石井勇義氏は、千葉、成東の食虫植物群落地を発見し、天然記念物指定に大きな貢献をしていた。大正八年、石井勇義の交友関係が垣間見える旅の記録  大町桂月全集から


石井勇義、恩田徑介、加藤美侖らは、誠文堂新光社の小川菊松、『子供の科学』の原田三夫らの関係でとても仲が良かった。まだ『実際園芸』を創刊するずっと前の話であり、驚くような内容であった。 加藤氏は誠文堂が創業して最初のベストセラーを書いた人物で一番の恩人という人物。恩田は植物学者。後述のように、この当時、石井は病気療養中であったと思われる。小川や原田ら誠文堂を取り巻く人達とすでに知り合っていたようすがわかる。

※千葉県、東部、成東にある食虫植物群落地の発見、および、天然記念物指定に大きな功績があったことがここに記されている。もっと知られるべきことだろう。(石井は成東中学に通っていた)

※成東・東金食虫植物群落は、大正9年、日本最初の天然記念物に指定された。

https://plants.sammu.info/

※石井勇義は、大正はじめ、辻村農園で研修生となる前に農学校の教師をしていた、という経歴がある。石井の生家が土気であることや東金の親戚を頼って学校に通っていたなどから考えると、おそらく、ここに出てくる蕨氏の農林学校(現・山武市埴谷)で教えていたと思われる。

※辻村常助氏の回想では「埴科農学校教諭」と間違って記憶されている。おそらく、埴谷だったのではないか。

https://karuchibe.jp/read/15301/

※石井勇義氏は

明治25年9月20日千葉県山武郡土気本郷町下大和田(現千葉市)の農家の次男として生まれた。

明治39年4月千葉県立成東中学校に入学

明治44年3月中退し、農学校の教師助手を務める→これが埴谷の農林学校だと思われる

大正2年4月小田原市の辻村農園に園芸研究生として入る

大正7年10月 東洋園芸株式会社(恩地剛氏経営)へ引き抜かれ三軒茶屋の農場の園芸主任となるが結核を発病し大正8年に千葉市のちば医学専門学校附属病院に入院し近所の旅館九十九館で予後を養う。前後3年間を要す(『復刻ダイジェスト版「実際園芸」』1987から)

※蕨眞一郎氏は正岡子規の門人で「アララギ」を創刊した人物  日本のフラワーデザインのパイオニア、永島四郎は戦前戦後のアララギ派における中堅歌人であり、石井との因縁が感じられる。




※文人、詩人 大町桂月について
※加藤美侖は、誠文堂から「是丈は心得おくべし」を出版し、誠文堂創業から初のベストセラーのシリーズとなった。加藤は文豪としてしられていた大町桂月と親しくしており(碁友だった)、加藤は一案を計じて大町に字を稽古させて掛け軸を書くように勧めたという。それで大町が書いたものを加藤は一本15円で売って自分も儲けていたのだという(原田三夫『思い出の七十年』1966)今度の旅もその関係でさそわれ、紀行文を書くように頼んだのかもしれない。

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 大町桂月全集 桂月全集刊行会 1929(昭和4)年

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九十九里の浜(大正八年)

上総なる成東の市街を東に距ること半里ばかりに、食虫草の群生する所あり。東京付近唯一の食虫草の産地に植物学上大いに珍とすべき所也。こは園芸家の石井勇義氏の発見に係る。この頃内務省に史蹟名勝天然物保存調査会起り、石井氏この地を下調する依頼を受けたり。共に行かずやと誘われて、余は加藤美倫、恩田徑介二氏と共に、石井氏に導かるることとなりむ。

 暗き夜也。成東駅に下りて、成東館の提燈もつ列に迎えられ、薄暗き成東の市街を行くこと数町にして右折すれば、全く暗黒となりたるが、唯半窓に一点の光の輝くあり。如何にも神聖に見ゆ。案内の男指して、「波切不動」という。参詣は明朝に譲りて、成東館に入り、蕨眞一郎氏に迎えらる。氏は埴谷の豪家なるが、自費を投じて其の村に農林学校をさえ設けたる特志家也。礎山の雅号ありて、歌を善くす。石井氏旧誼(きゅうぎ:幼なじみ)あるを以て、我一行を歓待しける也。


※正岡子規の弟子、蕨眞、礎山。明治41年10月山武郡山武町の蕨 真の家から「アララギ」が創刊された。石井勇義の経歴には辻村農園に入る前に農学校で教えていたというのがあるが、蕨氏の学校だったと思われる

https://www.city.sammu.lg.jp/page/page001483.html

https://www.city.kamogawa.lg.jp/site/shiryoukan/1006.html


 成東の地は波切不動に著わる。近年鉱泉に益著わる。鉱泉宿に成東館一軒のみなるが、甚だ宏壮也。二階建の一構、凹字形を成して、数十室を有す。不動の孤丘を負い、田に面して、地も閑静也。一同浴し終ると共に、主客打解けて興じあえり。

