昭和3年、伊東東一氏が訴える日本の花業界の問題点 経営、品種名のあやふやさ、種苗への信頼の基盤が未成熟であった リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 20, 2022 新品種育成者の権利(パテント、特許)もない。種苗を購入しても、ちゃんとしたものが届く保証もない。優良な種苗会社が集まる協会もない。※伊藤氏は、こののちに、池上町から同じ大田区内の温室村に移転する『園芸人名録』昭和3(1928)年 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です 大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事 11月 04, 2024 花の都に花の村 一年間に切潰(きりつぶ)す花代二百五十万円 甲斐園治 『新公論』28(4)春季倍号から 1913(大正2)年4月 タイトルの切潰す、は、消費するというような意味。 明治末期から大正へ、時代の変わり目のすごいレポート。日本では温室でのカーネーションやバラ切花の営利栽培が始まったばかり。 日本経済はこの後、ヨーロッパの戦争の影響で好景気があり、その後、大不況があり、関東大震災があり、というふうに大きな波にさらされるようになります。 ※日本の花産業は、関東大震災を境に、アメリカ式の大型温室による生産革命とセリをやる花市場による流通革命が起きます。その状況を生み出す前史が、この明治末期から大正の前期の好景気の時代になります。 ※大正はじめの1円は現在の4000円という説あり。とりあえず、この文章に出てくる金額は3~4000倍にしてイメージしてみるといいかもしれません。3円は1万円から1,2000円。 ※注 文中最後に近いところの藤の記述で「野田フジ」の本場、野田を下総野田と書いているが、大阪の野田が発祥の地であるので、勘違いしているのではないか? ※このテキストの下に実際のページ画像があります **************** ▲花エー、花エーと鋏をチャキつかせ(※注 ハサミを開け閉めして音を出しながら売り声をかけて歩いた)、来る日毎日、八百八町を流し、僅か二銭の仏壇花を切る光景のみを見た人には、それほど花屋の全盛を解し得まい、花エー花エーは僅かに花の都の序幕に過ぎない、植木屋にて取扱う、鉢、庭物の分は先づ別とし東京市内十五区にて切り潰す花代一ヶ年二百五十万円(※注 約100億円)と聞いては、花屋も満更馬鹿にはならぬ。 ▲花屋の全盛 は一面に、花の都を語るのである『花を栽(う)えない東京にドウして其んなに花がある』此疑問に対しては普通の物資と同じく花屋にも、一種の問屋(といや)ありて花の都と花の村との連絡を取って居るのだと答うれば足る。 ▲問屋 として地方より荷を受け、或は仲買人との間に取引ある主なるものは、花太(下谷)花長、長松(南千住)花源(三の輪)花百、花十(深川)花久米、花彦、花常(浅草)花幾(本所)花次、花直(芝)等にして、昔は江戸の城下に卸しの外は一切小売をせぬ問屋は十三軒と極まって居たが、今は無茶苦茶で、間屋は大に小売を行(や)り、甚しきに至り... 続きを読む
横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主と伴田家との関係 3月 07, 2022 『人事興信録』のデータベースから「大澤幸次郎」を検索する https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-3159 横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主、大澤幸次郎氏は、日本で最初の花のセリ市場として関東大震災直後に開場した高級園芸市場の理事長を務めた伴田(ともだ)四郎氏の叔父(四郎の父、六之助の弟)であった。四郎氏は日本の園芸界でたいへんに貢献された人物として知られる。横浜ガーデンは幸次郎氏の子息、幸雄氏が引き継いだ。日本ダリア会会員、石井勇義らとともに園芸文化協会の設立にも尽力されたという。 ●伴田家の五男は、俳優、友田恭助である。「文学座」を立ち上げた人物として日本の演劇界にその名を残している。日中戦争で出征し戦死した。永島四郎氏が「文学座」の葬儀の花をつくっている。 https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8B%E7%94%B0%E6%81%AD%E5%8A%A9-105951 *ガーデン山、「横浜ガーデン」について 当時はたいへんに大きな植物園、遊園地だったようだ。カタログも充実していて、最新の花の種苗を販売していたという。 *はまれぽサイトから「ガーデン山」と「横浜ガーデン」について https://hamarepo.com/story.php?story_id=1780 *写真が語る沿線のサイトから(幸次郎夫妻の写真あり) https://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa16.html ※六之助の長男六郎も高田商会のロンドン支店勤務経験があり、富裕な知識階層の人物であった。 https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-15238 ※六之助の次男、伴田二郎は明治21年生、中央家禽協會理事、伴田養鷄場主 (『人事興信録』)『実際園芸』に養鶏に関する記事を二回書いている。「2-6」「3-1」 伴田四郎氏の肖像 『有栖川宮記念厚生資金選奨録』 第2輯 高松宮家 編 高松宮 昭和8至9年 から 伴田四郎氏の弟は、友田恭助の名前で演劇界に大きな跡を記した友田五郎氏である。友田恭助氏は日中戦争の最前線に送られ上海の壮絶なクリーク戦で命を落とした。葬儀に際し... 続きを読む
作庭からいけばなが生まれた?~いけばなと庭園の歴史的関係 3月 05, 2022 植木屋 下草屋 作庭(3点とも人倫訓蒙図彙から) 【いけばなと庭園】 (『いけばな辞典」大井ミノブ編著 東京堂出版1976) この両者は自然を素材として、それを生活のなかにとりいれて、身近に楽しむ造形表現としたところに、共通した自然観の所産ということができる。千利休が満庭に咲く朝顔の美しさを、床に飾った一輪の朝顔によって象徴的に表したのを見て、豊臣秀吉がその意表をついた創意に感嘆したという話は有名である。その真偽は別として、これはいけばなと庭園との関連を端的に語った話として興味深い。 「宗清花伝書」に、前栽について、「此花は、庭などに花ある躰なり。にわをうけて立つべき花なり。」とのべているが、いけばなと庭園とは相互に規定しあって成立している。 とくに、寸庭に千山万岳を構築した枯山水の庭園は、一瓶のうちに大自然の美を抽象化した立花と、その象徴的手法において相通ずる関連がある。 作庭の伝書である「作庭記」に、「すべて、石ハ立る事はすくなく、臥ることおほし、しかれども石ぶせといはざるか、石をたつるにハやうやうあるべし。」と、庭に石組するにあたって、石をふせるとか、石をすえるとか、おくとかいわないで、すべて一括して、 「石をたてる」 といったとのべている。 いけばなの場合も同様に、「花をたてる」という言葉が、室町時代、立花の総称として使われている。立花は、花を花瓶にまっすぐにたてる供花的様式に起源するが、「仙伝抄」によると、いけるとか、なげるとか、いれるとかいうような種々の技法をふくめて、「花をたてる」といっている。 この 「石をたてる」「花をたてる」といったことばからも、また、これに参加し活動した人物が同じ阿弥号をもつ人々であったことからも、その深い関連が観取される が、それを、「遠碧軒記」は具体的に次のようにのべている。 「 立花は本、作庭より出た事なり。相阿弥、東山雙林寺の内の文阿弥が庭をも作る。さて浄土寺の庭は、此、相阿弥なり。それより立花の事を工夫に始む。今の砂の物は島の心にて略なり。立花は山水をうつす。(中略)池の坊も相阿弥の伝にて庭と立花とをかねたり。 」と、 立花が作庭に起源をもつ といい、さらに 立花は山水をうつし、砂の物は庭を簡略化した姿 とし、 相阿弥は作庭の技術を立花に応用した と、 庭園の影響 を説いている。また、 池坊が作... 続きを読む