風流一生涯 西川一草亭のこと
● 西川一草亭 『盆庭と盆石』創亓社 1936 から
● 藤浪和子 西川一草亭先生 『新文明』 12(11) 1962年11月号
※藤浪和子(物集和子 1888~1979) 小説家。 青鞜社設立発起人の一人だが挫折のため青鞜社については生涯ほとんど語らなかったという。父親は国文学者の物集高見、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。夏目漱石に師事しもの書き修業をした。
● 小原豊雲 『花道周辺』 1950から
西川一草亭のこと
故西川一草亭は、大正の末から昭和にかけて大きい足跡を遺した花道人であった。例の「牡丹切って一草亭をまつ日かな」の句を夏目漱石が作ったのは、この人の名を世に高からしめているが、それよりも、世の多くの芸術家や財界人とも交り、それらに伍す位置を示したのは、新しい驚きを世に与えた。他の花道家との交りはなく、云はゞ別格のようなものであったが、それでいて花道そのものゝ位置を社会的に定めた功績は大きい。
その花展は、京阪神の大邸宅をかりてよく行はれたが、百貨店を用いて行はれる花展とは別の趣きのものであった。その行き方は、今日に行はれている新しい花の創作というよりも、いけ花の中に流れてゐる精神をつかみ、それを新しい時代の生活に生かさうとしたものである。又、これによって、いけ花の趣味を深めて味はせる役割を果した。さう云ふ精神的意味でいけ花を普及した人であった。
この西川氏の活動があった時、その反面に、吾々は、作品としての新しい花の研究をすゝめていたのである。何れにしても、その仕事は、現代花道の動きにとって大きいプラスであった。近世にあってはとにかく西川さんである。
その西川一草亭さんがなくなった時は、未だ二代の在世中であったが、私はその意をうけて弔意を表しに京都までいった。生前に直接の交際があったわけではないが、その死を悼んで態々弔意を表したのである。その時も、あれだけ社会的に活動していた人であるから、葬式は定めて盛大なものであらうと予想していたが、家の中に這入ると、何も特別のものはなく、床の間には、故人の絶筆であった「風流之人」といふ一行がかゝり、それに、白いアマリリスの花が僅かに手向けられていたのみである。葬儀の形式も、普通のお焼香ではなく、一輪の花を霊前に捧げる方法であった。会葬の人々は、新しい手桶の中に入れられている花の中から、一つの枝を選び、それを霊前に捧げるのだが、その手桶の中に、水々しく浸ってゐた青い葉の色が今も私に思い出される。
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先日名古屋にいって一泊した時、相当年配の女の人が給仕をしてくれたが、話のついでに、今日は私の踊を見て貰いませうという事になった。それを見ると如何にもうまい。それに感心して旅の一夜を心持よく過したのだが、後できくと、その人が長吉ねえさんと云って西川流の名手であることがわかった。私はそんなことは知らなかったが、何れの道でも、一つの芸に撤した心持には感銘をうける。後でもその人に会って、色々の話をきいたが、こんな話をした。或時一寸外出した所、知った人に会って、これから信貴山参りをするので、一緒に来ないかと誘はれた。因よりそんな心持で外に出たのではないが、とにかく行くことになって、信貴山参りをしたが、帰りに一寸寄っていかうというので、大阪の南地へいった。そこで、踊を見せて呉れとの事になったが、今日は練習をしていないので骨がかたくなっているからと辞退したと云う。名だたるその道の人であるので、何時でも踊ってよいわけであるが、細い所に気をつけてゐるその気質に私は感心した。
と云い乍らも、是非にと云はれて、他人の衣裳をかりて踊ったというが、その南地で思い出すのは、富田屋の八千代という名妓がいたことである。少し年配の人ならその嬌名を記憶してゐるであらうが、この八千代には、有名にもなるだけ、他の人とは違った心得があった。譬へば他の芸者であれば、人力車などに乗って外に出る時、如何にも澄した顔をしているのが普通であるが、この人は「あれが八千代だ」と町の人から云はれる時、俥の上から、会釈をして通ったという。それは容易に出来るようで出来ない素直な心である。この心持が、自ら高しとするよりも、自然に他からその名をうたはれる原因であった。
この八千代が後に菅楯彦氏の夫人になったのは有名な話でめる。その菅氏にも私はある席であったが、人間として如何にも温い感じがする人であった。
この菅氏の夫人になった八千代も今は亡き人になったが、その死ぬ時には、菅氏に遺言して、「死顔を決して人に見せて下さいますな」と云ったという。世に美しさを謳はれた人の最後の言葉として、流石に艶深い。
●幸田露伴 一瓶の中 (最後の部分) 『一瓶の中』1948から