【昭和初年の放射線育種と伊勢撫子】 伝統園芸植物を守り育てるアナログで地道な作業の話の合間に、近代的な園芸家の目や手業が垣間見える

 【昭和初年の放射線育種と伊勢撫子】

アナログで地道な作業の話の合間に、びっくりするようなことが書かれている。


参考 藪重雄氏を訪ねる旅

https://ainomono.blogspot.com/2022/12/7.html

https://ainomono.blogspot.com/2022/12/blog-post_11.html

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『実際園芸』第17巻4号 昭和9(1934)年9月号

伊勢撫子の改良と培養

京都 藪 重雄


培養の動機

伊勢撫子の培養は非常に古くから行われていたようである。現在私が培養しているものは、光格天皇(※1771 - 1840)のご培養されたもので、その前、有栖川宮家より光格天皇に献上されたものであるという。光格天皇は非常に園芸に御趣味をお持ち遊ばされたと承ってている。しかし、有栖川宮家におかせられては、どこからこの伊勢撫子をお手に入れられたかは不明である。

天皇ご在世中はたいへんにご熱心にこれを愛培されておいでになったのであるが、その頃宝鏡寺におわせられた皇女三摩地院宮(さんまじいんぐう:第24代門跡)に、自分が亡くなってからは、この後を継いで伊勢撫子を培養してくれるようにとのお話があったという。それで天皇ご崩御の後は宝鏡寺ではご培養の伊勢撫子はもちろんのこと、培養に必要な一切の道具も戴き伊勢撫子培養の専任の人をおいてこれが培養に当たらしめたのである(この方は二、三年前に亡くなられた)。この宝鏡寺にて培養されていたものを私が大正八年に貰い受け培養して今日に至ってたのである。もちろん私が貰い受けるについては種々の経緯(いきさつ)があるのであるが、そのことはあまり関係ないからここでは省略しておく。

◇ ◇

私が貰い受けた当時の伊勢撫子は、非常に交雑したもので、純粋な伊勢撫子ということができないくらいであったが、それでもなお茎の太さとか、花の大きさ等は他に類のないほど見事なものであった。それに聞くところによれば花も一尺以上のものが咲いたということであった。このように雑化したということは、たぶん伊勢撫子を作っておられた付近に他の近縁植物が栽培されており、その花粉が飛んできたためであろうと思う。それで私は貰い受けるや否やこれが淘汰について非常に努力したのである。その間実生して見ると、その中から川原撫子とか石竹が生えて来て、完全に雑化していることを証明してくれたものである。それを私が次々と淘汰していったのである。

◇ ◇

まず最初の三、四年間は種類の数を調査することに努力して、六種の異なったものを選出し、雑物を取捨てたのである。かくして得た六種のものを実生して、その中から変化のあるものと変化のないものとの二つを更に選出したのである。この間三、四年を費やし、同じ方法に依って実生を行ったのである。

次にこの二種の中の変化の多いものだけを特に力を入れ培養したところ、やはり花の非常に良いものであったので、更にそれを実生したところ、十六発芽したが、その中から良いと思うものを五、六本選び、更にそれを実生して結果を見たのである。そしてその中の変化の最も大きいものを選んだのが、現在の私の培養している伊勢撫子の親木となったのである。この最初のもの即ち現在のものの親の弁の長さは一尺あった。普通では六、七寸くらいで、それ以上にはたいてい伸びないものである。なおそのほか知り得たことは最初は非常に良く結実したものであるが、改良するに従って次第に結実量が少なくなってきたことである。

◇ ◇

以上のごとく淘汰しているうちに、大正十四年には絞り咲きのものができ、それからは白、ピンク、赤等もできたのである。この年に、ある外国雑誌に草花の花粉をレントゲンに当てるということが記載されていたので、私もさっそくそれを実行してみたのである。即ち工科大学(※大阪工業大学?)に伊勢撫子の花粉を持って行き、それをレントゲンに十分と五分間の二つに分けて当ててもらい、それを実生したのである。

この結果は非常に良かったと見えて、花弁が次第に伸びて来て約一尺九寸くらいになったのが三、四できたのである。その後それを交配しつつ四年間培養したところ、四年目に非常に良いものができて、それから後は次第に弁が伸びてきた。それを交配してからは生えるものすべてが形の良いものばかりできるようになったのである。色彩もピンク、白、赤、絞り等いずれも良くでき、それが引き続き現在に及んでいるのである。

◇ ◇

大正十四年から現在に至る間に特筆すべきことは、この間に管弁のものができたことと、香気の強いものののできたことである。管弁のものは花弁は一尺くらいとなる。香気のあるもののできたのは今から五、六年前即ち昭和二、三年頃であったと記憶している。元来伊勢撫子には香気のないものが多いのであるが、私が注意していると、多くの伊勢撫子の中に、特に「かつをむし」(※糠蚊?)の集る(たかる)もののあるのを発見した。ところがこの「かつをむし」の集(たか)るものには香(におい)のあることを知って、香気の高いもの高いものと順次交配して遂に香気の高いものを作り上げたのである。


