滞在一年半に見聞きしたこと

※現在では不適切とも思われる表現がありますが、そのまま掲載します。日中戦争が泥沼化するなか、日本国はドイツ、イタリアと枢軸国の同盟を結んでおり、連合国との対立が深まっています。昭和一六年の日米開戦の二年前の情況であることを前提に読むことが重要です。排日の情況は明治30年代からずっとあるのであって、日系人第一世代はその現実のなかで翻弄されながら地位を築き、二世はアメリカ人でありながら、さまざまに差別を受けて生活をしていました。それでもカリフォルニア州ではたくさんの日系人が園芸に関わる仕事をしており、庭の仕事にしろ、農産物の生産にしろ、いずれも高い品質を誇り、つつましくもひたむきに暮らしていたのです。


垣本勇さん(元・東京農産商会蒲田農場主任)の土産話


加州の花卉栽培の進歩振り


 久しく東京農産商会の農場におって球根や一般花卉に造詣の深い垣本さんが一昨年六月に、同氏の厳父(※実の父親)が大規模に花卉栽培をやって居られる加州の園芸場に行かれ、加州の花卉栽培について視察をして四月一日にお帰りになられたので、大日本園芸組合有志主催の下に四月十日午後六時より新橋東洋軒に於て視察談を聞く会が催されたのでその時のお話の大要をここに御紹介します。垣本さんのように十分知識経験を有する方の眼に映じたアメリカの花卉園芸談こそ貴重なものである。


▼日本人園芸家の発展振り


 私は一昨年の六月に花卉園芸視察の目的で米国に渡り、一年半に亘って各地を視察して四月一日に日本に帰着したのであるが、その間の私の見たままをお話しよう。

 米国と言っても私の行ったのは加州だけであるが、花卉栽培の中心地であるサンフランシスコとロサンゼルスの附近には久しく滞在して出来るだけよく見たのであるが、何分栽培家の間をみて歩くと言っても、日本とは一寸勝手が違って歩いて見に行くというわけには行かない。道路はよく出来ているが自動車を持っていないと、どうにもならないところである。

 向うに行って驚いた事は、米国の花卉栽培は断然日本人が優勢な事で、絶対的の勢力を持っている事には非常に力強く思った日本人のガーデナーが多く、その活動は全く想像以上で実に愉快に感じた。しかし、今日の花卉園芸に於ける日本人の地位を築いたのは偶然ではなく、多年白人の迫害を受けて、血と汗の結晶が今日をなした事を銘記しなければならないと思う。

 日本人についではイタリー人が多く、次にドイツ人で防共三国人が北米の花卉栽培を牛耳っていると考えると愉快である。日本人の北米に於ける仕事で、白人と対抗してやって、しかも白人を圧迫しているのは花卉栽培だけで、他の事業はそれ程に行っていない。例えば、果樹園の如きは思わしくないようである。

 サンフランシスコには大きな花市場があるが、これが二つに仕切られていて、一方が日本人のマーケットで他がイタリー人、ドイツ人、極一部が支那人のマ―ケットという様になっているが、私も二通りマーケットを廻って見たが、日本人のマーケットは温室栽培の高級な切花が主で、例えばカーネーション、バラ、スナッブドラゴン、フリージヤ、ガーデニア(くちなし)等が主であるが、隣りの外人の方を見ると、俗に野花(のばな)と称しているが、夏ならダリヤとかグラヂオラスとかクリサンセマム、パンジー等のありふれたもの許りである。ところが支那人は夏にアスター、冬に菊を作る位で高級ものは日本人だけである

※サンフランシスコの花市場設立の動きはまず大地震のあった1906年にできた加州花卉栽培業組合がもととなり、堂本兄弟らの尽力によって1909年にその第一歩を踏み出した。震災後に生産者を中心に市場ができた、というのは、のちの日本の花業界も同様の歩みをみせているのが興味深い。(参考:『加州日本人花園業発達史』p60)

 また、ロスアンゼルスにも三つか四つの大きいマーケットがあるが、その内断然大きいのは日本人だけでやっている、南加の市場は段備は至れり盡せりで、図書室もあれば、研究室、化粧室等は二階になっていて下が市場になっている。しかし。南加は暖いので温室は少いが冬から春にかけてはよいものが出て来る。殊に日立ってよいと思ったのはストック、ラナンキュラス、露地のカーネーションをはじめあらゆるものが作られていて五十種から百種に達していると思う。

 嬉しい事は、ラナンキュラスにしてもアネモネ、ストックにしてもナンバーワンの品物を出すのはすべて日本人で、ただ蘭だけは白人が大きな温室で立派にやっている。それは大規模な温室の設備が必要なので、資本の関係から日本人が劣っているらしく、他のものは日本人がすべて絶対的である



加州の花業者の本には垣本盛樹という人物が掲載されている。
原籍は愛媛県松山市木屋町で1908年に渡米し1911年に創業とある。
扱っていたのは球根物その他雑種を栽培。
所在地はサンマテオ郡 Half Moon Bayハウフムウンベイ
『加州日本人花園業発達史』1929年 加州花卉市場株式会社(桑港)



