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切り花用の「千両」栽培の歴史 都内荏原郡(世田谷、目黒、品川、大田区あたり)で小規模栽培されていたものがクリスマスから迎春用の花材として需要が急拡大した

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『実際園芸』第14巻4号 昭和8年増刊号 宅地利用の 千両の栽培 石井勇義 切花としての千両 栽培は相当古くから行われているのであるが、切花としては以前は 東京府下の西多摩郡荏原区の農家の宅地内に栽培せられていたに過ぎなかった のである。その後千両が日本式挿花に使用される以外に、洋風の挿花にも、またクリスマスの切花としても需要が多くなり、久しき間品不足のため非常な高値を持ち続けていた。 一体に花の少ない年末から正月にかけて切り出せるので、かく活花(いけばな)や盆栽として珍重されたのである。そして今日ではますます需要が多くなり、その栽培も組織だった方法が行われるようになったので、農家の副業としては最適なものと思われる。 前述のように最初は一部分の地方で栽培されていたに過ぎなかったが、その 需要の増加につれて、千葉県房州、山武、匝瑳、長生の各郡をはじめ、埼玉、茨城、神奈川、静岡等の諸県に於ても栽培されるようになり、東京はもちろん、大阪市場にも多く出荷されている 状態である。 千両の需要と市況 かく千両は現在では各地に置いて栽培されているが、その生産地によって気候、土質、水質等が異なるので、従って生産品に自然影響して市況に差異を生じている。だいたいに於て東京付近は土質は荒木田系統の粘土である上に、気候も他に比較して千両には寧ろ寒すぎるから、冬期の管理には非常に手数(てすう)を要するが、その生産品はガッチリ緊(しま)ったものができる。即ち葉が小さく、葉肉が厚く、節間のつまった実付きの固い水揚げの良好な優等品を生産する。その上に、市場に近い関係から東京市場では最も高値で取引されている。 神奈川県のもの及び千葉県房州、茨城方面のものは、気温が高すぎ、しかも土質は砂土系統の軽鬆なものであるため、軟弱な徒長的な教育をする。即ち葉は椿の葉のように大きく、節間は伸び、実着が脆(もろ)くボロボロ落ちやすく、水揚げも悪いものが多い。静岡、千葉県山武、長生、匝瑳のものは前二者の中間のものが生産される。 以上のように生産地に依って値段の高低は免れぬことは分ったが、然らば現在の市場に於てはどの位に取引されているかというに、一昨年末に於ては上物(じょうもの)十三、四銭、中物七、八銭、下物(げもの)三、四銭位である。勿論凡ての草花類が下落している現在であるから、自然千両にあっても多少の変動は免れぬこ

アメリカから日本に帰って花屋をはじめようとされる方へのアドバイス  昭和八年 『南加花商組合史』から

『南加花商組合史』 池上順一編 昭和八年 南加花商組合史編纂事務所 ****************************** 米国カリフォルニア州南部の中心都市、ロサンゼルス周辺の日系人による花商組合創立10周年を記念して制作された組合史の第5章は、加盟花商による寄稿と日本の花商組合を代表して、「 園芸通信社」の編集者、ライター?の井田秀明氏 が当時の東京の花店事情を詳細に記している。 『実際園芸』誌にはよく出てくる 川泉弘治 氏も 東京温室栽培者組合嘱託 と併記して、 実際園芸嘱託 という肩書がある。 ****************************** 第五章 寄稿 損して得とれ 伊藤清富 古来商売は「損して得とれ」といわれいるごとく、正直に親切に良いフレッシの花を売り捌くのはフロリストとして最も大切なる事と思わるる。 新らしい花をキープして置いて古い花から手渡しすれば非常に気もちはいいが、受取ったその人の身になって考えて見れば「不信用」を売った事となり、儲かったと思ったのが結極損をした事となるわけである。 商売に限らず凡て何事でも自分を土台とせずに人の身になって考える事は誠に大切な事であると思う。 即ち他愛は自愛のもといであり功徳に報酬はつきものである。 一例を挙ぐれば、羅府市に於ける藤井整氏の如く、常に吾が在留同胞のために、あらゆる訴訟問題に就て、或は一昨年以来の不祥事件に対し、社会廓清のため己を忘れて奮鬪なしつつある活動に対し、羅府新報と、羅府日米と、桑港日米とが、罪ある奈良豊治氏へ、わざと謝罪書を公開せしめるのみならず、却って藤井氏の活動及び言論の自由をさえ束縛せんとするにあり。故に正義の士は決然立って「藤井整氏後援期成同盟会」を起し、遂に藤井氏を社長とする「加州毎日新聞」を発行するに至り、其の創業費少くとも五六萬弗を要するという。それを聞知せる人々でしかも藤井氏と未だ一面識もない見ず識らずの人々が、氏の活動に参加し援助せんものと、二千弗三千弗という大金を、氏の許によせて「どうぞ之を使って下さい」となげ出されし幾多の事実を見る。また同時に南加各地のいたる所に、加州毎日新聞をヘルプすべく後援会が組織され、幾百という、かたまった購読者を募集するものあり、或は自ら進んで寄附金を集めて馳せ参するものあり、斯して見る見る中に彼の大業を容易に完成せしむる

