「園芸趣味」を創り出し大衆化した文人、前田曙山(まえだしょざん)の著作関係全仕事解説 登山、写真、高山植物の栽培、花卉装飾、園芸雑誌の主宰、大衆小説の泰斗
前田曙山は、明治後期から大正、昭和にかけての園芸ブームを牽引した最大の功労者の一人。若い頃から大衆小説の人気作家となり、生涯にわたって作品を書き続けた。後期の作品はいくつもの映画の原作となり、多くの人に愛された。
曙山は、登山家や写真家としても日本の先駆けであり、その名を残している。
植物学でも牧野富太郎に師事してよく学び、高山植物の採集や栽培にも力を入れた。東京・向島の大きな園芸会社の役員を務め、わかりやすい言葉で植物や栽培することの楽しさを伝える『園芸文庫』14巻や『高山植物叢書』などを表した。高山植物の栽培はブームとなり、それらの花をモチーフにした小物が流行したという。
明治後期には『園芸之友』という雑誌を主宰し、園芸文学、園芸小説というジャンルをつくり、物語を読むことで自然と園芸知識が身につくようなものを世に送り出している。
前田曙山が記した「明治年間花卉園芸私考」(『明治園芸史』 p505~ 日本園芸研究会編 1915)は、明治期の花卉産業の貴重な記録となっている。
以下、曙山の全仕事の概要がわかる資料をここにテキストとして記録する。
ひとつ、曙山の誕生日は明治4年11月21日であるが、明治6年になって西暦に改暦されたので、実際は1872年1月1日生まれとなっているので、よく、1871年11月21日生まれ、と書かれたりしているが、間違いである。
『現代大衆文学全集』第5巻 前田曙山集 平凡社 1927
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『近代文学研究叢書』 第四十七巻 昭和53(1978)年5月31日発行
昭和女子大学近代文学研究室・著 昭和女子大学近代文化研究所・発行
前田曙山は小説家。本名次郎。明治四年十一月二十一日(1872年1月1日)、東京日本橋馬喰町の旧郡代屋敷で父圭璋(静岡県士族)、母波奈の次男として生まれた。陸軍大将になる夢を抱いて陸軍予備校に入学したが素志を変えて中退、私立の日本英学館に学んだ。兄太郎(香縁情史)が硯友社同人であったことから文学への目を開かれ、明治二十四(1891)年「千紫萬紅」に処女作「江戸桜」を発表して文壇に登場した。春陽堂の編集記者として活躍するかたわら次々に作品を発表し、「蝗うり」(明28・4)は初期における代表作で悲惨小説という時代機運の一翼を担ったものとして大きく評価された。また『にごり水』(明32・10)は教科書疑獄という取材の新しさと社会暴露小説として高評を得た。戯作的ながら曙山のジャーナリスティックなセンスと手法に価値を認められた作品である。一時園芸方面で活躍をし、『高山植物叢書』ほか多くの著作を残したが、震災後「大阪朝日新聞」に「燃ゆる渦巻」を連載して大衆作家としての地歩を確立した。続いて「東京朝日新聞」に「落花の舞」を連載、二作ともに幕末の動乱期に取材した通俗的興味に徹した作品で、読者の反響いちじるしく、映画に芝居に再現されて人気をあおった。晩年は次第に作風がマンネリズムに堕したこともあり、往時の盛況はみられなかったが、大衆文学史の草分けとして大きな功績をのこした。昭和十六年(一九四一)二月八日、ネフローゼに尿毒症を併発して入院先で死去、享年七十一であった。
前田曙山の生涯
イ、生い立ち
本名前田次郎。明治四年(一八七二)十一月二十一日(※明治6年の改暦から遡って換算すると西暦1872年1月1日生)、東京日本橋馬喰町の旧郡代屋敷に父圭璋、毋波奈の次男として生まれた。一説に、明治三年、下谷御成街道の屋敷に生まれ、加賀前田家の末流の家柄である(篠田胡蝶)といわれるが、前田圭璋自筆の戸籍書に明治四年誕生と明記してあること、及び加賀前田家とは関係ないことは、現存唯一の直系遺族(長男前田章雄氏)の証言を得ていることで前説に拠る。父圭璋(天保八年八月生)は遠江国城東郡横須賀町静岡県士族で、内務四等属の役職にあった。前田家は旧幕臣旗下八万八騎の中といわれ、維新の際朝臣として早く仕えた。また、母波奈(天保十四年九月生)の父は幕府の衰亡を歎いて高野山に入り行方知れずとなっている。また叔父は幕軍として鳥羽伏見の戦に敗れて江戸に帰り、上野の彰義隊から更に越後に赴き、長岡口の一戦であえなくも越路の露と消えたという。圭璋は静岡県士族というのは名目だけで、殆ど東京に居住して役人生活をしており、三味線などの趣味豊かな人であったらしく、曙山はこうした家系を背負う両親のもとで不自由なく幼少時を過ごした。私立の小学校(日本橋にあったという)を卒業後は東京府立中学校に学んだ。彼は陸軍大将になる夢を抱いて陸軍予備校(私立の有斐学校で駒込西片町にあった)に入学した。しかし当時は陸軍部内に藩閥が跋扈し、予備校などでは「旧幕臣の子弟は殆ど人間扱いをされず、子供心にも実に心外千万」(曙山の述懐による。新小説 明42・8)に思い、後の俳友武田鴬塘も同級にいたが、曙山は敢然中途退学し、素志を変えて軍人はきっぱりあきらめた。次いで同じく私立の日本英学館に入学、神田の中猿楽町にあったこの学校は、本科、別科、受験科に分かれ、本科には普通科(二ヵ年)と高等科(一ヵ年)があって、曙山は高等科を終えている。ここでスヰソントンの英国七大家詩文集、マコーレーのピット論、ミルトン論、英語演習、会話、作文、英訳、和訳論文(英文)、を前期に、スヰントンの米国七大家詩文集、バセホットの進化論、英国商業史を後期に、それぞれ修学している。入学、卒業の年月日は資料不足のためいずれも不明である。
少年時代はわんぱくであったが、子供の頃から文学書よりはむしろ科学物、戦記類を好み、日本外史の南朝記は愛読書である。また、漢籍は国松甕谷先生に学んだ。
曙山には男子ばかり四人の兄弟があり、長男である太郎(慶応二年八月生)は、後に香縁情史(こうえんじょうし)という筆名で小説を書いていた(「我楽多文庫」第九号に「雨々風々花月友」を掲載)。曙山はこの五歳年上の兄の影響で、文学への目を開かれたといわれる。他に三郎(明治九年三月生)、四郎(明治十三年三月生)の二人の弟がある。
ロ、活躍前期
曙山が小説を書きはじめたのは何時頃からかははっきりしないが、前記のように、兄香縁情史が硯友社同人であり、社中の異色作家として名を馳せた川上眉山と親交があったことから、弟である曙山も自然、眉山に近づきを得、同時にそれは「文学に接近する一因となった」(伊狩章、後期硯友社文学の研究 昭32・12)のである。その筆名も「眉山」に擬して名づけられたものであろうといわれる。
