明治・大正の「温室」にまつわる物語  関東大震災以後、アメリカ帰りの園芸家の温室とは異質な歴史的建築物

 『最新温室園芸 建て方・暖房・栽培』

石井勇義/編 1935年7月 金正堂


明治32年12月に小石川植物園の改築工事終り
中央温室が出来た


※明治以降の日本における温室の歴史は、まずフランス式、イギリス式のヨーロッパの温室が導入されそれを日本式に改良したものが長く使われた。これは規模的にも小さなものが多く、もっぱら上流階級の趣味的な園芸、政府の農業試験場などに用いられた。

その後、大正期にアメリカから帰ってきた人たちがアメリカ式の大規模な最新式温室を建て営利栽培が本格化する。関東大震災以後の復興需要や市場の設立による流通革命、工業の発達による建材費の大幅な値下がりによって温室の建設が広まり、各地に温室村ができていった。


再び温室号を編みて

石井勇義


 四季を通じて花を鑑賞し、冬季の間より盛夏の果菜を賞味し得るに至りたるは全く温室園芸の発達が然らしむるところである。小誌では七年二月に増刊として「温室の建築と栽培」なる特集号を発刊したるところ、当時温室園芸は特殊なものであるからという売行上の杞憂を全然裏切り、全く予期せざる反響を生み、旬日にして増刷を見る結果となり、再三増刷の後昭和八年の春頃より全く絶版となっていたが、その後も、同書の紹介を受けること頻りであったので、それに代るものとして、計画したものが本集である。これは最初昨年の十二月に刊行の予定であったところ内容の完璧を期する為に、新たに、温室の設計や調査に多大の時日を要したので、遂に今日に及んだ次第である。

 我国に於ける温室園芸趣味の一般化は近年著しいものがあり、都鄙の別なくこれが普及を全国的に見るに至った。しかもこの流れには二つの傾向を見出し得る、即ち趣味の方面では明治時代より、漸次に発達して来た華族富豪の娯楽園芸が一歩一歩民衆化して来たものと、他方は生産本位の営利栽培の急激なる進歩である。この二つの動向には劃然たるところがあり、発達の経路を異にしている。――従来娯楽温室に於ては温室の建築に多大の費用を投じ、宏壮にして堅牢無比なるものをつくる陋が最近まで残されていた、つまり、英国式の煉瓦積温室の移入者がどれだけ日本の温室園芸の発達を徐行せしめたか知れはしない。温室は石灯籠と異り古きを貴ぶものではないから坪当二百円をもって建築し、二拾年を維持せしむるよりも、坪当り百円の温室を立て、十年で改築する方がどれ程栽培条件を良好にするかは明かなる事実である。然るに今日なお官省、地方農事試験場等にあっては依然として明治時代の温室観念より脱却し得ざるを見るは不進歩的と言わねばならない。

 編者は大正十四年に、取るに足らぬものではあるが、「温室園芸の知識」という著を公にし、その中では主として温室建築の簡易化と、普及に努めたつもりであったが、今回の増刊に於ても、建築費の低廉なることと、管理技術はその人にあつて秘訣も秘伝もない事をいつも強調して来たが、蔬菜の集約栽培に経験を有せらるる日本の農家は、数回の見学と指導で温室の管理はなし得、相当の結果を見る事が出来ると思う。 次は温室建築費の問題であるが、温室は小なる程坪当たりの建築費が高く、面積大なれば低廉となる事は一般家屋と同様であるが、また建て方に依って、坪当り、二十五円から三百円位までの範囲があると言い得るので、場所に依り、様式に依り、材科に依って必ずしも本誌が発表した如き範囲で出来るものとは断ずる事が出来ない事を御承知願いたい。しかし、本誌に発表したものはいづれも当時の実際計算そのままである事は明かである。

