昭和3年、伊東東一氏が訴える日本の花業界の問題点 経営、品種名のあやふやさ、種苗への信頼の基盤が未成熟であった リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 20, 2022 新品種育成者の権利(パテント、特許)もない。種苗を購入しても、ちゃんとしたものが届く保証もない。優良な種苗会社が集まる協会もない。※伊藤氏は、こののちに、池上町から同じ大田区内の温室村に移転する『園芸人名録』昭和3(1928)年 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
風流一生涯 西川一草亭のこと 3月 15, 2025 ● 西川一草亭 『盆庭と盆石』創亓社 1936 から ● 藤浪和子 西川一草亭先生 『新文明』 12(11) 1962年11月号 ※藤浪和子(物集和子 1888~1979) 小説家。 青鞜社設立発起人の一人だが挫折のため青鞜社については生涯ほとんど語らなかったという。父親は国文学者の物集高見、放射線医学者(慶應義塾大学教授)の藤浪剛一の妻。夏目漱石に師事しもの書き修業をした。 ● 小原豊雲 『花道周辺』 1950から 西川一草亭のこと 故西川一草亭は、大正の末から昭和にかけて大きい足跡を遺した花道人であった。例の「牡丹切って一草亭をまつ日かな」の句を夏目漱石が作ったのは、この人の名を世に高からしめているが、それよりも、世の多くの芸術家や財界人とも交り、それらに伍す位置を示したのは、新しい驚きを世に与えた。他の花道家との交りはなく、云はゞ別格のようなものであったが、それでいて花道そのものゝ位置を社会的に定めた功績は大きい。 その花展は、京阪神の大邸宅をかりてよく行はれたが、百貨店を用いて行はれる花展とは別の趣きのものであった。その行き方は、今日に行はれている新しい花の創作というよりも、いけ花の中に流れてゐる精神をつかみ、それを新しい時代の生活に生かさうとしたものである。又、これによって、いけ花の趣味を深めて味はせる役割を果した。さう云ふ精神的意味でいけ花を普及した人であった。 この西川氏の活動があった時、その反面に、吾々は、作品としての新しい花の研究をすゝめていたのである。何れにしても、その仕事は、現代花道の動きにとって大きいプラスであった。近世にあってはとにかく西川さんである。 その西川一草亭さんがなくなった時は、未だ二代の在世中であったが、私はその意をうけて弔意を表しに京都までいった。生前に直接の交際があったわけではないが、その死を悼んで態々弔意を表したのである。その時も、あれだけ社会的に活動していた人であるから、葬式は定めて盛大なものであらうと予想していたが、家の中に這入ると、何も特別のものはなく、床の間には、故人の絶筆であった「風流之人」といふ一行がかゝり、それに、白いアマリリスの花が僅かに手向けられていたのみである。葬儀の形式も、普通のお焼香ではなく、一輪の花を霊前に捧げる方法であった。会葬の人々は、新しい手桶の中に入れられ... 続きを読む
将軍に付き従い室町文化をリードした「同朋衆」とはどんな人たちだったのか 同朋衆と時宗 2月 23, 2022 ○ 『武家文化と同朋衆:生活文化史論』 村井康彦 筑摩書房 2020年 室町時代は、足利将軍家15代、250年の歴史がある。14世紀の前半から16世紀の後半までという長い期間、南北朝の分裂を収めたものの各地の守護大名の動向に気を配りながらの運営で、どの将軍の時代にも常に敵がいた。将軍の権威が弱かった、と言われる。後期には家臣に暗殺されるなど混乱を極め、10年におよぶ応仁の乱は京都の街を焼き尽くし、戦国時代の幕を開いた。こうした波乱の時代にあって、サムライのトップである将軍が、歌を詠み猿楽を愉しむような「公家化」が目立つのは、ひとつには天皇、朝廷の力を幕府に近付けようという策略もあったと言われている。同朋衆は将軍の側についてよく働いた。 同朋衆はどこからやってきたのか 同朋衆という名称が現れるのは、足利尊氏のあとを継いだ2代義詮(よしあきら・在職1359〜1367)の時代だったという(1358年の記録)。少なくともそれ以前には同朋衆は存在した。その後、室町幕府の体制が確立していくなかで職制が整備、拡充され、東山文化をつくりあげた義政の時代にピークを迎える。最終的には、戦国の世となるにしたがって将軍の権威失墜、将軍家で蒐集してきたお宝、「東山御物(ごもつ)」の流出などが重なり、これらに付随していた同朋衆の存在意義、役割が衰退していった、ということである。 同朋衆の源流は、時宗の僧侶、信徒(時衆)である、という。「法体で阿弥号を持つ」という絶対条件は時衆と重なっている。時宗は一遍上人により、1275年に始められた。法然・親鸞の始めた浄土教の流れをくみ、踊り念仏によってすべての人が救われると説き、各地を布教して回った。公家、国家のための仏教から武家、民衆のために起きた鎌倉仏教のひとつとされ、地方の武士や農民に広まっていた。 時宗は、早くから葬送に関わり、野辺に遺棄された遺体を埋葬し供養していた。こうしたことから戦に出る武士との間に深い関わりができていた。「同朋同行」という仏教用語が同朋衆の名前のもとになったという説があるように、時衆は武士に付き従って、戦場に赴くことも珍しくなかったという。時衆は僧兵のように武器を持って戦うことはしなかったが、「金瘡(きんそう・刀による傷)」の治療に長けており、危険な戦地に同行し、傷ついたものの治療と亡くなった人の看取り、埋葬、供... 続きを読む
「ガク割れ」カーネーション split galyx を手直しするクリップ 【Baur carnation Clip】【staples】について 11月 16, 2022 1907年2月2日の『Horticulture』誌に掲載された バー・カーネーション・クリップの宣伝記事 1908年12月24日の『Florist Review』誌に掲載された広告 1910年1月29日『American Florist』に掲載された広告 『Florist's Review』1913年3月6日の広告欄 Carnation Staples 『Florist's Review』1920年4月29日の広告欄 『Florist's Review』1920年4月29日の広告欄 『Florist's Review』1920年4月29日の広告欄 1921年1月10日の『Horticulture』誌の広告 carnation staple いわゆる「ガク割れ」したカーネーション 『カーネーションの研究』 土倉龍次郎、犬塚卓一共著 1936(昭和11)年 萼割の花の処理法 ※漢字や送り仮名等を読みやすく直してあります 萼割のしたものは 米国ではあまり意に留められない ようである。したがって他の一般のカーネーションと区別されることがなく、ことに 冬季の萼割は気候、風土上、止むを得ないものとして、普通品と同様にして取り扱われている 。それがため、値段も普通品と同等に取引されている点は、販売者もまた消費者もよくカーネーションの習性を理解しているのであるということができる。 しかし 我が国では以前から嫌われており、たとい花萼が丈夫で長いものであっても、中等品として一段落されているのが普通の状態である 。しかし萼割したからといって、切花の耐久性においては少しも変わったところがないものであり、 かえって花弁の重ねが多いために一層大輪に見える ところから、用途によっては萼割といえども決して捨てたものでもない。それゆえ最近の米国ではかかるものを喜んで使用するものがあるように見受けられる。 萼割のカーネーションを補正するには、 バー・クリップ Baur clip またはステップル ( staple) という細い針金で製作された特殊なもの が米国等では使用されている。これは萼の外部に出ている花弁を萼の中に納めて、割れた萼と萼とを合わせ、その合わせ目の両方の萼の上からこれを押しさして止めるに用いるものであるが、これで補正すれば殆ど普通の花と区別... 続きを読む