明治二十四年六月、硯友社の最初の新人発表機関である「千紫萬紅」が発刊された。発行所は成春社として江見水蔭宅に置き会員組織であったが、曙山は処女作「江戸櫻」を、この誌上第三号、第四号に発表した。二十一歳のときである。また、「千紫萬紅」より一月おくれて二十四年七月に、大阪の蕙心社より発行された「葦分船」は、「詞海」「小桜縅」「東京文学」「あけぼの」などと共に傍流諸誌の一誌で、曙山は翌二十五年五月、「爛漫」(一号)、六月から七月に「梅が妻」(二、三号)、翌二十六年一月から四月「梅小町」が、それぞれ掲載されて作家としてのスタートは一応順風に帆をあげた観がある。
明治二十七年七月、春陽堂刊の「小説家百選」第十一巻に紅葉、笠園、眠獅菴主人らの諸作とともに「男やもめ」が収録されている。翌二十八年には、博文館の「文芸倶楽部」に「蝗うり」(明28・4)、「風流武士」(明28・8)を発表、前者は彼の出世作といわれ、これによって当時の文壇に一つの足がかりを得ている。曙山が春陽堂に入社したのはこの頃であるといわれる。「日清交戦録」(出版年月不詳)を編集したのはその時分である。その後、明治二十九年七月、第二期「新小説」が創刊された。曙山は「新小説」の編集のかたわら、他誌に小説をさかんに発表した。「文芸倶楽部」に「紅葉狩」(明29・8)、「趙遠昌」(明30・2)を発表し、翌三十一年十一月五日から「にごり水」を「都新聞」に、はじめての新聞小説として連載した。翌三十二年には「要塞砲兵」(学窓余談 明32・3)、「矢口渡」(時事新報 明32・8)をそれぞれ発表しているほか、十月から十二月にかけては「千枚張」を「東京朝日新聞」に連載した。また、十月には前年「都新聞」に連載した「にごり水」を春陽堂から出版するなど、小説家としての活躍も目ざましくなるとともに、この年、大久保オトハとの結婚にふみ切った。曙山二十九歳であった。このころ戦後の疲弊が漸く色濃く、世は不景気が吹きまくったが、「新小説」はどうにか持ちこたえ、露伴に代って石橋忍月が編集を引き受けた。しかしそれも一年余りでさらに後藤宙外にバトンがひきつがれたのが明治三十二年十二月である。当時の「新小説」誌上(明33・1)の「新小説大刷新大改善の予告」によれば、曙山は意匠部専務に任命されている。この月から「新小説」誌上で狂句の選を担当している。
春陽堂に入社以来、はじめて自社発行の「新小説」に作品を掲載したのが「さんど笠」(明33・1)である。次いで「隠し喰」(明33・7)、「四十島田」(明33・10)、そして同年十二月には春陽堂から『腕くらべ』を出版している。この間、「富士新聞」に「肱まくら」(明33・7)を書いている。これらのうち「さんど笠」は法曹界内部の暴露ものであるが、その通俗的な面白さが受けて高評を博し、いよいよ大衆作家としての地盤は固められた。八月には長男章雄が誕生している。三十四年五月、「辻占売」を「時事新報」に発表した他、春陽堂からは『檜舞台』を刊行、また「軍医」(花かご 明34・4)「銅臭」(新小説 明34・7)などを次々に各誌に発表した。この年、二男春雄誕生。翌三十五年は「新小説」一誌にのみ小説を発表(「子煩悩」他二篇)、三十六年には一月、「鸛(このうのとり)」、五月、「苦衷」、「姉弟」をそれぞれ「新小説」に、また三月、「熊狩」を「中学世界」に、六月、「太陽」に「会社員」を掲載した他、『茶碗酒』、(春陽堂刊 明36・1)、『矢口渡』(松川堂 明36・5)をそれぞれ単行本として出版している。
こうして精力的に創作活動を続けていたにも拘らず、 この年後半から文壇より遠ざかり、園芸方面に興味を持ちはじめるという一つの転機がおとずれる。もともと趣味として園芸を好んだが、小説の創作からの百八十度の転換ぶりには二つの理由が考えられる。一つは創作上の壁に突き当たった、作風がマンネリズムに墜ちこんだ一種のスランプである。一つには妻オトハとの不和が考えられる。曙山自身の恋愛問題にからむ家庭的トラブルがわざわいしているのではないか。
曙山この年三十三の壮年期である。『御客帳』と称する日記体の和綴じ帳(曙山自筆の遺品、明治三十六年九月十五日より明治三十七年六月二日まで)は、主としてその日の来客控えと簡単な日記を記してあるが、それによると、この期間、「大久保老人」「大久保精八君」の名前が頻繁に出てくる。即ち妻オトハの父と弟である。同時に長男章雄の記録が多出しているのに反し、次男春雄には全くふれていない。三十六年後半から妻との別れ話が持ち上がり、その慰留に足繁く妻の身内が曙山を訪れていたと考えられる。しかし、結局はオトハを離別し、二度目の妻鈴木フジ(曙山自筆の遣言帳には富士子とある)を迎えたのが明治三十八年(月不詳)であった。離婚に際し、オトハは次男と長女を連れて出た。また、その年誕生した次女操は直ちに他家へ養女に出した。フジは翌年、三男勇夫を生む。フジは他に女子(英子 明35生)一人を連れ子している。大凡こうしたことが背景にあったのである。
ハ、活躍中期
明治三十六年後半から三十七、八年にかけては園芸方面の仕事に専念したかたちで、この間、丸岡九華方の野草会に出かけたり、植物採集旅行に飛びまわり、また東京植物学会々員となって本格的に植物の研究もしている。「夕刻、矢崎君、牧野富太郎君と上野へ植物採集に行く」(明36・10・18ー日ー晴)などという記録が散見される。また春陽堂に勤務したのは三十九年まで(読売新聞 大衆作家列伝四、大14・5・5)といわれるが、この日記によれば三十六年後半は連日自宅に春陽堂の使いが訪問していたり、「春陽堂より園芸のコマ刷上りを送り来る」(明36・11・5)などの記事が多いことから、すでにこのころ、春陽堂を退社、あるいは少くとも正社員ではなく、嘱託ぐらいのフリーな形で関係を持続していたことと推察される。
