有楽町駅前にできた「高級園芸市場」がどこにあり、日比谷、西銀座へと、どのように移転していったのか

※最初にまとめると、

1923年の関東大震災後、「温室経営者らを中心にした」生産者の組合(大日本園芸組合)が花市場を開業することを決定し、場所は東京の政治経済の中心である有楽町とした。

まずは有楽町の駅前のビルからスタートするもあまりにも手狭なため晴海通りを渡った日比谷公園の近くに移転する。そこは現在、2018年に開業したミッドタウン日比谷がある場所である。三井グループが所有する土地(有楽町三井集会所:三井家の迎賓館)であったようだ。

その後、バラックがあった場所には三井系の三信ビル等が建設されることになり、昭和のはじめに、銀座の大通りに面した場所に移転する。通りが拡張され、区画整理を終えた当時はまだ南佐柄木町となっていて昭和5年頃に町名が改正され銀座西6丁目となった。大通りには市電が通り停留場(銀座西六丁目)もできた。 

※関東大震災で売り先を失って困ったのは「温室業者」だけだった。

遠隔地の生産者は東京以外に荷を増やし、露地栽培の生産者は花から蔬菜栽培への転換が可能だった。しかし温室生産の場合は、取引先も不明な地方への転送も蔬菜への作目転換も難しかった。このため、温室業者は一致して市場設立に動けた。結果、他の問屋、卸には温室生産の花がまったく入らず、露地物ばかりとなったために、商売は成り立たなくなり、順次、市場化していくことになった。(『日本園芸発達史』1943年伴田四郎の論文→この記事の最後に全文を掲載しておきます)


参照

https://ainomono.blogspot.com/2022/12/121220.html


【高級園芸市場の移転のあとを追う】


※有楽町には、明治時代から東京市役所(のちの東京都庁舎)があった。現在の国際フォーラムのあるところ。

また読売や朝日、毎日、報知、国民など有力な新聞社が何社も存在した。帝国ホテルもあり、まさに日本の政治や経済の要所であった。

いろいろ調べて、住所表記があるものを以下に示す。


、有楽町駅前、埼玉銀行ビルの地下にてスタート

、あまりの狭さ不便さにすぐに地上にでる。

  それは戦後スバル座ができた場所(現・有楽町ビル:1丁目10番地)

※この1と2はほぼ同じ場所を示しているのかもしれない。

つまり、有楽町駅前の埼玉銀行のあるビルがあったのが、現在の有楽町ビルが「あるあたり」であった、ということかもしれない。それだけ、近い、ということです。


つぎの移転場所は同じ有楽町1丁目といいながら、すこし離れています。大通り(晴海通り)を渡るのでよけい遠くに感じます。


、さらに移転し「日比谷のバラック」で営業した。

  住所は、東京市麹町区有楽町1丁目4番地

有楽町駅からは大通り(晴海通り)を渡った向こう側だが、4番地は日比谷公園寄りの「三信ビル」が建っていた場所であった。たしかに、日比谷公園のすぐ近くで「日比谷のバラック」と呼ぶにふさわしい場所だった。※バラックを片付けて三信ビルが建った。三井の迎賓館としては三田の綱町三井倶楽部(大正2年竣工)が中心となっていったと思われます

つまり、現在、「ミッドタウン日比谷」がある場所です。そこに花市場があった。

晴海通りと日比谷通りの交差する便利な場所。日比谷公園、帝国ホテルは目と鼻の先でした。

※晴海通りに面する現在の日比谷マリンビル、東宝日比谷プロムナードビルなどがある一角は「1丁目5番地」。



https://www.mitsuifudosan.co.jp/business/development/tokyo_midtown_hibiya/history.html

三信ビルは近隣の日比谷三井ビルなどとともに三井グループの所有であり、三越百貨店花部や戸越農園等、三井関係者から場所を提供されていた可能性が感じられる。(まだ用賀でなく戸越にあった。鳥居忠一、石田孝四郎、森田喜平ら)

※昭和25年、戸越農園販売部は三越本店、銀座店には春秋に出店、また日東紅茶日比谷店、三井不動産花の店、東横デパート園芸部とともに三信ビル内に直営の売店を設けている(「戸越農園の歩み」P29)。翌年に戸越農園販売部は富士園芸と合併し第一園芸となる。

※戦前から三信ビルの地下にあったピータースレストランは、永島四郎氏が「婦人公論花の店」時代からいけこみに通っていたところ

※戦後、三信ビルには渡辺プロダクションの事務所があり、フラワーアーティストのつちやむねよし氏は若い頃にしばらくこの渡辺プロダクションを関係があり(ナベプロ経営の花店ディンドンフラワーショップで働きながら付き人的なこともやっていた)、そこから生涯の師と仰ぐ、栗崎曻氏との出会いへとつながります。

地下鉄日比谷駅は戦後にできたので、当時の最寄り駅はやはり有楽町駅です。


、昭和3年の段階で、京橋区南佐柄木町4番地となっており、銀座側の新しい道路ができた通りに面した場所に移転改築したものと思われる。こちらは、六本木のゴトウ花店、後藤午之助氏の紹介で場所を得たといわれている。

、地名は昭和5年頃改称され、京橋区銀座西6丁目1-6となる。(現在は東京都中央区銀座6丁目)