▼ジャパニーズ・バーバンク


 全体から見た花の種類としては、日本と大差がない。つまり日本でやっているものは大抵向うでも作っているし、向うで盛んに作っているものは日本でも作っている。却って日本の方が種類が多いかと思われる位であるが、しかし品種としては向うの方が断然進んでいるのが多い。ところが一般の栽培家は品種の系統というものを知らない自分が説明してやったら、驚いていた位である。然し一つ一つの花について、丹念に種子を選別して立派なものを作っているのには驚いた。南加で一番永くいたのは横溝さんという方であるが、この方は体も小さく健康も丈夫という方ではなく、一時は肺結核で絶望と迄言われた方だそうですが、或る時種子屋さんが庭先にラナンキュラスを播いて行ってくれた。それを改良に改良を加えて素張らしい巨大輪なものを作り出して居り、南加ではジャバニース・バーバンクの名がある位で、自分も数ヶ月その仕事を手伝わせてもらったが、花の極大きいのになると花弁数が四百程に達していたラナンキュラスの八重咲で相当の大輸で重ねの多いのを数えて見ても百枚位で、二百弁もあると相当に重ねが多い、が四百弁に至っては、一寸想像がつかぬ位の巨大輪咲であった。しかし、自分の目撃したのは四百弁であるが五百弁からのものもあるという事であった。原種は五弁であったものが五百弁にまで変化したのには驚くの外はない。これは最も優れたものであるがその他菊でも、アネモネでもスナップドラゴンでも日本人の改良したものが多い

 昨年日本に引きあげた方で金魚草を七ヶ年かかって改良したもので米国一の評を得たものを作っておられた方がおったが、非常に高い権利で人に譲ったという事を聞いた。また増子さんという方で、花径十八吋もあるアネモネの改良種を作っていた方があった。かくして本来の日本人園芸家が栽培の技術に於ても、品種の改良に於ても断然米国人を圧して第一線的の地位を獲得して居られるが、それだけの時間の余裕があってやっているのかというと決してそうではなく、内地の園芸家などに比べるとお話にならぬ程の忙わしい中にあって努力の結晶に依って、それだけの品種改良をやっているのであって、主婦などは実によく働いているのを見たが、これ等の事実を目撃しても、品種改良という事を奨励するだけではいけない。各自が努力に依って夫れ丈の成果を得るまでに行かなければ何にもならないと思っている。


▼植物特許とはどんな方法か


 一方に米国には植物の専売特許というものがあって、苦心して改良したものは、その苦心が法律に依って保護される事になっているから、品種改良も努力のかいがある。ここで特許のお話を一寸申し上げると、 米国で一番特許数の多いのはバラで三百位はある。その他カーネーション、フリージア、パンジー等あらゆる植物に及んでいるが、バラでは赤系のものが多い。最近バター・タイムスという品種が特許になっているが、そのパテントプランツの苗を買うた人は繁殖したものを報告する、そうすると一本につき十七セントの税金をおさめる事になっている。その外に栽培の手間をかけると十六セントはかかるので結局は作出者以外の人が育苗をしても採算のとれない結果になっているようである。またこの特許植物を内密に繁殖をして販売した事が知れると莫大な罰金を取られるから、皆特許植物という事を知ると、苗を必要以外は焼き捨てるようにしている。菊作りでは渋谷さんが全米第一であるが矢張り特許植物を持つていられる。この渋谷さんは菊専門の実生家での大成功者で、日本人園芸家中でもナンバーワンの方である。※横溝守三(南加)、増子仁(南加)、渋谷良弼氏(北加)か?『南加花商組合史』『加州日本人花園業発達史』

 前にも述べた様に、アメリカ加州の花卉園芸は、日本人の園芸である事は実に心強い極みで、日本人程園芸に特技を持っている国民は諸外国にはないという事が米国ではハッキリと判っている。園芸許りでない、日本人が優秀な民族であるという事がハッキリと判る。第一アメリカの小学校で一番から十番位迄はどこの小学校に行っても必ず日本人が占めている。それが秀才かというと決してそうでない、普通の脳の日本人であるから実に心強い。そこで日本人がこわいから排日などという事が起ったものと想像されるのである。


サンフランシスコの花市場 外観  ※ロサンゼルスにも日本人経営の市場がある


サンフランシスコの花市場の内部のようす
『加州日本人花園業発達史』1929年 加州花卉市場株式会社(桑港)

たくさんの大輪菊があつまっている


▼国境を越えての日本魂


したがって日本人の園芸家が迫害を受けた事も一通りでなかったそうで、例えば、北川という人がガーデニア(くちなし)の切花では米国第一キッテー氏のガーデニアと言って一日五百ドル位ナンバーワンの品物を出しているので白人がスッカリ恐れをなして、マーケットで白人の作った三、四流の品物に北川氏のマークをつけてキッテーのガーデニアは悪いという宣伝をした、ところが北川氏も負けぬ気の人であったからそれを逆に利用してキッテーのガーデニアは安いという宣伝をして、白人の品物を圧倒した事があったが、そういう事は非常に多く、先覚者の苦心の程は並大抵ではなかった様である。ガーデニアは日本では作らないが先方では、花だけを切って、コルサージブケーに使うもので、非常に沢山に作られて値段も相当に高いものである。品種としてはミストリー、チャナー、ハワイヤンジャスミンという様なものが作られている。

 また苺の栽培にかけても、日本人が第一で、非常に広大なる面積をやっているが、畑を何千エーカーという面積を平らにして、所謂段畑にしているが、このあぜをつくる事が外人には出来ないので、日本人の特技になつているようである。それから米作(べいさく)などは何百エーカーとやっているのだから飛行機で種子をぶりまいて雑草が生えると、二三回その間を倒して行くだけで日本の様に雨が降らないから雑草で困らないようである。

(談、文責編者)


この号 『実際園芸』25巻5号 昭和14年5月号 の裏表紙、

『科学画報』誠文堂新光社 の広告に

「ウラニウムの原子核分裂」の見出しがある。



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