光格天皇使用の鉢


実生の仕方


交配は午前九時頃に行うのが最もよい。雌蘂の柱頭に花粉を塗ると、直ぐその花は駄目になってしまうものであるから、交配したならば直ぐに花弁を切り取ってしまい、硫酸紙で包んで置くのがよい。然しすでにこの花はどんな花であるか分かっているものにあっては、交配を行う前日に花弁を切ってしまっておくようにするのがよい。開花時に気候が寒いと花の発育が悪いために結実が悪いものである。

実生の時期は秋の彼岸前が最も良い時期である。播種の用土は普通の堆肥(落ち葉を堆積腐熟せしめたもの)に砂を混じたものが最適である。肥料分の多い土では発芽を悪くする恐れがあるから避けなければならない。用意した堆肥及び川砂はいずれも一分目の篩を通したものを用い、極く細かい粉、つまりミヂンを抜いてしまい、堆肥六、川砂四の割合に混合するのである。播種用土ができたならばそれを播鉢(まきばち)に盛り、それに播種するのであるが、播鉢に用土を入れる時は他の草花の場合と同じように、必ず排水が完全に行われるようにしておかなければならない。

播種が終わったならば軒下に並べておくと良い。伊勢撫子の種子は極めて微細なものであるから、厚播にならぬようよほど注意して播種すべきである。播種したものはおよそ二週間ないし三週間にて発芽する。発芽したものはあまり暖かい場所に置くと徒長してよろしくないから、やはり軒下等に置くと良い。

第一回の移植は十月の中旬頃に行う。この場合は六寸鉢に約二十本位を植出す見当で行えば良い。もちろん非常にか弱い苗であるから、根や茎を傷めぬように十分注意して丁寧に行うべきである。移植に用うる用土は、播種の場合と同じように、肥料気のあまりない土を用いる。つまり肥料を主として植込むようにする。その後(のち)定植までの間に極めて薄い液肥(油粕等)を二、三回施せば充分である。


現在培養しているもののもとになった原種


定植とその後の管理


定植は翌年の二月十一日頃、即ち根の動く前に行うのである。その時には草丈は一寸内外となっている。定植の用土もやはり腐葉土を主として用いるのがよい。鉢の大きさは四寸、高さ六寸の丹波鉢が普通使用され、これに二本宛て植込むのである。植込む際は一般草花の場合と同じように、鉢底には鉢の破片等を入れ、その上に粗い土を入れてから、用土を入れて植込むようにするのである。

日光にはあまり長い時間当てぬようにすることが、大切である。定植後次第に成長して来るから、四月の中旬頃になったならば二尺くらいの支柱を建ててやり、糸でそれに結わえて倒れぬようにしておく。そしてその後は開花までに油粕の極めて薄い液肥を三回ないし四回くらい施し、開花前に一回魚肥の液肥を少量施与すると非常に効果のあるものである。

潅水は乾燥させぬように常に見回って行えば良く、あまりに多くの潅水は害こそあれ、何ら益のないものである。まず一般草花類よりは控えめに潅水を行うほうが良いものである。

次に花時の手入れであるが、これが伊勢撫子培養上最も厄介な仕事の一つである。即ち伊勢撫子は自然に開花するものでない。花はつぼみから咲き出す頃は、花弁は絹糸がからんだようになっているものであるから、それを一本一本ほぐしてやらなければならないのである。実際花弁は芯の所までゴチャゴチャに入り組んでいるものであるから、それをピンセットかあるいは指で丁寧にほぐして花を咲かせてやらなければならないのである。花弁をほぐす時にはよほど注意して丁寧に行わぬと、花弁に傷をつけ見苦しくなるからである。前に伊勢撫子は自然には開花しないといったが、しかし、花弁の非常に短いものであれば、これは必ずひとりでに開花するものである。

花後は優良な種類は翌年までそのまま残しておくのが普通である。実生によって繁殖する他に挿木に依っても容易に繁殖できるが、挿木するものは必ず良い品種のみに行われるものである。挿木の時期は十月頃であって、その方法とか管理の仕方はカーネーションと何ら変わるところがないので、ここでは省略しておくことにする。

さて以上で培養法の大要を述べたのですが、しからば優秀なる伊勢撫子はどんなものであるかというと、葉は(鳩葉色)黄緑色で、茎が細くて花弁が長く、しかも沢山に切れて垂れるものが最上とされているのである。また菊のようにその葉は下葉から着生しておるものでなければならない。下葉の枯れたものは菊の場合と同じように嫌われるのである。その他支柱一本で仕立てて行くこと一茎一花である点等そうとう菊の培養の一部と相似た点があるようである。――以上述べたごとく私は伊勢撫子を培養始めてから、既に十数年になるが、現在でも毎年四千本からの実生を育てているのである。(終わり)


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