昭和9年、石井勇義氏、人生4度目のフライトで東京から大阪へ。3時間少しで到着、汽車に乗り換えて岡山までその日のうちについた


 『実際園芸』17巻5号 昭和9年10月号

※昭和9年5月号 石井勇義氏、人生2度めのフライト 東京から大阪、京都への旅

この当時の石井勇義氏は、およそ二月に一度というふうに、ひんぱんに飛行機を使って飛び回っていたことがわかる。

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/2956.html


※岡山までの行程(東京~大阪は飛行機便)

昭和9年8月24日金曜日

午前8時30分蒲田駅着

福士東京飛行場長と遭遇し羽田まで同行する

羽田空港は「東京飛行場」という名称で昭和6年に開港している。

午前9時間30分、石井を含む6人の乗客とともに羽田(東京飛行場)を離陸

午後0時40分、大阪飛行場(木津川飛行場)に到着

※3時間10分のフライトであった(予定より約30分ほどよけいにかかっていたようだ。現在は約1時間20分、3時間10分あると沖縄の宮古島まで行ける)。

午後2時12分、大阪から岡山行きの汽車に乗り、夕刻岡山駅に到着した。

午後は非常に暑く疲れたためすぐに旅舎、三好野花壇で休むことにした。

※創業二百年、三好野本店(岡山駅前やや北よりの地に「三好野花壇」を創業したのが明治22年、岡山駅が出来た場所は見渡す限りのレンコン圃場だったという

https://miyoshino.com/about/history-miyoshino.html


輸送機の画像があるが、単発のプロペラ機で乗客6名ということからフォッカー・スーパーユニバーサル機ではないかと思われる。

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岡山の園芸を見る

石井勇義


◇ 羽田から大阪まで


果物の国、岡山の温室葡萄や、白桃などの収穫期に、一度岡山に行ってみたいと数年来の希望であったが、ようやく今年、忙中の数日をさいて実行することにした。

八月二十四日、時間の都合もあり、東京から大阪までは飛行機で行くことにした。前夜来の雨もやみ、曇ってはいたが気流はよさそうな日である。朝の八時三十分、蒲田駅に下りると、福士東京飛行場長の顔が見えたので飛行場まで同行し、出発の時間を待つことにした。飛行機に乗るのは四回目であり、決して多い方でもなく、また今さらこんなことをワザトラシク書き立てるのでもないが、考えてみると、まだ多くの人々が飛行機を危険なものだと考えているので、本誌の読者だけにでも飛行機の実用性を伝え、民間航空発達の一助となさん考えからである。

九時半、六人の乗客と共に離陸、この前に通ったところとは異なってほどんど航空地図に赤線を引いてあるところを通った。まず横浜市の真上から保土ケ谷、戸塚の上空を通り、馬入川の上を過ぎて国府津(こうず)の海上に出る頃より天候はおいおいよくなり、高度も千メートルくらいにて地上の景色は実に美しくなってきた。いつも思うことであるが、耕地が実に美しく整形的に見えることで、殊に集約な粗菜園などの多い平塚大磯付近の耕地は実に見事である。雑草の生えているのもわからず、栽培の甲乙も見えず、皆一様に見事なできばえである。耕地整理された水田の美しさ、柑橘園などはいつも綺麗である。箱根に雲の多いせいか、この日は熱海の上空に出て千五百米くらいの高度で伊豆半島を越えて三島から沼津に出たのであったが、下を見ると白雲が朦々としてその上の晴れ渡ったところを通る眺めは平地で見られぬものであった。沼津から海上を飛び、三保の松原から静岡の上空を過ぎ、今度は山中を多く通った。

