【堂本兄弟】 堂本誉之進、兼太郎兄弟を語らずして、カリフォルニアの日本人による花園業を語ることはできません

 

『加州日本人花園業発達史』1928から

※堂本兄弟の名前の読み方について 誉之進 Takanoshin、兼太郎 Kentaro、元之進 Motonoshin、光之進 Mitsunoshin とのこと。 

『Living with Flowers: the California Flower Market History   Hana to Tomo Ni 』  Kawaguchi, Gary 1993


……堂本兄弟……


 花園業者の元祖は吉池寛翁でありますが、植木業の元祖は堂本兄弟であります。

 吉池氏は早く花園業を退かれ他の事業に転ぜられましたが、堂本兄弟は今日盛大に花園業を営み沿岸屈指の成功者として、又花園業者の先輩として尊敬せられ、中外に名を知られて居るのであります。

 堂本誉之進(※たかのしん)と弟兼太郎(※けんたろう)の両氏は明治十七(※1884)年十一月十八日、英船オセアニック号にて、桑港(※サンフランシスコ)に上陸したのであります。

 郷里は和歌山県那賀郡田中村大字東大井、家は村では古い農家で門閥家ではありましたが、維新以来の社会の変遷に依り、彼等が物心地つく頃には家運あまり豊かでなく、誉之進を頭として七人の小供を持って居た彼等の父は、逆境を辿りつつあったのでありました。

 誉之進氏は一日米国に遊学しつつありし同郷の先輩、三谷幸吉郎氏の宅に於て、米国は修学と労働、両(ふた)つ乍ら有望なる新天地なる由を聞き、少年血気の彼は勇躍措く能わず、奮然渡米を決心し、兼太郎氏と計って、少し許りの旅費を作り雄々しくも故郷を去ったのであります。

 時に兄は二十歳、弟十六歳の少年でありました。

 堂本兄弟は桑港に上陸するや、同郷の先輩三谷幸吉郎氏を頼りて、下町ゴールデンゲート・アベニュウにありし福音会を尋ね、誉之進は先づエディ街のゴールデンステートハウスなる下宿屋のヂャニター(※janitor玄関番)となり、兼大郎はスクウルボーイとして白人家庭に入り、米国生活を始めたのであります。

 兄弟は健康なる体躯の持主として、今日まで、あらゆる困苦を凌いで来ましたが、彼等の美点として世に誇るべきは実に堅忍と質素であります。

 誉之進氏のゴールデンゲートハウス生活は、実に十五年も続きました。そしてその間に持主が五人も代りましたが、彼はいつも忠実正直に働いたので、仕事の上では主人よりも権威があったのでした。

 最初三弗の週給で、終日掃除から、来客のアッテンドから、ブレーンクック(

plain cook 普通の料理をいろいろ作ることはできるが、特に専門的な知識や技術を持たない料理人のこと)までし、その働き振りには全く白人を感動せしめ、五四年後には一週十弗という、其頃ヂャニタアとしては破格の給金を貰う様になり、兼太郎氏等の花園業の資金を貢ぐ為め、其後十五年の間、打っ通しに働き続け、旁ら進歩的なる頭脳を働かして、将来大々的に日米貿易を試みんと準備と研究に怠りなかったので した。

 一方兼太郎氏は、スクルボーイ生活を為しつつ、英語を学び、学校を終えてから一人前の仕事をしました。

 スートロパーク(※Sutro Heights Parkと思われる)ガアデンウォウク(garden work)をなし、ある時はシヤトル辺へ伐木仕事に赴いむいたりして、中々烈しい労働を続けましたが、彼が植木業に着目した動機は、スートロパークで、デイウォク(※day work)をして居た時分にあります。この頃は十時間働きの最高賃金一弗位とても仕事はハードであったと云うことです。

 兼太郎氏が兄誉之進氏を説いて、初めて花園業に志したのは、明治十八年十二月頃で、場所は、オークランド市第三街とグロウブ(※grove?)街附近の空地で菊作りやカアネーション栽培を始め、追々、椿、藤、万両など各種の植木類を見本的に日本から直輸入を始め、昼は大部分デイウォクをし、余った時間に植木や花園の手入を為し、夜は露店を張り、慘譫たる苦心をして根限り働き抜き、最初はめくら減法の手探り式の商売をして居たもので、行商もしたり、寝る間もない位苦労をしたものでありました。