冬場の切花の水揚げ法と保たせ方 昭和九年十二月

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 『実際園芸』第17巻8号 昭和9年12月号 切花の知識 冬の切花とその保たせ方   岡安嘉市 (飯田橋花園)※元・高級園芸市場勤務 冬の切花類 十一月末頃からお正月にかけてどんどん出てくる切花は、切花類の中で一年を通じて一番高級なものであって、温室物がその大部分を占めております。その代表的なものは、バラとカーネーションと鉄砲百合とスヰートピースとフリージアと洋菊とでありますが、その他チューリップ、ゼラニューム、ヴァイオレット、マーガレット、ルピナス、金魚草、アマリリス、カラー、スプリペデューム、シクラメン、房咲水仙、アヂアンタム、アスパラガス、ブヴァルジア、ポインセチア、エリカ、その他木物等も出で、露地物としてはステヴィア、千両、寒牡丹、寒菊、ハボタン、水仙などが出てまいります。 これらの切花類は、いずれも夏の切花と違って、割に花持ちがよく、従って投入や盛花や挿花或は洋式のデコレーションなどに用いるとしましても、強いて面倒な工作をせずとも結構長保ちするものであります。しかし最初の取扱い方を誤ると、ものによっては容易に水揚げしないことがあります。またその後の取扱い方がよろしければ、たいていの切花はさらに一層長く保たせることのできるものであります。私はそうした意味から、冬に出てくる個々の切花について、最もよいと思われる水揚げ法を申し上げ、序(ついで)に花を長く保たせる秘訣をお話したいと思います。 温室バラの保たせ方 温室バラの切花はほとんど一年中を通じて出て参りますが、寒い時分にはいいものは出ません。十二月に這入ってから漸く品質を回復し数量もグッとふえていよいよ温室バラのシーズンになって参ります。 これには主なる品種だけでも十種許りありますが、一番人気のあるのはペルネ種です。それからハドレー種、バターフライ種の順であって、そのほかイージーヒル種、プライヤークリフ種、ダブルキラネ種、新らしいものではカレドニア種(今年の新種)などがあります。往年大変な人気を博しましたタリスマン種は、今ではたいした人気はなくこれ以下に下がってしまいました。 温室バラの水揚げ法としましては、従来その切り口を切戻す即ち切り直す人と切口を鋏の柄または金槌の細きもので叩いてグチャグチャに潰す人とがあります。私は切口を煮るのが一番いい方法だと考えます。その方法は、まず新聞紙にて切花をよく包み切口い所

