昭和24、25年頃、日本でいけばなを学んだアメリカ婦人のことば  『草月人』から

『草月人』1949年5月号 創刊号

西洋流のいけばな

ミセス・リリアン・テーリー


(前略)


(明治維新後)いけばなの哲学に於ては多くの変化がありました。古い理想を固守する必要はなく、その大部分は明治時代に駆逐され、そして多くのいけばなの流儀の発生に原因されて、新しい解釈と新しい表現を創り出そうといふ願望がありました。それでもまだ根本的な原則に執着してはいましたが、表出の多様性に於いて幾分変化して来ました。

 これ等の中でいけばなに於ける優れた趣味の普遍的な表現を獲得しようとかかった人は草月(私の飜訳が正しければくさのつきといふのですが)流の創立者でした。勅使河原蒼風先生は形式主義礼讃の厳格なシステムを教えられ、その時代の要求に対するその方法の不適合性を認めました。その中では、少数の者が、素材の注意深い選択に、仲間の儀式張った集会に、又は創作の鑑賞に於ける固苦しい礼儀作法に、余暇を楽しんでいた有様でした。こうして忙しい主婦でも暇人でも、各々十分なものをこの草月流のヴァリエイションから引出す事が出来ます。この流儀は、弟子のどんな創造的な衝動も完全な表現を見出すことが出来、そして芸術の哲学的原則からはずれることなしに居られる様な方法を設立したのです。進駐軍の婦人達は、日本滞在中、暇な人もそうでない人も、彼女等の要求に草月流の方法や手段を適合させて、その人その人の問題に対する解決を見出します。定められた容器もなく、草木の多様性に関して何の限界もないので、彼女は表現しようとする装飾的なモティーフを無視して、趣味豊な妥当な知識を引出します。幾人かは、彼女等の思いつきを表現する為に、草月流の方法の生半可な知識だけを望んで、その必要を充たすのに十分なだけのクラスに出席します。しかしその他に、すべての方法と技術とがマスターされるに違いない完全な芸術の上達から満足の感情を得ようといふ人達があります。後者の二三の人達は、指導者として兔許を得る事を望んで、勿論家に帰って彼女等の機会に恵まれない姉妹達にこの芸術を伝えるつもりで、蒼風先生の御指導の下で二年間を費しました。

 過去数年間にいけばなの技術がアメリカに押寄せたとはいえ、進駐軍の家族がアメリカ人の社会に戻った時にいけばなの復輿を見ることは明白です。アメリカの家庭の内部は、床の間や違い棚よりも、創作的衝動を十分鼓舞して、それ自身ずっと多くのヴァリエイションに適合します。そしていけばなが、大部分のアメリカ婦人が自ら好んでではないにしろ必要に迫られて従事している職業である室内装飾係の、正式な訓練の一部を占めるであろうことは、ありそうな事に思われます。いけばなの芸術が、変化の無い単調さを救う為に使われる場合は、家具の位置をしばしば変えたりすることは少くなって、いけばなの色や形の配置は無制限で有り得ますから、季節や気分と歩調を合せて絶えず変化する外観を部屋々々に与えます。

 アメリカ式の特殊な礼讃(流儀)を形成しようとする人々にとって、深奥の芸術を始めて知った様な人々に気に入るところの無意味なものがあります(※意味不明だが、アメリカ人に気に入るようなふうに用語や技術を改変することには意味がない、ということだろうか)。草花、使われる容器、生けられる材料そして生け方それ自身等の日本式の名前は、神秘的な雰囲気と秘伝的な魅力とを、この芸術に与えます。もしもそれ等が親しみ易い名前で呼ばれれば、これは失われてしまうでしょう。

 私の考えでは、アメリカの婦人は皆、花の芸術的な生け方に興味を持っています。そして彼女の方法を学んだ手と、色と形について修練を積んだ目によって、アメリカの家庭の内部は、現在日本に於いて進行中の研究のお陰で大いに美しさと優れた趣味に於ける向上を遂げることでしょう。

(筆者はアメリカ空軍大佐夫人にして家元指導、バンカースクラブ高等科卒業)


『草月人』1949年5月号

(上)写真解説

勅使河原先生が、バンカース・クラブでミス・バージニア・エヤーに教授されている場面のスナップ。先生は毎週火躍日に此処で、午前十時頃から夜の八時過ぎ迄教えられ、先生の教授を受けているミセス、ミスは約三百人あるのです