 温室の美と称するは外観を貴ばず、内容にある故に、建築に当りては栽培条件を第一義とすべきである事を繰返しておく次第である。

 本誌の編集に当りては、温室園芸界各位の多大の御尽力を得、殊に犬塚卓一、長田(おさだ)傳、古川賤男、川泉弘治、古館盛、その他多数の方々の御尽力を得、また農林省農事試験場、木下昆虫部長等は小誌の為に態々温室害虫の調査に多大の時日を費されて新研究を発表され、また田杉技師、石井博士はじめ部員各位の御援助を深く御礼申上げる次第である。然し、本誌も何分にも二ヶ年間で駈足で編集したものであり、決して完璧とは申されぬものである事をお断りする。加えて編者は十二月上旬より健康を害して為に最初の計画内容の一部は放棄しなければならず、遺憾の点が多い、のみならず校了の間際に至り、一月二日より熱海伊豆山の旅舎にて急性レウマチスに侵されるところとなり、一月六日、今床中にあり、安静のうちに漸く許を得てこの一文を草した次第である。(読者各位に私の病気をお知らせするわけではないが、編者として後日の思出となるべくありのままを記してお許しを乞う次第である。)


我国に於ける温室の発逹

小石川植物園 松崎直枝


古い温室の聞きかじり話


 温室に関係のある生活を始めてから、もうかれこれ二十年近くもなるけれども、御恥かしい仕末だが、幾寸の鉄管を幾本引く幾坪の部屋が幾度の高さに保温が出来る、と云うような事も知らずに暮して居る。夫れに温室の事なぞと頓と知らずに居るけれども、誰れ彼れの先輩知己に承ったり伺ったりした事があるので、今夫れをとめどもなく兎糞的にポツボツ書いて見る事にした。勿論私の心憶えの控えに過ぎないので、まだ就いっか精調しなければならない事はザラにある事だろうが、ただ話の下手な私の話を聞いて居て下さる程度で御読み願いたいのである。



 元来今私達に普通使われて居る温室なる言葉は、何時から用いられたのであるかと云うと、此の温室なる言葉は勿論支那に既に在った言葉だと思うが、此辺の事は余りよく調べて居らぬが、何んでも支那で浴室の事に用いた事があるかの様に、石井主幹が話して居られるのを聞いたが、夫れは他日、誰れかその道の方が御調べ下さるとして、内地で用い初めたのは横浜植木会社の至宝、否現代日本の園芸界の大事な経験老功の士であるとともに、熱帯植物輸入採集に努力された、水田岩次郎氏の話によれば、明治二十二、三年頃からだろうと云う事である。夫れから見ると極く新らしい事で、私が生まれた時代頃からの事だと思われる。然し乍ら今ここに云う温室と云うのは、ガラス張のものを云う事になって居るが、此暖地の植物を保育すると云う意味のものは、欧州では既に一二四〇年にアルベルツス・マクヌスが、簡単なる一種の部屋を作りて、冬期に和蘭陀王に美事なる花を献じ、魔法使と呼ばれたと云う事が伝えられて居り其の後次第にその構造も進歩しガラス張となった真の温室は、十七世紀以後に発達して、特に最近北米に於ける大規模なる温室の建築は、世界に於ける花卉園芸界の一大革新であらねばならぬ。支那に於ける此種の事業は白井博士に従う時は、清の王士清の著述たる「帯経堂詩話」に「今亰師臘月即売牡丹梅花、緋桃探春諸花皆貯暖室以火焙之所謂堂花又名唐花是也」とある。即ち此れによって見ると、師走に牡丹や梅の花や緋桃や探春(※オウバイ?)などを促成開花せしめた事がわかるが、此れより更に以前此の事があった事も同博士は説いて居られる。即『漢召信傳信臣爲少府大官園種冬生葱韮菜茄覆以屋庶晝夜戁薀火待温気乃生唐人詩内園分得温水二月中旬己進瓜蓋唐以来皆然』とあって、此れによりて見ると大気を利用して葱や韮を促成し、温泉利用で瓜を促成した事も伺われるが、更に宋の時代にも沸湯を置きて冬月に花を咲かしめた事がある云うからには、相当に古くから促成の法は進んで居たものと思われる。夫れによって作ったものであろうが、内地での分は元禄八年江戸の出版の「花壇地錦抄」に唐桐と蘭類を土蔵又穴蔵に入れて越冬せしむる事が掲げてあるし、文化十五年の「草木育種」には方燈室(あんどんむろ)の造り方が出て居る『梅桃桜海紅紫藤(かいどうふじ)の類その外諸(もろもろ)の草木早く花を開かせんと思うには是へ入る可し。内の様子を見る為に小さく口をあけ置くべし。外より室の下へかけて土を掘って火鉢に炭火をよく埋消えぬ様にして入るべし。尢寒き日は昼も火を絶す可らず。室の内火のある所の上は竹すのこを渡して上へ湿りむしろを敷べし。此室へ入れて大抵三十日程にて盡く花開くものなり。然れども櫻は白咲、紅梅は色薄し。是を暖日に出して日にあてる時は色を出すなり。又夕方より室の内へ入置く可し』とある。此外に今古老の人は記憶して居らるる事であるが、岡窖(おかむろ)と云うのがある。此は前記の書中に土蔵と云うのと同様で、その名は「通賢花壇抄」に出て居ると云う。その模様は土塗で一方だけ雨戸があるもので、今でも各所に残されて居る。現に小石川植物園にも残されて居るが、ただ雨戸の内側に別にガラス戸が立てられて居る事だけ新式になって居る。此外に唐窖(とうむろ)と云うのもある。此は掘下げた形が大同小異で此等は現在の温室の前身と見て然る可きものであろう。