高砂百合の由来について 小石川植物園 松崎直枝

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『実際園芸』第17巻8号 昭和9年12月号   高砂百合の身元調べ 小石川植物園  松崎直枝 何時か園芸座談会の時に、 吉田進 翁に特に先きに広瀬巨海氏から高砂百合の別名に リリウム・ヨシダイ というのがあるはずだと言われたのを思い出して、翁に直接伺った事があった。それは一千九百五年に ライヒトリン (Leichtlin)という人が吉田氏から種子を送って貰って開花したのを見ると一種の新らしいものだから、と言って、ガーデンに発表したものであるらしい。 ※座談会のようす リリウム・ヨシダイと高砂百合の話 https://karuchibe.jp/read/10373/ ところが、吉田氏が如何にして此の種子を入手して送られたかを伺ったが、それは明瞭に記憶しておられなかった。即ち台湾の友人からでも台湾の百合の種子だくらいの所で送られたのを、英国のこの人の所へ送られたものであろう。最近に於てといっても、一千九百二十年の植物雑誌に、この高砂百合に就ての詳細なる図解があるのを見ると、日本園芸植物を知らねばならぬ自分達には、かなりいい材料と思うので、それを紹介したいと思う。記者はオ・スタッフ氏であるが、氏はもうこの百合に就てはその歴史、培養等に就てほとんど述べ盡されているはずである。特にウィルソンやグローブ氏等のものに附加する必要はないほどである。 しかし、ここに多少の蛇足を加えさせてもらうという謙遜な辞を述べて、次のように詳説してある。 高砂百合の最初の発見は、一干八百五十八年、台湾の西部海岸地方で、英国キウ(※キュー植物園)の植物採集家チャールス・ウィルフォード氏(Charles Wilford )が発見したのに初まりて、その後次から次と採集家によって採集はされていたが、別に特別の注意を払われないでいたのは、この百合が特別の所のみになくて、殆ど全島に分布しているからだったのかも知れないが、その一因は確かに熟知せられている、ベルグ氏によりて命ぜられた鉄砲百合(L. longiflorum)と同一視せられたのによるものと思われる。その後ジェムス・ベッチィ商会の雇員たりしチャールス・マリース氏(Charles Maries)が一千八百八十年に、この球を採集して送付した。それが翌年に開花して鉄砲百合の台湾変種即ち(L. longiflorum var. formosanum Baker

有楽町駅前にできた「高級園芸市場」がどこにあり、日比谷、西銀座へと、どのように移転していったのか

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※最初にまとめると、 1923年の関東大震災後、温室経営者らを中心にした生産者の組合(大日本園芸組合)が花市場を開業することを決定し、場所は東京の政治経済の中心である有楽町とした。 まずは有楽町の駅前のビルからスタートするもあまりにも手狭なため晴海通りを渡った日比谷公園の近くに移転する。そこは現在、2018年に開業したミッドタウン日比谷がある場所である。三井グループが所有する土地(有楽町三井集会所:三井家の迎賓館)であったようだ。 その後、バラックがあった場所には三井系の三信ビル等が建設されることになり、昭和のはじめに、銀座の大通りに面した場所に移転する。通りが拡張され、 区画整理を終えた 当時はまだ南佐柄木町となっていて昭和5年頃に町名が改正され銀座西6丁目となった。大通りには市電が通り停留場(銀座西六丁目)もできた。  参照 https://ainomono.blogspot.com/2022/12/121220.html 【高級園芸市場の移転のあとを追う】 ※有楽町には、明治時代から東京市役所(のちの東京都庁舎)があった。現在の国際フォーラムのあるところ。 また読売や朝日、毎日、報知、国民など有力な新聞社が何社も存在した。帝国ホテルもあり、まさに日本の政治や経済の要所であった。 いろいろ調べて、住所表記があるものを以下に示す。 1 、有楽町駅前、埼玉銀行ビルの地下にてスタート 2 、あまりの狭さ不便さにすぐに地上にでる。   それは戦後スバル座ができた場所(現・有楽町ビル:1丁目10番地) ※この1と2はほぼ同じ場所を示しているのかもしれない。 つまり、有楽町駅前の埼玉銀行のあるビルがあったのが、現在の有楽町ビルが「あるあたり」であった、ということかもしれない。それだけ、近い、ということです。 つぎの移転場所は同じ有楽町1丁目といいながら、すこし離れています。大通り(晴海通り)を渡るのでよけい遠くに感じます。 3 、さらに移転し 「日比谷のバラック」 で営業した。   住所は、 東京市麹町区有楽町1丁目4番地 有楽町駅からは大通り(晴海通り)を渡った向こう側だが、4番地は日比谷公園寄りの「三信ビル」が建っていた場所であった。たしかに、日比谷公園のすぐ近くで「日比谷のバラック」と呼ぶにふさわしい場所だった。※バラックを片付けて三信ビルが建った。三井の迎賓館として

