高砂百合の由来について 小石川植物園 松崎直枝


『実際園芸』第17巻8号 昭和9年12月号

 高砂百合の身元調べ

小石川植物園 松崎直枝


何時か園芸座談会の時に、吉田進翁に特に先きに広瀬巨海氏から高砂百合の別名にリリウム・ヨシダイというのがあるはずだと言われたのを思い出して、翁に直接伺った事があった。それは一千九百五年にライヒトリン(Leichtlin)という人が吉田氏から種子を送って貰って開花したのを見ると一種の新らしいものだから、と言って、ガーデンに発表したものであるらしい。

※座談会のようす リリウム・ヨシダイと高砂百合の話

https://karuchibe.jp/read/10373/

ところが、吉田氏が如何にして此の種子を入手して送られたかを伺ったが、それは明瞭に記憶しておられなかった。即ち台湾の友人からでも台湾の百合の種子だくらいの所で送られたのを、英国のこの人の所へ送られたものであろう。最近に於てといっても、一千九百二十年の植物雑誌に、この高砂百合に就ての詳細なる図解があるのを見ると、日本園芸植物を知らねばならぬ自分達には、かなりいい材料と思うので、それを紹介したいと思う。記者はオ・スタッフ氏であるが、氏はもうこの百合に就てはその歴史、培養等に就てほとんど述べ盡されているはずである。特にウィルソンやグローブ氏等のものに附加する必要はないほどである。

しかし、ここに多少の蛇足を加えさせてもらうという謙遜な辞を述べて、次のように詳説してある。


高砂百合の最初の発見は、一干八百五十八年、台湾の西部海岸地方で、英国キウ(※キュー植物園)の植物採集家チャールス・ウィルフォード氏(Charles Wilford )が発見したのに初まりて、その後次から次と採集家によって採集はされていたが、別に特別の注意を払われないでいたのは、この百合が特別の所のみになくて、殆ど全島に分布しているからだったのかも知れないが、その一因は確かに熟知せられている、ベルグ氏によりて命ぜられた鉄砲百合(L. longiflorum)と同一視せられたのによるものと思われる。その後ジェムス・ベッチィ商会の雇員たりしチャールス・マリース氏(Charles Maries)が一千八百八十年に、この球を採集して送付した。それが翌年に開花して鉄砲百合の台湾変種即ち(L. longiflorum var. formosanum Baker)という名前で市場に出されたものであるが、この面白い有益な百合の球は、直ぐに枯死して終って、遂にその販売するものがなくなってしまった。その後二十五年の歳月を過ぎて、再びマックス・ライヒトリン氏(Max Leichtlin)によって、東京の園芸協会の秘書たりし吉田氏からこの種子を得て、これから苗を得て開花を見て、恐らく新種であろうというような事から、氏は命ずるに吉田百合(L. Yoshidai)とした。

しかしこれは直ぐに先年のマリース氏の輸入品と同一品である事が明瞭になった。当時は比律賓廠(フィリピン)産であるかの如くに思考せられていたが、現在では前記ウィルフォード及びマリース両氏の分とどうように台湾産である事は疑うべからざる事実である事を確かめている。その後再びその輸入がなく、漸く一千九百十三年になって、初めて種子によって得られたのと同時に、彼の大東亜植物の世界的権威であり、また採集家であった北米アーノルド氏樹木園のウィルソン氏の一千九百十八年に球を送付せしものとが現在の英国の高砂百合の起源をなしているものである。

一千九百十三年の方は、プライス氏(Price)が新高山で一千九百十二年に、一千八百――二千四百円米突の所にて採集した種子から球ができたもので、十八年の分は、西中央部の南斗の一千八百米突の所の球であった。