内地に於ける温室建築の最初は、白井博士植物園内山富次郎氏から聞かれたとして報じて居らるる所によると、明治三年に青山の開拓使の園中に在りしを以て嚆矢とするらしい。水田岩次郎氏も明治三年説であるが、然し玉利博士の説によると、明治七、八年頃青山開拓使は施設せられたと云う事になり、年代は少し遅れるが、同博士は実際にその温室を見て「積雪中花卉盆栽のよく開花せる有様より見て余は当時己に巧者に管理せられたるを察するり」として居らるる所を見ると、果して開拓勧農寮と同時に開始せられたか一寸疑問であるが、温室の建築に重きを置いて書かれたのではないので、明治三年説が正しいと思う(※実際は園芸を指導したルイス・ベーマーの来日が明治4年12月=西暦だと1872年1月=明治5年表記が多い=であるので、それ以前ではないと思われる)。此開拓使で作られた温室は今の青山学院の地で、温室の外に「米国の林檎、梨、葡萄、その他あらゆる果樹を栽え付けて、規則正しき整枝技法を行い又西洋蔬菜を種々栽培してあった」と玉利博士は云って居られる。而して此方は全く米国式であったのに反し、勧農寮の方は欧州式であったと云う事である。玉利博士の如きも此後者即ち、勧農寮の方に一年も勧めて居られたと云うし、今の新宿御苑の福羽発三氏の父君である逸人(はやと)博士も此方で育った方で、此方は、当時、内藤新宿即ち新宿御苑の前身である。

 此等によりて見ると当時、既に温室にも欧米二様のものがあったのではないかと思う。自分は従来頓と無頓着で記録を粗末に読み過ごして居たので、こんな事さえ十分には考えないで居た。而して植物園には明治十八年に勧農局のものが移転して来たと聞いて居るが、明治十七年に勧農寮の分身たる三田育種場が、十七年頃廃止せられたと玉利博士が云って居られる所を見ると、十八年に来たのは確かで、開拓使の方は明治十五年に全部北海道に移転したと云う事である。夫れで此明治十八年に、初めて今の小石川植物園に出来上がったと云う温室の模様を、現存の小澤磯吉氏に尋合せて見るに。現在分類花壇になって居る所に、鍵の手になった建物で十間の二間で半分に仕切り、前半は日向窖と称し、後半が蘭室で中央北郷の壁間には、クロボクを組み上げ岩組を作りて、夫れにファレノプシスの如きものを植え込みて、その部屋に接して二間半と三間の釜場がありて、蘭室の隅に釜を置き一方西の隅に煙突があったと云う。此ものは今は全くその姿を見る事が出来ない。自分達は此温室は見た事がない。此外に当時は二間半に一間半の岡窖(おかむろ)と、十二間に三間の穴窖煉瓦室とがあったそうである。