この日は風が向かい風であったために非常に難航で時間がかかるようであった。静岡から先は新聞を見終わったので十数通の手紙を書き、少し本などを見ているうちに、伊勢湾上に出た。このへんから特に風が強く、地上の稲田に風の波が見えるくらいで、すでに予定時間より三十分以上遅れている。少し眠気がしているうちに、奈良市の上を過ぎ、大阪も間近になり、十二時四十分に着くことができた。この前よりも一層機上に慣れたために、全く落着いた気持ちで読書や執筆をすることができ、多少上下にゆれることはあっても、それは自動車に乗ってガタガタとしたくらいにしか思われず、機内の温度も華氏八十度(26℃)前後で換気がよいので涼しく、夏の汽車旅行の苦しみに引きかえ実に楽しいものであった。おそらくは一般の人々がモット飛行機の実用性を考え、「危い、落ちる」の念を一掃されて国防の第二陣たる民間航空の盛んならんことを願うものである。飛行機よりもこの頃の円タクの方がよほど危険である。自分は繰り返して旅客飛行機が絶対に安全であることと、空の旅が全く想像した以上に楽しい、乗り心地のよいものであるということを、お伝えしたいと思う。


◇ 農事試験場園芸部


二時十二分の岡山行で大阪駅を立ち、夕刻岡山駅に着くことができたが、午後は非常に暑かったせいか疲れたために、すぐに旅舎、三好野花壇で休むことにしたが、まず非常に暑いのに驚かされた。東京よりも京都があついと思うが、岡山はさらにそれ以上である。翌朝さっそく石川(※禎治)技師をお訪ねして、それより県農事試験場の園芸部に向かった。園芸部のあるところは、山陽線の西大寺駅から、五町ばかり山手になったところで、上道郡財田村土田(じょうどうぐんざいでんむらつちだ)というところで、大正八年に開設され、大正九年より果樹園の植込みを行った由であるから、樹齢十五年くらいのものが多い。面積は全体で約三万坪。この園芸部に葡萄を専門にしておられる大隅正氏がご多忙中をご案内下さった。果樹園は山の中腹と言ったところで、果樹園として決して適地でもないらしく、石川技師も申されておられたが灌漑の試験や傾斜地の利用法を当業者に実際に示すにはよいというが全くそうである。建物も極お粗末であるが、一歩果樹園に足を踏み入れてみると驚かざるを得ない。最初に日本梨、洋梨、桃という順序に拝見したが、圃場のキチンと手入れされている点、肥料試験やいろいろの試験をされているが、いずれも見事に結果しているのには驚いたのである。とかく試験場のものは、いわゆる精農家の畑よりは生産物は劣る場合が多いが、全く当業者の指導の立場にあって名実ともに模範的のものであった。石川技師が当業者から果物の神のごとくに尊敬されているということもここにあると思った。

一方では露地で欧州種の葡萄を栽培されていたが、マスカット・ハンブルグがパラフィン紙の袋の中で、見事な房になっているのに驚いた。聞けば温室葡萄に対して高級葡萄栽培組合というものができ、欧州種の露地栽培で他県の葡萄に対抗してゆこうという意気込みであると聞いた。

次に温室葡萄を拝見した。二室あり、一室は品種試験で、大隅氏が特にいろいろの有望品種を輸入して今後の温室葡萄の趣向に投ずるような品種の選出に苦心を払われていた。一方では数品種について砧木(※台木)の試験をされていたが、挿し木苗と、他方を砧木を異にしたものとの比較をされていたが、結局挿木苗は不成績で、品種によりそれぞれ適当なる砧木を選んで養成した接木苗でなければいけないという結論を得たと話しておられた。温室内の試験中のものであるが、いずれも房が大きく粒が揃って見事なのに驚いた。実は私よりも二週間ばかり前に、池田成功氏と岡本(※勘治郎)氏とが参観されて、「モウ関東に来て葡萄などを作る気になれぬ」と申しておられたことでもわかる。池田氏は自分などよりも温室葡萄については相当眼も肥えて一つの見識を有しておられる方であり、同氏が驚かれたことだから、だいたいどんな出来栄えであったかに想像がつくと思う。