交際関係は広く、特に親交があったのは丸岡九華、斎藤松洲などで、他に牧野富太郎、泉鏡花などの名も見え、鏡花には植物の種子を送ったりしている。この他「秋田魁」、「時事新報」、「貿易新報」などの名が散見されて文壇から遠ざかった時期とはいえジャーナリズムとは絶縁していないことを裏書きしている。「神戸新聞」では狂句、狂歌の選評も担当していたことが、三十六年十二月二十六日付の日記に記されている。久々で小説の筆をとったのは三十九年三月から「横浜貿易新報」に連載した「浪まくら」と「山梨民報」に発表した「裏表」である。明治四十年、書肆橋南堂を日本橋に興こし、志村烏嶺(※しむらうれい、本名・寛)と共著の『ヤマ』及び『高山植物叢書』第一巻(いずれも明40・7)、『高山植物叢書』第二巻(明41・1)を橋南堂から出版している。また、「支那植物妖談」(明41・4)、「西洋植物奇談」(明41・5)、「梅花瑣談」(明43・2)、「日本に帰化したる植物」(明43・3)、「日本の櫻」(明43・4)など、園芸関係の著作は主として「新小説」に多く発表、読んで面白い、いわゆる専門的内容を曙山流にくだいて、読ませる園芸書としている点、小説家転じて園芸家となった曙山の面目が窺われる。そしてそれ故にこれら園芸書は「高山の話」(明40・8)、「八ヶ嶽」(明40・9)等山嶽関係の読み物とともに登山家としても趣味の広さをみせ、旅行者や一般読者にも好評を博した。四十年九月、東京園芸株式会社より「千紫萬紅」を出版(よみうり抄 明40・9・15)。しかしこれは未見である。あるいは予告だけであったかも知れない。四十一年四月、柳川春葉、斎藤松洲らと持っていた文芸美術の内輪の社交団体である「キヌタ会」より雑誌「キヌタ」を発行した。このころ、本郷区湯島両門町五番地に転居している。この年十一月、四男利春誕生。四十二年六月、東京園芸株式会社重役の役職にあった曙山は、感ずるところあって同社を去っている。小説の方では、四十四年七月十五日「濃飛日報」に掲載された「閨怨」が、発売禁止の処分を受けた。これは曙山の作家生活に汚点をのこすものであったが、曙山の語るところによれば数年前に「横浜貿易新報に発表した作品であり、それが地方紙を転々(※と)しているうちに原作と趣を異にしたためこのような結果をもたらした。として、かえって仲介業者の悪徳を難じた。その後園芸家としては大正七年四月『採集栽培 趣味の野草』、同年九月和洋草花 趣味の栽培』の二著を刊行、「新婦人」の編集にもかかわっていたらしい。このころ、下谷区谷中真島町に住み、付近には中里介山が住んでいた。
二、活躍後期
大正九年二月頃より曙山は園芸の横道から作家としての本道にたち戻って着実な歩みを進めるようになる。「緑の旛」(現代 大9・10)、「慕ひ行く影」(同 大11・9)他、講談社刊の雑誌に多く発表を続けて行くが、大衆作家としての地歩をゆるぎないものにしたのが、大正十二年十月から翌十三年七月まで「大阪朝日新聞」に連載した「燃ゆる渦巻」であった。これは前、後篇を、大阪朝日新聞社から出版すると同時に「一挙に数万部を売りつくしたばかりでなくシネマにも映されレコードにも吹き込まれてゐるといふ大した人気」(曙山氏の若返る時 読売新聞 大13・11・24)であった。引続いて十三年十月から翌十四年五月まで「東京朝日新聞」に「落花の舞」を連載、この作品も連載中から読者の反響が多く、日活京都、東亜マキノなどで映画化され人気をあおった。その後引続き「時事新報」(黒髪夜叉 大14・12・28~大15・8・2)、「読売新聞」朝刊(探偵実話・魔人時三郎 昭2・4・27~2・10・24)などの新聞に、また、「講談倶楽部」、「キング」、「現代」、「雄弁」、「サンデー毎日」、「オール読物」などの諸雑誌に、精力的に作品を発表、しかし主流は講談社系が占めていた。作品の傾向は、眉山の観念小説の影響を受けた暴露的、社会小説的側面が強く、これはその初期の頃から彼自身の一貫した姿勢である、あくまで興味を中心とした、純文芸に立脚しない作風と相俟って曙山文学を特色づけた。同時にそれは大衆文芸発展への基礎固めとしての貴重な一石となった。
この期、曙山五十歳から約十数年の業績を代表するものとして、平凡社から出版された『現代大衆文学全集』第三十巻・前田曙山集(「燃ゆる渦巻」「神文」収録、昭5・4)と、『現代大衆文学』続第十二巻・前田曙山集「勤王女仙伝」「江戸の誇」収録 昭6・7)を見ることができる。
ホ、晩年
昭和八年二月二十八日、日本航空の機関士であった三男の勇夫が、飛行機事故のため死亡、曙山の落胆は大きく、茫然自失して当座は殆ど筆も執れない状態であった。このためその創作活動も次第におとろえを見せるが、それでも昭和八年は四月に「地底に埋れた金の延棒」、七月に「魂の匂ひ」他四作品を講談社の諸雑誌に書き、引続き九年から十四年頃まで作品を発表してはいる。が、その通俗性がマンネリズムにおちいって、大衆にも飽きられる結果となり、かつての盛況は再び見ることが出来なかった。
昭和十年五月、俳人で作家の武田鶯塘が死去したが、俳友として古くから親交のあった曙山は枕頭に侍して末期の水をとった。
曙山は晩年には自分の作風を恥じていたといわれるが、しかし、大衆文学史に残した功績は大きく評価されていい。
昭和十五年五月十八日、妻フジが肺炎のため急死した。そのための気落ちも手伝って発病、七月、ネフローゼのため昭和医大病院に入院した。しかし八ヵ月の療養の甲斐もなく翌十六年(一九四一)二月八日、尿毒症を併発して病院で死去した。享年七十一。死亡通知は一切出さぬようにとの遺言により内輪のみで密葬した。(筆者 岩田光子)
三、業績
前田曙山は硯友社周辺作家の一人といわれる。すなわち同人とか門弟とかではなく、硯友社作家や博文館、春陽堂、読売新聞社などのジャーナリズムに居を持していて一派と行動を共にした、いわゆる周辺に位置していた作家の一人である。「読売新聞を牙城とした紅葉(中略)、春陽堂には前田曙山が坐し博文館には大橋乙羽が控へ、『新小説』も『文芸倶楽部』も硯友社の統括に帰した……(以下略)」(内田魯庵「思ひ出す人々」大14・6)とあるように、曙山の場合春陽堂に拠り、原稿は丸岡九華の斡旋を得たようである。こうして硯友社派のアウトサイダーとして明治の文壇で活躍し、その後も大正、昭和と、一時的な波はあったが大衆作家の名にふさわしい華やかな活躍を続けた。作風は硯友社の濃い影響下にあったことは言うまでもない。曙山の本領は小説であるが、多才な彼は狂句もよくし、また、文学に次ぐ園芸家としての仕事も逸し去ることは出来ない。
イ、小説
曙山が文学にめざめたのは、直接的には兄香縁情史が川上眉山の幼な友達であり、また硯友社同人でもあったことから、そうした環境の中で多大の影響感化を受けたものといわれている。二十一歳で処女作「江戸櫻」を発表して以来ほぼ五十年間、一時的な中断はあったが、精力的な創作活動に終始した。この期間を次の三期に分け、各期における主な作品について概観しようと思う。
1、前期
「江戸櫻」(千紫萬紅 明24・8~9)