二 花卉市場の発達 

(1943年『日本園芸発達史』から「温室及温床の花卉栽培並に花卉市場の発達」伴田四郎 ※昭和11年(1936年)の記録


 次は花卉市場の事であるが、花卉市場の生れたのは極く最近のものであって大正十二年の関東地方の大震災の副産物と云ってもよい位のものである。

 大震災前までは花卉生産者は都会近郊の者は近接小売業者に販売するか又は仲買業者又は問屋業者に販売してゐたものである。然し此の取引は勘定合って銭足らずであった。即ちカーネーションを一本廿五銭と値を決定して取引をしたとしても最後の勘定の時に金参百五拾円になったとすると小売又は問屋は此の金参百五拾円を全部支払はず精々よく払って金参百円悪くすると金弐百円位しか支払はなかったものである。問屋業者も小売業者に掛売をしてゐて最後の勘定に於ては常に全金額の支払ひを受けた事はなかったのである。それ程花屋の勘定と云ふものはルーズのものであった。右の外に切出し屋と云って露地又は温室の花卉栽培者に切り出しに来る仲買がある。之は始めの内は精密に計算をしてゐるが段々顔なじみとなると今日は持合せがないから半金を払うとか此次に来る時に払ふとか云って常に栽培者は仲買に貸金のあったものである。又栽培者も売り方の上手な人は高く売れるし幾ら栽培は上手であっても売り方の下手な人は安く買はれると云ふ状態であった。地方の生産者は送り荷によってとか手紙によっても取引して居た為めに花屋から輸送中に腐敗したから半金しか支払へないとか初はよく売れたが後の半分は他方面から多数の出荷があった為めに売行きが思はしくなかったとか云って満足に支払を受けた事がなかったのであった。

 その為生産者の会合の時は常に青物市場の如き花卉市場が欲しいものであると云ふ事を希望されて居た。生産者の内で野口秀・岩本熊吉両氏が前後して米国に行かれ桑港などの花卉市場を見物して来ての話を聞いて益々花卉市場の設立を生産者は希望してゐたのであったが前述の様に全部の生産者が花屋に貸金のある為めにそれまでも棒引きして市場取引に改革する事は出来なかったのであった。所が幸か不幸か関東の大震災が大正十二年九月一日に起って東京の下町全部は灰燼に期してしまって花を観賞する所でなく明日の食糧にも困却した状態となった。其処で大日本園芸組合では緊急役員会を招集して今後の組合員の対策につき協議を開いた。組合員は全国にあるが其の内此の惨害を受けた者は束京及横浜の人が主たるもので他の地方の人はそれ程でもない。東京、横浜の人でも通信販売業者は関東のみが販路でないから関東地方以外の地を対手(たいしゅ)として取引は出来る、露地栽培業者は花卉が売れなけば蔬菜に変更する事が出来る、然し温室業者は花卉が売れないと云って蔬菜の促成をやってもやはり売れ口はよくないであらう。其処で永年の懸案であった花卉市場を設立してはどうだかと云ふ話になって、何れ売れない花なら棄る積りで花卉市場で売って見たら又永年取引関係の貸金も取れぬであらうから生花商に対する遠慮もいらぬから此處で温室業者を中心として花市場を建設する事になり烏丸伯爵を組合長として(※筆者が)不肖理事長となり高級園芸市場組合を大正十二年十二月廿日に開設したのであった。温室業者を中心とした市場であった爲めに出荷品は全部温室栽培品のみであった。

 今までの取引は生産者も小売商も問屋にリードされてゐたのであつたが市場取引になってからは売手も買手も問屋にリードされる事なく公明に価格を表示されて取引される為に順次出荷者も増加し購入者も門前市を為す状態となつた。其の為に問屋側には温室栽培品の出荷がなく露地物のみとなった為問屋業者の害も可なりあったが問屋側も反省して大正十三年十四年と漸次問屋業を花市場に改革し其後逐年増加して昭和の初め頃には千住生花市場日本橋生花市場東京生花市場の開設を見、今日に於ては左表数十ヶ所の花市場が生れたものである。東京に引き続き横浜に開設され神戸がその次で大阪、広島、福岡、京都と出来て来た。名古屋は一番遅れて出来たが此処は其の市場と異り相対取引と競売取引との両方を採用してゐる。

 市場取引になった為地元の生産者は云ふに及ばず地方の生産者も自身の生産品の優劣によって価格の高低が決定し以前の様に自身で栽培も販売も両方やらすに栽培一方のみに努力すれば其の結果が売上金として収入して来る状態になったので花卉栽培は急激に増加して震災前と今日とを比較するも量に於て三十倍価格に於て二十倍の増加と見られる様になった。

 震災直後の花の価格は生産者に於ては何れ売れぬであらうと云ふ見地から栽培を手控へたが復興の景気と云ふか花の需要は著しく増加し供給の少い為めにカーネーションなどは以前十二月一月二月の三ヶ月は一本二十五銭が普通相場であったのが一本五十銭に売れる様な景気でバラ等も一本二円に売れた事があった。大正十二年の終りから十三年にかけての高相場の影響を受けて温室栽培業者が十三年の秋から十四年十五年に渡って急増して東京の温室村と云ふ様な名所が出来たのも花卉市場の設立された為の副産物である。

 花卉市場も今までの如く自然的放任にせず生鮮食料品の如く中央市場法に依って取り締るべきものであると思ふ。

 花は生活必需品ではないなどと云ふのは野蛮人か人造人間の云ふ事で苟(いやしく)も文明人である以上花なくて人生が渡られぬものではない。今日に於ては花は生活の必需品である事を強調して此項を終る。

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