一輪の花が美しいならば、生きていようと思える。暮らしの花とは、午前4時に目覚めて見る花 川端康成「花は眠らない」 『草月人』1950年5月号
川端康成「花は眠らない」 『草月人』1950年5月号
日持ちする花を選んで、きれいにいけあげることだけが暮らしの花ではないのではないか。
家に花があれば、それはいつ見てもよい。朝4時に目覚めても花はすぐ傍にあるのだから。
美的体験は身近にあること。
花をよく見るためのいけばなという体験があるということ。
時を変えて、よく見てみることで新しい発見がある。
この文章は、川端康成が50歳頃のものだ。1972年に亡くなった。享年72歳。
一輪の花に心動かされることがなくなったからだろうか。
※ロダンの手をみつめる川端康成 東京ステーションギャラリー
https://www.facebook.com/tokyostationgallery/photos/a.765211880212387/1015103805223192/
花は眠らない 川端康成
ときどき、なんでもないことを不思議に思ふ。昨日、熱海の宿に着くと、床の花とは別に海棠の花を持つて来てくれた。つかれてゐるので早く寝た。夜なかの四時に目がさめた。海棠の花は眠つてゐなかつた。
花は眠らないと気がついて、私はおどろいた。夕顔や夜来香のやうな花もあるし、朝顔や合歓のやうな花もあるが、たいていの花は夜昼咲き通しである。花は夜眠らない。わかりきつたことだが、初めてはつきりさう気がついて、夜なかの四時に海棠の花をながめると、なほ美しく感じられた。命いつぱい開いてゐる、せつない美しさが感じられた。
花は眠らないと、わかりきつたことも、ふと花を新しく見る機縁となつた。自然の美は限りがない。しかし人間の感じる美は限りがある。人間の美を感じる力は限りがないゆゑに、人間の感じる美は限りがあるとも言へ、自然の美は限りがないとも言へる。
少くとも、一人の人間が一生のあひだに感じる美は限りがあり、たかの知れたものである。これは私の実感であり、嘆声である。人間の美を感じる能力は、時代とともに進むものでもないし、年齢につれて加はるものでもない。夜なかの四時の海棠もありがたいとしなければならない。一輪の花が美しいならば、生きてゐようと、私はつぶやく時もある。
画家のルナアルは、少しばかり進歩すると、それだけ死に近づくといふことは、なんとみじめなことであらうと言ひ、また、私はまだ進歩することを信じてゐるといふのが、最後の言葉であつた。ミケランゼロの最後の言葉も、やうやくものが思ふやうに現はせる時が来ると、死だ。ミケランゼロは八十九歳であつた。彼のデス・マスクからつくつた顔を、私は好きである。
美を感じる能力は、あるところまで、むしろ進みやすいものと思ふ。頭だけではむづかしい。美に出合ふことである。親しむことである。その重なりの訓練であるが、しかし例へばただ一つの古美術品が、美の啓示となり、美の開眼となることは実に多い。それが一輪の花でもよいわけだ。
床の一輪ざしの花を見て、これと同じ花が自然に咲いてゐる時このやうによく見ただらうかと。私は考へてみることがある。一輪だけ切り離して、花立に入れ、床に置いて、はじめて花をよく見る。花に限らない。文学について言つても、だいたいに今日の小説家は、今日の歌人のやうに自然をよく見てゐないだらう。よく見る折が少いだらう。また。床に花をいけ、その上に花の絵をかけたとする。ほんたうの花に美しさの劣らぬ絵は。無論さうはない。この場合、絵がつまらないと、ほんとうの花の美しさが引き立つ。花の絵が美しくても、ほんたうの花の美しさはなほ引き立つ。しかし私たちは花の絵を念入りに見るやうには、ふだんほんたうの花をていねいに見ないで過ごしてゐる。