日本のいけばなとアメリカの挿花

ミス・バージニア・エヤー

 勅使河原蒼風先生から、私にいけばなについて何か書く様にとのお話がありました。どうもむずかしいお言いつけです。日本のいけばなは疑いもなく世界的芸術の列に位していますが、にも拘らず未だ比較的日の浅い私に、何かそれについて話す様にとの御依頼があったのです。多分私は日本とアメリカの草花の扱い方や使い方を対照することで、先生のお言いつけを果すことが出来るでしょうが、同時に深みにはいることは避けるようにします。アメリカ人は草花が大好きで、家庭ではこれを自由に利用致します。しかしそこに生れる装飾的効果は、日本のいけばなとは全く異っています。私にとっては、典型的な日本の生け方は、しばしば風景式庭園や、或は池を微妙に暗示する様な生き生きとした平和な美しさを持つ絵画を描き出させます。一方普通のアメリカの花の挿し方は、部屋に対して意図的な色彩の配合を表しています。

 日本の生け方は、種類や色彩の異った植物を組合せますが、アメリカの挿し方では、一種類似上の花を使うのは稀で普通は色も一と色だけです。日本の生け方は、花の構造に殆ど注意を払いませんが、アメリカの挿し方では、花が一色の集りとして使われるのですから、その挿し方が、他の室内の調度と似合って使われるかどうかを定めるのに、花の構造ということは非常に重要になって来ます。

 これ等は日本のいけばなとアメリカの挿花の間の、外観上の幾つかの差異です。又何時か私は、これ等外観上の差異についてもっと詳しく討議したいと思っています。しかし私は、ここでは日本とアメリカの花の扱い方の根本的な技術の違いを論ずるだけに止めた方がよいと思います。

 勅使河原蒼風先生は、日本の生け方は、線と色と量とを以て表現されなければならぬと敦えられますが、私は先生が単に色と量とを以て表現せられている普通のアメリカの挿し方について、批判をお持ちであろうと信じます。たとえ線がアメリカの挿し方に附け加えられたとしても、私にはそこになお日本の生け方とは著しく異ったものがある様に思われます。いろいろ考えた結果、この差異に関してはまさに根本的な理由があるという結論に逹しました。そして、この根本的な差異は、日本のいけばな対アメリカの挿花の感情の面での基本的相違を説明するだけではなく、あなた方の庭園や、絵画や、著作と、私逹のそれとの相違を特徴づけるものでもあります。この根本的な差異は三次元の使用です。一般の日本人は……多分潜在意識的に……いけばなを三次元の条件で考える傾向がありますが、これに反して、一般のアメリカ人は……矢張り潜在意識的に……このことを、唯二次元の条件で考える傾向があります。この差異は最初はごく微妙な区別に見えるかもしれませんが、しかし私は人がこの要因を考えれば考える程、益々それを日本とアメリカとでの芸術的行跡の間の基本的な違いとして考える様になるであろうと信じています。多分二次元と三次元の差の持つ意義を捕えるのは、アメリカ人の方にとってより容易しい事でしょう。何故ならばあなた方は幾世紀もの間三次元での構成に慣れてしまって来て居られるからです。

 一番簡単に申しますと、二次元と三次元の差は、最初景色を片方の目で眺め、次に同じ景色を両方の目で眺めることで説明されるでしょう。最初の眺めでは景色は平面的になる傾向があり、二度目の場合景色に奥行が出て来ます。皆さんは何か普通の写真を見て、次にその同じ写真を実体幻燈を通して見た事がおありですか。もしおありでしたら、著作や、絵画や、庭作りや、いけばな等に於ける日本とアメリカの差異を区別する根本的なものと私が考えている三次元の要因を、あなたは既に観察されたことになります。

 この日本人の三次元の直感は、空間の`諸条件に対する注目すべき適合を示しています。三次元的に構成されたいけばな又は庭作りは、空間の幻影が無かったら存在しないでしょう。

 この根本的な要因に対する私の徐々な目覚めを見守るのは非常に興味深いものでした。私が最初にいけた花は私の気に入りませんでした。何故だが解りませんでしたが……というのは私は規則に従ってやったのですから……しかしそれが私の作ろうとしたもので無かったことは確でした。暫くたつうちに、私は自分のいけ方が日本のいけ方にある奥行に欠けていることを理解し始めました。このことに気ついた為に自分のいけ方により大きな満足が持てるようになりましたが、しかし私はまだそれが私が作り出そうとしているものでは無い事を知っていました。私がいけばなに於ける三次元の機能とその根元性を意識的に認めるに至って、私は突然何故私の以前の仕事が私を満足させなかったかを会得したのです。この理解の瞬間から、私の両手は急に私が頭の中で考えていた絵を創り出すにはどうしたらよいかを知ったかの様に見えました。私は、完成した時にそのいけ方に生命ががある様な感じにいけることが出来ました。奥行の概念が三次元の概念へと発展するまではさうはいきませんでした。以前私が奥行のことだけに骨を折っていた時は、私のいけ方は静止的に見えました。