曙山の処女作である。〈世は泰平の悲しさには、人に武士の日本魂なく、いざ鎌倉とあらば、吾身を護る秋水三尺、やれ重いの軽いのと有るまじき贅沢、中にも徳川幕下の人々、二本の物は揚屋の二階に忘るゝも、稽古所の三味線にぬかる事なく、直参の麻上下、両肩の風もすさまじと思へば……〉の書き出しにはじまるこの小説はお糸という当年十八歳の絶世の美女の物語で、慕いよるあまたの若者はもとより、さる旗下の若殿も熱心に恋文を送るがお糸はきかず、親は世間体を憚って根岸の別荘へとじこめる。ある夕、散策に出たお糸は二人の悪漢に襲われ何方かへ拉致される、というところで未完となっている。泰平の世に腰抜け士の横行する中でこれとは対照的な気性のはげしい、物に臆せぬ大胆不敵な美女を対比させながら腐敗した世の中を風刺したおもしろさがあり、文章も戯作風な江戸情緒を漂わせている。処女作として発表しながら未完である点、作者自身も習作のつもりではなかったかと考えられる。
「蝗うり」(文芸倶楽部 明28・4)
この小説の主人公お梅は十歳ばかりの少女で、蝗を採っては板橋の宿から巣鴨方面へ売りに出かけ、その些細な収入で肺を病む母との生計を立てている。父は巡査の指揮官だったが竹橋騒動で殉職し、以来俄かに零落したのである。母お雪は武士の妻の誇りを堅持している。
何をしても渡らるる浮世なれば、魚の膓木の屑をさへ買ふ人あればとて、何処の親が難面(つれな)くも斯る幼なき者に行商(あきない)さして、細き煙を立てゝ暮すらん
病でさえなければこんな苦労はよもさせまいものを、お雪はお梅がふびんでならない。お梅は乞食の子とさげすまれ、あざけられ、そのあげく大事な商売道具の籠を犬にさらわれたことから、ふと出来心で店頭にあった種屋の籠に手を出して警察にあげられる。盗みをした事実を知った母親は、短刀で我が子を刺し殺し、自分も発狂する、という下層社会の一隅にスポットをあてた悲惨物語で、三木天遊は「深刻或は凄峭能く人の肺腑を貫くの筆明らかに之文壇に新生気を発揮せしむるもの」(読売新聞 明28・7・31)と述べて、同時掲載の広津柳浪「黒蜥蝎」、泉鏡花「外科室」、三宅青軒「奔馬」などと共に賞揚した。しかし、従来の旧思想から脱皮して新思想を捉えようとの傾向は見えるが、そこにロシア小説、特にトルストイに近似している点を指摘している。ともあれ、悲惨小説、観念小説という時代機運の一翼を担った作品として大きな価値がある。
次にこの期の作品として特記すべき「にごり水」がある。
「にごり水」(都新聞 明31・11・15~31・12・28)
「教育家の内幕、詐偽師の楽屋、紳士紳商の醜行、芸妓圍者の魂膽等」(はしがき)いわゆる社会の裏面をあばいた暴露小説である。即ち、教科書採択にからむ教師、官吏、出版社という三者が入りまじる汚職が中心となっている。主要人物は小林という悪徳弁護士、この小林が顧問をしている出版会社々長加藤(本職は銀行家)。教科書の審査委員で中学校長の瀬脇は教育界に巾をきかせているが裏面は知る人ぞ知る強欲な高利貸で、小林とは同郷である。欲よりも色のお幾は加藤の妾、色よりも欲の小今は小林の馴染芸者である。他に安藤寂圓という悪僧、二人の欺偽師、新聞記者など多彩な人物設定である。
加藤は教科書採択で瀬脇を買収しようとし、小林は中に立って之を成功させる。一方、小今は加藤をも籠絡しお幾はまた小林とも通ずる。また、山林売買をめぐって寂圓と二人の欺偽師は瀬脇を抱き込み、加藤を利用して旨い汁を吸おうとするが、小林はそれを妨ぐ。そしてお幾の醜聞をかぎつけた新聞記者のゆすりを逆手にとってかえって自派に有利にみちびく。遂には教科書審査に関わる贈賄が発覚して瀬脇は告発され加藤は拘引される。奸計にたけた小林のみは危い瀬を要領よくくぐりぬけ、安泰に生きのびる、という筋である。主人公小林を描写するに
囗から先へ我を産みしともあらざるべけれど、生得ての口八丁、法螺と喇叭の綽名を取りし丈に、子供の内より人を載せる口車、曳き損ねても減らず口の虚々実々、欺される気で欺されて、擔れた揚句が土俵際で敵手(あいて)を放擲る秘術は、誰教へねど習ふに早く、これが所謂天才と我から許せし神童は、月と年の積るに従ひ、終に辯護士といふ肩書附、法廷で嘘を吐くべき商売となりたる事、思へば誠に空怖ろしく………
というような筆致で、西鶴ばりの文体は全体の構成の複雑と相俟ってかなりの誇張がある。しかしその作品の価値は何よりも教科書疑獄という取材の新しさと、時代相を鋭敏にキャッチするジャーナリスティックなセンスを、曙山が持っていたことにある。社会小説としての評価もこうした教育界、法曹界・官界の暴露的な手法に、戯作的ながら時代にさきがけた着脱点を持つ点に帰してよいと思われる。
「紅葉狩」(文芸倶楽部 明29・8)他
「紅葉狩」は石井高尾のいわゆる講談種を仕組んだだけの作品で、文体は「麗水、弦斎、松葉の時代物の文章と同じく、甘き中にこそこそと舌に触るところある文章なり。潰し飴流の四名家とも申すべきか」(「雲中語」めざまし草 明29・9)の評がある。また「趙遠昌」(文芸倶楽部 明30・2)は、威海衛の戦を背景に日本人の間諜趙遠昌の手柄で味方を有利に導くという話。「例によりて例の悪文、文章なりともいつ満足に書けることやら」(雲中語)と酷評を受けたが、鏡花作品の模倣ともいわれ、オリジナリティに欠ける点、曙山の作品の全般に通じて言えることであろう。「さんど笠」(新小説 明33・1)は法曹界内部を暴露したもので、賭博、姦通、収賄等あらゆる腐敗ぶりにスポットをあてたものである。「万朝の三面記事に少しく色気をつけた位ひのもの。之を社会小説といはんは大ぎやうなれど作家が犀利なる観察と軽快なる筆路とはよく読者に面白く読ませたり」(帝国文学 明33・3)と評された。ただし、小説的技巧について、魯庵、宙外の作品に比し、政治小説風の臭味がなく、ストーリーの展開もほどほどに変化があって小説的興味をつなぎとめている点、その洗練された筆致とともに曙山の作家的才幹を認め得るとする評価(伊狩章)もある。「錦の裏」(憲政新報 明33・5・8~33・6・30)は翌三十四年五月、『接舞台』と改作して上梓した。英、米、仏と世界を股にかけた海軍部内の汚職を描いたもの。英国大使館付武官清川が、英、仏二カ国にかけてさまざまな奸計をめぐらすがついには米国軍艦に沈没されるという造船会社の暴露ものである。しかし、つとめて海外に取材して清新な題材を駆使する手腕は認められてよく、ユニークな才能といえる。『茶碗酒』(明36・1)は、柳川春葉が序に、「そもこの小説は曙山氏が去る明治三十三年ものせし旧作にして、当時の新聞紙上に翌日の続きを楽しめしが、作者は如何なる心にかありけむ、それが完結の後は深く筐底に秘めて世に出さず。」と書いているように、原作は、明治三十三年七月から「富士新聞」に連載した「肱まくら」である。内容は、保険医と保険会社がなれあいで不正を行ない、保険医のみは悪運強くうまく立ち廻って幸せを全うするという、狡猾な主人公を材に、保険会社の内幕をあばいたもの。着眼には新味があるが、結構は旧態依然、常套に流れた通俗作である。