なお、ここの試験場では薬剤散布のために動力ポンプを使用されており、それがこうした傾斜地には至極便利であるのに驚かされた。ポンプは同県の杉本氏の発案で、杉本式固定動力噴霧器と称し、園内の低い適当な所にポンプを装置し、二馬力半のモーターで動かす由で、特長とするところは適当の距離をおいて園内にパイプを配り(一町歩に対し千尺を要し一尺十五銭の由)、そのパイプに噴口をつけたゴムホースを継いで散布してゆくので、普通ホースを四本つけてやり、動力の方と調剤に一人を要し、都合五人にて園内全部を一日半で散布し終わる由である。このポンプを設備しない以前は、二台のボンプを用い、六人にて一週間以上を要した由である。のみならず、散布の始めから終わるまでに一週間を要したのでは終わる頃には最初やった部分は再び散布期に達する始末であり、実際防除季節の関係から言っても不得策であったが、この固定動力ポンプの設備をしたために、極めて経済かつ合理的に薬剤散布ができると言っておられた。不便とするところは小規模の果樹園には負担が多すぎることである。隣接せるところならば共同施設ということも考えられると思う。

以前は蔬菜部も併置されていたが、一昨年から本場の方に移転し今は全く果樹のみである。


◇ 温室葡萄の本場品


現在では温室葡萄の栽培は園芸部の近くの西大寺付近からも品質のよいものが出るそうで、車窓から葡萄室が各所に見られるが、最近の調査では県下の全面積が四万坪を越えるそうで、そのうちメロン栽培に当てられているのは岡山市から二里余を離れたところで、津山市に通ずる街道に添うた横井村、野谷村等が最も多い。岡山市から行くにはバスが二十分おきくらいに出ているのでこれを利用すればよく、また急速に観察をする場合にタクシー(一時間二円、待ち時間は一円)を利用すれば便利である。まず横井村猿田街道から右側の谷合は一面のグラスである。東京の温室村以上の密集さである。そこを二、三町入ったところに石炭が山積みされている前が安井氏の温室である。同氏は大部分は加温促成をされる由で大部分は収穫後で、アレキサンドリアの数室が残っていたが、温室の簡単なるにも驚くが中の葡萄の見事なことにも驚かざるを得ない。温室とはいうものの、側壁は泥をぬった無雑作な壁でそれに窓がつけてあり、大半は手造りでできる程度の簡単なもので、中にはベンチレーターミシン(※マシンのこと)を用いているところもあるが、東京地方の温室に比すれば極めて簡易なものである。坪当たりの建設費も十二、三円と聞く。――それで坪当たりの収量は多いのになると三貫目、平均二貫目くらいというから、貫十円として坪二十円ということになり、八円なれば十六円という計算になる。何としても農家の副業としてはそうとうによいものである。促成出荷をする者は加温を年内から始める場合と、一月に入ってからやる場合とがあり、それは出荷の時期も考慮してやっているようである。冷室のものと、加温したものと比較すると冷室のものの方が品質が劣るようで、つまり成熟期に入るまでの気温が不足するために、シッカリとゆかぬらしく、気温が低くもそのときに乾燥しておれば品質のよいものが得られるとは石川技師のご意見であった。

それより県下の温室葡萄の創始者であるという、野谷村栢田(かやだ)の山内氏をお訪ねした。猿田より、七八町あまり街道より左に入って、郵便局の隣である。刺を通ずると山内宇三治氏が出て来られた。同氏の厳父にあたる山内善男氏が明治九年より外国種の果樹栽培を始められた由で、播州葡萄園に見習にゆかれ、福羽逸人子の指導を受け明治十九年にはじめて葡萄温室を建設された由で、当時の温室は最近まで保存されていたが、すでに壊された由、実は私はその温室を見たいために山内家をお訪ねしたのであったが、誠に残念に思った。このことを石川技師にお話したら惜しいことをしたと嘆じておられた。

