石井勇義氏の交友関係が垣間見える記事  吉野作造、信次の弟、四男、正平との交友  石井没後、1956年の回想

●桃源社『桃源』(52) 1956年10月号  国立国会図書館所蔵

※吉野正平(吉野作造の弟、一家の四男、次男は政治家の吉野信次)

https://karuchibe.jp/read/10064/

※石井は、吉野正平とたいへん仲が良かったようだ。吉野は作家の加藤美侖と親しかった。

https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1611.html

(『思い出の七十年』原田三夫 誠文堂新光社 1966)

※『桃源』は最初の頃、吉野正平の印刷所で印刷されていたようだ。

栃木県鹿沼市麻苧町の住所がある。

※「校正の神様」神代種亮(こうじろ・たねあき/たねすけ) Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E7%A8%AE%E4%BA%AE

※神代氏の話も出てくる 『牧野植物学全集』のしごとがいかにたいへんであったか 石井勇義氏の所感

https://ainomono.blogspot.com/2023/03/1011.html


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殺人コーセイ

……コーセイはコーセンの誤植?…

吉野 生 (吉野正平)


 筆者の悪友の一人に神代種亮(こうじろ、たねかず *たねあき)と申す仁があった。大正で活躍し昭和十年かに鬼籍入りしたが初対面の折紹介者は「この人は校正の神様だ」との御託宜。夫子自身もこれを自負していない素振りは全然見せぬ。とにかく雑学者であり、識古今に通じ、学東□を貫くといった次第で雑談は面白かった(東□と西を伏せたのは後で判ります)

 荷風の「濹東綺譚」にも登場してる程だから当時の文人墨客や、特殊の学界人の間に相当交遊関係があり、その頃彼は毎夜の如く銀座の某喫茶店で荷風と落ち合ってるから……との話だったが筆者は東京を離れて暮していたから両雄会談の末席を汚すの光栄に浴し得なかったことを昨今になり少し惜しい気がする。

 彼は愛書家で稀覯書の蒐集家といわれたが、筆者はついに書庫は見せてもらえなかった。

 「僕が死んだら墓石を本に型取ったものにし墓碑銘は芥川に頼んである」とのことだったが、後で多摩墓地に展墓したら平凡な石碑であり、芥川は彼より早く自殺したからこれは念願の果たしようがなかったのかも知れない。

 牧野植物博士の愛弟子の一人に石井勇義(一昨年夏他界した悪友)というのがあり、誠文堂以外から自著を出した事がないという誠文堂一辺倒。神代が若干米塩の資に欠乏しているのを仄聞(そくぶん):側聞)し一つは救援の意味から一つは「校正の神様」の真価発揮好機とばかり、博士の植物全集四巻モノ刊行に当り校正全部を神代に委囑するよう誠文堂に進言し許諾された。

 この本には植物名の原語が沢山あり、ラテン語、ギリシヤ語まで混っていたが、不幸にも「神様」は学東西を貫かず欧文にはからりきしの文盲とあっては神通力も効かず、といって今更「神の座」を降りるわけにも参らず文字通り日夜懊悩苦悶。はては自らの死期を早めるに至った――との噂が吾々悪友仲間に喧伝された。春秋の筆法をもっててすれば「石井の親切神代の死期を早む」

 以上が殺人校正の回顧談。校正(後世)怖るべしの実話。

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