 此より二年前明治十六年に、播州加古川温室で葡萄が結果(所長子爵福羽逸人博士日記)したと云う事であるが、事によれば此れが本邦に於ける最古の日本式温室であろう。福羽博士の設計で四坪半の温室である。夫れから二年後即同じく、福羽博士の設計で作られた温室が、今にまで残って使用されている日本に於ける歴史的現存最古の歴史温室がある。夫れは岡山市の北方三里、御津郡野谷村出身の山内某氏で播州葡萄園に勤めて居られ、ここに明治三年に初めて輸入せられた欧州葡萄を作られ、夫れが初めて此の温室で結果したのを見て、自分も作って見たいと考えてその苗数本を貰って前記自分の故郷に帰り、明治十九年に福羽子爵の設計を願って長三間幅一間半の温室が出来上がった。此事は既に昭和六年八月の本誌に写真及び記事が掲げてあるが、その後東京銀座の千匹屋主人齋藤義政氏は、この温室見学にわぎわざ同地に出かけて「風味」昭和七年十月号に「果物原木巡礼第五番」、温室葡萄原樹及最古温室として書いて居られる。『ギヤマン室は一間半に三間、片面は石垣を利用し片面は玉石を積み重ねる事三尺余り、軒先までは土壁にして、三尺にして、三尺角の窓二ヶ所、東西は土壁三尺の板戸あり、屋根はギヤマン板を以て一面に掩い、三尺に六尺の山形に張られた。葡萄樹は三本は室内北側に二本は南側の家の外に植えられ地上二尺程伸びて玉石の間を潜り、室内に入り枝を繁らして居るあたい頗る趣きがある。種類はマスカット・オブ・アレキサンドリア、マスカット・ハンブルグの二種で、今なお老いたりと雖も年々幾房かの実を結ぶ。今日に於て最珍重せらるる此の二種を提出して植えられた氏の先見又実は驚くの外ない。此ガラス室の建設は明治十九年で本邦に初めて造られた最古の貴い建造物である。然も西洋風をその儘に模したものでなく、如何にも湿気を除かんとの熱列なる工風と努力に成った独創的のものである点など、見た者をして一層尊敬の念を抱かしむるものである』。実に然りで、今や殆ど古い温室はその彰を止めて居らないのに、岡山市附近には此福羽子爵設計の日本温室が、今日迄殆ど五十年近い年月を経て残存してる事は誠に面白い事であり「実際園芸」が此の写真を掲げて今日の園芸関心者に紹介した事は実に有難い事であった。なお出来る事なら日本園芸界の保護建築物として、出来るだけ保存するエ風をしたら如何かと思う


画像

明治十九年に建設された岡山の葡萄室と山内善男翁(岡山県農試技師 石川禎治氏提供)


 此温室から出来たものは、一貫匁一円に岡山市で買れたので、勢が出て更らに二十年には十一間一楝、二十二年に九間を増築したと云われて居る。而して昭和四年度に於ける、岡山県下の温室一万二干五百坪を算するに至ったその起因は、実に此内山氏の所謂ギヤマン張りの当時俚人(りじん)は此を以て嘲笑した間に在って毅然として敢行した内山氏の壮挙が岡山県下今日の温室園芸の盛況を来した濫觴(らんしょう)である事を考えなくてはならぬ。由って起る所は遠い。決して今日の隆盛が今日突如としてその隆盛をなしたと思うのは、近視眼者の観察である。