以上の他、政党内部の暴露ものである「銅臭」(新小説 明34・7)、女工哀史もの「紅女傳」(同上 明35・4)、足尾鉱毒事件に材をとった「水の流れ」(同上 明35・12)などの諸作を発表、それなりに作者のヒューマニズムと社会に対する問題意識に支えられた意欲作である。
2、中期明治二十七年ごろから作品を発表し続けてきた曙山が、明治末年、一時小説の筆を中断して園芸家としての活躍が表面にでた時期である。創作上の行き詰まりか、私生活面でのトラブルのためか、作品は減少している。しかし地方新聞には依然執筆を続け、三十九年代には「貿易新報」(明39・12・3より「横浜貿易新報」と改題)に「浪まくら」(明39・3・2~39・6・3)、次いで「濱いばら」(明39・9・25~39・12・30)、また「山梨民報」に「裏表」(明39・4 未見)の三本の連載小説を執筆している。四十年代は「横浜貿易新報」に「くらべむま」(明40・2・1~40・4・16)、「うづみ火」(明40・10・25~41・4・16)、「花ぐるま」(明41・4・19~41・9・19)の三作を掲載している。その他『紅露』前編を四十一年八月、『花魂』を四十二年三月に、それぞれ春陽堂から出版している。「虚栄」は「新小説」(明43・6)の巻頭を飾った作品であるが、内容は女の虚栄心のおそろしさ、浅ましさを描いたものである。心理的な掘り下げの浅い、通俗に過ぎるメロドラマで作者の姿勢もあいまいである。「箸にも棒にも掛った代物じゃない」、「之を巻頭に飾る雑誌も何時までかうお目出度いことか」(読売新聞 明43・6・8)という酷評を蒙っている。次に、マイナス面で特記されるべき「閨怨(※けいえん)」がある。これは明治四十四年七月、「濃飛日報」に連載された小説であるが、七月十五日に掲載された分が、新聞紙法第二十三条、風俗壊乱の簾で発禁処分をうけた。これは曙山が明治四十年ごろに「横浜貿易新報」に発表した作品が転載されたもので、「濃飛日報」一紙でなく、「山梨民報」、「丹山新報」、「北陸政報」、「香川新報」等に逐次連載された(「閨怨」の発売禁止 読売新聞 明44・8・5)が、これまで一度も発禁にはならなかった。曙山は「私のものですから発売禁止にもなりさうなことはなかつたつもりだが、或は所々転載されてゐるうち多少原作と趣を異にする所が生じてそれがために今度の問題をひきおこしたのではないかと思ふ」(同上 読売新聞)と述べている。ことの経緯について作者は、「横浜貿易新報掲載後地方新聞に講談及び小説を供給しつつある文芸株式会社が多少の稿科を以て買取った上之を他に転売したものだらうと思ふが、予に何らの相談もなかったものであり勿論どこの新聞に掲載されてゐたかさへ知らなかった」と説明、作者には一新聞社の稿料しか払わない内外新聞通信社なる仲介業者の悪徳ぶりを非難する論調である。なお、四十年に「横浜貿易新報」に掲載した連載小説は前記した「くらべむま」、「うづみ火」の二作であり「閨怨」とは関係ない作品である。「濃飛日報」と前後して転載されたもののうち、「香川新報」所載の「閨怨」(明44・2・16~44・4・20 突如中止となっている)のみ披見出来たが、発禁処分を受けた四十四年七月十五日付の「濃飛日報」は欠号のため未見である・そのため発禁の理由も究められず、また原作となっている「閨怨」の所載も不明のままである。「香川新報」で連載中の「閨怨」が理由もなく突如中断されたのは発禁の日より三月弱早い四月二十日である。いずれにしても資料となる地方紙の披見が欠号その他の理由で不可能のため、この問題に関しては今後の調査にまつ他はない。ともあれ、この発禁を境に、しばらく文壇から葬り去られる結果をまねいたのである。
3、後期
曙山が再度大衆文学作家として返り咲いたのは大正九年(一九二〇)、五十歳のころで「現代」、「娯楽世界」を主な舞台として活躍、大正十一年八月、講談社より『糸の亂』を出版した。また、それまで純文芸書の出版に練達な春秋社が、曙山の『慕ひ行く影』(初出、 大11・9 現代)を、通俗小説に手を染める第一書として刊行した。 「大阪朝日新聞」はそうした頃の曙山を夕刊小説に起用、よくその趣旨に迎合した「燃ゆる渦巻」は江湖の絶讃を博して大成功をおさめた。
当時はいわゆる大衆文芸もしくは大衆文学という名称はなく、「新講談」もしくは「書き講談」ともいわれた。曙山はそれら新作講談の書き手として活躍し、大正十二年から十四年にかけて「新作講談」、「新講談」と銘打った大衆ものをさかんに書いた。主として「サンデー毎日」誌上に、「江戸前の女」(大12・3・20)、「情熱の火」(大12・10・14~12・12・16)他多数を掲載している。曙山を起用した「大阪朝日新聞」では、それまで渡辺霞亭の史伝小説を掲載していたが、霞亭に代るべき創作家がいないまま朝日新聞社年来の主義を捨てて講談掲載にふみ切ったが、その低俗さが朝日の性格に合わず結局中止された。それで曙山に白羽の矢が立てられたのである。 (朝日新聞七十年小史―昭24・1―参照 ※p158)曙山は自信が持てぬと一度は辞退したが強いての依頼に執筆を承諾し、あくまでも純文芸に立脚しない、一般大衆の読物に徹するこれまでの趣旨を貫いた。「燃ゆる渦巻」 (大阪朝日新聞 大12・10・16~13・7・26) は、勤皇の烈女お綾と長州藩士林清之助が水戸家の密書をたずさえて京都の関白近衛家に届けるべく、江戸、京都間にあってさまざまな困難に遭いながら遂に目的を達成するという物語で、お綾、清之助の愛をたて糸にして、それに力を貸す桂小五郎や坂本竜馬の義侠、またお綾と対抗して追い続ける女隠密龍巻お連の策謀、そして新選組の近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら三勇士の働きなど、幕末を背景とした実録風の手法を駆使し、スリルあり、サスペンスありの、大衆向けのストーリーに合致した作品である。これはアレキサンドル・デュマの作品の翻案ものといわれるが、ダルタニヤン物語の中の「三銃士」に相似した部分がある。例えば、十六世紀の後半、フランスでは旧教徒と新教徒の争いが激化して内乱が絶えなかった国情と、幕末の動乱期といった時代相の捉え方、また、主人公の若者(ダルタニヤン)が国王の股肱の臣トレヴィル殿への紹介状を持って旅に出る。その途次、親交を結んだトレヴィル殿の部下の三銃士、アトス、ポルトス、アラミスの勇猛ぶりに、お綾が密書をたずさえての道中、新選組の三勇士の活躍を折り込むといった素材的なヒントはたしかに得ていると思う。
