大正6年に『仙人掌及多肉植物名鑑』を著し、日本における仙人掌研究、趣味世界に大きな貢献をされた棚橋半蔵氏について

『趣味の仙人掌栽培』石井勇義編 誠文堂新光社 昭和6(1931)から

この本は『実際園芸』第11巻1号とほぼ同じ内容、好評のため単行本として発行された。

下の画像のなかで、棚橋半蔵氏は、最後列の白いシャツを着てスマイルしている髭の紳士。

前列左端は坂戸直夫氏  ※この人が、横浜植木商会の大塚春雄氏の友人だった人ではないか?大塚氏は、棚橋氏の本を出版する際に手伝っているが、もともと専門ではなかったと思う。しかし、この友人の遺志をついで研究を続け、『仙人掌の種類と栽培』という本を著している。そのはしがきに棚橋氏に学んだ友人について触れていた、と思ったが違った。別なところに書かれていたみたいだ。どこに書かれていたか失念した。





棚橋半蔵氏は『仙人掌及多肉植物名鑑』(横浜植木株式会社)1917の著者。


我国仙人掌界の先覚者 棚橋半蔵氏と二宮仙人莊

東京三田育種場二宮農場主任 高橋惣吉


仙人掌の趣味

サボテン、即ち、仙人掌。仙人掌は私に取って、これ以上に親しみのある物はありません。仙人掌なる植物は恐らくは他の多くの植物よりも人の印象により多く残る何物かを持っているに相違ない。多くの技術家が全生涯をこの研究に費やしても恐らく尽くる事がないだろうほどその形が無尽蔵に豊富なためか、あるいは栽培が無造作なのにもかかわらずその花が壮麗なためか、あるいはこれら総てがその理由であるかどうかは未定のままにして置こう。

だが「仙人掌がその栽培のためには、時間、労力および経費の犠牲を惜しまない非常に熱心な愛好家を持っている事」はたしかである。私はかつて遠い国からもたらされた最も興味深く、最も美しい植物の一つに仙人掌を数えたいという意見を抱いているのである。仙人掌愛好を局外者に説明せんがためには、室内で而も永年に渉って仙人掌ほど徹底的に一心に熱中し得る植物はこの外にはあまり多くないという事を述べて置かねばなるまい。

仙人掌はその、最初を越せば以後の発育はいわば人の意のままになるのである。かつその収集もすべて比較的に狭小な場所にしまっておけるのである。仙人掌の手入は栽培者にとってその本職の仕事をやった後では一つの慰藉(いしゃ)であり、且、同時に最も純な楽しみでもある。外国にあっては仙人掌は最初十六世紀末、航海業のオランダ人により輸入せられたものと聞いている。水夫達は海岸に自生したこの葉のない植物を、恐らくはその珍らしさのために故郷へ持ち帰ったのであろう。その後段々興味をもち欧州では十九世紀の後半以来初めて仙人掌は栽培植物としで一般に注意される様になり、殊に欧州大戦後ドイツをはじめ各国に大流行を来たしたのである。


我が国の流行


吾が国では明治三十五六年頃より仙人掌の流行を見て後、大正二三年に再び相当流行して、猩猩丸の如きものが一般からよく迎えられて非常な高値がとなえられたことがあった。この頃まではこれが栽培は比較的狹い範囲に限られていたので法外な値を呼んだのです。この時期を動機にこの仙人掌の栽培は全国的に広まって今日に及んでいます。

五六年からある時は名古屋地方にまたある時は大阪、或は福岡に遠くは満洲支那にといったように地方的な流行が見られていたが、一昨年から今年に掛けてこれの全国的の流行が見られる様になり現在、殊に関東、関西方面に於て仙人掌の人気は大したものである。以上の如く現今に於ては日本否むしろ此の仙人掌の大流行は独逸、白耳義(ベルギー)、佛蘭西、英国、米国、メキシコ等世界的大流行であります。そして獨逸、英国、米国等に於ては仙人掌専門の月刊雑誌またはウイクリー等さえあるそうです。思い出せば実に仙人掌界も発展致したものです。親しく御指導に預り且つまた此知識があからさまに伝授させ、我国仙人掌界の大先覚者たる棚橋半造(※蔵)氏を欽慕せざるを得ないのであります。棚橋氏が我国仙人掌界に偉大なる貢献をなされし事は斯界の営業者愛好各位の疑わざる事と思います。私は今棚橋氏の我国於て為されし幾多の偉業につきその一端たりとも今本誌に所感を披露する機会を得た事は私の最も光栄と存する次第であります。