 横浜で一番早いのは明治十年頃(※16年以後)に山手の二十八番に、ボーマー商会が五十坪の温室を作った。此商会では種苗を商売にして居たので、当時福車(フクシャ)、天竺葵(ゼラニウム)、ユーチヤリス、ヴバールヂア等が盛んに作られて、眼もさめるばかりに植木会社水田氏などはよく此所に行っては、何かと名称或はその作り方等種々教わったものであるそうである。而して此人は福羽子爵から「朝日の波」と云う大菊広弁赤覆輪で径六寸もあるものを貰い受けて、米国、英国に送りて万円を儲けたり林脩已氏が云われた。それと前後して山手二百四十番にヂンスデール氏が三十坪の温室を新築した。此方は外ど蘭類が専門であって日本渡来の蘭類の歴史を調査する人があるならば此ヂンスデール氏を除外してはならない。現に新宿御苑の蘭の如きも、二十三年に福羽子爵が欧州旅行から帰られて、此処から求められたと云う事であるし、また現在小石川植物園に残されて居る蘭の内でも、ここから購入したものがあるしまた、ウツボカヅラも確かにここから入れられた歴史が明らかである。而して明治十五年には横浜植木会社の鈴木卯兵衛氏(最初の社長で、当時ウノサンと称して初めて植木組と云うのを組織して、後更らに進んで今日の株式会社に進歩発展し、今日の植木会社の基礎は全く此人の力で築かれたものである)が、三間に十二間の三十六坪の温室を作られて、東西に長く東側にボイラー室を作り仕事場兼用として、ボイラーはヒッチング会社のカブト型ををしたものであったが、此ものは後年植木会社が組織せられてから会社の方に購入せられて、その後大正十二年迄約四十年も使用せられて居たそうであるが、自分が同会社に働いて火夫の役目にも従ったのは、大正二、三年だから、ボイラーは筆者自身にも手にかけた事があるなつかしいものであったのである。 



 それから明治廿年には横浜でマンレー氏(九十番館)が二十坪の温室を作り、更らに同年に江の島のサミエル・コッキング氏は、あの江の島の最上点に四、五十坪の温室を造り上げたものである。此のコッキング氏の温室も現在は残って居らないで、自分もその残りの跡だけは先年牧野博士の御伴して石井主幹と共に見物した事があるが、規模壮大なるに驚かざるを得なかった。それにアローカリアや新西蘭(ニューサイラン)や蒲葵(ビロウ)それに厚葉棕梠蘭(アツバキミガヨラン?)が沢山にあり、海岸松は幾等か残っては居るけれども大分傷められて居た。