次に文体であるが、例えば、お綾が安藤対馬守の屋敷から逃れ出ようとする時の描写、
五日の月が閉(つぶ)れた片目のやうな形になって、此世に執着を残しながら、西へ西へと引摺り込まれる時に、斜な蒼白い光が、椎の古木の木間を照した。すると、其落莫たる老木の太い枝を伝はって、今や土塀の上へ下り立たうとした媚めいた姿が見えた。
また、
此窃窕たる絶世の美人は、斫(き)っても血が出さうもなく嬋姸(あでやか)で、汚ない膓や臓腑がありさうにも見えなかった。というお連の説明、そして、
油は涸れて濡羽色に輝く黒髪、ハラハラかかる遅れ毛が、クッキリした襟足の滑らかな線を舐めて、軟らかい撫肩から、芳醇な腰へと生々しい美の輝きが滴るばかり、さうして繊美な鼓動が、喘ぐ息の静まるに連れて、夢に消え込む如くに納まって行った。
のごときお綾の叙述に見られるように、修飾過多な、戯作調が抜けきらない文章である。しかし。反響は大きく、「関西読者の白熱的歓迎」を受け、「一挙に数万部を売りつくしたほどであり、それは「シネマに映され、レコードに吹き込まれ」(「曙山氏の若返る時」読売新聞 大13・11・24)さえした。幕末の動乱期に目をつけた着目のす早さと、筋の面白さに絞った手法が成功して、曙山はこの一作で一躍売れっ子作家になり、引き続き「東京朝日」に「落花の舞」が掲載されることになる。
「落花の舞」(東京朝日 大13・10・25~14・5・8)は、幕末の世を背景に正体不明の粂三髷の女が、京都所司代宛ての幕府の密書をめぐって活躍するミステリー仕立ての長篇である。前作「燃ゆる渦巻」と同様、読者の反響いちぢるしく、映画(日活京都、東亜キネマ等)に芝居(浅草松竹座 不二洋子主演)に上演されて大衆に浸透する観を呈した。「原作そのものが面白く出来てゐるので製作者は楽をしてゐる」(読売新聞 大14・6・15)という映画評にもある通り、これら通俗的興味に徹した作品は、いわば翻案小説のさきがけとしての功績を裏付けるものでもあった。すなわち、「燃ゆる渦巻」、「落花の舞」の二作品のみならず、一般に曙山の大衆ものが、官軍、幕軍の交戦に取材したものが多いのは、旗本の子であった関係で(※これは間違い)江戸の故実にくわしく、「勝った官軍のことは歴史に明らかであるが負けた幕軍のことはあまり伝へられてゐない」(読売新聞 大14・1・5)という動機が発想を喚起しているのであり、筋は歴史そのままではなく、アレキサンドル・デュマその他のもの(エドガー・アラン・ポー原著「外国妖怪小説集」なども種本としていたらしい。)からヒントを得て巧みに自分のものとしている。また、新聞、雑誌の編集部の注文もあって「勤皇の精神を宿した作」が多い。そして彼自身、「義勇とか任侠とかさうした物が受けるといふのは或は赤化とか無政府とかへの反動傾向ではあるまいか」(「曙山氏の若返る時」)と述べている。
なお、昭和期に入ってからもその創作活動はさかんで、『覆面の義人』(昭元・5)前後編、『お高祖頭巾の女』(昭元・6)、『黒髪夜叉』(昭元・10)など多数の作品を刊行した(※昭和2年では?)。
後期は大衆文学興隆の機に乗じて、特に講談読物を主軸とする娯楽雑誌で、本田美禅とくつわを並べてめざましい活躍をした。同時に「朝日新聞」や「都新聞」に登場して雑誌読者と新聞読者の交流に寄与し、読者層の拡大に貢献した功績は大きい。
ロ、雑誌の編集、その他(狂句)
1、春陽堂
明治二十八年、曙山二十五歳の時に春陽堂に入社した。春陽堂はもと書籍の小売兼行商をしていた和田篤太郎が、明治十五年頃から出版に手を染め出したのがはじまりで(山崎安雄 春陽堂物語 昭44・5)、当時からスヰントンの『萬國史要』、 セームス・ハリソンの『日清文明論』など翻訳ものをさかんに手がけて多くの読者を獲得した。そのため春陽堂の名も広く知られた。曙山はその一社員として原稿とりから編集業務一切を担当していた。当時和田篤太郎は病気がちで番頭格の伊藤吉太郎にすべての交渉が一任されていた。そのころ、新人登用の新雑誌を出すという意欲に燃えていた幸田露伴を説得して編集主任を承諾させた。伊藤吉太郎は「極めて鋭敏で且つ如才ない其の上に仲々大膽な、進取的の頭悩のあつた人」で、「年令には似合はぬ才物」(新小説の裏面 新小説 明38・1)であった。曙山はその伊藤吉太郎の手足となってよく勤めたが、その頃「日清交戦録」(出版年月不詳)を編纂している。
明治二十九年七月、第二期「新小説」が創刊された。日清戦争という血腥いあとにはきれいな心地よい絵画とか小説が歓迎されるのだから、中絶していた「新小説」を再興させるのに、まさに好機逸すべからざる時あるとする吉太郎の相談にのって、誌名も第一次を踏襲して「新小説」と決めた。「編集のことは幸いに幸田露伴先生が担当されるといふことではじめて第一年第一巻が世に出たのです」(新小説の裏面)という当時の回想によれば、曙山は出版、販売、原稿とり一切を伊藤吉太郎の片腕となってとりしきっていたようである。露伴のあと一年あまり石橋忍月が編集を引き受けたが明治三十三年から、後藤宙外にバトンは引き継がれた。このとき「新小説」の編集陣は大刷新が行なわれ、曙山は意匠部専務に任命されている。この年一月、曙山ははじめて自社発行の「新小説」に作品「さんど笠」を発表した。なお、春陽堂勤務は三十九年まで(読売新聞 大14・5・5)であったらしい。
2、雑誌「キヌタ」発行
明治四十一年四月一日「キヌタ」第一号が創刊された。母体は、一種の社交団体である文芸美術上における「キヌタ会」であり、「あくまで内輪に、会員相互の情交を楽しむと共に、雑誌『キヌタ』としては努めて実世間に接触」(キヌ夕第一号)することを眼目とした。従って雑誌発行以外に或は文芸講演会や美術陳列会も開く。曙山は角田竹冷、柳川春葉、斎藤松洲らとともに最初の発起人として、この雑誌の編集にたずさわった。「キヌタ」は第六号以降は未見であるため続刊年月日は不詳である。なお、「キヌタ」第一号の内容は小説、塾生(柳川春葉)、露西亜文壇の傾向(二葉亭四迷)、納太刀(礫川九華)、文壇自滅の傾向(中島孤島)、タヌキ豆(前田曙山)である。
3、狂句
曙山は狂句もよくし、私家版の句集も二、三ある。「他山之石」(曙山文庫)という自筆本をくると次のような句がある。
憎まれつ子世に憚らず生残り
丸髷に結はせて見ればつまらない
レモンチー女だてらに反りかへり
持参金承知ながらも情ない
傘なしで向ふまで行く梅雨の雨
