作家、中井英夫の父、中井猛之進氏は、父親も植物関係者だった。小石川植物園初代、主任、のち園長のお話

『実際園芸』第20巻1号 昭和11年1月号から 

※なかい たけのしん、1882‐1952 植物分類学者。東大教授、小石川植物園長、ボゴール植物園長、国立科学博物館長

※日本が占領していたインドネシア・ジャワ島のボゴール植物園長時代、軍部が切ろうとした植物園の樹木を守ったということがWikipediaに記されている。


国芸植物と私

理学博士 東京帝大植物園長 中井猛之進


 私の親父(おやじ)は米国マサチューセットのアムハースト・アグリカルチュラル・カレッヂに官費留学した人間で(※アマースト大学は内村鑑三が留学した大学)、当植物園の副監督として勤務していた傍に自家の五百坪余りの小さな畑に蔬菜や花を作っておった。そういう訳で私は子供時代から園芸植物に趣味を持ち、また親父の栽培法を見ている内に、門前の小僧式に自然の栽培法も一通り覚える事が出来た。今日でこそセルリー、パースニップ、リーク、コーリフラワー(※カリフラワー?)等は洋食には極く普通に使用されているが、今から約五十余年前の昔にアーテチョークとか、パースニップ等を作って、子供達に食べさせていた親父があったといっても誰もホントにしない事だろう。そんな訳で私は植物をやった人間に似合わないで、農業や園芸の事を多少かじっている。

 大正二年当時植物園の園芸の采配を振るっていた内山富次郎という人がボッコリ亡くなって了った。何しろ此の内山富次郎という人は植物園の生字引とまでいわれた人で、時の園長松村任三先生は一切を此の人に委せていたのである。そういう関係で松村先生は全く途方に暮れられ、私に園芸主任という制度を特別に設けて優遇するからぜひ引受けてくれとの事であった。兎に角引受けて彼の大震災の年まで園芸主任を勤め、今日では植物園長をやっている様な訳である。※その後、長く園芸主任を務めたのが松崎直枝氏ということになる

 この頃にはまだ染井の植木屋、巣鴨の植木屋あるいは団子坂の植木屋というように純粋な植木屋があって立派な技術を持っていたのであるが、何しろ当時は欧化時代、西洋心酔時代であって、――私の親父も其の方の親方ではあるが、――日本固有の園芸は欧米派に押されて圧迫されてしまった。然し彼の世界大戦後日本の力が世界的に認められ、それと共に日本園芸も再認識されて来てからは日本の園芸家も西洋人の真似をしないで、どしどし日本の園芸植物の改良を加えると共に、古い日本園芸植物を集めて観賞する様になった事は洵(まこと)に結構な事だと思う。今後ますます日本の園芸植物に改良を加え、日本で作った新品種を欧米に輸出するようにしたいものである。

 今日の植木屋は一般に無自覚で、シャリンバイ、卜ベラ、マツ、ヤダケ、モッコク等という極く少数の植物、せいぜい十種か多くとも二十種位の植物を知れば日本の庭園は出来上るものと心得ている。従って親方のところでは、これらの植物の簡単な手当法、あるいは本式でない石の並べ方を一通り習得して出て来た程度のものであって、今日真の植木屋を求める事は不可能な有様である。日本園芸を向上させるためにもそういう人間の教育が必要であった。それには本誌の如き有力雑誌が音頭を取って向上を図るならば、日本庭園に変化が出来、従来の如き千篇一律の庭園でなくして、珍らしい変化に富んだ庭園が出来上る事と考える。

 私は植物専門家としてしばしば山野を歩き植物採集をやっているが、日本の山野の如く植物の豊富なところは世界中どこにもあるまい。まずアスター、野生のツツジ、ハコネウツギ等にしても今後園芸植物として価値あるものが沢山に利用されずに取り残されていると思う。それ等を自ら進んで山から取って来て自宅の畑に植え、それを売り出すという位にまで、植木屋の親方は進んで貰いたいものである。

 植物園に於ても欧米の真似でなく東洋の植物を以て東洋の植物園としての特徴を充分発揮させたいという考えで、園芸主任にも日本固有の植物を集めさせているような訳である。

 私は別に園芸方面に大した功績を残す事は出来ないが、停年までに尚お七年余りあるから、其の間あの植物園を東洋的の特色をつけ昔からの珍らしい日本固有の植物を集めて、一般民衆の参考に供したいと考えている。新品種の作出も結構な事ではあるけれどもそれは経費の関係上不可能であるが、当局者が将来日覚めて費用を出してくれれば私の代でなくとも次の代にでも実行して、一般民衆の園芸植物に対する智識を向上させる事が出来ると思う。

 最後に私は園芸家のみならず、植物学者に望む事は、概して植物をやる人の中には高山の岩の間に挟っている小さな草、或は木に着いている小さな苔等というおよそ人生とは縁遠いものを珍品として発表して得意としている人間がある。欧州の如く植物の種類が少なく、既に調査し尽くされた場合ならば兎も角、日本の如く首都の附近から新しい植物がどんどん発見されている様な国でそういう人生と縁遠い植物を発表して得々としているよりも、園芸的に価値ある美しい灌木や、草本、或は薬草等の如く人生に関係あるものを成るべく早く明にして、成るべく早くそれが利用される様に努力すべきであると思う。園芸家の中でも野生のものから良いものを見出して、それを利用するという心掛けが必要ではあるまいか。

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