 明治卅年五月の「東京植物雑誌」に服部広太郎氏(後の理学博士)のコッキング氏植物園と云う雑録があり、それによりて見ると、智利松(アローカリア・イムブリカータ)があり、濠洲産のアローカリア・クンニンガミイがあり、同じくクッキーが『牡丹桜を愛して所々に之を植え、今や盛んに花を開きて恰も淡紅の薬玉を掛け連ねたるにも似たり、得も云われぬ香の中を分け分けて静かに花径を巡り行かば、新西蘭(フォルミウム・テナックス)の叢生するものあるを見る。やや進めば一池あり、池中 Victoria regia を栽ると云う。然れども時期早きが故に花葉を見るを得ざりき。池畔樹木鬱蒼として緑苔蒸々たるの処に十数株のDicksonia antarctica  Labl..(豪州丸八)あり。(筆者和名追記)此も亦濠洲の産にして中二株は既に枯死せしも、他は勢甚だ盛んにして茎頂より広状葉聚生せり(中略)三棟の温室あり、皆煉瓦を以て畳み互に相連絡せり。また現今建築中なるもの一棟あり。規模頗る広大なるが故に竣工せば蓋し善美を盡すに至らん。山上は培養水に乏しければ、氏之を憂い、温室の間に溜池を穿ち深さ一丈方三間斗、セメントを以て之を固め堅牢なる事甃(しきがわら/いしだたみ)の如く、室上の雨露を盡く之に享け、常に水々貯うる事萬斛旱魃の時に逢うもよくつくるなしと云う。是氏の最も意を用いし造構なり。温室に附属して蒸気暖房室あり。此日亦蒸気を通わし居れり(註四月中)室内の温度華氏七十五度内外ありて百草芳を呈し群花妍を争い右顧左観左視応接に遑(いとま)なかりき。Cycas 属中には C. Media R.Br. C.Macrozamia 等あり。仙人掌科、蘭科に属するものは極めて多く盡く挙ぐるを得ず。  Dendrobium macrophyllum A. Rich. D. undulatum R. Br.の如きがあり、爪哇産 Vanda tricolor Lindl. の数変種あり皆奇花を発けり。その他 Cattleya trianaei Reicht. 善く生育せり。 Saccolabium Blumei Lindl. の如きは尺余の気根を叢生し甚だ面白し。氏之に就て顕微鏡的構造の奇なるを称す。此種の気根には含水組織Valamenを有するに依るなる可し』と。なお昭和七年六月廿五日三会堂にて、林脩已氏の当時の思出話を伺いたる時には、温室は十棟あり、風車にて水を揚げてあって大鬼蓮を作りて自分の小供を乗せて喜んだりして居られて、林氏は福羽子爵の御使いで同邸に赴かれし事あって、ファレノプシス・シレリアナの五百輪もつき、径二尺七寸に及ぶものを見て驚いたとあった。なお服部博士の云われた智利松は、京都丸山の村井吉兵衛氏の洋館に必要なりとして移植せるも枯死せりと聞く。それから明治廿一年になって横浜植木会社が創立せられて六十坪の温室が建てられた。此室は大正六年の暴風雨で破壊せられたので再び同年中に改築旧態を存せしめたが、十二年の関東大震災に再びその影を失ってしまった。その当時の地位は現在植木会社の玄関突あたりの大温室の所である。即ち私自身も此温室には可なり印象を残して居るが、今でもまだ頭に残されて居るのはあの部屋の中央に団扇椰子(うちわやし)Licuara grandis が如何にもあの部屋の覇でもあるかの如くにその雄姿を見せて居た事である。二十四年と五年には各三十坪ずつの増築があり、二十五年に同じ植木商会の重役であった鈴木新太郎氏がその自宅の東京駒込伝中に二十坪のものを建ててその初めには加温装置は無かった様であるが東都に於ける営利温室の嚆矢だろうと云はれて居る。



 二十三年に福羽子爵が欧洲旅行から帰朝せらるるや直ちに自邸に九尺に六間のものを新築せられ大正年代まであったが福羽発三氏が新宿御苑に勤めらるる事になってより自邸に如此ものありて公私混同視せらるる事を避けて自ら破棄せられたと承知する。二十四年に横浜山手四十四番のジェムス氏(キリンビール社長)邸に二十坪のものが出来上った。このジェムス氏が日本に初めてカクタスダリアを輸入して開花せしめたのを、各人皆競って此れが入手を希望したが頑としてその需めに応じないので、遂に出入の職人か何かが糞いまいましい野郎だとばかり、その芽を何時の間にか失敬して、それを今度は植木会社で買人れて会社は反ってそれが為めに大儲をしたと云う話である。此温室もその後レーダー氏が引継ぎ増築して蘭を作って居ったが此れも震災の為めに失われてしまった。



 明治廿八年には大隈侯(当時伯)邸にも一室あり、それは十坪の唐窖(とうむろ)で、後九尺の十間のものが出来上がり、更らに明治三十年に至って例の有名なる大隈侯の誇りであった大温室が出来上ったもので此の設計は林脩已氏が江の島のコッキング邸の温室を参考にし種々その旨示教を受けられて、チーク張のコンサーべ卜リーが出来上ったわけでここが侯が世界各国の名士を独特の長広舌でその度肝を抜いた「あるんである」の講堂であった。大正になって侯の晩年にはよくメロンの品評会や家庭園芸会などにもよく自身にて出席せられて園芸談をして下さったので自分達の如きもしばしば其の席で御目にかかる事が出来た。而して早稲田の名物は温室の外に菊花壇が有名であった。此は田村景福氏が專ら司って居られたのであるが、自分逹が、知る様になってからはもう田村翁の手から離れた時分で、真に昔日の眺めはない頃ではあったが、中々立派なものを拝見させて頂いた。所が此チークの大温室もそのまま大隈会館に保存する事が出来ずに中野の河野某氏の邸内に移転したと云う事は真に残念至極の事である。



