戦前日本の植物輸出で最大の品目であった百合根、その大半をしめたテッポウユリ球根は大田区蒲田で栽培されていた「徳兵衛」氏のものがきっかけ


 鈴木一郎『百合根貿易の歴史』昭和46(1971)年


p20

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 ヤマユリについでテッポウユリの栽培が開始されたのであるが、これは明治24(※1891)年、横浜杉田村に居住していたユリの仲買人の間辺銀蔵東京府下蒲田に花園をひらいていた、通称徳兵衛という人からテッポウユリの球根を輸入して栽培をはじめたのが最初であるともいわれている。しかし、前記の鈴木清吉横浜日下村関に栽培をはじめたのが輸出用テッポウユリ栽培のはじまりではないかと考えられる。これについで、横浜中原の黒川銀蔵、横浜日下村の田野井利八郎一族が漸次多量に栽培をはじめ、その中から柳葉種(※早生種)が選別されたのである。

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※この柳葉種ものちに「黒軸種」へと変遷していく。

※間辺銀蔵や鈴木清吉らはアイザック・バンディング(百番)に贔屓にされていたという

※ボーマー商会を引き継いだフルトン氏は、大正時代に第一次大戦が勃発し、日独が敵対する関係になったため、ボーマーというドイツ人の名前をロバート・フルトン商会に改名したのだという。このロバート・フルトン商会もほどなく閉じてしまい、28番の歴史を終え、日本人だけによる輸出時代となった。

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