【十四日会】大平洋戦争が始まる10年前から月に一度陸軍関係者から情勢を聞き園芸界の指針を見定めていた石井勇義氏のすごさ

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『実際園芸』第17巻8号 昭和9年12月号 我が国固有の園芸品種の保存について   石井勇義 はしがき 我が国は古くより園芸技術の進んでいた国であり、鑑賞や趣向の上にも独自の立場で進んで来たために、今日までも固有の園芸品種が栽培されていたことは申すまでもないが、今日時勢の推移とともに、旧来のものが漸次に失われてゆく傾向にあるが、これは花卉のみならず、地方特産の蔬菜に於ても、果物に於ても同じようである。これらの園芸作物のうち、商品価値の低きものと、花卉にありては切花などにならず、実用性に乏しいものから先に失われてゆくようであるが、園芸作物の品種は必ずしも実用性のみをもって価値づけてしまうわけにはゆかぬものが多いので、二、三の意見を述べさせていただき、歴史的の存在である旧来の品種の保存を全国的に残さんがためにこの筆を執るに決した次第である。 花卉類について 我が国の花卉園芸が徳川中世の頃より著しい発達を遂げて世界的に誇るべき幾多の貴重なる品種を残しているが、この花卉の品種も昔時に比して全く衰潮にあるかというと、決してそうばかりではない。日本花きの品種の実在現況については、かつて本誌上に極くあらましを述べたことがあるが、私は品種保の必要を強調する意からして再び繰り返す次第である。園芸品湯のうちで最も保存の困難なるは庭木、花木の類である。花卉類にありては蔬菜の場合とは品種出現の動機が異なり、これを歴史的に考えてみても、流行と切り離すことが出来ない。即ち、一花卉の流行がめぐって来るたびごとに急激に新品種が作出されているし、同時に諸方に散在していた品種が収集されている。近い例をもって見ても、 卷柏(いわひば) などは、昭和二年頃までは一、二の培養家を除いてはほとんど旧来の品種は絶滅したのではないかと考えられていたが、あの流行のために、一年を出でぬうちに百数十種が繁殖培養されることになり、昭和に於ける流行時代のを現出したが、遺憾ながら流行の範囲が狭く趣味者の数も多くなかったので、一局部の流行に止ったが、しかしあの当時多数の品種が一時に出現したのは決して偶然ではなく、 清水氏という特殊なる保存家があった ために、あれだけの品種が昭和の時代まで伝え得たのである。そこで、流行によって多数の品種の出現する動機をつくることは喜ばしきことであるが、一方に流行を超越して保存培養してゆく篤志家が

昭和9年、石井勇義氏、人生4度目のフライトで東京から大阪へ。3時間少しで到着、汽車に乗り換えて岡山までその日のうちについた

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 『実際園芸』17巻5号 昭和9年10月号 ※昭和9年5月号 石井勇義氏、人生2度めのフライト 東京から大阪、京都への旅 この当時の石井勇義氏は、およそ二月に一度というふうに、ひんぱんに飛行機を使って飛び回っていたことがわかる。 https://ainomono.blogspot.com/2022/10/2956.html ※岡山までの行程(東京~大阪は飛行機便) 昭和9年8月24日金曜日 午前8時30分蒲田駅着 福士東京飛行場長と遭遇し羽田まで同行する 羽田空港は「東京飛行場」という名称で昭和6年に開港している。 午前9時間30分 、石井を含む6人の乗客とともに羽田(東京飛行場)を離陸 午後0時40分 、大阪飛行場(木津川飛行場)に到着 ※3時間10分のフライトであった(予定より約30分ほどよけいにかかっていたようだ 。現在は約1時間20分、3時間10分あると沖縄の宮古島まで行ける)。 午後2時12分、大阪から岡山行きの汽車に乗り、夕刻岡山駅に到着した。 午後は非常に暑く疲れたためすぐに旅舎、三好野花壇で休むことにした。 ※創業二百年、三好野本店(岡山駅前やや北よりの地に「三好野花壇」を創業したのが明治22年、岡山駅が出来た場所は見渡す限りのレンコン圃場だったという https://miyoshino.com/about/history-miyoshino.html 輸送機の画像があるが、単発のプロペラ機で乗客6名ということからフォッカー・スーパーユニバーサル機ではないかと思われる。 ******************* 岡山の園芸を見る 石井勇義 ◇ 羽田から大阪まで 果物の国、岡山の温室葡萄や、白桃などの収穫期に、一度岡山に行ってみたいと数年来の希望であったが、ようやく今年、忙中の数日をさいて実行することにした。 八月二十四日、時間の都合もあり、東京から大阪までは飛行機で行くことにした。前夜来の雨もやみ、曇ってはいたが気流はよさそうな日である。朝の八時三十分、蒲田駅に下りると、福士東京飛行場長の顔が見えたので飛行場まで同行し、出発の時間を待つことにした。飛行機に乗るのは四回目であり、決して多い方でもなく、また今さらこんなことをワザトラシク書き立てるのでもないが、考えてみると、まだ多くの人々が飛行機を危険なものだと考えているので、本誌の読者だけにでも飛行機の実

