昭和3年、伊東東一氏が訴える日本の花業界の問題点 経営、品種名のあやふやさ、種苗への信頼の基盤が未成熟であった リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 12月 20, 2022 新品種育成者の権利(パテント、特許)もない。種苗を購入しても、ちゃんとしたものが届く保証もない。優良な種苗会社が集まる協会もない。※伊藤氏は、こののちに、池上町から同じ大田区内の温室村に移転する『園芸人名録』昭和3(1928)年 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主と伴田家との関係 3月 07, 2022 『人事興信録』のデータベースから「大澤幸次郎」を検索する https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-3159 横浜の「ガーデン山」にその名を残す横浜ガーデン主、大澤幸次郎氏は、日本で最初の花のセリ市場として関東大震災直後に開場した高級園芸市場の理事長を務めた伴田(ともだ)四郎氏の叔父(四郎の父、六之助の弟)であった。四郎氏は日本の園芸界でたいへんに貢献された人物として知られる。横浜ガーデンは幸次郎氏の子息、幸雄氏が引き継いだ。日本ダリア会会員、石井勇義らとともに園芸文化協会の設立にも尽力されたという。 ●伴田家の五男は、俳優、友田恭助である。「文学座」を立ち上げた人物として日本の演劇界にその名を残している。日中戦争で出征し戦死した。永島四郎氏が「文学座」の葬儀の花をつくっている。 https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8B%E7%94%B0%E6%81%AD%E5%8A%A9-105951 *ガーデン山、「横浜ガーデン」について 当時はたいへんに大きな植物園、遊園地だったようだ。カタログも充実していて、最新の花の種苗を販売していたという。 *はまれぽサイトから「ガーデン山」と「横浜ガーデン」について https://hamarepo.com/story.php?story_id=1780 *写真が語る沿線のサイトから(幸次郎夫妻の写真あり) https://touyoko-ensen.com/syasen/kanagawa/ht-txt/kanagawa16.html ※六之助の長男六郎も高田商会のロンドン支店勤務経験があり、富裕な知識階層の人物であった。 https://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-15238 ※六之助の次男、伴田二郎は明治21年生、中央家禽協會理事、伴田養鷄場主 (『人事興信録』)『実際園芸』に養鶏に関する記事を二回書いている。「2-6」「3-1」 伴田四郎氏の肖像 『有栖川宮記念厚生資金選奨録』 第2輯 高松宮家 編 高松宮 昭和8至9年 から 伴田四郎氏の弟は、友田恭助の名前で演劇界に大きな跡を記した友田五郎氏である。友田恭助氏は日中戦争の最前線に送られ上海の壮絶なクリーク戦で命を落とした。葬儀に際して、永島 続きを読む
大正12年12月20日(木)、有楽町駅すぐ(日比谷側)埼玉銀行の地下にて、高級園芸市場が営業を開始 すぐにスバル座あたりに移る 12月 11, 2022 ●今から99年前、 関東大震災から3か月少し経った12月20日(木)に「フラワーマーケット(高級園芸市場)」の最初のセリ取引が始まった。当時を知る湯浅四郎氏(東京農産商会社主)によると場所は 有楽町のスバル座あたり、埼玉銀行(現りそな銀行)の地下を借りてスタートした、 と述べている。 湯浅四郎氏の東京農産商会は、主に球根植物に特化した種苗商として営業をしており、蒲田に農場を持ち、東京の有楽町の駅前(銀座側に出て、今のイトシアあたり)に売店を構えていた。有楽町をよく知っている人物だった。 https://ainomono.blogspot.com/2022/10/99.html ●日本最初のセリ取引による花市場、「高級園芸市場」はその後、場所を少なくとも2度、移転しているようだ。 