 私がすでに数回申した様に、三次元の有無は日本とアメリカとの花の扱い方に於ける根本的な相違です。日本の生花の芸術を学ぼうと試みつつあるアメリカ人が、意識的にこの相違に注意するのでなければ、アメリカ人の芸術的完成は一般に限定されたものに止まるでしよう。

 私が考えるのに、これからの数年間に、師範の方逹にとって、日本人のお弟子さん逹に対してもやはりこのことを意識的に気づかせる事が必要になるのではないでしょうか。確に近頃一部の学校で日本のお習字の教育を課程から削除したことは、子供達にとって、半ば無意織のうちに彼等の両手を二次元だけで使う様に助長します。他の西洋風の諸習慣の採用は、多分この傾向を強めることでしょう。

(筆者はアメリカ経済科学局勤務)


(註:三次元とは、長さ、幅、奥行で立体的構成をなすもの。二次元とは、長さと幅だけで、平面的構成をなすものを言う。)



『草月人』1949年6月号

トーマス少将夫人のことなど

小川青虹

※小川青虹女史は、草月流の師範、本部の総務という重鎮であり、語学堪能なため、戦後の外国人向けのいけばな指導で通訳を務めるなど重要な仕事をされた。戦前、新渡戸稲造の秘書をされていた人物で、草月流をならうように勧めたのも新渡戸。新渡戸に草月流を勧めたのは内田駐米大使夫人であり、この人は日本のカーネーションの父、土倉龍次郎氏の妹という関係であった。



 勅使河原先生にお目にかかるには、バンカース・クラブ以外にないということが、いつとはなしに、外人間に知れ渡るっていると見えて、此処に直接いろいろの交渉に

来られる外国婦人の数は日と共に多くなって来る。もっとも多いのは、プライベートーレッスの希望であるが、到底駄目だと断られて、止むなくクラブの一斉稽古に参加するか、特に都合のある人は、どなたか御門下の先生をお世話して下さいということになって、大体話のケリがつく。いつもお手伝いをしている私も、此頃は大分長い間の経験で、教室に人って来る人逹の様子で、大てい用向の判断がつくようになって来た。

 トーマス少将夫人もその中の一人で、プライベート・レッスンを望まれるのであった。

 勅使河原先生が日本に於けるいけばなの第一人者であることを、十分御理解の上での懇願であったが、先生が余りにも御多忙の為め、止むを得ず私が伺うことになったものの、すでに米国各州での盛んなフラワー・ショウの審査員として、或はすでに教えてもおられたという、豊富な経験の持主であられる夫人に、果して満足をお与え出来るかどうかが、内心一寸心配だった。

 お稽古はじめの日は、五月雨の音もなく降る中に、お庭のかいどうの色が一入美しく、目に沁みるような朝だった。

 いつも感じさせられること乍ら、教養ある米国婦人の謙譲さと、巧みな人をそらさぬ社交振りには、私の心配などどこへやら十年の知己のように打とけて、お話の出来たことは何よりも嬉しいことだった。

 トーマス夫人は、今から丁度二年ばかり前、勅使河原先生が、草月流のお稽古を励むアメリカ婦人達の為に、特にマックアサー元帥夫人の御来臨を仰いで、丸の内のバンカース・クラブで、第一回の卒業記念花展を開かれた時、第四位で入賞されたミセス・センターから、当時、すでに、日本の草月流のお話を聞かれ、蒼風先生に教えを仰ぎ度いものと、ひそかに日本に来られる日を待っていたとの御述懐。

 その念願がかなって、この春、支那駐屯から、日本にお移りになるや、早速蒼風先生の御住所を探しておられた夫人は、ある日ホテルではからずも、文部大臣招待花道展の招待券を手にされたのであった。

 この花展は、四月一日から十日まで、上野の美術館に開催され、日本ではじめて、文部大臣が全国華道家代表者を招待しての出品という内容に、華道家は無論のこと、世のいけばな愛好者の注目をあび、その盛況はさしも広い美術館の会場も人で埋まる感があった程である。