現在の東京都中央卸売市場花き部に入る「大田花き」の前身のひとつ、「大森園芸市場」、昭和9年の広告から

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 大森園芸が改築落成した頃の広告 大森駅前となっている。 磯村信夫氏の書いたものによると、昭和7年頃に大森駅前に店舗を構えたのが最初であるということなので、9年はそれ(二枚目の画像)の改装ということになる。 もともと「不休園」という種苗会社を母体としてスタートした大森園芸であり、鉢物類の取扱が中心であったが、この時代にはすでに切花の取扱も記されている。 市場は毎日営業していた(現在は表日と裏日で切花と鉢物で競り場を交互に利用している)。 戦後、 駅前の区画整理のため駅から離れた場所で営業をすることになった。戦前の鉄道輸送からトラック輸送の時代になる。 『実際園芸』17巻5号 昭和9年10月号に掲載された広告 磯村謙蔵氏の姿 1952(昭和27)年12月発行の『農耕と園芸』迎春準備号に掲載の座談会記事から

三世代同居の新奇な多肉植物「しころべんけい」の由来をさぐる Bryophillum から Kalanchoe に統一される頃 京都大学 志佐誠氏

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  『実際園芸』第17巻4号 昭和9年9月号 志佐 誠 氏 (1902-1983) プロフィール 東京都出身、昭和3年京都帝国大学農学部卒業、同年同大学助手。12年台北帝国大学付属農林専門学部(園芸学)教授、台湾にて終戦。戦後、新潟農専教授、京都大学より農学博士の学位取得。24年新潟大学、28年名古屋大学教授、40年定年退職。(『日本花き園芸産業史・20世紀』)石井勇義氏の蔵書は名古屋大学に収められ、石井文庫となっている。同様に岡見義男氏の蔵書もここにある。 孫を負んぶする植物 志佐 誠 多肉植物や羊歯植物には植物体のある部分に、不定苗を生ずるものがしばしばある。それらの中には、できた幼植物が親の葉の表面に著(つ)いていて、ちょうど子が負ぶさっているように見えるものがある(羊歯では「こもちしだ」や「ほざきかなわらび」等がその例である)。ところがここにできた子に間もなく更に子ができて、都合、親、子、孫の三代が一つの植物体として生存するものがある。即ちいっぺんに三代が見られるのである。あいにく無精ものであるのでなんであるが、三夫婦にも比すべきものであって、開橋式の渡り初めにはもってこいのものであるかもしれぬ。 図に示したのは「しころべんけい」の葉である。この図はC.F.Swingle氏が「世界中で最も繁殖の容易な植物」という見出しで書いた報文の挿絵である(Swingle, C.F. : The easiest plant  in the world to propagate. Jour. Hered. 25 : 73-74, 1934)。 「しころべんけい」の葉に不定苗が著いているところ 子苗の欠刻にはさらに数個の孫苗が現れているのを見よ。即ちこの葉一枚に三代の植物体が見られる(Swingle1934) ※https://academic.oup.com/jhered/article-abstract/25/2/73/804314 この葉は、一枚の葉に20~40の主脈が走り、葉の両側には50~100個の欠刻がある。そしてこの欠刻にはもれなく稚苗を生ずる。更に栄養と湿気とが適当であると、この稚苗の欠刻にまた5~6個の孫苗が著く(図参照)。であるから、一枚の葉には千に近い子苗および孫苗を生ずるもので、一個体から一季節にはおびただしい数の子苗を得ることができる。 上図は、上中