この高砂百合は、最初に鉄砲百合と同一視せられた。が後更にその「明瞭なる変種」とせられ、その当時のガーデン誌の一寄犒家は、一干八百八十年に、これら学名の如何に関わらず、別に只一般的に園芸界に鉄砲百合として熟知られているものとは全く違ったものであろとしている。一方に於て例の『百合』の著者エルルウス氏は、それと同時にフィリッピン百合(L. philippinense)に近い明白な一種であろうと論じている。それと同一意見なのは、ベーカー氏で、それとはまた別にちょうど七年以前に論じている。それ等の外に、また日本の植物学者松村博士はその著術中、日本植物学雑誌十二巻五十三頁にエルウイス氏が近縁の一種であろうと言ったのを外にして、フィリッピン百合と同一視してしまったのが一干八百九十八年で、その後北米のウィルソン愽士は採集地に於てこれをフィリッピン百合の変種と認め、一千九百二十一年に、その旨発表している。

しかるにその後この台湾産の百合については、現在では一般に別種であるという事に決している。組織上からでも生理上からでも、ともに鉄砲百合でもフィリッピン百合でもないことになっている。しかしもしもこの両者の内にその類似点を捜すならば、その義の意のフィリッピン百合に、多少の関連がないとは言えないくらいの程度である。フィリッピン百合その他のものからこの高砂百合が出たものでないという証拠のない事を力説したい。

高砂百合は、全台湾に分布しているが、特に北部に最も普通である。而して海岸から二千四百米突の山地の新高山辺まで上昇して、その所在の場所は、草原地帯及び森を避けた所である。而してその草丈の高低とその葉の広狭とは甚だしく差異がある。即ちブライス氏採集の分は、低いもので〇・五米突のものは海辺近くからまた千八百乃至二千四百米突の高所までの間に在るもので、これに反してウィルソン氏の分は、同じく千八百米突の所で採ったものであるにも拘わらず、二米突に達した長茎のものである。これで見ると、その高度のいかんによって、その長短が決定するようでもない。が同時にブライス氏の高所で採集した種子から得て発芽したものを見るに、矮性のものが少ないことは事実である。二米突に達するものと同一種子から出たものでも、英国で同一場所に蒔いたもので、その沢山の鉢蒔きのものは矮性で、一二花のみを付けたものがある。ちょうど一年を経たものである。しかしまだ早いのはウィルソン及びグルーブ(Grove)両氏は六ヶ月で開花したのを見たと報じている。而して原産地に於けるウィルソン氏の観察記は「台湾に於ける低地では年中殆ど絶えず開花しているらしい。球は一寸休眠するか或は全く休眠する事なく、その生育を続けてさらに子球を作って行く。これに反して高所に在っては温度不足のために、開花期を一定せられて、一年に一回に制限せられて終る」という。英国に於ける栽培でも同樣で九月に限られている。


◇ 高砂百合の記載


球はやや球状にして、高さ一・五乃至三糎、幅はニ~四糎、肉色鱗片の先端に紫色を帯ぶ。茎は一本乃至稀に二本あるいはそれ以上。鱗片は卵形―長楕円状披針形で鋭尖、花茎は直立細長、三粉乃至二米突。最下低節間より根を下す。緑色にして紫褐色を帯びるか、またはその斑点がありやや粗雑。葉は甚だ多数で、多少叢生。下低にて長く、上部に近づくに従って粗ら(あらら、まばら)に且つ短縮。上向すれども外少下に反捲し線状、稀に披針状線形、鋭尖にして頸に終わる。長さ十乃至二〇糎幅ニ~五粍。暗緑色。無色。多くは七脈。即ち中脈と二乃至四の側脈を裏面に明瞭に認める。縁辺は狭く且つ巻き花は単一或は高性のものでは十花も傘形につく。芳香ありて小花梗は直立する。五~十五糎。花は横開きで少し下向き白色で少っし咽喉の所が緑色、外部は紫色。喇叭状で三分の二位の所から次弟に開きかけている。全長八乃至十二糎口径十乃至十五糎。外部花弁は長楕円状披針形で二~三糎、内弁は倒卵状披針形で幅五糎、雄蕊は花筒の口まで、花蕊十糎。黄葯は一糎半、子房は内錐形で溝がある。五~六糎。花柱は殆ど同長先端肥大三裂。葯より約一・五乃至三糎長出。種倒卵形長さ七~八粍で広翼。褐黄色。

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