 明治三十二年十二月に小石川植物園の改築工事終り中央温室が出来た。東京小石川の酒井伯邸の温室は三十五年に二十坪の高四間の椰子室の増築があった。此以前既に三十六坪の温室に出来上って居た。丁度此温室が出来上ってから数年後に日露戦争が起って大勝利の報が来りつつあった時確か三十九年の夏に椰子が結実したと非常に世間を賑わした事があったが、果して此れが真正の海岸地帯に生ずる Cocos nucifora であったか如何かは確かに記憶して居らないが、何か他の属の椰子であったと思う。此温室も自分達が拝見に出た頃はもう余程荒れて居た頃であって後遂に売却せられて今は西武線の右側の何と云う所か知らぬが畑の間にその骨をあはれに留めて、ガラスは破れて見るに堪えぬ悲惨な残骸を風雨に曝らしてその内には何等の植物も培養されては居らない。


 三十五六年頃に百五十坪の温室が出来て居たのは品川の岩崎邸である。その後四十年に到りて五百坪増築せられた。此の設計は林脩已氏が欧洲から帰って新進気鋭の勢を以て成就せられたものである。その当時培養せられたものを林氏自身の口から伺える所によると挑、ネクタリン、胡瓜の促成、鈴蘭、オーリキュラ、エリカ十種類、冬咲きベゴニア、バナナ(赤肉種)外五六種、無剌鳳梨等があり、また別に露地用として井芹直人氏をしての品種、三十程位を収めしめ、石南類は三十種程庭園に栽植し後箱根に移した此石南類の内にカルミヤも含まれて居た。蘭ばかりやって居られた神木氏は三十八年頃であろうし自分も幾度か拝見に出た事があるが、ここも何時かなくなってしまったし、四十年には蒲田に菖蒲園を作ってここにカーネシーンの床植が行われた。温室の構遣の事を一寸考えて見ると横浜最古、否日本で最も古い温室も四十七年の間使われてなおその用をなす可きであったであろうが、残念なる哉、関東地方を襲った震災は遂いに此を虚無にしてしまった。此のボーマー氏の温室の如きは現在のものに比較して見ると非常に頑固で第一に垂木が太く柱も非常に丈夫で太いもので光線を防ぐ事は甚だしいものがあった。その上に合掌も高く培養室ではない様であったが檜作りであった為めに三十年後に植木会社で買取った時でも垂木二三本を腐らしたきりで他の部分は何ともなかったと水田氏は話して居られた。現在では非常に温室建築が進歩して来て坪当三十円位で出来る様に安価になって来てその基礎工事の如きも殆ど不用とさえ云われて居る。然し乍ら各役所の請負仕事になると中なか面倒で、内容の如何に不向きといえどもその建築物の見地から中々厳重なる建前になって居るものがないでもないが、その他の個人及特に営利業者の分は総て非常に骨組が纖細になって部屋の内が明快になって居る。例へぱ郁屋の上部に棚を造ってその上に鉢を乗せて或ものを培養する場合は空間利用にて甚有利であるかに思考せらるるけれども実際はその為に陰を受くる影響は可なりの被害を受くるものである事を忘れてはならない。夫れ程迄の光線の大事な部屋を作るのに只丈犬一点張で作られてはたまらない。また大風の被害の如きも左迄恐るるに足らない事は昨年の東京地方の夫れで證明がつく。勿論此時は温室村で二軒だけ被害があったけれども、浜松に於ける温室の如き確かに一の面白い手本であるかも知れない。


◇ 


 夫れと今一つはボイラーと石炭の関係である。此れは皆一苦労で、此の事に関してはかつて横浜「ガーデン」で、その当時出版して居られたガーデン紙上で調査発表されたものがあるから借用する事にする。





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