※成東館、鉱泉跡地、浪切不動尊は崖の途中のような場所に建てられている。

https://deepland.blog/narutou-namikirihudouson/

 十二時過ぎに、寝に就きけるが、太鼓の音に夢破れぬ。雀の声も聞ゆるに、さては夜明けたりとて、独り室を出で、足の向くままに、宿を出づ。門前は不動の境内にて、成東第三の公園也。門ならぬ一屋の中に、仁王相接して立てり。乱暴でも仕出かしたるを以て、幽囚せらるるかとばかりに見えて、何となく憐れ也。見上ぐれば、不動堂を帯びたる孤丘、岌々(きゅうきゅう)として山高し。幾んど石なき上総の国、ただ此処にのみ山骨となれる粘板岩の巨巌露出して、奇々怪々の形をなせり。石段を上りて左折すれば、地平か也。絶壁に松根蜿蜒(えんえん)して、大蛇の如し。右に少し上りて不動堂に達す。

 一老僧打出しを敲きて、経を読む。側に太鼓もあり。我夢を覚したるは之かと頷く。不動は深く蔵せられて、一つに円鏡、正面に立てり。この堂は丘の頂上より少し下に懸りて、数十の柱に支えらる。京都の清水堂の舞台、同工異曲也。大きさは比較にならざるが、清水堂にほんの一部分が柱に支えらるるに、この不動堂は大部分が柱に支えらる。舞台としては不動堂の方が奇抜也。堂後の僧庵の側を過ぎて、頂上に至る。松の木立ちありて、琴平の小祠立てり。後より左右へかけては、この丘とほぼ高さを同じうする丘陵長く連り、前は成東の市街を隔てて一面の水田、稲正に熟して、黄雲地に満つ。田の彼方は茅屋点綴し、樹林長く連りて其の盡くる所を知らず。空には薄く濃く雲満ちたり。東天に当りて、雲の色一入赤きは、日出でたるなるべし。百舌の鋭き声聞えて、秋風身に浸みぬ。

 帰り来れば、蕨氏起き出でたり。共に入浴して座に戻れば、他の三氏も起き出でたり。余が座中の最老人也。蕨氏其の次に老いたり。他の三氏はいずれも三十歳前後也。起き出づる頃、自ら年齢の順になれりとて笑う。三氏打連れて、室を出づ。暫くして戻り来り、「貴方は陰石を見られしか」と問わるるに、「見たり」と答うれば、「されど、恐らくは穴の中を覗かれざるべし。覗くに非ずんば陰石を見たりというべからず」とて笑えり。

※陰石とは、穴があるというので、陰陽石の陰(女石)の方をさすのか。不明。浪切不動尊に関係しているのか?あるいは、成東館の温泉施設のなかにあったのかもしれない。

 朝食の後、成東館を辞す。蕨氏は其の家へとて、別れ行く。我等一行は、成東の市街より東に行くこと十数町、松林を帯びたる小祠の前を過ぎて、なお行くこと二三町にして一の沮洳地(しょじょち:湿地)に至る。凡そ二町四方、中央に小径通じて、径の両側より沮洳地へかけて、尾花もあり、女郎花もあるが、いづれも短小にして高さ一尺ばかり也。沮洳地に入れば、短草の中に、小毛氈苔、長葉石持草、紫耳掻などの食虫草充満するを見る。余は門外漢なれば、唯一見たるままにて、草の上に腰をおろす。恩田氏は植物專攻の学士也。あちこち歩きまわりて、これはこれはと驚く。「毛氈苔、石持草もあれど、今は既に落葉せり。夏の初めは燕子花一面に咲く」など石井氏は語る。耕す人に問えば「この地四区にて分有せるが、やがて開墾せむとする筈なり」という。卮かりき危かりき、史蹟名勝天然物保存調査会起らずんば、この珍らしき天然物の地、空しく消え去らむとせし也。之を発見したる石井氏は、学術界の一恩人と言うべき哉。

 小川に沿うて東す。田盡きて樹林を帯びる部落あり。又山あり。又部落あり。成東より凡そ一里にして、作田北川岸という部落に達す。物売る家もあり。人家盡きて、松林あり。松林盡きて砂原を行くこと三四町にして浪打際に至る。幅の長き砂浜也。右の方には遙に大東岬を望み、左の方には遙に飯岡岬を望む。一大弓太平洋に向って横たわる。六町一里に計算して、九十九里の浜と称す。世にも長大なる浜哉。茫々たる太平洋天に連りて、一帆も見えず。幾重の巨浪寄せ来り、漸次小となりて砂を嘗む。男女老若打交りて地引網を引く。その引上ぐるまで見物し、取立ての鰹二尾を買いて、一旗亭に至り、料理を頼めば、間もなく刺身となって盤に上る。之を副食物として午食す。この鰹太平洋より出でて、一時間と経たぬに早くも腹中に入る。天下の至鮮なりとて、一同舌鼓打ちぬ。

 南すること一里にして片貝村に至り、片貝館の前より自動車に乗りて東金駅に著き、八鶴湖畔に逍遥するほどに、日暮れむとす。恩田石井二氏は成東に戻り、余は加藤氏と共に汽車にて東京に戻りぬ。

 八鶴湖は凡そ三町四方の小湖にて、三方丘樹に囲まる。徳川家康も来り遊べりとかや。南に本漸寺、北に西福寺あるのみにて、高等女学校なく、旅館なく、人家なく、煙突なく、丘の一部を切り離して作れる巨巌まがいの土塊なくんば、亦一種の仙境也。(大正八年)

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※原田三夫『思い出の七十年』の口絵に原田が北大の教師として赴任する際のお別れ会にあつまったメンバーの写真が掲載されている。これは大正8年頃のことなので、これ以前、すなわち大正7年がかれらの人生が大きく展開する時代だったと言えそうだ。



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