昭和3年、伊東東一氏が訴える日本の花業界の問題点 経営、品種名のあやふやさ、種苗への信頼の基盤が未成熟であった リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 20, 2022 新品種育成者の権利(パテント、特許)もない。種苗を購入しても、ちゃんとしたものが届く保証もない。優良な種苗会社が集まる協会もない。※伊藤氏は、こののちに、池上町から同じ大田区内の温室村に移転する『園芸人名録』昭和3(1928)年 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
「園芸趣味」を創り出し大衆化した文人、前田曙山(まえだしょざん)の著作関係全仕事解説 登山、写真、高山植物の栽培、花卉装飾、園芸雑誌の主宰、大衆小説の泰斗 11月 30, 2024 執筆中の前田曙山 ダンディな人であったという。 『私の大衆文壇史 』(青蛙選書) 萱原宏一 青蛙房 1972から 前田曙山は、明治後期から大正、昭和にかけての園芸ブームを牽引した最大の功労者の一人。若い頃から大衆小説の人気作家となり、生涯にわたって作品を書き続けた。後期の作品はいくつもの映画の原作となり、多くの人に愛された。 曙山は、登山家や写真家としても日本の先駆けであり、その名を残している。 植物学でも牧野富太郎に師事してよく学び、高山植物の採集や栽培にも力を入れた。東京・向島の大きな園芸会社の役員を務め、わかりやすい言葉で植物や栽培することの楽しさを伝える『園芸文庫』14巻や『高山植物叢書』などを表した。高山植物の栽培はブームとなり、それらの花をモチーフにした小物が流行したという。 明治後期には『園芸之友』という雑誌を主宰し、園芸文学、園芸小説というジャンルをつくり、物語を読むことで自然と園芸知識が身につくようなものを世に送り出している。 前田曙山が記した「明治年間花卉園芸私考」(『明治園芸史』 p505~ 日本園芸研究会編 1915)は、明治期の花卉産業の貴重な記録となっている。 以下、曙山の全仕事の概要がわかる資料をここにテキストとして記録する。 ひとつ、曙山の誕生日は明治4年11月21日であるが、明治6年になって西暦に改暦されたので、実際は1872年1月1日生まれとなっているので、よく、1871年11月21日生まれ、と書かれたりしているが、間違いである。 『現代大衆文学全集』第5巻 前田曙山集 平凡社 1927 **************************** 『近代文学研究叢書』 第四十七巻 昭和53(1978)年5月31日発行 昭和女子大学近代文学研究室・著 昭和女子大学近代文化研究所・発行 前田曙山は小説家。本名次郎。明治四年十一月二十一日(1872年1月1日)、東京日本橋馬喰町の旧郡代屋敷で父圭璋(静岡県士族)、母波奈の次男として生まれた。陸軍大将になる夢を抱いて陸軍予備校に入学したが素志を変えて中退、私立の日本英学館に学んだ。兄太郎(香縁情史)が硯友社同人であったことから文学への目を開かれ、明治二十四(1891)年「千紫萬紅」に処女作「江戸桜」を発表して文壇に登場した。春陽堂の編集記者として活躍するかたわら次々に作品を発表... 続きを読む
1991年 パウル&ウルズラ・ヴェゲナー夫妻と工藤昌伸氏による歴史的な対談記録 4月 04, 2022 小原流機関誌『挿花』1991年7月号から パウル&ウルズラ・ヴェゲナー夫妻と工藤昌伸氏による対談記録 日本とドイツのフラワーデザインの関係、交渉史を考える上で非常に重要な、1991年の対談。 現在の日本と世界のフラワーデザイン界で理論体系をリードするドイツデザイン指導者のなかで最重要人物であるヴェゲナー夫妻は、日本のいけばなを学び、自らの仕事に生かそうとしていた。日本のフラワーデザインの展開はディーン夫人、キスラー、ベンツ氏からヴェゲナー夫妻まで小原流との関わりを抜きにしては語れない。 パウル・ヴェゲナー(1931~1995)と妻、ウルズラ(1942~ )はともに優れたデザイナーであり、教育者として知られる。