ここに整理したい。 1、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災 により、東京の花問屋のほとんどが営業できなくなり、花の生産者は、東京での出荷先がなくなってしまった。そこで生産者は、かねてから議論していたように、自ら花市場を設立することにした。 ※市場設立の母体となったのは大正7年にできた 「大日本園芸組合」 宇田明氏のブログに詳しい(資料「世田谷の園芸を築き上げた…」) https://ameblo.jp/udaakira/entry-11103360099.html ※北米西海岸の日系人園芸家たちは、カリフォルニアで花市場を創業していた。 これを、1921(大正10)年、日本の花生産者、野口秀(=佳伸)、岩本熊吉両氏が渡米し花市場を視察している。(豊明花きHP) https://fengming.jp/outline/history/ ※震災当時の銀座、京橋あたりのようす https://smtrc.jp/town-archives/city/ginza/p05.html 2、場所は有楽町駅の日比谷公園側の出口を出てすぐの「スバル座」(有楽町一丁目)付近にあった埼玉銀行の地下を借りてスタートした。 「 埼玉銀行(※現りそな銀行)の地下室を借りたが、どうも地下室ではあまりせまい。そこでスバル座の所に出て、焼けた跡のバラックを借りて発足した」(湯浅) つまり、 当初、銀行の地下を借りて始めたものの、すぐに地上のバラックに場所を移した、ということである。 (その場所は戦後、「丸の内ス 続きを読む
東京は花の都! 周辺十里はすべて花の産地です 大正2年の東京の花事情 『新公論』に掲載の記事 11月 04, 2024 花の都に花の村 一年間に切潰(きりつぶ)す花代二百五十万円 甲斐園治 『新公論』28(4)春季倍号から 1913(大正2)年4月 タイトルの切潰す、は、消費するというような意味。 明治末期から大正へ、時代の変わり目のすごいレポート。日本では温室でのカーネーションやバラ切花の営利栽培が始まったばかり。 日本経済はこの後、ヨーロッパの戦争の影響で好景気があり、その後、大不況があり、関東大震災があり、というふうに大きな波にさらされるようになります。 ※日本の花産業は、関東大震災を境に、アメリカ式の大型温室による生産革命とセリをやる花市場による流通革命が起きます。その状況を生み出す前史が、この明治末期から大正の前期の好景気の時代になります。 ※大正はじめの1円は現在の4000円という説あり。とりあえず、この文章に出てくる金額は3~4000倍にしてイメージしてみるといいかもしれません。3円は1万円から1,2000円。 ※注 文中最後に近いところの藤の記述で「野田フジ」の本場、野田を下総野田と書いているが、大阪の野田が発祥の地であるので、勘違いしているのではないか? ※このテキストの下に実際のページ画像があります **************** ▲花エー、花エーと鋏をチャキつかせ(※注 ハサミを開け閉めして音を出しながら売り声をかけて歩いた)、来る日毎日、八百八町を流し、僅か二銭の仏壇花を切る光景のみを見た人には、それほど花屋の全盛を解し得まい、花エー花エーは僅かに花の都の序幕に過ぎない、植木屋にて取扱う、鉢、庭物の分は先づ別とし東京市内十五区にて切り潰す花代一ヶ年二百五十万円(※注 約100億円)と聞いては、花屋も満更馬鹿にはならぬ。 ▲花屋の全盛 は一面に、花の都を語るのである『花を栽(う)えない東京にドウして其んなに花がある』此疑問に対しては普通の物資と同じく花屋にも、一種の問屋(といや)ありて花の都と花の村との連絡を取って居るのだと答うれば足る。 ▲問屋 として地方より荷を受け、或は仲買人との間に取引ある主なるものは、花太(下谷)花長、長松(南千住)花源(三の輪)花百、花十(深川)花久米、花彦、花常(浅草)花幾(本所)花次、花直(芝)等にして、昔は江戸の城下に卸しの外は一切小売をせぬ問屋は十三軒と極まって居たが、今は無茶苦茶で、間屋は大に小売を行(や)り、甚しきに至り 続きを読む