なお、「新小説」では明治三十三年二月、宙外が編集担当の時期から狂句の「懸賞吟味」の選者として、大正元年十二月まで選句を担当している。その他「神戸新聞」でも狂句、狂歌の選評を担当していた(明36・12・26付 御客帳による)。
八、園芸家として
作家である曙山が園芸方面に興味を持っていたのはかなり以前からであるらしいが、小石川植物園内の東京植物学会に入会するなどして本格的にこの道に身を入れ出したのは、明治三十六年のころである。当時の曙山の日記にも、「森川君を訪ひ午后大塚より池袋へ採集に行く」(明36・10・6)、「森川君と上野へ採集に行く」(明36・10・21)、「丸岡氏(丸岡九華ー筆者註)方野草会へ行く」(明36・10・25)、「矢崎氏、牧野富太郎君を訪ふにつき、同氏に委嘱して未詳の草木四、五の名を聞いて貰ふ。キチジヤウソウ、ミシマサイコ、ヤマソテツ、サジオボバコ(外来品の由)、チャボセキショウ」(明36・11・7)など、よく植物採集に出かけたり、研究をしたりして、しばらく小説執筆からはなれていた当時の模様が克明に記されている。そうした身の入れ方は当然、園芸に関する著作を生み、園芸家として、趣味の域を脱する仕事をこなした。
明治四十一年五月中旬、磐城の平に新設されるべき公園の設計を依頼されて同地に赴いでいる。同年八月には、日本園芸研究会の依嘱により、高山植物採集会の教導として八ヶ嶽へ第二回の登山を試みた。が、四十二年七月、東京園芸株式会社重役であった曙山は、感ずるところあって同社を去った。
次に、主な園芸書をあげると、
『園藝文庫』第一巻~第十四巻
出版年月日不明であるが、曙山の生活記録、つまり『御客帳』によれば第四巻が明治三十六年十月二十三日、第五巻が同年十一月二十五日出来と記されている。そして第七巻の原稿が三十七年一月十九日に出来上がっている。こうした経過から大体一ヵ月に一巻と概算して逆算すれば、第一巻は三十六年七月発刊となる。内容は、大体、季節毎の花二、三十種を集め、趣味的な解説を加えている。これは当時の出版界でも「自然界、植物、動物、天文の諸現象を説きたる述作が大抵文学的趣致を含み、人生の意義と交渉する所頗る多きを加へたり。『園藝文庫』の刊行の如きもこの中に数ふべき有数のことなるを失はず」(読売新聞「三十六年の文壇を送る」明36・12・31)とその刊行の意義を評価し、「園芸界における耆宿なり」(貿易新報 明41・4・15)として『園藝文庫』は斯道の流行を惹起せしめる淵源となったと、その価値を認めている。
『高山植物叢書』第一巻(明40・6)
明治四十年一月に日本橋に創設した書肆橋南堂から出版した。木版図版入りで、山草二十四種の紹介である。専門的な、つまり植物学的な解説ではなく、意図するところは文学と科学の調和である。「山草に関する美文集」といってもいい。高山植物における山草の栽培は、高山という生活状況の現境の中でするのと、高山より下ろして全く下界の植物として栽培するのと二種あり、この書では後者の栽培法をとっている。従来のこの種園芸書中最も趣味ある書き方である(読売新聞 明40・7・4)として迎えられている。
同書 第二巻(明41・1)
本書は石楠花、白髭草、百里香等二十一種類を収めている。各種とも宗、根、茎、葉、花、種の六項に分け、之に科学的な説明を与え、又一々挿図を加えている。美しい彩色の口絵など、すべてに凝った装釘である。「読んで興味あり、文章を飾って異彩ありといふべし」(読売新聞 明41・2・17)と、巷間の好評を得ている。またこの『高山植物叢書』発刊によって、当時、衣服に装飾具に高山植物模様を用いる一種の流行を見るに至った、(横浜貿易新報 明41・4・15)という程に派生的な現象をもたらした。
この他単行本としては、『採集栽培 趣味の野草』(大7・4)を実業之日本社から、『和洋草花 趣味の栽培』(大7・9)を鈴木書店からそれぞれ出版している。次に雑誌に掲載したものとしては、 「新小説」に一番多く、「高山の話」(明40・8)、「八ヶ嶽」(明40・9)「槭楓雑記」(明40・11)、「素人盆栽」(明41・3)、「支那植物妖談」(明41・4)、「西洋植物奇談」(明41・5)、「春の花」(明42・3)、「梅花瑣談」(明43・2)、「日本に帰化したる植物」(明43・2)、「春の俳題植物」(明43・12)、「山月旦」(明44・7)、「高山植物に就いて」(大4・7)等の多数の園芸関係読物を掲載、また、「文芸倶楽部」には、「日本の櫻」(明43・4)、「新婦人」には「婦人の臭気と花の香気」(明44・4)を掲載している。
総じて曙山の園芸書は専門的に流れず、専門の知識を基盤に誰にでも分かり易く文学的に解説したものであるから好評を以て迎えられた。「花ぐるま」(横浜貿易新報 明41・4)は「趣味津々たる小説中に知らず知らず園芸思想を涵養せしめ」るもので、園芸のことをたて糸として小説のプロットを組み立てた完全なる園芸小説である。 (筆者岩田光子)
五 遺族 遺跡
イ、遺族
フジ夫人は曙山に先立つこと約一年の昭和十五年五月、肺炎のため死去され、四男三女あった子供も現在は長男章雄氏唯ひとりを残してみな亡くなっている。また曙山の兄弟(兄一人、弟二人)も現存者はひとりもいない。昭和五十二年七月のある日、都内田園調布の閑静なおすまいに前田章雄氏をおたずねした。
章雄氏は長男として曙山の愛を一身に受けられた方で、曙山の日記には幼時の章雄氏が頻繁に出てくる。終戦まで日本郵船に勤務されていた。その後特別調達庁、日本海事検定協会等に勤務されて現在は花子夫人(津田英学塾出身)とともに平和な余生を送って居られる。父として、作家としての曙山について次のようなことをお話し下さった。曙山は、非常に癇癖の強い神経質な人で、気に入らぬことがあると怒気を表情に現わし近寄りがたい感があった反面、大変子ぼんのうでよく一緒に遊んでくれた。特に日本航空の機関士であった三男の勇夫氏が飛行機事故で死亡した時の悲嘆、落膽は大きく、そのために暫く創作の筆がとれなかったほどであった。また、何でも自分でしなければ気がすまぬたちであった。一面、ユーモラスな面もあって人の意表をついた笑わせ方をした。嗜好としては、酒は一滴も飲まないかわりかなりの食道楽で、一般にその当時は外で食事をする習慣が少なかったのだが、よく家族を連れて新橋や浅草、神田などへ食事に出かけたものである。
交際については、よく人に接して話題は豊富だった。文人や画家などの知識人以外にも種々の職業の人達が訪問していた。信仰については、前田家の寺は浄土宗であったが、別に信仰心はなく、お経が長いのを理由に曹洞宗に宗旨替えをしたくらいである。曙山の作品については、貧乏人に肩をもつといったヒューマニズ厶が一本通っている。やはり性格的な優しさの現われでしょうと、夫妻こもごも語られた。そして所蔵の蔵書や著書、日記類、また数多い短冊や写真の類を、ほこりを払い払い、お見せ下さった。