60年代から70年代にかけて「花の造形運動」を起こした。自ら学校を主宰し、海外でも指導を行うなど国際的に活躍しました。1950年代から西ドイツを代表して園芸展のディスプレイやデモンストレーションを担当し、専門誌への寄稿や著書も多数残している。日本のいけばなを造形的な目で見直すことにより、フローラル・アートに新しい波をもたらした。夫妻と工藤氏は翻訳された互いの著作で知っていたがこの対談が初対面であったという。(『日本いけばな文化史』第5巻「いけばなと現代」1995年) ※パウル(故人)とウルズラの生没年は以下のプロフィールによる 『ウルズラ&パウル・ヴェゲナー 花の作品:自然からの印象』六耀社 2001年 ***************************** いま、いけるとは。 ⑦フラワーデザインといけばな 昨年の十一月から十二月にかけて、世界的なフラワーデザイナーが来日された。ドイツの ウルズラ・ヴェーゲナーさんと、パウル・ヴェーゲナーさんのご夫妻 である。一九六〇年代、ヨーロッパのフラワーデザインの世界に新風を送り込んでから、常にリード役として活躍し続け、今日のフラワーデザイン界に多大な影響を与えてきたお二人。忙しい来日スケジュールの中、本連載のためにとくに時間を割いていただいて、花をいけるということに対する、東西の意識の違いなどについて、お話をうかがうことができた。その抄録を今回はお届けする。 聞き手は、いけばな研究家、工藤昌伸氏 。なお本文中、ヨーロッパにおける花、いわゆるフラワーアレンジメント、フラワーデザイン、フラワーデコレー... 続きを読む
将軍に付き従い室町文化をリードした「同朋衆」とはどんな人たちだったのか 同朋衆と時宗 2月 23, 2022 ○ 『武家文化と同朋衆:生活文化史論』 村井康彦 筑摩書房 2020年 室町時代は、足利将軍家15代、250年の歴史がある。14世紀の前半から16世紀の後半までという長い期間、南北朝の分裂を収めたものの各地の守護大名の動向に気を配りながらの運営で、どの将軍の時代にも常に敵がいた。将軍の権威が弱かった、と言われる。後期には家臣に暗殺されるなど混乱を極め、10年におよぶ応仁の乱は京都の街を焼き尽くし、戦国時代の幕を開いた。こうした波乱の時代にあって、サムライのトップである将軍が、歌を詠み猿楽を愉しむような「公家化」が目立つのは、ひとつには天皇、朝廷の力を幕府に近付けようという策略もあったと言われている。同朋衆は将軍の側についてよく働いた。 同朋衆はどこからやってきたのか 同朋衆という名称が現れるのは、足利尊氏のあとを継いだ2代義詮(よしあきら・在職1359〜1367)の時代だったという(1358年の記録)。少なくともそれ以前には同朋衆は存在した。その後、室町幕府の体制が確立していくなかで職制が整備、拡充され、東山文化をつくりあげた義政の時代にピークを迎える。最終的には、戦国の世となるにしたがって将軍の権威失墜、将軍家で蒐集してきたお宝、「東山御物(ごもつ)」の流出などが重なり、これらに付随していた同朋衆の存在意義、役割が衰退していった、ということである。 同朋衆の源流は、時宗の僧侶、信徒(時衆)である、という。「法体で阿弥号を持つ」という絶対条件は時衆と重なっている。時宗は一遍上人により、1275年に始められた。法然・親鸞の始めた浄土教の流れをくみ、踊り念仏によってすべての人が救われると説き、各地を布教して回った。公家、国家のための仏教から武家、民衆のために起きた鎌倉仏教のひとつとされ、地方の武士や農民に広まっていた。 時宗は、早くから葬送に関わり、野辺に遺棄された遺体を埋葬し供養していた。こうしたことから戦に出る武士との間に深い関わりができていた。「同朋同行」という仏教用語が同朋衆の名前のもとになったという説があるように、時衆は武士に付き従って、戦場に赴くことも珍しくなかったという。時衆は僧兵のように武器を持って戦うことはしなかったが、「金瘡(きんそう・刀による傷)」の治療に長けており、危険な戦地に同行し、傷ついたものの治療と亡くなった人の看取り、埋葬、供... 続きを読む