「生花我観」 西川一草亭 昭和10(1935)年 高等女学校の「国語」の教科書に載った一草亭の随筆




 

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『茶心花語 : 茶の話・華の話』 西川一草亭 実業之日本社 昭和6(1931)年

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「生花我観」 西川一草亭


省労抄 : 純正女子国語読本参考書 巻6 五十嵐力 監修 早稲田大学出版部 昭和10(1935)年 から


 日本の生花に取って第一の命ともいうべきは枝振を生かすことである。この枝振が善いか悪いか、それから枝の布置配位号が面白いか面白くないか、これがあらゆる生花の高下優劣を判断する最高の標準で、この点に於いては抛入(なげいれ)も立花(りっか)も更に違うところがない。


 枝振にはリズムがある。そしてそれを見る人に音楽的な快感を与え同時に日本画の筆勢を味わわせる。これは西洋の草花にはほとんどないことで、もともと日本人の自然に対する趣味の教養から来たことであり、殊に日本画の影響から来た結果であるが、これと共に見逃すことの出来ないのは日本の植物が天性曲折に富んでいることで、もしあの二三尺の小枝までが、変化に富んだ風流な姿態を見せて、我々に花道の極意の暗示を与えることがなかったならば、またもし日本の植物が、西洋の植物に見るように、ヒマラヤ杉やポプラのような物ばかりであったならばいくら日本人でもあの生花(いけばな)のような特殊芸術を思いつくことは出来なかったであろう。

 アメリカ人で花の稽古を始めた棒の夫人が、「せっかく花を習っても、私の国には日本のような面白い枝振の木がありません。いくら花菖蒲や百合の類はあっても、木物がなくては駄目ですからね。」と言って、稽古を中止してしまったというが、さもあるべきことである。


 日本には到る所に枝振の好い木がある。もっともこれについては、国が小さいので、木までが小さく島国的にこぢれていると言って非難する人もあるが、とにかくそのこぢれたところを生かして、独自の芸術を工夫したところに面白味があるので、これは生花のみならず庭園や盆栽に就いても、同様の事がいえるのである。枝振からいうと、梅のごときは生花に最も適当した材料であろう。梅は花や匂もよいが、その東洋人に喜ばれるのは、主として木振、枝振の妙趣にある。枯れ切った書や画でも見るような、その一種特別な風致にある。梅には木に精神があるといわれるのは、こういう点を指すのであろう。


 草花には木に見るような面白い枝振の物が少ない。殊に牡丹芍薬のような、花の見事な物ほど、この方の面白味を欠いているのが常で、そういう花を生かすために工夫するのが花の取合わせである。例えば牡丹に木蓮を添え、燕子花に柳をあしらうというのがそれで、花が美しくて線の変化に乏しい物に木振の面白い物を添えて、その単調の弊を救うのが主眼である。この取合わせのことを支那の文人は「使令」と称し、これを召使に比較して、牡丹は玫瑰(※まいかい、ハマナス、赤い玉=実?)や薔薇を婢とし、芍薬は罌粟(けし)や蜀葵(しょくき※タチアオイ)を婢とするなどと言っているが、しかしながら、牡丹に薔薇を添え、芍薬に罌粟をあしらう類は、取合わせとして、実は極めて劣等あものである。これは支那人の趣味が日本人の淡白なのと違って一体に濃厚なところから来たので、あたかも鯛の後(あと)に鰻を出すようなものである。日本人の趣味からいうと、取合わせの極意は、一方の短を補うか、あるいはそれと対照の美をなすにあるので、例えば牡丹が主ならば竹をあしらって、前者の重々しい感じと後者の軽快清楚な趣とを併観するのが、変化兼統一の大趣味を成就する極意なのである。