棚橋氏の仙人荘


そもそも、棚橋半蔵氏の父君(ふくん)軍蔵氏は、駐独日本大使館付の外交官であった、その将来を見込まれ、彼地の富豪の養子婿にと懇願され、その夫人との間に生まれたのが、半蔵氏でした。半蔵氏は、明治四十三年二十五歳にして日本に来朝され、湘南吾妻村の景勝地、梅沢の里に居を卜されました。この梅沢の里は実に、天然の温暖なる気候に恵まれ、南に相模湾を控え、北には吾妻山屏風の如く高く聳立しその山頂には歴史で有名なる日本武尊(やまとたけるのみこと)の妃橘姫を祀らる吾妻神社があり、今回その地の由緒深い事判明し、一躍県社に列せりときく。その南は海に面し遥かに煙波渺々の彼方に伊豆大島を望み北は山に囲まれしかして邸内自然的傾斜せるため、この天然の地形を巧みに利用して我が国最初の大規模のカクタス・ロックガーデンたらしむべく着々準備をされ、それと同時に大邸宅の建築に着手し、莫大なる経費と多大なる人工を加え同年五月に邸宅は美事に落成しました。私はこの時棚橋氏のお世話になりこの大工事にも手伝ったのであります。翌年二十六歳にして棚橋氏は久我侯爵家の三千子姫と華燭の典を挙げられ我が国に永住の基礎を築かれました。これより前記カクタス・ロックガーデンに自然に恵まれた地形に創造力豊富なる頭脳をもち苦心して、造園に心がけられました。今なお庭内に残る天を摩(さ)すようなユーカリー樹数十本および本州にては到底見ることのできぬビロー樹または極大株になれるケンチャ、フェニックス、柱仙人掌、団扇仙人掌はみな、この時の実生から作出せられたものです。なかんづく露地のビロー樹の如きは来園せる本多博士、井下東京市公園課長はじめ諸先生方がみな等しくその偉大なるに驚嘆せられたほどで、今なお寒中僅かの竹笹を以て覆い防寒せるのみです。なお畏れ多くも賀陽宮殿下には、棚橋氏居住の折、ご避暑、ご避寒のためご滞留の栄に浴し、重ねて東京三田育種場長磯村貞吉氏の所有に移りました後もまた同殿下、山階宮殿下をはじめ奉り中山侯爵その他貴紳のご避暑ご滞在の栄を賜りましたことは場長はじめ私共一同身に余る光栄と深く感激した次第であります。


仙人荘の偉観


棚橋氏の仙人掌収集と研究とは全く学術的で二箇所の温室及び五ケ所のフレームには種属に依って区画して培養され、そして原則として学名で研究し金にあかして海外より珍奇種を収集されて、一番盛んであったのは、大正三四年でした。現在棚橋氏はドイツに帰朝せられ、今は東京三田育種場の直営農場となって棚橋氏よりそのまま継承され更に海外より珍種をとり以上の努力を持って、培養しています。棚橋氏の邸内殊に南向きのカクタス・ロックガーデンを完成までは最初いろいろ苦心せられて、当時の幼苗が今や皆完全に成育し、殊にセリウス・ベルビアンヌス即ち柱仙人掌の鬼面角(きめんかく)のごときは枝を出してさながら数本の電柱のごとく空に聳えているさま、見るものその偉大なるに驚嘆せぬものはありません。この鬼面角は毎年七月より八月頃までに開花し花数実に数百の多きで、実に国宝的植物といっても差し支えないのであります。その他かの有名なる米国植物改良家ルーサー・バーバンクス氏の苦心作出せるいわゆる刺無団扇仙人掌(とげなしうちわさぼてん)、およびその果実を食用に供し得べき団扇仙人掌およびハンケイ柱、ヤマカル柱等は皆このカクタス・ロックガーデン中に包含させられ毅然として聳立しており、殊に食用団扇仙人掌は毎年八月美事なる橙色の花を簇開し十月に結実して、その果実は非常な美味のあるので珍重されております。普通ヒッグカクタス(無花果仙人掌)として米国では果実として広く販売されているそうです。この幼苗(ようびょう)を目下繁殖東京の店で販売しております。

この当時、仙人掌を輸入するということが非常な難事でした。なぜかといえば、古いこととて航海に非常なる日数を要し、加えて外国輸出業者といえども現在のごとく発送手当の完全を期待することができなかったので、輸着した仙人掌は一割より、三割以上の腐敗率を見積もらねばならなかったのですから、外国の仙人掌を収集するには莫大なる経費を要したのです。仙人掌輸入先は主にメキシコ、米国をはじめ南米諸国、欧州では独逸、白耳義、仏国等でその輸入範囲の広きことは実に驚くべきであります。