参考

https://ainomono.blogspot.com/2022/10/blog-post_0.html


明治二十年前後に栽培されていた品種が、マスカット・ハンブルグ、フラックハンブルグ、マスカット・オブ・アレキサンドリアの三種で、当時神戸に出荷して一貫目一円五十銭見当の仕切りであった由、当時は米価が一石四、五円であったから今日にすると一貫目十五円くらいにあたると申しておられた。これ以来今日まで温室葡萄の栽培は引き続いてやっていたが、明治四十年頃からボツボツ栽培者が多くなったが、急激に増加して来たのは四、五年この方であるとのことであった。その原因の一つは桃の栽培があまり思わしくなくなって来たために、これに変わるものとして温室葡萄が急激に発達して来たようである。――温室葡萄の品質の良い物のできる地方の地質は粘質でこれにバラス(小砂利)の混じっているようなところで、ときに田圃の中にも葡萄室を見るが、それは成績がわるく果房の早く腐る欠点がある。故に岡山の葡萄の声価を保ってゆく上からは、それは中止するようにしなければいけないと申しておられた。

温室葡萄の出荷先は東京と大阪が最も多くほどんど同量で、最近東京が非常に多くなってきている。その他、名古屋、京都、神戸から北九州というように各地に出荷している由である。

次は露地葡萄であるが、この生産が約百万貫と称され、そのうち七、八割はキャンベルス・アーリーであるという。残りが甲州種、甲州三尺種、デラウエア種のごときは極少ないとのことである。キャンベルス・アーリーでは反当たり千貫から千二、三百貫の収穫があり、貫当たり手取り五十銭にはなるので反当たり、六、七百円の総収入があることになる。現在農家としては貫当たり手取り三十銭になれば手間は出るそうである。一方欧州種の露地栽培は上道郡の方面に増加しつつあるが、果房は温室よりもよいものができるし、風味も悪くはないが今のところ日持ちがしないのが欠点だとのことである。高級葡萄組合を組織して、改良発展に努力されているようである。


◇ 白桃と洋梨


岡山の桃栽培というと、全国一とされていたが、今日はあまり増加の傾向はないらしく、その原因を尋ねてみると、栽培面積は減じてはおらないが、桃全体としては、早生種に対しては枇杷の侵出があるし、一般には西瓜の需要増加が桃の領域をひどく食い込んできているようで、その他に、スモモ、トマトの如きも確かに従来の桃の領域に侵入してきているらしく、岡山県としては白桃のみが独占的に相当多量に県外に移出されている。東京方面に送って傷みも少ないし、相当の風味を保っているところからこれだけは相当に生産があるが、他の品種は退歩の状態と言ってよかろう。これは岡山ばかりでなく、全国的の風潮であると思われる。しかし、本場の岡山に来て真に採りたての白桃のツユの滴るのを味わうときは決して桃も捨てたものではないと思う。

温室葡萄、桃の次に特産として数えられるものは、洋梨である。我が国では洋梨の産地としては山形県下と岡山県とであろう。岡山県下は以前浦塩(※ソ連・ウラジオストック)方面に輸出された関係上そうとう栽培も活気を呈していたが、目下は内地の需要のみであり、現在の栽培面積は僅々二、三十町歩であり、五万貫内外の生産額の由である。洋梨は東京の果物屋では店持ちが悪くて困ると言っておられるが、石川技師のお話では果物屋の番頭さんをもう少し教育しなければならないと言っておられた。そのよい例としては、昨年東京の一流の果物店へプレコースを送って味が出てきたら店に出すように言ったところ、いきなり冷蔵庫に入れてしまったらしく、十一月頃になり、自分のところのがちょうどよくなったから、後熟の具合を問い合わせたらどうもうまく味が出ないとのことであったが、洋梨の如きものは収穫後間もなく冷蔵すると本当の味が出なくなるもので果物はなんでも冷蔵に入れるというふうにしてはせっかく生産者が苦心しても、そのために本来のよい味を見ることができなくなる場合があるので、真に優れた果物を味わうということは収穫後の果物の取扱いということにもう少し周到な注意を払ってもらわなければならないということをシミジミ話しておられたが、もっとものことであると思われた。