李迪でも銭舜挙でも、宗達でも光琳でも、御舟でも古径でもよいが、花の絵からほんたうの花の美しさを教へられることは多い花に限らない(※ママ)。私はこのごろ仕事机の上に、ロダンの女の手とマイヨオルのレダと、小さいブロンズを二つ置いてゐる。これだけで見てもロダンとマイヨオルとはずゐぶんちがふ。しかし、口ダンから手の表情を、またマイヨオルから女体の筋肉を、いろいろ知らせられる。よく見てゐるものだとおどろく。
私の家で犬が子を産んで、子犬がよちよち歩き出したころ、一匹の子犬のふとした姿を見て、私ははつとしたことがあつた。なにかとそつくりの姿だ。宗達の子犬とそつくりなのだと気がついた。あの宗達の春草の上の方に子犬が一つゐる、水墨の子犬の姿である。私の家のは雑種のなんでもない子犬だが、宗達の気高い写実が私によくわかつた。
去年の暮近く、私は京都で夕焼を見て、長次郎の赤楽の色にそつくりだと思つた。長次郎の夕暮といふ銘の茶碗を、私は前に見たことがある。その茶碗の黄のはいつた赤ぐすりが、いかにも日本の夕空の色で、私の心にしみたが、京都ではほんとうの空から茶碗を思ひ出したわけであつた。また私はその茶碗を見た時、坂本繁二郎の絵が思ひ出されてならなかつた。さびしい野の村の夕空に、食パンを切つたやうな、十字型の雲が浮んでゐる。小さい絵だ。それがいかにも日本の夕空の色で、私の心にしみた。坂本繁二郎の絵の夕暮の色は長次郎の茶碗の色と同じ日本であつた。夕暮の京都で私はこの絵も思ひ出した。さうして、繁二郎の絵と長次郎の茶碗とほんたうの夕空と、三つが心に呼び合つて、なほ美しいやうであつた。
その時は、本能寺に浦上玉堂の墓をたづねて帰りの夕暮であつた。翌る日、私は嵐山へ賴山陽の玉堂の碑を見に行つた。冬で嵐山に見物人はない。ところが私は嵐山の美しさを初めて発見したやうに感じた。前に幾度も来たが、通俗の名所として、美しさを、よく見なかつたらしい。嵐山はいつも美しい。自然はいつも美しい。しかし、その美しさは、ある時、ある人が見るだけなのであらう。
花は眠らないと気づいたのも、宿屋にひとりゐる私が、夜なかの四時に目をさましたからかもしれない。
【このような邂逅こそがおうちで花をいける醍醐味なのではありませんか】
邂逅・一期一会
「しかしながら、わたくしはテラス食堂で朝の光りによる、ガラスのコップの美しさを見つけたのです。確かに見たのです。この美しさに、はじめて出合ったのです。これまでにどこでも見たことがないと思ったのです。このやうな解逅こそが、文学ではないのでせうか、また人生ではないのでせうか、と言えば、飛躍に過ぎ誇張に過ぎませうか。」
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川端康成 「朝の光の中で」
わたくし、カハラ・ヒルトン・ホテルに滞在して、ふた月近くなりますが、朝、浜に張り出した放ち出しのテラスの食堂で、片隅の長い板の台におきならべた、ガラスのコップの群れが朝の日光にかがやくのを、美しいと、幾度見たことでせう。
ガラスのコップがこんなにきらきら光るのを、わたくしはどこでも見たことがありません。
やはり日の光りが明るく海の色があざやかであるといふ、南フランス海岸のニイスやカンヌでも、南イタリイのソレント半島の海べでも、見たことがありません。
カハラ・ヒルトン・ホテルのテラス食堂の、朝のガラスのコップの光りは、常夏の楽園といはれるハワイ、あるひはホノルルの日のかがやき、空の光り、海の色、木々のみどりの、鮮明な象徴の一つとして、生涯わたくしの心にあるだらうと思ひます。
コップの群れは、まあ出動態勢の整列できちんと置きならべたさまなのですが、みな伏せてありまして、つまり、底を上にしてありまして、二重三重にかさねたのもありまして、大きいの小さいのもありまして、ガラスの肌が触れ合ふほどどのひとかたまりに揃へてあるのです。
それらのコップのからだまるごとが、朝日にかがやいてゐるのではありません。
底を上にして伏せた、その底の円い緑のひとところが、きらきら白光を放ち、ダイヤモンドのやうにかがやいてゐるのです。