明治四十四年庭園が一通り出来上がったので棚橋氏夫妻は家事の都合および彼らの仙人掌名称の対照せんがために独逸へ出発せられ、大正三年七月独逸から帰朝せられるまでの四ケ年間私は数千株の仙人掌、多肉植物、洋蘭その他の珍奇観賞植物を包含する邸内庭園温室フレーム等の管理を委任せられました。而して同氏は在独中色々珍奇なる仙人掌多肉植物を送り来られ大正三年七月に同夫妻は多大なる有形無形の土産を持ち帰られたのであります。これからの棚橋氏の仙人掌栽培はますます合理的研究に向かわれ、当時未だ日本に輸入されていなかた貴品の出現は、非常に世人を驚かしたものでした。


棚橋氏の仙人掌観


従来仙人掌栽培の方針として二つの主義に分かつことができるのであります。即ちその一つは斯界の大先生であった棚橋氏の説のごとく、仙人掌は元来花と棘(※くさかんむりに棘)の美を鑑賞するものであるから、これを第一主義に栽培しなければならない点からあして、肥料分の少ない砂がちの用土に植え、潅水もできるだけ控えて原産地の状態に準じ培養するという方法であります。今一つの方法は肥料分も水分も多量に施すやり方でありますが、仙人掌は第一に花というよりも刺の美しさ、極まりなき茎の奇形を鑑賞する期間が長く、花は僅かの間であるからと、花のほうが第二にしなければならぬとする。肥料分、水分を多量に施して、腐敗する危険をおかしてまで作るのは営利向きならいざ知らず、一般には馬鹿気ているようですが、第一仙人掌を栽培して美しい刺毛(とげ)また緑色の茎の美しさを楽しむのに腐敗するのを恐れては到底その目的は達せられません。

この当時は極少数の輸入貿易商または営業者が原名をろくろく知らずに輸入した結果色々の悲喜劇が行われたと聞いております。これは実に原名に対する知識がないためで、この不便を除くために棚橋氏は憤然として、大正四年から多年間調査された原名和名を対照せるものに、更に大々的に原名に対する和名調査に努力されました。

この事業たるや実に難事中の難事で原産地より来ましたものと、我が国で実生栽培せえいものとは品物によっては大なる差異あるを免れないので、一つ品に対して名称が二つ以上あるというほど困難事でした。それに未だその当時は和名も場所によって、例えば、東京、横浜、名古屋、大阪等においてほどんど名称も区々であったのであるし、それに交通不便な当時二宮からわざわざ仙人掌を多数持参して東京京浜方面の営業者または斯界の熱心なる研究家に原名付きの品物を見せ、その和名を問い合わせるなどすること数年、その努力ここにやや報いられ大正六年「仙人掌及多肉植物銘鑑」の刊行を見るまでに至りました。これ実に我が仙人掌界のいわゆる虎の巻になり、それが動機となって、いっそう仙人掌貴品数の輸入を促し更にひいては仙人掌流行の新紀元をなすに至ったものです。

仙人掌に対する同氏の研究は実に熱心でありたいてい実生より始められ(ママ)のでしたが、当時の苗が、今では人頭(じんとう)位になれるもの多々算をなしているのですが、実生を行うにも用土や鉢を消毒し緻密に完全を期された。

種子から培養するに必要条件は新鮮なる種子―取蒔きなら結構―清潔な容器、荒目の砂の多い土壌、豊富なる光線および温暖なる事を必要とします。種子を播いた容器に黴(かび)が発生すれば実生は死滅する―これは通例決まった順序です。

仙人掌の培養法の研究も非常なもので現今でさえなお無知に行われている砂と真土(まづち)で混合された培養土とは雲泥の差でこの事も早くから注意されたもので、ぜひとも、用土は排水のよいものを用いなければならず、排水が悪ければ必ず腐敗させてしまいます。


棚橋氏の培養土


培養土につきその一例を述べますと、各々種属の習性により、異なる培養土を使用せられました。すなわち玉、蝦仙人掌等に使用する用土の混合の割合はだいたい左記のごとくでした。