 特に会期中、外国婦人の入場が一際目立って多かったのも、如何に婦人達が日本のいけばなに、関心を持ちつつあるかを如実に示したものと言えるであろう。

 民主主義国家に生れ変ったとは言い乍ら会期中。咫尺の間に、皇后様の御言葉を賜り、また、三笠宮両殿下の御来臨を辱うしたことなどは出品者一同の身に泌む感激で、まことに忘れ難いものがある。

 草月流では、勅使河原先生の外に、北は北海道代表として、塚本香春師範の投入大作、マジョリカの器に渋い色の配合が印象的だった。岩手県から黒川一陽新総務のあざやかな神楽椿と、桜の力作、新潟県からは、これも新総務の草間石青女史の長瓶大作、宮城県代表佐藤光菘参与のしだれ柳にバラの見事な作品は、殊に外国婦人達はよろこばれていた。

 山路静風氏は栃木県を代表して、にれざくらに紅つつじの上品な投入、静岡県代表竹地龍三総務は椿に朝鮮れんぎようの投入大作、神奈川代表日向洸三参与は、マジョリカの器に大王松とつつじの配合が見事だった。

 東京からは、総務陣から、岡野月香顧問が長方大水盤に独特の作風を見せられ、伊藤青寒顧問も、アスパラガスにてっせんの線美を表現した優美な釣花。大久保雅充氏の山吹と雅柳と朱塗の器の対照は美しかった。溝田陽風総務の盛花は、大水盤に、枇杷と紅白の源平桃、氏一流の技巧を十分に発揮された見飽かぬ雄渾な力作。小林草里新顧問は、釣り花器に桜と神楽椿の美しいとり合せ、小牧星羊氏の朱塗の器に配された金柾木と中心に引き込んだ棕梠の葉はダイナミックな印象深い作品、私は楕円の大水盤に、水面を広く見せたい狙ひで、さらさぼけと、うす藤色のつつじを、夢中でいけた。

 而し、何といっても、この会場に異彩を放ち、出品者は勿論、参観者をアッと言はせたのは、勅使河原先生の作品であった。

 外に誰が、あの構想を考え得たであろうか。余りに草月流模倣作品の氾濫時代に、ピシャリと平手打を食わせて、いけばな芸術の境地まで、数段引離させた感さへ受けた。

 作品は、世にも珍しい白高麗の大水盤に枯木二本、手前に、こんもりと伽羅の厚い繁りを強調し、その間にあざやかな色の紅つつじ、れんぎようの黄金色に、えにしだの濃い線をバックの白に浮立たせ、強い中に、飽くまで先生特有の如何にも洗練された優美なこの作品は、「再建の賦」題されて恰も戦禍によってよみがへりつつある現日本の姿を表現されたもののように思はれた。今までのテクニックだけの模倣では到底追いつけぬといった境地の作品であった、が真にこの作品の真価を理解出来る人が、果して何人あったろうか。

 さて、私はトーマス夫人のこの花展観察談をうかがって、大変興味深く思ったのであった。

 先づ夫人は、最初は一通り会場を案内された方の説明を聽くだけに止め、次に更(あらた)めて第一席から、今度は御自身独自の立場からこれ等の全作品を、アメリカの大ホール飾った場合を想像して、審査員の立場にかへり、厳重に、慎重に、一作づつ審査されたというが、その時間は実に三時間有余渡されたリストにメモをこまやかに記された上、参考に作品写真を多数求めて帰られたということである。御自身「実に嬉しかったことがこの会場であった」と言葉を改めてのお話は、最後の作品七十四席の前に立たれた時、「今まで見て来た作品とは余りにも異るその作風と、優雅な雰囲気に、大急ぎで手にしたリストに目を通すと、それが何と、今の今まで私がお目にかかりたいと願っていた先生の名ではありませんか。『蒼風先生がここに居られた』と思はず独語したとほほ笑まれた。

 会場を一巡した夫人は、売店で種々の出品作品の写真を求めて帰宅されるや、夜おそくまで、メモと作品写真とを根気よく照し合せた結果、草月流の作品に、すぐれた共鳴点を多数発見され、益々草月流への入門の決意を強められ、早速、バンカース・クラブヘ教を乞いに訪ねられたというのであった。

 天皇御誕辰の四月二十九日の夜は、戦前勅使河原先生の個展に最も縁の深かった神田一つ橋の如水館内の、今は進駐軍の劇場になっているホールに、懇望せられて、先生は各室に豪華な挿花をされた。