コップの数はいくつくらゐでせうか、二三百はあるでせうか、そのすべてが底の縁の同じところを同じやうにかがやかせてゐるわけではありませんが、かなり多くのコップの群れが、底の縁の同じやうなところに、かがやく星をつけてゐるのです。
コップの行列が光りきらめく点の列を、きれいにつくってゐるのです。
ガラスのコップの縁の、このきらめきに目を澄ましてゐるうちに、コップの胴のひとところにも朝日の光りの宿るのが、私の目にうつって来ました。
これはコップの底の縁のやうに強いかがやきではなくて、ほのかにやはらかな光りであります。
光線の燦々なハワイでは、日本風にいふ「ほのか」はあてはまらないかもしれませんが、底の緑の光りが点からかがやきを放ってゐるのとはちがって、胴の光りはやはらかく面に、ガラスの肌に、ひろがってゐるのです。
この二つの光りは二つとも、いかにも清らかに美しいのでした。
ハワイの豊かに明るい太陽、爽かに澄む大気のせゐでありませう。
片隅のテエブルの上に用意した、ガラスのコップの群れに、このやうな朝日の光りを発見し、感得しましたあとで、目を休めるやうにテラス食堂をながめますと、すでに客のテエブルにおかれて、水と氷を入れてあるコップ、そのガラスの肌にも、ガラスのなかの水と氷にも、朝の光りがうつったり、さしこんだりして、さまざまに微妙な明りをゆらめかしてゐました。
気をつけなければ気がつかないほどの、この光りもやはり清らかに美しいのでした。
朝の日の光にガラスのコップが美しく映えるのは、ハワイの海辺に限ったことではないでせうと思はれます。
南フランスの海辺でも、南イタリィの海辺でも、あるひは日本の南方の海辺でも、カハラ・ヒルトン・ホテルのテラス食堂でのやうに、コップのガラスの肌に、明るく豊かな日の光りがうつるのかもしれません。
またホノルルの日のかがやき、空の光り、海の色、木々のみどりを、ガラスのコップのやうなつまらないもの、なんでもないものに、鮮明な象徴を見つけなくても、ハワイの美しさを象徴するいちじるしいもの、よそにたぐひのないものは、もちろん、幾らもありますでせう。
色のあざやかな花々、姿よく茂る木々、それから例へば、わたくしはまだ見る幸ひに恵まれてゐないものですが、沖のひとところだけに降る雨に真直ぐに立つ虹、月の暈(かさ)のやうに月を巻く円い虹など、めづらしい景物もありませう。
しかしながら、わたくしはテラス食堂で朝の光りによる、ガラスのコップの美しさを見つけたのです。
確かに見たのです。
この美しさに、はじめて出合ったのです。
これまでにどこでも見たことがないと思ったのです。
このやうな解逅こそが、文学ではないのでせうか、また人生ではないのでせうか、と言えば、飛躍に過ぎ誇張に過ぎませうか。
さうかもしれませんが、さうでもないでせう。
今まで七十年の人生で、ガラスのコップのこのやうな光りを、ここではじめて、わたくしは発見し、感得したのです。
ホテルの人はガラスのコップをきらめかせる、その美的な効果を計算して、その場においたのでは、おそらくないでせう。
わたくしが美しいと見たことなども、知ったことではないでせう。
そしてまた、私自身もその美しさをおぼえ過ぎて、今朝はどうかなどといふ心の習はしにとらわれて、朝のガラスのコップとながめますと、もういけません。
もっとも、詳しくはなります。
底を上にして伏せた、その円い底のひとところに、きらめく星をつけてゐると、わたくしは言ひましたが、そののち度重ねてながめてみますと、見る時間によって、見る角度によって、光りの星は一つではなく、幾つもあることがありました。
コップの胴にも光りの星がついてゐることもありました。
それでは、底の縁に星一つとしましたのは、わたくしの見まちがひ、思ひちがひであったのでせうか。
いや、一つの時もあったのです。
幾つもの星のきらめく方が一つの星だけよりも美しさうでもありますが、わたくしには、はじめに一つの星と見て美しかった方が美しいのです。あるひは、文学にも人生にもこのやうなことはありませう。