今一つは洋梨などでは風味の非常によいものでも、小さい品種で外観のわるいものは屑の如くに取扱われるので困っているが、その原因は果物屋の番頭さんが本当の洋梨の品種や特性というようなことを知らないために起こる結果だと考えるが、我が国でも果物の趣向の進んできた今日であり、一般も何か変わった風味の果物を求めている折であるから、生産者と販売者側がよく理解しあって向上を期すべきであると思う。


◇ 二三の特産蔬菜


石川技師の談は果物から蔬菜へと転ずる。――私も最近は地方へ行くと何か、一般に知られておらない。昔からその土地に残っている野菜に興味を持っているので、岡山の野菜についておは尋ねすると、これという特別なものはないが特産と言えばまず韮であるとのことで、これは相当に生産高も多いそうである。昨年あたりから東京市場にも韮の促成品が相当にみられるようになり、市価もそうとうに高いが、これも岡山県ではないかと思った。岡山の韮栽培については、本誌にもかつて試験場の山岸守氏が執筆されたことがあるので省略する。そのほかに特産としては、出石大根(いづしだいこん)というがある。これは旧幕時代からのもので以前は幸楽苑の出石の土手で作っていたのでこの名があるが、今日では後楽園の裏に移っている。見たところ美濃早生大根に似たもので、従来後漬用として相当に栽培されている。その他に珍しいものとしては山間部の英田郡福本村(あいだぐん・ふくもとそん)方面に栽培されている萬善蕪(※まんぜんかぶら)がある。これは本県特有というものではなく、鳥取にある日野蕪と同じもので、近江の緋蕪とは異なり、根部(こんぶ)が曲玉形に曲がる特徴をもっている。まず蔬菜の特殊なものとしてこの二つくらいであるとのことであった。

※近江の赤かぶ「日野菜蕪」が江戸時代、参勤交代のおりに島根県松江市に持ち込まれ「津田かぶ」などと呼ばれる勾玉状に曲がる独特の姿になったものがある。



武本呉服店の屋上栽培場


◇ 岡山の大輪朝顔


翌年二十六日は早朝からかねてお約束してあった市内武本呉服店の朝顔を拝見にうかがった。同家の方々は久しく小誌をご愛読下さっておられ、屋上には家庭温室もあり、殊に朝顔の屋上栽培に於て巨大輪(きょだいりん)朝顔の熱心なる栽培家として岡山のみならず、全国的にも稀の方である。私が八月の中旬にお伺いするひと葉書をさしあげたので、毎朝花を残して待っておられたとのお話に恐縮したのであった。同氏を中心として三十余名の同好者をもって岡山朝顔大輪会を組織しておられ、会員中には花径七寸以上の花を咲かせぬ者は一人もない由で、もはや七寸四分までの花は大きいうちに入れられぬというくらいに巨大輪咲に主力を注いでおられる。武本家では今年七寸七分で最高であり、もはや花径八寸を目標に培養に苦心を払われている由であった。同氏の栽培場を拝見すると、鉢は八寸を用い、肥料は十分に用いているらしく、茎の太さが蔓の上の方のでもバットの太さくらいはあるのに驚いた。葉も従って大きく、肥厚している点から少なくても肥料は十分に与えておられるようであった。培養土を袋に入れて持ち帰ったが腐植土を半分あまり用いておられる。同好者の趣味としては色彩の変わった品種を集めるというよりは、花型の正しい巨大輪を咲かせるということに栽培興味の重点が置かれてあるように思われる。巨大輪が見事に咲いているのにも驚いたが、同好者が真に朝顔の花型の如くに丸くふくよかな心持ちで一つの団体をつくり、真にあふれた趣味の上に年と共に競技的に栽培にあたっておられることも羨ましく思われるほどであった。同氏は全く朝顔に一身を打ち込んでおられると見え、優秀花を全部腊花とし、一月元旦には三百数十枚の腊花を座敷に並べて元旦の祝盃をあげあられる由で、花のない時期には、腊花を出して鑑賞しておられるとのことであった。来春は実際園芸に栽培法を公開願うことをお約束してお別れした次第である。(終わり)

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