ロ、遺跡
墓所は東京府中市の多磨霊園である。昭和五十二年十月末、晴天下秋色濃い霊園を訪れた。七区一種五側という所在地は表門から程近い分かりいい場所であったが、墓標に、「前田家」という記名が一切していないため、どうしても判らず、石材店吉野屋で尋ねて漸く曙山の墓前にたどり着いた。墓は鎌倉時代風のものをかたどったと思われる石塔のみで、墓碑銘は一切なく、ただひとつ曹洞宗の教典からのものであろうか、梵字で一字(意味不明)、花押のように刻みこまれた、簡素なものである。他には何の銘記もない。向って右側に小さな句碑があり、
花ふぶき さりとはよくも 散つたかな
と、曙山の達筆が刻まれてあった。これは三男勇夫氏の飛行機事故死を悼んで詠じた鎮魂の句である。周囲は笹が繁るにまかせ、名も知れぬ自然木が葉を拡げて明るい午後の陽を遮っていた。野趣に富んだ素朴なこの墓前にしばし暝目して辞去した。 (筆者 岩田光子)
※ 墓所の位置、墓石(石塔)の写真等
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/M/maeda_s.html
▼執筆者
生涯、業績、遣族遣跡 岩田光子
年表 野々山三枝
本文校閲 岡 保生
▼採訪 前田章雄(曙山長男)、国立国会図書館 東大明治文庫 三康図書館 日本近代文学館 講談社 多磨霊園 本学図書館 近代文庫
▼参考文献
[新聞]―朝日新聞 香川日報 憲政新報 富士新聞 毎日新聞 都新聞 横浜貿易新報 読売新聞 [雑誌]―キヌタ キング 講談倶楽部 サンデー毎日、新小説 新声 太陽 帝国文学 文芸界 文学界文章世界
[単行本]―朝日新聞の九十年(朝日新聞社) 朝日新聞七十年小史(同上) きのふけふ(内田魯庵) 硯友社と紅葉(江見水蔭) 硯友社文学集・明治文学全集22(筑摩書房) 硯友社の文学(伊狩章) 後期硯友社文学の研究(伊狩章) 講談社の歩んだ五十年・明治、大正篇(講談社) 同、昭和篇(同上) 自然主義文学盛衰史(正宗白鳥) 春陽堂物語(山崎安雄) 新聞小説史・大正篇(高木健夫) 大衆文学大系(講談社) 大衆文学(中谷博) 大衆文学の可能性(尾崎秀樹、多田道太郎) 大衆文学発達史(木村毅)―日本文学講座14 大衆文学篇―大衆文学への招待(荒正人) 大衆文学夜話(岡田貞三郎) 大衆文学論(尾崎秀樹) 日本芸術思潮(岡崎義恵) 明治の文芸(岡野他家夫) 明治小説内容発達史(田山花袋)―文学普及会講話叢書第一編―。
曙山の筆跡
https://library.kwansei.ac.jp/archives/yaedu/kenyusya/nanakusa/nanakusa/index.html
前田曙山 まえだ しょざん
明治4年11月21日(1872年1月1日)~昭和16(1941)年2月8日。
小説家。演芸家。東京馬喰町に生まれる。本名次郎。日本英学館などに学ぶ。兄の太郎(香縁情史)が川上眉山の幼友達で硯友社の一員であったことから、「千紫万紅」に処女作『江戸桜』(明治24年)に発表して硯友社作家として出発。ほぼ硯友社全盛時代に主な作家活動を示した。『蝗うり』(「文芸倶楽部」明治28年)は深刻小説の先端を行き、題材の新しさと写実的手法とで評判を得た。以後『にごり水』(「都新聞」明治31年)、『千枚張』(『東京旭日新聞』明治32年、後に『腕くらべ』と改題)、『檜舞台』(明治34年 春陽堂)など社会裏面の暴露、風刺小説の方向に進み、通俗的であるが題材の珍しさで好評を得た。自然主義の時代はふるわず、橋南堂を起こして「園芸之友」を発刊し、俳誌「キヌタ」の主催などをした。大正12年「大阪朝日新聞」に『幕末巷談 燃ゆる渦巻』(大正12年~13年)を連載して絶賛を博し、大衆作家としての地位を確立した。
https://tabisanpo.com/MENU/sannichi2008/20080829a.htm
山陽日日新聞 2008年8月29日(金)
大衆文学史の草分け 大正末期に訪れた前田曙山-「記念碑のある尾道へ」 昨年11月子孫が散策し遺品寄贈決める
明治から大正期に活躍した小説家、前田曙山(まえだ・しょざん)の子孫から、尾道市のおのみち文学の館(東土堂町)に資料の寄贈があった。
千光寺公園、文学のこみちに同氏の碑があることから実現したもので、市文化振興課では11月半ばから同館で公開する予定。
前田曙山(本名・次郎)は1871(明治4)年、東京・日本橋馬喰町の生まれ。兄の影響で文学への目が開かれ、硯友社(けんゆうしゃ)の同人として1891(明治24)年に「江戸楼」で文壇デビュー。編集記者として活躍するかたわら次々作品を発表、初期の代表作「蝗うり」は悲惨小説という時代機運の一翼を担い高く評価された。
園芸方面でも活躍し、「高山植物叢書」なども残し、関東大震災後に大阪朝日新聞に「燃ゆる渦巻」を連載、大衆作家としての地位を確立。続いて「落花の舞」を発表、2作とも「幕末の動乱期を舞台にした通俗的興味に徹した作品」で、映画や芝居で再現されるなど反響が大きかったと伝えられる。大衆文学史の草分けとして大きな功績を残したと言われ、1941(昭和16)年に71歳で他界した。
大正末期に夫人同伴で春の尾道を訪れており、「浜焼きをむしりつゝ春惜しむな里」の句を残している。文学のこみちではロープウェイ山頂駅側から2番目の作品で文学碑が立つ。
曙山の孫にあたる前田みなみさんが昨年11月、尾道を訪ね歩き、文学碑があり、さらに文学記念館でゆかりの作家が継承されていることを知り、同氏の遺品を「尾道の文学振興に役立ててほしい」と今年2月に寄贈が決まったもの。
代表作の「落下の舞」や「燃ゆる渦巻」(=写真左)、「にごり水」、「四季の園芸」、「趣味の野草」など書籍22冊をはじめ、自身が句、歌をしたためた掛け軸や短冊、写真(=写真右)、画家鏑木清方から届いた年賀状など合わせて135点にのぽる。
担当の市文化振興課では、同じ時期に活躍した作家行友李風の特別展に併せて、11月中旬から文学の館で資料を公開する予定。
●春陽堂『園芸界』編集者、前田次郎と牧野富太郎について 参考ブログ 明治38年のもの
https://jyunku.hatenablog.com/entry/2022/03/12/200912
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