【昭和初年の放射線育種と伊勢撫子】 伝統園芸植物を守り育てるアナログで地道な作業の話の合間に、近代的な園芸家の目や手業が垣間見える

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 【昭和初年の放射線育種と伊勢撫子】 アナログで地道な作業の話の合間に、びっくりするようなことが書かれている。 参考 藪重雄氏を訪ねる旅 https://ainomono.blogspot.com/2022/12/7.html https://ainomono.blogspot.com/2022/12/blog-post_11.html **************** 『実際園芸』第17巻4号 昭和9(1934)年9月号 伊勢撫子の改良と培養 京都  藪 重雄 培養の動機 伊勢撫子の培養は非常に古くから行われていたようである。現在私が培養しているものは、 光格天皇 (※1771 - 1840)のご培養されたもので、その前、有栖川宮家より光格天皇に献上されたものであるという。光格天皇は非常に園芸に御趣味をお持ち遊ばされたと承ってている。しかし、有栖川宮家におかせられては、どこからこの伊勢撫子をお手に入れられたかは不明である。 天皇ご在世中はたいへんにご熱心にこれを愛培されておいでになったのであるが、その頃 宝鏡寺 におわせられた皇女 三摩地院宮 (さんまじいんぐう:第24代門跡)に、自分が亡くなってからは、この後を継いで伊勢撫子を培養してくれるようにとのお話があったという。それで天皇ご崩御の後は宝鏡寺ではご培養の伊勢撫子はもちろんのこと、培養に必要な一切の道具も戴き伊勢撫子培養の専任の人をおいてこれが培養に当たらしめたのである(この方は二、三年前に亡くなられた)。この宝鏡寺にて培養されていたものを私が大正八年に貰い受け培養して今日に至ってたのである。もちろん私が貰い受けるについては種々の経緯(いきさつ)があるのであるが、そのことはあまり関係ないからここでは省略しておく。 ◇ ◇ 私が貰い受けた当時の伊勢撫子は、非常に交雑したもので、純粋な伊勢撫子ということができないくらいであったが、それでもなお茎の太さとか、花の大きさ等は他に類のないほど見事なものであった。それに聞くところによれば花も一尺以上のものが咲いたということであった。このように雑化したということは、たぶん伊勢撫子を作っておられた付近に他の近縁植物が栽培されており、その花粉が飛んできたためであろうと思う。それで私は貰い受けるや否やこれが淘汰について非常に努力したのである。その間実生して見ると、その中から川原撫

昭和3年、伊東東一氏が訴える日本の花業界の問題点 経営、品種名のあやふやさ、種苗への信頼の基盤が未成熟であった

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 新品種育成者の権利(パテント、特許)もない。 種苗を購入しても、ちゃんとしたものが届く保証もない。 優良な種苗会社が集まる協会もない。 ※伊藤氏は、こののちに、池上町から同じ大田区内の温室村に移転する 『園芸人名録』昭和3(1928)年

