偉大なる編集長、石井勇義氏、人生2度めの空の人となる 昭和9年 旅客機の乗客はたったの5人! 1934年

『実際園藝』第第16巻第6号 昭和9(1934)年5月号


石井勇義編集長の二回めの空の旅。羽田から大阪へ乗客は五人だけという贅沢な旅のドキュメント

※当時の旅客機は10座席しかないような小さなものだった。
文化遺産オンライン

※当時の大阪空港は正式には木津川飛行場(昭和4年開港)という。昭和13年には年間旅客1万人を数えるなど国内最大規模の航空拠点であった。記事にもあるように不便や工場の排煙など問題がいろいろあって、昭和14(1939)年に伊丹空港が開港したため、役割を終えて閉鎖となった。

※この記事の下左に、「京都市温室園芸協会」創設が伝えられている。この時代に、温室は100余棟存在し、6千坪、うち、営利栽培は40棟5千坪の面積になっている。


●大日本薔薇協会講演会

 大日本薔薇協会関西部に於ては四月一日、京都帝国大学園芸学教室に於て講演会が開催された。「ジャバ旅行談」をされた玉利幸次郎氏は京大古曽部温室部の主任であり、温室鑑賞植物の栽培にかけて有数の人であるが今度同氏はジャバのボイテンゾルグ植物園を中心に熱帯植物の調査蒐集のために同地に出張中であったが、帰朝されたので(同氏の視察談を伺ったのであった。 次に京大理学部講師土屋格氏より「植物の寿命」と題する科学的の御講演があり、夕六時閉会となった。会するもの五十余名。会を終わって後楽友会館に於て晩餐を共にしてバラ栽培談に十時過ぐる頃散会した。当日は菊池会長並河学術部長をはじめ多数幹事の出席があった。

※菊池秋雄氏は、京都帝国大学園芸学教室の初代教授、果樹のエキスパートで京都府立植物園の園長もなされた。並河亮氏は翻訳家、のちに日大芸術学部教授。長年バラを収集、愛好した。日本バラ会理事。子息は写真家の並河萬里氏


 筆者は同会に出席のために、三月三十一日午前九時三十分羽田飛行場の旅客機の人となった。飛行機に乗るのは未だ二回に過ぎず、あまり大きなことは申されぬわけであるが、最初に乗った時からとても想像したよりも乗心地のよいものであり、少しも危険を感ずる事はないものであるが、東京大阪間の静岡、愛知等の園芸地を機中より見たままを述べるのも多少の参考となると思う。
 私の行った日は曇天であり、ちょうどアメリカの婦人が飛行機で富士山見物をするという日なので、飛行場にば新聞社の写真班などがつめかけていた。私の機はそれより三十分おくれて出発することになった。同乗の客は、始終乗って居られるという福岡行の男の方、同若い御夫婦の方、神戸に行かれる若い御婦人の方と私と五人であった
 関東地方には降雪があり二日目であったために蒲田から神奈川県一帯の畑地は一面の雪景色で、それを機上から見おろすところはまた実に美しいものであった。普通ならば機は国府津から沼津へ直進するのであるが当日は丹沢山上から秩父山脈を右に見て山中湖の右を通り、富士山には手のとどくところを通ったので高度も二、七〇〇米であり、宝永山の真上を通り、三保の松原の上に出た。それより谷岡市の上空に出て海岸より程遠からぬ山地を通ったが、驚く事は日本の耕地がいかにも整然として居り、余程の高い山頂まで耕作されてゐる事で、静岡の奥地の山畑を考へろと日本もまだまだ耕作の余地はあるように思われた。限りなくある柑橘の霜除けを上から見下すの実に美しく、点々たる茶園、上向から見た浜名湖すべてが全く美化された景色であった。
 高度は普通千米で機内の温度は摂氏氏十度で多少上って下がってもあまり変わる事はないものである。愛知県の蒲郡の常盤館の直上を通り、知多半島を横切って、伊勢湾を横断するのであるが、この辺は気流が非常におだやかで、空模様もよくなって来たので全くのよい飛行日和となった。伊勢湾では名古屋港に入る巨船を見下し、伊勢大廟の右上から遙拜して、飛行の難所である鈴鹿山を過ぎ、あまり人里もない山中を越えて奈良公園の上空を通り、木津川の飛行場に着いたのは正午で飛行時間は二時間半であったが、問題となっただけに大阪の飛行場は実に不便のところであり、周囲もわるく、下りてから堂島ビルの事務所まで自動車で送ってくれたのであるが、途中渡船の不便があり、決して飛行場として適地ではないように感ぜられた。それより生駒の吉田蘭園を訪ね、京大農場に行き夕刻に京都市内に入ることが出来た。(石井)



 

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