 生花を研究する人は、花や木を生ける技術を練るばかりでなく、暇があれば、郊外に出て、花木のもつ自然のままの有様を研究しておくべきである。私はよく東京京都間を往復するが、汽車が箱根や関ケ原の山間を走る時は、いつも窓外に目を放って野生の花の姿やその周囲に見える自然の取合わせを観察する。秋は龍胆(※リンドウ)やおみなえしや、藤袴、草藤などが薄の中に交って咲き乱れている。夏は、薊(あざみ)、百合、萱草(かんぞう)などが、野茨や、わらびや、ぜんまいの中に、一茎、二茎あるいは五六茎とかたまって咲いている。そうしてそれがいかにも自然で、生花にしばしば見るような、また花壇の花によく見るような、調子はずれの不自然なところが更にない。生花はやはり、かような草木の自然の生態を参考して、雑草などを取合わせつつ、大自然の中に咲いている通りの趣を示すべきである。


 西洋の花についても同じ事がいえるわけで、西洋花を生けるには、やはり西洋の郊外を親しく観察する必要があるであろう。私にはその連想がないために、西洋花には装飾以上の趣を感ずることができない。西洋花はただ美しいばかりで、日本の花ほど深い趣味をもっていないという人が多いのも、一つはこの背景に対する連想が伴わないからであろう。生花に命を与えるコツは花木それぞれの個性を知って、無理のない取扱をすることである。近衛家熈(※いえひろ)公の『槐記』に、こういう一節がある。


御うしろに一重の御筒(おつつ)に白玉椿と緋木瓜(ひぼけ)の入ってありし、木瓜の枝元に花の蕾多く、梢は花もなく、一屈り(ひとねり)曲りたる枝のところを指して、ここより切って捨つべかりしを、そのままにおかるるにて木瓜なり。先の曲りを断たるなれば梅の枝になる。この味はひよく合点すべし。」と仰せらる。


 この話の極意は、花にはそれぞれの個性があるから、それをよく考えて、木瓜が梅に見えたり、梅が桜に見えたりしないように心掛けることが肝要だというのである。自然をよく見て居れば誰にも気のつく筈のことであるが、この個性の有無について、私はかつて面白い経験をしたことがある。


 花を生ける人がよく、「枝が自由になるものならば、生花もさまでむずかしいものではないが、思うようにならないから困る。造花のように針金でも入れて撓(※た)め易くしておいたら楽だろう。」などという。なるほどそうかも知れない、もっともな言い分だと、私も久しく思っていたが、あるとき知人に頼まれ、造花の薔薇を生けてみて、自分の考の間違であることを知った。その花というのは、近く洋行される高貴の御方に献上して船中の御徒然をお慰め申す料(※りょう、目的、ため)であったが、造花の形のままでは趣がないから、抛入風に生けてくれろという依頼であった。私は無造作に引受けて、籠花入に生けたが、さてやって見ると、生きた花とは違って、枝に一々針金が通っているから、面白いほど自由になる。これは本物の花より遥かに生けやすいと思ったが、段々やって見ると案外で、その生けにくさといったら、なかった。


 どうして生けにくいか、本物の生きた花にはそれぞれの個性がある。いくら素直な枝でも、よく見ればやはりその枝々の枝癖があって、生けて行くうちに、それぞれ自然に持前の美を現して来る。ところが造花には何らの個性もない、それを生けるのはちょうど魂のない人間を教育するようなもので、どう手をつけてよいか、全く見当がつかないのである。それも、流儀花のように一定の型があって、その型にあてはめて生けるのであれば、それでまだやりやすいが、抛入には型がなく、自然の枝振に応じて適宜の処置を取るのが要領なので、その形は人間が案出するのでなくて、花の方から与えてくれるのである。


 ところが造花には個性がなく、癖もなく、生まれつきの心がないから、自らその特色を発揮して本性の美を表現しようとする力がない。したがっていくら工夫をして生けてみても、博物の標本同様に、どこまでも死物で、活き活きした趣が更に出て来ないのであった。私はこの時の経験によって、一直線に生花の極意に後入したような気がしたのである。(『茶心花語』に拠る)

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