東京の植木鉢製造は、江戸時代からよい土が取れる隅田川河畔の今戸や対岸上流の青戸、下流の請地(うけぢ)などが有名だったが、昭和には各地で製造された

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『実際園芸』第19巻7号 1935(昭和10)年 「花園商会」は、東京府荏原郡六郷村高畑43 植木鉢(素鉢製造) に所在した植木鉢の製造会社 (「園芸人名録」1928(昭和3年)から) 土は重い。土を焼いてつくったやきもの(植木鉢)も重いので、やきものに向いた土が取れるところで植木鉢が製造される。園芸がさかんになる土地に、植木鉢の製造が起きるわけであるが、逆に言えば、近くで植木鉢が製造できるから鉢植え植物(盆栽や草花)の産地が栄える、ということもできる。東京では隅田川の周辺に植木鉢の製造ができる場所があった。 明治30年代に鉢物を営利栽培していた小田原の辻村農園では農園内に植木鉢の製造をする場所があった。 現代のようなプラ鉢のない時代、大小の素焼き鉢は栽培にも販売にも広範囲に利用されていた。廉価な素焼き鉢が大量に流通していなければ、園芸はできないと言ってもよい基礎資材であった。 その後、トラックでものが運べるようになると、やきもので使う土を運び、石炭を燃やして植木鉢の機械製造を行う会社が各地にできるようになった。ここで紹介するのは、そうした機械式の窯をもつ企業である。ただ、この六郷は、多摩川下流で川が大きく蛇行するような地形の場所にあってよい土が取れるのだという。こうした植木鉢会社の製品は、東京市外荏原郡(世田谷、大田、品川、目黒といった園芸地域)の園芸を支えていたと思われる。 昭和十年、東京市蒲田(六郷)にある花園商会の工場で写したもの。 植木鉢の製造上いちばん大切なのは鉢を造る土の選択である。東京付近では青戸の土が最も良質とされているが、この辺(六郷河岸)の土も鉢には好適している。記事では「関西では名古屋が本場であるが、名古屋の鉢は質が硬くて丈夫であるものの、その代わり水はけが悪い。これに反して、東京産のものは質が軟らかいから丈夫ではないが、水はけがよいので仕立て鉢として最も適している」と述べている。 ここに揚げた写真のものは器械鉢といって、器械を利用して製造するやり方。植木鉢は、「胴返し」と言って直径と高さが同じものが多く使われている。重ねやすく、抜きやすくするために底がすぼまった形をしている。リム(縁の出っ張り)があるのは、縁の補強と鉢を持ちやすくするため。号数は一号を約三cmで換算する。 **************** 土いじりをする人たちにとって、植木

昭和33(1958)年ごろの花市場のようす  『科学大観』14 花卉園芸 のページから

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1958年出版の資料に掲載されている花市場の荷扱いのようすがわかる写真をここに記録する。花は段ボールがまだ利用されておらず、木箱、こも、カゴが利用されている。 花店の店頭の写真には、「ゆりかご」のフラワーバスケットが見える。この時代は、ベビーブームで、日常的に結婚や出産祝いのためのギフトが売れていたと思われる。 ※60年代にコモ、カゴから段ボール出荷へ 長野県 千曲の花 https://ainomono.blogspot.com/2022/12/blog-post_89.html 説明は丁寧だが、指値は単価なので、50円と30円、写真の人は、人差し指を動かしていれば35円だと思われる。 仕分けの棒は現在でも使ってる市場があるかもしれない。現在はほとんどすべて台車に載せて 仕分けられている。 花の輸送は三輪トラックや自転車が普通に使われていた。 配達には市電に乗って届けにいくのもあたりまえであった。   花店のショーケースに、うばぐるま(クリードル)のバスケットが大事に並べられている。 出産祝いが多かったことがうかがえる。