牛糞四分、河砂二分、壁土二分、赤土一分、軽石一分等です。

この牛糞は普通の牛糞を天日に完全に晒らし、よく切り換えたもので、手入れが完全であると二年ないし三年位でほとんど腐蝕し土の如くなりますから消毒のため石灰を入れて切り換えたものです。ときどき積替えをすればよいのです。この石灰の使用は、虫類、黴菌(ばいきん)等を死滅させるためであり、また仙人掌の発育促進および仙人掌自体に特別必要な主要肥料としても非常な効果があります。何故かといえば、活々(いきいき)した色彩および棘(くさかんむりに棘)の発生は植物の健康の表徴でもあるが、石灰はその活々とした色彩および刺の発生に重要なるのみならず、そして植物はその健康のために、無条件で石灰を必要とするものです。

この石灰は植物の中に多量に有する蓚酸(しゅうさん)と結合して溶解し難き結晶となります。もし植物に石灰が欠けると―何故ならば石灰は土壌からは提供されないから―植物はいわば自家中毒を起こして死滅します。これは仙人掌が石灰をほとんど含まない荒地土壌あるいは純粋の温床土の中では永久に成育しないという著名の事実に依っても明らかである。

石灰の乏しい土壌は容易に知ることができます。即ち塩酸を注いだとき蒸発がごく僅かであるか、あるいは全然蒸発しないからである。だから仙人掌土壌にはそれに石灰混合物を与えれば、最も安全です。ただ蟹葉仙人掌にはこの石灰の混合物を要しません。さてどの割合で混合するのが最も適当であるか?これは経験上の問題ですが、牛糞の量に二割くらい混合せば適当と思われます。

この消毒された牛糞土を使用せば、仙人掌にほとんど流動体の肥料を用うる必要はないくらいです。しかしこの牛糞土は根を張る力弱い種属か新輸入のものには使用しないほうがよいようです。この二つの場合には牛糞土を避けて砂および煉瓦片の混合物を増すがよく、なおその他に小さく粉にした木炭を少々添える事を大いにおすすめします。これは酸化を阻止するからです。

河砂は普通の河にある白色の砂で、壁土は普通田舎家、または土蔵にある粗末ななるべきぼろぼろした極く古いものを探して使用します。

赤土はご存知の如く、いわゆる「ボカ赤土」というもので、これは霜に会えば崩れるもので、これは当地付近によくあるので、これを使用したのです。


軽石の効果


軽石は通称「軽石」で普通入浴の場合に使用するものによく似ており、これを水中に入れれば浮きます。これは非常に根部に対して驚嘆すべきある要分(ママ)を含有しているに違いなく、これを使用する時には仙人掌の毛根がそれに近づかんとして長く根を下ろし一度軽石に接触せばその軽石に好んで絡みつき、その結果仙人掌自体に非常なる発育を促進させます。これは大粒または中粒に土篩で篩分けて鉢底または木箱等の底へ敷きます。連山、黒牡丹(こくぼたん)、鼈甲牡丹、烏羽玉、菊水等比較的いわゆる「牛蒡根」の品種に対しては、細粒を培養土に一割ないし二割位に混合して使用すると好成績であります。ただしこの軽石を使用するときは、潅水の際この軽石は水分を充分含有しているので、普通の用土のときよりもやや控えめにする方が良い。

次に丸仙人掌に対しては、牛糞を三分にしてその代わり木炭粉を一分の割合で加え混合いたします。この木炭は植物の酸化を阻止するそうです。

孔雀仙人掌には腐葉土五分、(または腐葉土五分、牛糞二分、河砂利一分、赤土一分、軽石一分以上の割合で混合した土を使用します(※カッコがついているところが不明だがママとする)。右の腐葉土とは木葉(もくよう)のよく腐蝕せるものでなるべく細粒のもの、腐葉土とは山野または庭内にて木類の極腐蝕した土のごとくになれるものである。河砂利は普通の小粒の砂利でこれは鉢底または木箱の底部へ敷く、これ一つには排水の作用にもなる。しかしてこの孔雀仙人掌は春先発育期には充分潅水しかつできるだけ室外へ出して日光に直射せしめると、多数の花蕾を着くるようになります。その他の仙人掌に対しては、牛糞一分、河砂二分、赤土一分、軽石一分、木炭粉一分、壁土一分、真土三分以上の混合土を多く使用します。


以下、室内栽培、仙人掌の移植、露地栽培を省略


結び


以上は本邦に於ける仙人掌界の一大権威たりし棚橋氏に対する私の追憶を兼ねて仙人掌培養法の一班を述べたものでありますが、いささかにても諸子のご参考の一助ともなる事を得ば幸甚これに過ぎぬのであります。現に棚橋氏は独逸に健在されております。私は同氏の我が国仙人掌界に貢献されたる功績に対し衷心感謝の意を表し併せて遥かに同氏のご健康を祈って止まぬのであります。

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