 当夜は、特にマックアサー元帥御夫妻、両陛下を始め。各宮殿下も御臨席とのことて特にその夜の催しにふさはしい雰囲気をそれぞれの花によって、醸し出されたのであったが、特に元帥夫妻と両陛下御交歓を指定された室の中央、大理石の大卓の真中に先生御考案による朱塗の高鉢を配し、大王松を中心に、今を盛りの八重桜、紫と白の藤を周囲に、紅つつじを高く、低く中心にぐっと引込まれたこの大自然を圧縮したような一瓶の見事さ、その左右の卓上には松の小枝に、紅白のバラを添えた印象的な親しみ深い作品、或は朱塗鍵形水盤に、しだれ柳とかきつばたの、純日本趣味の株だけ。

 衝立風の釣と花器から、優美に下垂するこでまりと、てっせんの曲線を受けて、下の水盤には、一方に凉しげな海芋の盛花とその向うに真紅のつつじの一株の綜合花。

 いづれの作品も、四方から眺める位置に置かれたものばかりで、当夜多数招待された進駐軍将校夫人方のよろこびは、非常なものであったと、トーマス夫人は、夫人の所に伺ふ度に、何彼と報告して、共によろこんで下さるのである。

 八月までの限られた滞日期間に、師範の資格まで頂きたいといふ夫人の御熱心な御稽古振りは、実に積極的で、その進歩も著しいものがある。今はバンカース・クラブの一斉教室へも来られて、直接勅使河原蒼風先生に師事され、帰国後は、アメリカの婦人達に、是非草月流を数えるのだと大きな希望のうちに精進されている。(筆者は草月流師範会総務)

トーマス夫人の肖像

『草月人』1949年9月号

日本趣味に浸る歓び

グレディス・W・トウマス(星華)


 東京にやって来るという事は、総ての草花愛好者にとって特別のスリルであります。到る所に花屋さんがあり、少くとも大人や子供の半数は花を買ったり活けたりしている様に思われます。小さな少年達がはりえんじゅや日本椿の大枝を持って街を歩いている様子は、私達西洋人にとってとても珍らしく、絵の様に美しく感じられます。どんなに小さい質素な商店でも、みんな窓の所には挿花や、又見事に活けられたいけばなを飾っている様です。

 極く僅かの時間で、私は花屋の店先にやって来ました。其処で私は、空の様に青い花瓶と一束のはりえんじゅと、二三本の黄水仙を買いました。その花瓶と花とはよく似合って美しく、私は楽しい満足感に充たされました。

 此の一寸した手始めから私は歩を進めました。花瓶は、花と同じ位に美しく、そうして花や葉っぱの美しさを高める様に工夫して作られてあります。花瓶や茶道具を売る店には、誰よりも親切で助けになる店主がいます。彼も亦花を好み、いけばなをやります。そうして沢山の役に立つ効果的な器具を揃えています。

 古い青銅や陶器の花瓶は全く美しいものです。其れ等には何等人の心を花の美しさから逸らすものはありません。そうして優しい注意の行き届いた態度で花を支えている様に見えます。いけ花の籠は、私が今迄に見た籠の中で最も興味深いものです。種々の季節に依って異る花器を用いるという事は何と素晴しい事でしょう。花籠は涼しく軽快で優雅なものです。そうして其の中に活けられた簡素な花は全く静かな感じがします。

 私は草月流の創流者である勅使河原蒼風氏の許で学ぶ事が出来るので誰よりも仕合わせです。氏は、古来のあらゆる高尚ないけばなの美しさと、我々の洋式の家庭に非常によく順応した色彩の調和と線の用い方とを結び付けられます。

 私がアメリカの家庭に帰る時には、私のお花の先生である小川青虹さんと一緒に過した沢山の楽しい時間の思い出を持って帰る事でしょう。小川さんの優美さと確実さと器用な手つきは見ていて楽しくなるようです。其れは同時に又全く人をだまします――というのは、其れ等の飾り気なく簡箪に見える事柄が屡々(しばしば)全くむずかしい事だからです。彼女は生きている材料、他の紙や絵具や石やのみ等の様な材料と較べて、より深い感情を表現する材料で、画を描きます。