メリークリスマス! 参加者はみんな変わり者? 不思議な食べ物をもちよって、みんなで試食する 生き物趣味の会の晩餐会

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 昭和6年の生き物趣味の会 百貨店で標本やジオラマ展示 解説のなかにも機関誌「アミーバ」や「珍食会」というワードが見い出せる。 https://karuchibe.jp/read/10873/ 『実際園芸』第8巻2号 昭和5(1930)年2月号 (昭和4年)十二月二十日に開かれた 生物(いきもの)趣味の会 石井勇義 ◇ ◇ ◇ 生物の研究ということは専門の学者によって、未知の世界が日に月に開かれて行くことは論を俟たないが、この生物、即ち動物や植物についての事は、それが本当に好きだというアマテュアーの力によって開かれてゆくことがまた非常に多いものである。園芸でもそうであるが、植物や動物を扱うことは趣味がなかったなら、決してうまくゆくのでないことは今更述べるまでもない事である。 所が、東京に 昨年の春から出来た 、 生物(いきもの)趣味の会 は「 好きな人許りの集り 」というすばらしい力のある会で、例のサラセニアや珍植物の処女培養で有名な広瀬巨海氏が主となり、新進の岡田喜一氏、瀬川孝吉氏、加藤(※光治?)氏、鈴木吉五郎氏などが世話役となって年に数回動植物の採集会や講演会をやり、生物趣味の鼓吹と研究に盡くされております。従来趣味の会とか、道楽の会とかいうものには研究的の態度が欠けておったが、この会は、そこにすばらしい力を持っているので、園芸をやっておられる方でも、真に趣味からやっておられる方で、研究的の心もちのあるものは是非お仲間入りをしたらよいと思う。 十二月の例会は、忘年の意味もあって、晩餐会であったが、来会者は鷹司侯、岡田彌一郎博士、矢野宗幹氏、東(ひがし)水産講習所教授、籾山徳太郎氏、松崎直枝氏、はじめ、生物界の権威者と趣味者三十数名集り、夫々会員持参の珍料理を試食したのであった。 試みに、二三掲げると、 小林憲雄氏提出の紅焼熊掌(シュンジャン:※熊の掌の醤油煮込み)、岡田(※彌一郎)博士の小笠原島のしようがくぽうとたいまいの雑種の肉(※正覚坊=アオウミガメ、玳瑁=タイマイどちらもウミガメの種類)、松崎(※直枝)氏のたんぽぽ、籾山(※徳太郎)氏の十姉妹(※ジュウシマツ)、広瀬(※巨海)氏の鴨の脚の肉(川菊花)、大沢(※幸雄)氏の食用蛙肉、平沼(※大三郎)氏のフスダス(※ピスタチオ)等 珍物許りで、試食研究晩餐会とでも言いたい会合であった。 一月の例会は、東京の朝日

昭和10年、日本のスプラウト、「もやし」のお話  家庭で簡単にできる大豆、小豆、ダイコン、そばでつくるもやしのすすめ

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仙台で売られている豆もやし 現在とかなり姿が違う  『実際園芸』第8巻2号 1930(昭和5)年2月号 ※戦時中、玉川温室村で花づくりができなくなった森田喜平氏は、食糧生産のために「もやし」を生産していた。 「森田氏も当時、十五棟(千五百坪)をもっていたが、そのうち十三棟を政府に供出、残りの室で、供出用の豆萌し(※豆もやし)製造を委託されたのである、三百坪の温室も、屋根ガラスは全都取りはずし供出し、スレートを張の(ママ)周囲は板張りとして、豆萌しを作った。日産二千貫(※2.5トン)の生産を行うには労力も必要であり、近隣の八百屋さんが五十人位手伝ってくれていた。(日当を払う)」 https://ainomono.blogspot.com/2022/11/1970.html *************************** 家庭で出来る 芽もやしの作り方 埼玉県立農事試験場越ヶ谷園芸部 古川賤男 もやしの栄養と風味 家庭で簡単に出来る芽もやしの作り方を御紹介致します。数年前、各種の婦人雑誌や新聞等で、もやし類の栄養価値が宣伝され、一時東京市中の青物店や三越の食料品部等にその姿を現したことがありましたが、一時的の流行であったものか昨今余り見受けなくなりました。然し朝鮮、九州の方面では非常に多くの需要があり、味噌汁の実として大豆、小豆のもやしが使われております。また東北地方の雪国では、冬の間は新鮮蔬菜が得られぬ関係から、その代用品として盛んに使われ、関東の納豆屋の様に大仕掛に栽培して、仙台市等で毎朝早くもやしの流し売りの声を聞く事が出来ます。すべてもやしは、もやさぬものよりも特殊の栄養価と風味とをもっているものであって、一度嗜好品となってからはなかなかもやしの味は忘れられぬと見えて、九州、東北から東京に移住して来た人達の注文によって、郊外の八百屋の店頭に時々もやしが並べられてあるのを見受けます。また少量ながら府下砂村地方(※現・江東区)で作っておられるのを見受けます。 もやしは非常に簡単に子供でも作る事が出来ます。また台所の柵(たな)の上でも、物置の隅でも、縁の下でも家庭的に作る事が出来て、肉鍋、吸いもの、煮物、和物(あえもの)、味噌汁等に広い需要をもっております。また都会付近の農家が副業的に栽培して市場に出すのも、所によっては利益のあるものであります。もやしの種類に