 当時王府(※オークランド)は人口約四万足らずの小都会で、寂しくてワイルドなこと、今日の立派な街を見て回顧すれば夢の様であると云って居られます。

 日本人は当時桑港湾東共合計漸く七十五余名に過ぎず、血気盛んな青年が大部分でした。

 堂本兄弟の植木屋商売は日増しに盛んになり、有望なる数百種の植木類を便船毎に日本より取寄せ、百合球根の如き一時は独占的の商売をしたものであります。

 誉之進氏はヂアニター生活を続けて、兼太郎氏の植木花園業の資金を扶けて居りましたが、商業貿易方面の天才を発揮して、進取的の経路を取り今日も猶お北米貿易株式会社の社長として同社創立以来日米貿易の先駆者として在留同胞の元老として重きをなし、兼太郎氏は園芸方面に没頭して改良進歩を計り明治二十年には次弟元之進を、二十三年には更に弟光之進を日本より呼寄せ、兄弟一団となりて心を合せ働き続け、花園業者の古参成功者として、尊敬せらるる丈の徳望を有し、堂本花園の名声は欧米の同業者に普く知られて居るのであります。

 彼等はパイオニアとして種々なることを試み、後輩に範を垂れて居ると同時に、様々の苦しい経験や失敗を味って吾等に足跡を残して呉れて居ります。

 堂本兄弟の最初に借地せる王府第三街とグロウブ街角の花園は事業の発展と共に手狭となり、一八九三年(明治廿三年)には、王府セントラルアベニウ(現今五十五街)に二英加(※エーカー)の土地を買収して花園を作り、初めて住宅を建てました。之が加州で日本人が農業用の土地を買収した最初で、その後二年目に、更に隣接地二英加を買い足し、四英加の大花園となり、温室を建て、菊、ロウズ、カアネーション、椿、百合等を栽培し、植木類も盛んに日本より輸入し、卸売をも初め、多大の利益を得、事業順調に発展しました。

 誉之進氏は今日でも堂本兄弟花園の出資者の一人になりて、財的方面に最も大なる助力をして来ましたが、自己の目的たる商業貿易方面へ夙に岐れ、兼太郎氏は他の二弟元之進(もとのしん)、光之進(みつのしん)等と共に花園を続けて居ます。

 現今、桑港第五街の卸売部は元之進氏が専ら、経営の任に当られて居ります。光之進氏は惜しいかな先年病死せられました。 一九〇四年には、現今の王府クラウス街に移り、三十五英加の土地を買収して大拡張を行い、菊、カアネション、百合、チュリップ其他温室及野外の切花及びあらゆる種類の植木を網羅し一時は四十余英加に増加し、販路は全米、欧州に亘り、大平洋岸屈指の大花園として有名であります。

 現今にては、附近が市街地として追々発展し来たる為、以前よりは面積を縮少しては居りますが、土地価格の騰貴に依る財産の増洳は大したものであります。

 在米日本人の植木業の元祖として堂本兄弟商会は、明治二十九年に、桑港オフワレル街のテイラア街近くに店舗を設け、植木の他に二年後には在留同胞へ供給する食料雑貨輸入商を主として営み、誉之進氏が経営し、その後一九〇六年(明治三十九年)桑港大震災の年、北米貿易株式会社を創立し、堂本兄弟商会、駒田商会、及国産社、神川商店の四商店合同し、今日迄社長の地位にあります。

 誉之進氏は進取的の貿易業者として、日米貿易に貢献せる功績は多大であり、兼太郎氏は元之進氏と共に、悠々迫らず、終始園芸業に没頭し後輩に範を垂れ内外より、尊敬せられております。

 兼太郎氏の長男統一君は、スタンフォド大学及東部の大学に於て園芸を専修し、園芸上の造詣と手腕は立派なもので、第二世の模範青年として有為なる前途を嘱目せられております。

 堂本兄弟を語らずして、加州同胞花園業の初期時代を知ることは出来ないのであります。

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