 仕事をしている最中に私達は、大きな、窓の様に青いあじさいや、芳ばしいケープジャスミンの咲いている庭を見渡します。私達―小川さんと私―は、詩人が「美しきものは久遠の喜びなり」と言った時には、彼は心の中に此の様な庭園を描いていたのであろうという様に考が一致しました。毎日々々此の庭は新しい美しさと魅力を持っています。桜の花が咲いていた頃には、私は毎朝起きて素晴らしい日本楓の廻りに沿った華麗なピンクの花の雲を見つめるのが常でした。丁度私の部屋の窓の前にバラ色の椿が立っていました。十分に高かったので椿の花は私の部屋の窓から中を覗き込みました。そうしてこう言う様に思われました。「お早う、外に出て私と一緒に此の素晴らしい春の朝を楽しもうではありませんか。」と。

 此等総ての絵の様な思い出の数々を、私はアメリカに持ち帰るでしょう。――桃の花、あじさい、ケープジャスミン、其等は私に、私の最愛の南の国にある祖父の庭園を思い出させます。それから私の美しい先生――お花の名前を、流れにかかる虹、即ち小川青虹先生とおっしやる方を。

(筆者は羽田米軍航空隊司令官トウマス少将夫人)


『草月人』1950年8月号

ニューヨーク通信

グラディス・トーマス


親愛な青虹さんへ

 この頃しきりにあなたのことを思ひ出して居ります。フラワーショーが方々に開かれてをりますので、それを御覧になったらあなたがどんなにお喜びになることでせうと思ひまして。

 私はフィヤデルフィアのショーに出品する筈でしたが、ワシントンにいる親しい友人が突然亡くなられた為、そちらへ参らねばならず、その代りニューヨークのショーの最後の三日間を見ました。それはとても美しうございました。このショーでは、植木屋、花屋、造園家達が大部分を占めて居りましたが、ガーデンクラブも幾つかの作品を展覧致しました。ここにニューヨーク

連合会のスケデュールを同封してお目にかけます。アメリカのガーデンクラブも展覧会を致しました。ニューヨークの園芸協会は五十年記念をお花で表現致しました。

 でも、あなたにお教へ頂いた現在の私には、そのお花はとても量が多過ぎるやうに感じられました。

 青虹さん

 私はニューヨークのガーデン連合会の会長さんから日本のいけばなとその歴史について話すやうに頼みを受けて居ります。勅使河原先生かあなたが、もしそれについての英文の御本をお持ちでしたら、貸して頂くか、買はせて頂けませうかしら?

 今年の秋頃、私のお友達の一人がいけば

なの本を出版することになって居ります。そして私に論評を書けとのことなので、少少日本のいけ花について、また草月流のことや勅使河原蒼風先生のことも書かせて頂きましたが、お許し下さることと思ひます。

 この本は贈りものとしてもとても美しく価は十ドルでございます。もし私が講演したり教へたりするやうなことになりましたら、それはたしかなものでありたいと思って居ります。

 三月に大百貨店でお花をいけました。多分お聞きになったことがおありと思ひますが“Wanamakers"といふのがその店です。私は蒼風先生がデザインなさったあの投入の花瓶を使用致しましたが、皆さんからとてもほめられました。その花展は審査展ではなく、ただの招待花展でした。

 あなたは相変らずお忙しいですか?

 私は本当に東京の一八七号の家の、可愛い美しいお庭を忘れ難く思っております。

 もし本や手紙をお送り下さる場合には、ジョンソン飛行場に居られるカディントン大佐か、又は帝国ホテルに止宿して居られるG・H・Qの長島様にお頼み下されば早く私の所へ届くと思ひます。

 ニューヨークにいらっしゃるあなたの御門下は、コーさんと仰言いましたか?御住所をつい分らなく致しましたので、お知らせ下さいませ。今ニューヨークで教へていらっしゃる日本の婦人がありますが、あなた程上手ではございません。

 御存じの様に私は図を書くことが下手ですけど、先頃の花展で曲った梨の枝に蔓のからんだユーカリ樹に、ミモザとガーベラとをあしらひました。ミモザとガーベラは控に使ひましたが、器との色の対照がとてもきれいに見えました。

 何時ぞや私が草月人の為に書かせて頂きましたあの号がございましたら、拝見したいと思ひますので、送って頂けませんか。

 どうせ読めは致しませんけれど、写真を拝見するだけでも楽しいと思ひますので。

 御一緒に過したあの午前中のお稽古の楽しさを憶ひ出し、またああいふ日が繰返されたらと、時々思ひ浮べて居ります。

 御本のお代もお知らせ願ひます。では又。

 グラディ・トーマスより

(筆者 師範会会員)

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